スキル使っちゃった!
俺は静かに澪の部屋のドアを開けた。
澪はまだ眠っていた。
昨日、電マの一件で散々恥ずかしがって、夜遅くまで布団に潜り込んでいたせいか、今日はいつもより深く寝込んでいる。
長い黒髪が枕に広がり、薄い毛布が胸までしかかかっていない。
無防備に開いた口元から、小さな寝息が漏れている。
俺はそっと近づいて、枕元に置手紙を置いた。
『今日はバイトだから夕方まで帰らない。飯は冷蔵庫の残り物で適当に食え。鍵はいつも通り玄関のポストの下。変なことすんなよ。 蓮』
短い文面。
正直、申し訳ないという気持ちはほとんど湧いてこなかった。
十年間、俺は一人でこの家を守ってきた。
今さら、妹の顔色をうかがって生活を変える義理はない――そう思っていた。
階段を下りて、玄関で靴を履く。
外はまだ少し肌寒い。
自転車を漕ぎながら、俺は少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。
(……今日、先輩いるかな)
バイト先は駅前のカラオケ店『カラオケ・エコー』。
俺が高校三年の夏から続けているバイトだ。
そこで出会った先輩――佐倉美咲。
大学三年、クールで美人で、接客の時だけ柔らかい笑顔を見せる。
いつも黒髪をポニーテールにしていて、制服のエプロンが妙に似合う。
俺は、彼女の前ではいつもより言葉が少なくなる。
いや、正確には、緊張してうまく話せなくなる。
(……今日こそ、ちゃんと話しかけよう)
そんなことを考えながら、店に到着した。
バックヤードで着替えていると、ドアが開いて美咲先輩が入ってきた。
「おはよう、蓮くん」
低い、落ち着いた声。
俺は思わず背筋を伸ばした。
「……おはようございます」
先輩はロッカーを開けながら、軽く微笑んだ。
「久しぶりね。最近シフト入ってなかったけど、大丈夫だった?」
「……妹が……ちょっと体調崩してて」
嘘じゃない。
ただ、体調じゃなくて、心の具合だ。
「そう。今はもう大丈夫?」
「はい。だいぶ良くなりました」
先輩は頷いて、エプロンを締めながら俺を見た。
「よかった。じゃあ、今日もよろしくね」
「……はい」
先輩の後ろ姿を見ながら、俺は小さく息を吐いた。
やっぱりきれいだ。
制服のスカートから伸びる脚が、白くて細くて、
ポニーテールの先が歩くたびに揺れる。
(……集中しろ、俺)
フロアに出て、掃除と準備を始めた。
しばらくして、後輩の彩花がやってきた。
「おはよー、蓮くん」
可愛い顔立ちで、ショートカットにピンクのヘアピン。
でも、いつも俺のことを小馬鹿にしたような態度を取ってくる。
「……おはよう」
俺は短く返す。
彩花は俺の隣にぴったり寄ってきて、腕に絡みついた。
俺は腕を振りほどこうとしたが、彩花は離れない。
「……えー、ひどい!もっとくっつかせてよ~。彩花のこと、嫌い?」
「嫌いじゃないけど、くっつくな」
「……むー。蓮くんってほんと冷たいよね。でも、そういうとこ嫌いじゃないよ?」
彩花はくすくす笑いながら、俺の肩に頭を乗せてきた。
(……めんどくせぇ)
俺はため息をついて、彼女を軽く押しのけた。
今日のシフトは夕方6時まで。
客は平日ということもあってそこそこ入っていたが、トラブルもなく、無事に終わった。
バックヤードで着替えていると、美咲先輩が近づいてきた。
「蓮くん」
「……はい?」
先輩はスマホを手に持って、少し照れくさそうに言った。
「さっき見えちゃったんだけど、蓮くんのスマホに……妹さんの写真、写ってたよね?」
「……え?」
俺は思い出した。
噴水前で撮った澪の写真を、なんとなく待ち受けにしていたのを忘れていた。
「……あ、あれ……可愛い子だなって思って……もしよかったら……会ってみたいなって……」
先輩の頰が、ほんのり赤い。
俺は一瞬、頭が真っ白になった。
だが、次の瞬間――
「……いいですよ。今からうちに来ます?」
言葉が勝手に出ていた。
先輩の目が、ぱっと輝いた。
「……本当?じゃあ……一緒に行こ?」
