1 : 煙の街
夜明け前の村は、息をひそめたように静かだった。
まだ太陽が顔を出す前の薄暗さのなか、
家々の屋根には白い霧がうっすらと降り、その白さが村全体を柔らかく包んでいる。
畑の土には夜露が光り、風が通るたび、かすかに草の匂いが揺れた。
遠くで鳥の声が一度だけ聞こえ、また静寂が戻る。
「……こことも、しばらくお別れか。」
エリアスは戸口に立ち、深呼吸した。普段と変わらぬ朝だが今朝は彼にとっては何もかもが特別な物に見えた。
胸の奥がじりじりと痛む
今日、愛しき村を離れなければならない。
弟の教育費、家の借金、冬の厳しさーー
どれも、村で“待っているだけ”ではどうにもならない現実だった。
家の中では、母が慌ただしく動いていた。とはいっても家の棚は空に近く、
そこまで慌ただしく動いて探すものの程がこの家にあっただろうか
台所の火は昨夜落ちたまま家の中には冷たい空気だけが満たされていた。
そうふと考えていると家から母が出てきた。
「エリアス、ほら……これを持っておいき」
母は布の包みを渡した、そこには先ほど焼いたであろうパンと芋が入っていた。
「大したものじゃないけど…」
「でも、母さんたちは……」
「私たちのことは気にしなくていいの。あんたが働きに出るだけで……救われるのよ。」
言葉の奥には、誇りと哀しさが入り混じっていた。
エリアスは布包みを胸に抱え、深く息を吸った。
「……絶対に、お金を稼いで帰ってくる」
それは、決意というより祈りに近かった。
母は小さく頷き、静かに言った。
「怪我だけはしないでね。いいね?」
「うん」
その短い返事は喉の奥で震えた。エリアスは母を強く抱きしめた。
「それじゃあ、母さん。馬車、もうすぐ出ちゃうから……そろそろ行かなくちゃ」
そう言って、エリアスは家を離れた。
戸口には母が立ち、胸の前で両手を固く組み、祈るような顔で彼を見つめている。
――いつ、また母の顔が見られるのだろうか。
その問いだけが、胸の奥で重く息をしていた。
家を離れてしばらくすると幼馴染のジェリーとあった。
「エリアスじゃないか
こんな時間に会うなんて珍しい、どこにいくんだい?」
「ジェリーこの前言ったじゃないか、マンチェスターだ」
「ああそうか今日行くのか、またここから親しい人がいなくなってしまうのか...
いつかみんなこの村を離れていってしまうんだろうな」
「私は帰ってこないとは一言も言ってないよ、たくさん稼いでまた帰ってくるさ」
二人でしばらく歩きながら話している頃ふと若者があつまる様子が見えた、
馬車の乗車場だ。村を離れ、工業都市マンチェスターへと向かう唯一の足
「乗れ。陽が昇る前に行くぞ」
そう老人が手綱を握りながら言う声が、村に響き渡る。
「それじゃあなジェリー、お前もお前のやるべきことがあるのだろ?お互いに頑張ろうな」
「ああ」
互いに強く抱きしめ合い、エリアスは母にもらった包みを握りしめ、馬車に乗り込んだ。
ーー乗り込んでしまった。
この村は静かで、穏やかで、空気が澄み、夜明けは美しい。だが、美しさだけでは生きられない。それが、この家と彼に突きつけられた現実だった。
馬車が村を離れると、次第に景色が変わり始め、いつしか母からもらったパンは無くなっていた。
畑は減り、代わりに黒ずんだ土がむき出しになっている場所が増えていく。
遠く彼方には、見える限り続く建物の壁が立ち並び、そこから立ち上る煙が空を灰色に濁らせていた。
「あれが……マンチェスター?」
隣に座った若者がつぶやいた。
さらに進むにつれて、煙突の数は急激に増えていった。
