計算外の接触
一時間が過ぎ、私は彼の精神的疲労が限界に近いことを察し、二人で席を立った。パウダールームまでの数メートル、彼は厚底ブーツの重心をミリ単位で調整しながら歩いていた。
「……優香、これが女子会なのか。論理的な着地点がどこにも見当たらない」
鏡の前で吐き出された声は、完全に「男」のものだった。
「着地点なんて探すから疲れるのよ。ただ漂っていればいいの」
私が彼のメイクを直そうとした、その時だった。
ドアが開き、工藤静江が音もなく入ってきた。
鏡越しに視線が交錯する。田町は瞬時に「康子」の顔を作ったが、室内の空気にはまだ「田町主任」の残響が漂っていた。工藤は手を洗う手を止め、獲物を鑑定する鑑定士のような目で田町を注視した。
「……なるほど。どこかで聞いた声だと思ったわ」
工藤の唇が歪んだ。
「田町主任。あなたの『融資計画』には、随分と大胆なオプションが含まれているのね」
絶体絶命だ、と私は思った。だが、工藤の次の行動は、私のプロとしての直感さえも裏切るものだった。彼女は田町に歩み寄り、その頬を熱心に覗き込んだのだ。
「……見事ね。どうしてこれほど至近距離で見ても毛穴一つ見えないの? これ、どこのファンデーション?」
私は瞬時に、凍りついた空気を「美容のロジック」で上書きすることに決めた。
「……お目が高いです、工藤常務。彼の肌質に合わせてコンシーラーを配合し、光の屈折理論で凹凸を相殺しているんです」
「光の屈折理論、ね……」
工藤は感嘆の溜息をついた。
「素晴らしいわ。ビジネスも変装も、徹底した準備が成果を生む。田町さん、あなたのプロ意識を完全に見くびっていたようね」
そこからの展開は、喜劇というよりは高度な技術交流会だった。工藤は「康子」の美学を認め、田町は自らの変装理論を講義し始めた。共通の言語を見つけた彼らの間に、もはや性別の壁は存在しなかった。




