久しぶりの外!
朝の陽射しがカーテンを透かして部屋に差し込む頃、俺はいつものように部屋着ではなく、大学用の私服に着替えて鞄を肩にかけた。
時計は8時20分。
一限は9時半から。
歩いて20分ちょっとの距離だから、まだ余裕はある。
リビングのソファに座って靴を履いていると、階段からぱたぱたと軽い足音が降りてきた。
「……お兄ちゃん」
澪だった。
昨日と同じ白いパジャマ姿で、髪はまだ少し寝癖がついている。
大きな瞳が俺をじっと見つめている。
「……大学、行くの?」
「当たり前だろ。今日は平日で講義あるし」
俺は立ち上がって玄関に向かおうとした。
だが、澪は素早く俺の前に回り込んで、
両手を広げて道を塞いだ。
「……行かないで」
「は?」
「……今日だけ……家にいて……私と……一緒にいてよ……」
声が震えている。
十年間部屋に閉じこもっていた妹が、
外の世界に俺を出すのが怖い――そんな感情が、はっきりと伝わってきた。
「ダメだ。単位落としたらどうすんだよ」
「……でも……」
澪は唇を噛んで、下を向いた。
「……一緒に行く!」
「何言ってんだ」
俺は思わず眉をひそめた。
「大学に連れてくわけにはいかねぇだろ。お前のスキル……目が合ったら周りが大変なことになるぞ」
「……大丈夫!」
澪がぱっと顔を上げた。
瞳に、自信に満ちた光が宿っている。
「……眼鏡をかければ……目を合わせても……スキル、発動しないの……!ずっと……試してたから……伊達眼鏡でも……フレームが視界を少し遮ってくれるだけで……ほとんど……効かなくなるんだよ……!」
「……本当か?」
「本当!だから一緒に……行きたいの……お兄ちゃんの大学……見てみたい……お兄ちゃんの友達とか授業とか……全部知りたい……」
澪の声が、だんだん熱を帯びていく。
俺はしばらく黙って澪の顔を見つめた。
十年間、部屋の外を知らなかった妹が、
初めて「外に出たい」と言っている。
それも、俺の日常を見たいから。
「……わかったよ」
俺は小さく息を吐いた。
「でも、絶対に変なことすんなよ。一応目が合ったらすぐそらせ。それと……俺の友達に変なこと言ったら……許さねぇからな」
「……うん!約束する!」
澪の顔が、ぱっと花が咲いたように明るくなった。
「……待ってて!すぐ……着替えてくる!」
澪は階段を駆け上がっていった。
俺は玄関で靴を履きながら、ため息をついた。
(……本当に大丈夫かよ)
数分後、澪が戻ってきた。
「……どう……?」
黒のハイネックニットに、淡いグレーのフレアスカート。
膝丈のソックスと、ローファー。
肩にかけたカーディガンは薄いベージュで、
長い黒髪を軽く三つ編みにまとめている。
そして――顔には、黒縁の伊達眼鏡。
フレームが細めで、顔の小ささを強調している。
眼鏡越しに見える瞳は、いつもより少し大人っぽく見えた。
「可愛いじゃん」
俺は思わず本音を漏らした。
「……え?」
澪の頰が、ぱっと赤くなる。
「……お、お兄ちゃんに……可愛いって……言われた……」
「別に、普通に可愛いって意味だよ。変な意味じゃねぇ」
「……うん……でも……嬉しい……」
澪は照れくさそうにスカートの裾を握って、小さく笑った。
「じゃあ、行くか」
俺はドアを開けて、外へ出た。
澪は一瞬、玄関の敷居で足を止めた。
「……外……」
朝の空気が、ひんやりと肌に触れる。
澪はゆっくりと一歩踏み出した。
「……あ……」
陽光が顔に当たった瞬間、澪は目を細めて体を縮こまらせた。
「……まぶしい……目が……痛い……」
「……十年ぶりだもんな。慣れるまでちょっとかかるぞ」
俺は澪の手を引いて、ゆっくり歩き始めた。
澪は俺の手をぎゅっと握り返して、小さな歩幅でついてくる。
道中、澪は何度も立ち止まっては周りを見回した。
「……あ、あの木……大きくなった……昔は……もっと小さかったのに……」
「まあ……十年経ってるからな」
「……コンビニ……あんなに……明るかったっけ……看板……派手……」
澪の声は、驚きと感動で震えていた。
大学に着いたのは9時10分頃。
正門をくぐると、学生たちがぞろぞろと講義棟に向かっている。
「……すごい……人……多い……」
澪は俺の袖をぎゅっと掴んで、