空を突き刺すように高く伸びた煙突がいくつも並び、どれも黒い煙を絶え間なく吐き出している。
空は本来の色を失い、濁った灰色の天蓋のようだった。
エリアスより少し年上に見えるが、緊張で顔が強ばっている。そんな顔をみて手綱を握った老人が言う
「そうさこれが都会ってやつだよ、煙の街って呼ばれているんだってさ」
「煙の街……」
「俺には何が良いのかわからんがね」
エリアスは、胸の奥にじんわりと広がる不安を押し込めた。
馬車が大通りに入った頃街独特の匂いが鼻をついた。
湿った土に煤が混じり、どこか鉄のような匂いがする
若者が顔をしかめていると、老人が振り返って言った
「お前ら馬車からおりなここからは歩きだ」
馬車から降ろされると、足元の感触が一変した。
土の道はいつの間にか固い石畳に変わり、靴底に冷たさが伝わってくる。歩くたび、乾いた音が周囲に跳ね返ってきた村では聞いたことのない音だ。
周囲には、同じように馬車を降ろされた人々が皆黙ったまま荷を抱え、流れに押されるように前へ進んでいく。声を交わす者はほとんどいない
しばらく歩いていると遠くで、何か大きなものが動いているのを見つけた
──ゴウン……ゴウン……!
規則的だが、不気味な重低音。地面を通して震えが伝わった。
生まれて聞いたことのない音と振動だ
「なんだ、この音……?」
「そうかお前らみたこともないのか、あれが噂の蒸気機関だどうだすげえだろ」
蒸気機関
名前だけは聞いたことがある。
だが、それがどれほど巨大で、どれほどの力を持つものなのかは知らなかった。
音は一気に近づき、空気そのものを押しのけるようにして現れた鉄の塊だ。黒く煤にまみれた巨大な胴体が、白い蒸気を吐きながら軋みを上げて通り抜けていく。
──汽車だ。
鉄の獣のようなその影は、線路の上を信じられない速さで駆け抜けていった。
車輪が鉄を噛み砕くような音を上げるたび、大地が低くうなり、彼らは足を止め、息を呑んだままその巨体を見送った。
いくつも連なる鉄の車体。その窓の奥では、見知らぬ誰かがこちらを眺めている。
馬車しか知らぬ者にとって、それは“別の世界”が通り過ぎていく光景だった。
最後尾が視界から消えるまでの数秒が、妙に長く感じられた。
蒸気と煤の匂いだけが後に残り、白く曇った空気を揺らしながら、街はゆっくりと日常へ戻っていった。
人の流れは途切れることなく続き、通りには馬車、荷車、行商人、子ども、労働者――人、人、人が溢れていた。
叫び声、車輪の軋む音、鉄の擦れる音が折り重なり、静けさの入り込む余地はどこにもない。
これほどの数の人間が、同じ方向へ、同じ速度で動いている光景を、エリアスは生まれて初めて見た。
誰一人として立ち止まる気配はなく、それぞれが何かに急き立てられるように前へ進み続けている。
「すげぇ……」
前を歩いていた若い男が、息を呑むようにして呟いた。エリアスも同じだった。
初めて目にするマンチェスターの光景に、胸の奥でざわめく衝動が止まらない。
そのとき、御者が前方を指しながら言った。
「ここが、これからお前らが住み込みで働く工場だ」
工場――
目の前にそびえ立つのは、壁という壁が煤で黒く染め上げられた巨大な建物だった。
あれほど賑わっていた町の活気とは裏腹に、その窓は細かい鉄格子のように区切られ、石と鉄で固められた姿は、人を迎え入れるどころか、逃げ場を塞ぐために造られた監獄そのものだった。
「ここ……で、働くのか……?」
声が震え、足がすくむ。
逃げ出したい衝動が一瞬胸をかすめる。しかし、逃げ道はどこにもない。
村に戻れば、家族はどうやって冬を越す?
