ひみつです!
朝の光がカーテンの隙間から淡く差し込む頃、俺は静かに階段を上がった。
今日は大学が休講の日。
珍しく何の予定もない平日だった。
昨夜、帰った後、澪が風呂上がりに「部屋……掃除しないと」と小さい声で言っていたのを思い出した。
いや、正確には「掃除しないと」ではなく、
「私……ずっと部屋に閉じこもってたから……やっぱり……恥ずかしかったな……」と、
頰を赤らめながら呟いていた。
だから、今日は澪の部屋を掃除してやろうと思った。
ドアの前で一瞬だけ躊躇したが、ノックもせずにそっと開けた。
部屋の中は、予想以上に静かだった。
澪はまだベッドの中で眠っていた。
薄い毛布を胸元まで引き上げ、
長い黒髪が枕に広がっている。寝息が小さく、規則正しく聞こえる。
昨日と違って伊達眼鏡を外した顔は、いつもより幼く見えた。
俺は音を立てないようにドアを閉め、持ってきた掃除機を手に取った。
コンセントを差し込み、スイッチを入れる。
ブオオオオオオ――
低く唸るような掃除機の音が、部屋に響き渡った。
「……ん……?」
ベッドの上で、澪の体がびくっと跳ねた。
「……え……?」
寝ぼけ眼で上体を起こし、毛布を胸に押し当てながら、俺の方を見た。
「……お、お兄ちゃん……?」
「おはよう。掃除してやってんだよ」
俺は淡々と答えて、床に落ちていた埃や紙くずを吸い込み始めた。
「え、ええええ!?ちょ、ちょっと待って!今!?今やるの!?」
澪の声が一気に跳ね上がった。
「お前、昨日『部屋恥ずかしい』って言ってたろ。だったら綺麗にしとく方がいいだろ」
「……そ、そうだけど……!でも!私、まだ……寝てたし……!パジャマのままだし……!髪も……ぼさぼさだし……!」
澪は慌てて毛布を肩まで引き上げ、髪を両手で押さえながら、顔を真っ赤にしていた。
「別にいいだろ。兄妹なんだから」
俺はそう言って、机の周りの埃を吸い始めた。
机の上には、古いノートパソコンと、何年も放置されていたらしい文房具、そしてぬいぐるみが三体、整然と並んでいる。
「……あ、あの……!机、ちょっと……がたがたしてるから……動かさないで……!」
澪が慌てて言う。
俺は試しに机の端を軽く押してみた。
確かに、右前脚が明らかに浮いている。
「……建付けが悪いな。これ、ネジが緩んでるな。後でドライバー持ってくる」
「……う、うん……」
澪は小さく頷きながら、ベッドの上で膝を抱えて縮こまっていた。
俺は掃除機を止めずに、クローゼットの前、本棚の下、そしてベッドの周りを回っていった。
ふと、ベッドの脚元に目をやると、フレームが少し歪んでいることに気づいた。
「……ベッドも、ちょっと傾いてるな。これも直した方がいいかも」
俺はしゃがみ込んで、ベッドの下を覗き込んだ。
埃がすごい。
あと――
(……ん?)
