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プロローグ

「……はぁ?」

俺の声は、自分でも驚くほど低く掠れていた。

目の前で、だぼだぼの黒いパーカーに埋もれるように正座している少女が、びくっと肩を震わせる。

長い黒髪の先端が床について、細い指先が膝の上で小さく握り潰されるように縮こまっている。

その姿は、まるで拾ってきた子猫が初めて人間の家に連れてこられて怯えているかのようだった。

でも俺は知っている。

この子猫は、今日まで十年間、この家の中で俺を無視し続けて引きこもりしていた妹――神代澪だ。

「……なんで今なんだよ」

俺はもう一度、吐き捨てるように言った。

「十年だぞ。十年。お前、いつでも部屋から出られたろ?飯も俺がドアの前に置いてたし、風呂もトイレも俺がいない間に自由に使ってた。なのに、今日になって急に部屋から出てきて、いきなり俺の目を覗き込んで、

『お兄ちゃん……私の奴隷になってね♡』って……何だよそれ」

最後の言葉は、完全に嘲笑に変わっていた。

澪は顔を上げられず、膝の上で指をぎゅうっと絡ませたまま、か細い声で呟く。

「……ご、ごめんなさい……」

「謝って済むと思ってんのか?」

「……っ」

彼女の肩がまた小さく跳ねる。

俺は深く息を吐き、目の前の妹を改めて見下ろした。

十年ぶりにまともに見た澪は、想像以上に小さくて、想像以上に綺麗だった。

色白で、透明感のある肌。長いまつ毛。薄い唇。

だぼだぼの服の下に隠れているだろう華奢な体は、まるで神からの贈り物のように見える。

なのにその顔立ちは、どこか人を小馬鹿にしたような、甘い小悪魔めいた輪郭をしていた。

(……何だよこのギャップ)

俺は苛立ちを抑えきれず、もう一度問い詰める。

「で?なんで今なんだよ。十年も部屋に籠もってたくせに、なんで今日になって急に『兄貴を奴隷にしよう』なんて思いついたんだ?」

「……それは……」

澪がようやく顔を上げた。

大きな瞳が、怯えと困惑で揺れている。

「……私……スキル、を……獲得したから……」

「……は?」

一瞬、頭が真っ白になった。

スキル?

何だそれ。ゲームの話か?

だが澪は震える声で、言葉を続ける。

「……十年前……私が部屋に閉じこもった日……突然、頭の中に……声が聞こえてきて……『固有スキル【魅了】を獲得しました』って……」

俺は眉をひそめた。

「は?何の話してんだ?」

「……本当なの……っ最初は信じられなくて……でも、試したら……本当に……ぬいぐるみとか……目が合っただけで……動いて……私の言うこと、何でも聞いてくれるようになって……」

「……待て待て待て」

俺は思わず手を挙げて制した。

「ぬいぐるみが?お前の言うこと聞くようになった?」

「……うん……だから……ずっと練習してたの……コントロールできるようになるまで……十年かかった……」

澪はそこまで言うと、唇をぎゅっと噛んだ。

まるで恥ずかしさか、悔しさかを堪えるように。

「……そして……やっと……完璧にできるようになったから……お兄ちゃんを……私の……」

「奴隷にしようとした、と」

「……っ……うん……」

沈黙が落ちた。

俺は呆然と妹を見下ろしながら、頭の中で情報を整理しようとした。

要するに――

この妹は十年前、何かの拍子に得体の知れない「スキル」というものを手に入れた。

そのスキルは、目が合った相手を「魅了」する能力。

十年間、ぬいぐるみ相手に練習し続けて、ようやく人間にも使えるレベルまで成長させた。

そして最初の標的として、真っ先に俺を選んだ。

「……で?そのスキル、今俺にかかっているのか?」

「……わ、わからない……」

澪が首を小さく振る。

「さっき……お兄ちゃんの目を見たとき……いつもみたいに……ふわっと……心が繋がる感じが……しなくて……」

「繋がる感じ?」

「……うん……今まで魅了したぬいぐるみって……怖いけど頭の中に……声が響くの……『澪ちゃん可愛い』とか『澪ちゃんに従いたい』とか……勝手に思ってくれるようになるの……でも……お兄ちゃんからは……何も……」