「……はい」
このときの俺は澪のスキルのことを、完全に忘れていた。
自転車を押しながら、先輩と並んで歩く。
夕陽がオレンジ色に街を染めていて、先輩の横顔がやけに綺麗に見えた。
「楽しみだな。蓮くんの妹さん……どんな子なんだろう」
「……クールぶってるけど……本当はビビりで……変なところもあるけど……まあ、普通の妹ですよ」
「……ふふ。楽しみ」
家に着いた。
玄関のドアを開けると、すぐに澪が顔を出した。
「……お、おかえり……お兄ちゃん……あれ……?」
澪は俺の後ろにいる美咲先輩を見て、目を丸くした。
「……えっと……こんにちは……神代澪です……」
「……はじめまして。佐倉美咲っていいます。蓮くんのバイト先の先輩で……今日はお邪魔しちゃって、ごめんね?」
先輩が柔らかく微笑む。
澪は少し緊張しながら、
「……どうぞ……入ってください……」
三人でリビングに入る。
そして――
先輩と澪の目が、ぴたりと合った。
「……っ!」
一瞬の静寂。
次の瞬間、美咲先輩の表情が、劇的に変わった。
「……あ……あぁ……」
先輩の瞳が、とろりと溶けるように潤み、
頰がみるみる赤くなる。
「……可愛い……」
低い声で、呟く。
「……澪ちゃん……可愛い……こんなに……可愛い子が……いたなんて……」
先輩はふらふらと澪に近づいて、両手で澪の頰を包み込んだ。
「……澪ちゃん……澪ちゃん……大好き……ずっと……一緒にいたい……澪ちゃんの……言うことなら……何でも……聞くから……」
「……え、えええ!?」
澪が慌てて後ずさる。
俺は、唖然としてその光景を見ていた。
(あ……スキル……!完全に……忘れてた……!)
先輩はいつものクールな表情が嘘のように、でれでれと澪に甘えるように体を寄せ、
「……澪ちゃん……頭……撫でて……?お願い……」
「……お、お兄ちゃん……!?どうしよう……!」
澪は俺を見て、戸惑いと恐怖が入り混じった顔をした。
俺はようやく我に返って、
「……先輩……!」
声をかけようとした瞬間、先輩が振り向いて、俺に甘い笑みを向けた。
「……蓮くん……澪ちゃんを……私に……貸して?少しだけ……いいよね?」
「いや、貸さない」
俺は即答した。
だが、先輩はもう澪の腕を抱きしめて離さない。
「……澪ちゃん……澪ちゃん……可愛い……可愛いよ……」
澪は俺の袖をぎゅっと掴んで、小さな声で助けを求めた。
「……お兄ちゃん……どうしよう……私……こんなの……初めて……」
俺は深いため息をついて、
澪の肩を掴んだ。
「……先輩の視界から30秒……消えれば……解除されるんだろ?」
澪がこくんと頷く。
「……じゃあ……ちょっと待ってろ」
俺は先輩を強引にリビングから引きずり出し、廊下の奥に連れて行った。
「……蓮くん……?」
「……ちょっとだけ……我慢して」
俺は先輩を壁に押し付けて、
30秒、じっと見つめ続けた。
「……」
先輩の瞳が、徐々に正気に戻っていく。
「……え……?私……何を……?」
「……妹に……甘々でした」
俺は苦笑した。
先輩は顔を真っ赤にして、先輩は両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。
俺はため息をついて、リビングに戻った。
澪はまだ震えていて、俺の腕にしがみついてきた。
「……お兄ちゃん……あの人……怖かった……」
「ごめん。俺が連れてきちゃったせいだ」
「……ううん……お兄ちゃんの……大事な人……なんだよね?」
「……まあ……な」
澪は少し寂しげに笑って、
「……でも……お兄ちゃんは……私の……効かないんだもんね……」
「ああ」
俺は澪の頭を軽く撫でた。
「……これからは……気をつけるよ」
「……うん……お兄ちゃん……ありがとう……」
澪は俺の胸に顔を埋めて、小さく呟いた。
夕陽が窓から差し込んで、俺たちの影を長く伸ばしていた。バイト先の先輩を、妹のスキルでメロメロにしてしまった日。
俺は、少しだけ――罪悪感と、妙な達成感を、同時に感じていた。