体を寄せてくる。
「おい、離れろって。人に見られるぞ」
「……嫌……お兄ちゃんと……離れ……ない……」
「……」
仕方なく、そのまま歩き続けた。
講義棟の前で、聞き覚えのある声がした。
「おーい、蓮!遅ぇぞ!」
振り返ると、親友の正也が手を振っていた。
短髪で、いつもニヤニヤしているやつだ。
「よお」
俺は軽く手を上げた。
正也の視線が、俺の隣の澪に移る。
「……お、おい……蓮。この子……誰?めっちゃ可愛いんだけど……」
「……妹だよ。神代澪」
「……妹!?マジで!?え、待って……引きこもりだったんじゃ……」
「今日は特別に連れてきた」
俺は簡単にすべてのことを説明した。
正也は目を丸くして、澪に頭を下げた。
「初めまして!正也です!蓮の友達で同じゼミなんすよ!よろしくね、澪ちゃん!」
「……は、はじめまして……神代澪です……よろしくお願いします……」
澪は緊張しながらも、きちんと頭を下げた。
声は小さいけど、はっきりしている。
正也は少し驚いた顔をしたが、すぐに笑顔になった。
「……おお、礼儀正しい!いいねいいね!蓮の妹って聞いてたけど……想像以上に可愛いじゃん!」
「おい、変なこと言うな」
俺は正也の肩を軽く叩いた。
「……で?澪ちゃん、今日は見学?」
「……うん……お兄ちゃんの……大学……見たかったから……」
「……へぇ~。じゃあ、蓮が今から案内するのか?」
「いや、俺、一限出るから……終わるまで学食で待っててもらおうと思って」
俺は正也を振り返った。
「……正也、ちょっと澪の相手してもらえるか?」
「おう!任せろ!澪ちゃん、俺と一緒に学食行こうぜ!ジュースおごるから!」
「……ありがとう……ございます……」
澪は少し緊張しながらも、頷いた。
俺は講義棟に向かいながら、正也に小声で言った。
「スキル……目が合ったらヤバいから……眼鏡外さないように……な」
「了解。任せとけ」
正也は親指を立てた。
一限の講義は、経済学の基礎だった。
教授の声が単調で、眠くなる。
でも、今日は集中できた。
(澪……大丈夫かな)
頭の片隅で、ずっと澪のことが気になっていた。
講義が終わって、学食に向かう。
学食の入り口で、すぐに二人が見つかった。
正也と澪が、窓際の席で向かい合って座っている。
正也が何か話して、澪がくすくす笑っている。
「……お兄ちゃん!」
澪が俺に気づいて、ぱっと立ち上がった。
そして――
「……わっ!」
そのまま、俺に抱きついてきた。
「……お、おい……」
周りの視線が一気に集まる。
「……お兄ちゃん……寂しかった……」
「……授業、45分だぞ。大げさだろ」
「……でも……お兄ちゃんがいないと……なんか……不安で……」
澪は俺の胸に顔を埋めて、
ぎゅっと抱きついている。
正也がニヤニヤしながら近づいてきた。
「いや~、兄妹仲良いねぇ。羨ましいわ」
「……うるせぇ」
俺は正也に目配せして、感謝の意を伝えた。
正也は軽く手を振って、
「じゃ、俺は次のコマあるから!」と去っていった。
「……お兄ちゃん……お腹すいた……」
澪が上目遣いに俺を見上げる。
「……じゃあ、なんか食うか。ラーメンでいいか?」
「……うん!お兄ちゃんと……一緒に食べたい……」
俺たちは学食のラーメン屋に向かった。
並んで、俺は味噌ラーメン、澪は醤油ラーメンを注文。
席に着くと、澪はスープを一口飲んで、目を細めた。
「……おいしい……外のラーメン……初めて……」
「そうか」
俺は箸を手に取りながら、澪の横顔を見た。
眼鏡をかけた澪は、少し大人びて見える。
でも、笑うと子供みたいに無邪気だ。
「……お兄ちゃん」
「ん?」
「……今日……連れてきてくれて……ありがとう……」
澪はスープを飲みながら、
ぽつりと呟いた。
「……私……ずっと……お兄ちゃんの日常……見たかったの……だから……すごく……幸せ……」
「……」
俺は何も言えなかった。
ただ、澪の頭を軽く撫でた。
「……また……来てもいい?」
「……たまにな」
「やった!」
澪はぱっと笑って、俺の腕に頰を寄せた。
学食の喧騒の中で、俺たちの小さな世界が、少しずつ広がっていく。
十年ぶりの外の世界を、澪は俺の手を握りながら、ゆっくりと歩き始めた。