ベッドの下の奥の方に、
黒いコードが一本、伸びている。
その先には、手に持つタイプの、ピンク色の電マがあった。
「……」
俺は一瞬、固まった。
(……まぁ、高校生だし……普通か)
十年間部屋に閉じこもっていたとはいえ、
もう十七歳だ。
そういうものに興味を持つ年齢だろう。
別に驚くようなことでもない。
俺は特に何も言わず、掃除機の先をベッドの床下に突っ込んで、埃を吸い始めた。
「……!」
その瞬間、澪の顔が一気に真っ赤になった。
「……お、お兄ちゃん!?」
「ん?」
「……あ、あの……!そこ……見ないで……!」
澪が慌ててベッドから飛び降り、俺の腕を掴んで引き離そうとした。
「……何だよ。埃吸ってるだけだろ」
「……ち、違うの!そこ……そこに……!」
澪は必死に俺の視線を遮るように、体を割り込ませてきた。
「……あ、あれは……!その……!ただの……マッサージ機で……!肩とか……腰とか……凝ってたから……!最近……使ってなくて……!ほ、ほこりかぶってただけだから……!捨てようと思ってたんだけど……!う、うっかり……置いたままで……!」
言い訳が、次から次へと溢れ出てくる。
顔は耳まで真っ赤で、動揺が隠しきれない。
俺は掃除機を止めて、ゆっくりと手を伸ばした。
そして――ベッドの下から、電マを引っ張り出した。
「……ひゃっ!?」
澪が小さな悲鳴を上げる。
俺はそれを手に持って、澪の目の前に差し出した。
「で?本当は、これ、何に使ってたんだ?」
「……っ……!」
澪の瞳が、涙で揺れる。
「……お、お兄ちゃん……意地悪……」
「意地悪じゃねぇよ。聞いただけだろ」
「……うぅ……」
澪は両手で顔を覆って、
小さく震えた。
「……言わないと……ダメ……?」
「言わなくてもいいけど、隠す方が怪しいだろ」
「……」
長い沈黙のあと、澪は口をもごもごと動かした。
「……その……」
「ん?」
「……言えない……」
「言えねぇのか」
俺はさらに近づいて、電マを軽く振ってみせた。
「……お、お兄ちゃん……やめて……」
「何に使ってたか、言えよ」
「……っ……!」
澪は顔を真っ赤にして、首をぶんぶんと横に振った。
「……言わない……!絶対……言わない!」
「……ふーん」
俺は肩をすくめて、電マをベッドの上にポンと置いた。
「ま、いいけどな。言いたくねぇなら無理に聞かねぇよ」
「……」
澪はしばらく黙っていたが、突然、ぽかぽかと俺の胸を叩き始めた。
「……ばか……!ばかばかばか……!意地悪……!最低……!もう……嫌い……!」
叩く力は弱くて、むしろくすぐったいくらいだ。
「別に痛くねぇよ」
「……うぅ……!」
澪は叩きながら、涙目で俺を睨みつけた。
「……お兄ちゃんの……ばか……」
俺は小さく笑って、澪の頭を軽く撫でた。
「……わかったわかった。もう意地悪しねぇから。悪かったな」
「……本当に……?」
「ああ」
澪はまだ少しむくれ顔だったが、叩く手を止めて、ベッドに座り込んだ。
俺は掃除機を止めて、立ち上がった。
「……もう、見ないで……恥ずかしいから……」
澪は小さな声で、俯きながら呟いた。
「……わかった。もうベッドの床下は掃除しねぇ」
俺はそう言って、掃除機を片付け始めた。
「……お兄ちゃん……」
「ん?」
「……怒って……ない?」
「何で怒るんだよ」
「……だって……あんなもの……見られちゃった……私……変な妹だって……思われたかと思って……」
「思ってねぇよ」
俺は肩をすくめた。
「お前が何してようが、俺には関係ねぇ。お前の部屋なんだから、お前の好きにすればいいだろ」
「……」
澪はしばらく黙っていた。
「……でも……お兄ちゃんに……見られたの……すっごく……恥ずかしい……」
「なら、次からはちゃんと隠しとけよ」
「……うん……」
澪は小さく頷いて、ベッドに座り込んだ。
俺は掃除機を廊下に出して、部屋を見回した。
「机とベッド、直しといた方がいいな。パソコンも……十年以上前のやつだろ?動き遅いだろ」
「……うん……最近……重くて……動画とか……全然見れなくて……」
「今度、新しいの買ってやるよ。机もな。ちゃんと勉強できるようにしとけ」
「……お兄ちゃん……」
澪が顔を上げた。
瞳が、うるうると潤んでいる。
「……ありがとう……私……こんなに……してもらって……本当に……いいの……?」
「いいって言ってんだろ」
俺は少し照れ臭くなって、視線を逸らした。
「じゃあ、俺はリビング掃除してくる。お前は、ちゃんと顔洗ってこい。髪もとかせよ」
「……うん……わかった……」
澪はこくんと頷いて、立ち上がった。
俺は部屋を出て、
階段を下りながら、
小さく息を吐いた。
(……大人になったな)
十年間、部屋に閉じこもっていた妹が、
今、自分の体で、自分の欲で、一人で何かをしていた。
それが、少しだけ、胸の奥をざわつかせた。
でも、それ以上に、澪が少しずつ外の世界に、そして俺の世界に、戻ってきていることが、
どこか嬉しかった。
リビングに降りて、俺はまた掃除機を手に取った。
階段の上から、澪が小さな声で呟くのが、かすかに聞こえた。
「……お兄ちゃん……バカ……」
俺は答えずに、ただ、静かに掃除を続けた。