彼女の声がだんだん小さくなっていく。

「……全然……効いてない……みたい……」

その瞬間、澪の瞳にじわりと涙が浮かんだ。

「……十年……かけて……やっと……お兄ちゃんを……私のものにできるって……思ってたのに……」

声が震え、鼻をすすり上げる。

「……効かないなんて……ずるい……お兄ちゃんのばか……」

「……おい」

俺は思わず苦笑した。

泣きそうな顔で「お兄ちゃんのばか」って。

十年ぶりに出てきた妹が、正座しながらそんなセリフを言う光景は、

あまりにもシュールで、どこか間の抜けた可愛らしさがあった。

「……で? そのスキルって、どうやったら解除できるんだ?」

「……私が……魅了した相手の視界から……30秒間……完全にいなくなれば……勝手に……解ける……みたい……」

「30秒か。結構短いな」

「……うん……だから……さっき……お兄ちゃんに……効かなかったとき……すっごく……びっくりして……そのまま……ここで……固まっちゃって……」

澪は膝の上で両手をぎゅっと握り、顔を真っ赤にして俯いた。

「……私……お兄ちゃんのこと……ずっと……奴隷に……したかったの……そしたら……もう二度と……離れないで……ずっと……一緒にいられるって……思って……」

「……」

俺は言葉に詰まった。

十年間、ドア一枚隔てた向こう側にいた妹が、

こんな歪んだ形で俺を求めていたなんて、想像もしていなかった。

「……でも……効かないなら……意味ないよね……」

澪の声は、もうほとんど囁きに近かった。

「……十年……無駄だった……私……本当に……ダメな妹……」

ぽろり、と涙が膝の上に落ちた。

その瞬間、俺の中で何かがちぐはぐに軋んだ。

怒っていたはずなのに。

呆れていたはずなのに。

目の前で泣く妹を見たら、急に胸の奥がざわついた。

「……なぁ、澪」

俺はため息をついて、しゃがみ込んだ。

澪の顔を覗き込む。

「――お前さ」

「……っ?」

「俺に効かないってことは、逆に言えば……お前が俺に対してだけは、普通に『妹』でいられるってことだろ?」

澪の瞳が、大きく見開かれた。

「……え……?」

「奴隷にする必要なんてねぇよ。効かないなら……普通に、十年ぶりに会った兄妹として話せばいいじゃん」

「……で、でも……私……」

「十年間、ぬいぐるみに『好き』とか『従え』とか言わせてきたんだろ?それ、相当寂しかったんじゃねぇの?」

「……っ……!」

澪の顔が一瞬で真っ赤になった。

「……う、うるさい……!そんなこと……言わないでよ……!」

「言っちゃうよ。十年も無視してたくせに、いきなり奴隷宣言とか……お前、どんだけ俺のこと意識してたんだよ」

「……っ、うぅ……」

澪は両手で顔を覆い、耳までもっと真っ赤にしながら小さく唸った。

「……ずるい……お兄ちゃん……そんなこと言われたら……私……っ」

「……どうした?」

「……恥ずかしく……なる……じゃん……」

その言葉に、俺は思わず吹き出しそうになった。

十年ぶりに会った妹は、

クール系ぶって小悪魔の顔を被りながら、本当はただのビビりで、

そして俺に対してだけは、とんでもなく不器用な気持ちを抱えていたらしい。

「……まぁ、いいや」

俺は立ち上がり、軽く手を差し出した。

「とりあえず立てよ。正座して泣いてても、何も始まらねぇだろ」

澪はしばらく躊躇ったあと、

恐る恐る、俺の手を握った。

その手は、想像以上に小さくて、冷たかった。

「……お兄ちゃん……」

「ん?」

「……私……これから……どうしたら……いいの……?」

俺は少し考えて、肩をすくめた。

「さぁな。とりあえず、風呂入れ。ちょっと臭いぞ」

「……う、うそ……!臭い……なんて……!」

声が上ずって、震えている。

まるで世界が崩壊したみたいな反応だ。

「……お、お風呂……すぐ入る……!今すぐ……!臭いなんて……言わないで……っ」

必死に否定しようとするけど、声が裏返ってて全然説得力がない。

クール系を装おうとしてた小悪魔が、一瞬でただの恥ずかしがり屋の女の子に戻ってる。

俺は思わず口元を緩めた。

「冗談だよ。まぁ、十年分の生活臭は多少あるかもなって意味で」

「……冗談……?」

「……お兄ちゃん……最低……」

澪がゆっくり顔を上げて、じとーっと俺を睨む。

でも目尻が少し潤んでて、怒ってるんだか泣きそうなんだか微妙な表情。

「あと、飯も食え。最近、弁当置いといても食べて無かっただろお前」

「……っ、もう……!」

澪はぷくっと頬を膨らませて、俺を睨みつけた。

でもその目は、もうさっきまでの怯えは消えていて、

どこか――ほんの少しだけ、期待みたいな光を宿していた。

(……こいつ)

俺は内心で小さく笑った。

(そういえば、面倒くさい妹だったな)

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