仕事はない。選択肢もない。
そのとき、背後から荒々しい声が響いた。
「これが今日来るって話の連中か。……ガキばっかだな。まあいい」
振り向くと、屈強な男が立っていた。
煤まみれの顔で、エリアスたちを値踏みするように見下ろしている
「お前。名前は?」
男の指が、真っ直ぐエリアスを指した。
「エリアス……です」
「よしならば仕事は教えてやる。覚えが悪けりゃ容赦なくクビだ!働きたいなら黙って手を動かせ。
ここじゃそれが全部だ。他の奴らも一緒だ!!」
怒声が場を叩きつけた瞬間、若者たちは反射的に体を強張らせ、
促されるまま建物の中へと足を踏み出した。
そこには薄暗い室内が広がっていた。
長い作業台が何列も並び、その周囲を人々が無言で行き来している。
床には木屑や繊維の切れ端が散らばり、空気は埃と汗で重く澱んでいた。
作業者たちは、ただ同じ動きを繰り返していた。
布を引き延ばし、刃を当て、折り、束ねる。
誰かが指示を出しているわけでもないのに、動きは不気味なほど揃っている。
顔を上げる者はほとんどいない、目は手元に貼りつき、視線が合っても感情の気配はなかった。
まるで、生きた人間がすでに“作業の一部”になってしまったかのようだった。
震える手で同じ動きを繰り返す者もいる。遅い。しかし、止まらない。
――止まれば、何かが起こる。
全員が、それを知っているかのようだった。
ときおり、誰かが咳をする。
その音は一瞬だけ空気を震わせるが、周囲はまったく反応しない。
この場では、そんな音さえも作業のうねりに吸い込まれ、痕跡すら残らなかった。
エリアスは、胸の奥が冷えていくのを感じた。それでも、工場の奥へと歩みを進めた。
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初日は監督からの簡単な工場の説明だけで終わった。
日も暮れ始めて皆が監督に追い立てられるように寮へ向かって歩き出した。
けれどエリアスの足は、ふと止まった。
工場の奥、鉄の大きな扉から断続的に聞こえてくる何かが胸の芯を引っ掻く
工場説明の時から気になってはいた、金属の擦れる音、そして謎に続く音
──ゴウン……ゴウン……
音は規則正しい、だが生き物の心臓のように“息”がある。
一拍ごとに、床下のどこかが震える気配がして、骨の内側にまで伝わってくる。
エリアスは心の衝動を抑えられなかった。
この扉の先に何があるのか、あの大きな扉の隙間から何が見えるのかを
──ゴウン……ゴウン……
気付けば皆の流れから外れ、工場の影へと吸い寄せられていた。
一歩、二歩と薄暗い工場の中を進むたび床はしめり湧き出る煙と油の匂い、そして強い熱気を感じた。
──ゴウン……ゴウン……!
近づくほどに音は「響き」ではなく「圧」になっていく。
エリアスは汗ばんだ掌を服でこすってから、目の前の鉄の扉に手をかけた。
ぎ、と鈍い抵抗が返り、扉がわずかに開いた瞬間、白い蒸気と油の匂いが顔をなでた。中は薄暗いだが、そこに“いた”
機械仕掛けの怪物
壁ではない。建物の芯そのものが、むきだしの臓器になって脈打っているようだった。太い円筒は黒く煤け、鋲で継ぎ合わされた鉄板は、古傷のように歪み、筋張っている。
配管は血管のように絡み合い、弁は肋骨のように張り出し、ところどころから細い湯気が、獣の息みたいに漏れていた。デカいさらには歪だ。
けれど格好いいそうエリアスは思ってしまった。
この塊が、ここまでの街の煙と、速度と、あの止められない感じを、生んでいるのか――。
そんなことを考えていると背後から声が聞こえた
「それが気になるかい」
私が振り返ると煤と油に染まった作業着、白い髭をつけた。
エリアスは、言葉より先に頷いていた。
男は、誇らしげに言った。
「これは蒸気機関。時代を変える――偉大な発明だ」




