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『やりたいことがないまま進路希望を出す』  作者: 柚木 いと


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第1話 進路希望調査票が書けない

「安藤。まだ書けてないのか」


 


 ホームルームの終わり。

 教壇の前で腕を組んだ西尾先生が、俺の机の上をのぞき込んできた。


 


 進路希望調査票。

 A4一枚の紙の上に、でかい枠で「第一希望」と「第二希望」。

 その下には「その理由」と「将来やってみたいこと」。


 


 俺の紙だけ、きれいなほど真っ白だった。


 


 「あー……今、考えてるところです」


 


 とりあえず、そう答える。

 先生は「ふうん」とだけ言って、隣の席の村上の紙をちらっと見る。


 


 「村上は、もう書けてるな」


 


 「まあ、ある程度は」


 


 村上の紙には、


 「第一希望:○○大学 経済学部」

 「第二希望:△△大学 経営学部」


 って文字が、ちゃんと埋まっていた。


 


 「やりたいの、経済?」


 


 先生が聞くと、村上は肩をすくめる。


 


 「いや、別に。

  文系だし、数学そんなに嫌いじゃないんで。

  つぶし効きそうかなって」


 


 「ああ、そういう感じね」


 


 西尾先生は、「それもひとつの選び方だ」とでも言うように頷いた。


 


 そのまま教壇に戻るかと思いきや、もう一度こっちを見る。


 


 「安藤。

  今日中に“仮でもいいから”一回埋めて持ってこい。

  それ見ながら一緒に考えよう」


 


 「……はい」


 


 返事だけして、先生が教室を出ていくのを見送る。


 


 チャイムが鳴ると同時に、教室は一気にざわつき始めた。


 


 「お前マジで何も書いてないじゃん」


 


 斜め前の席から、村上が振り向いてくる。


 


 「うるさい。

  お前はなんでそんなサクッと決められるんだよ」


 


 「サクッとっていうか……

  どこ行っても死にはしねえだろって感じ?」


 


 あっけらかんと言うその顔が、今だけちょっと腹立つ。


 


 俺だって、どこに行きたいか分からないくせに、

 「どこでもいい」は言いたくない。


 


 「安藤くん、進路まだ迷子?」


 


 今度は後ろから声が飛んできた。桐谷だ。


 


 クラスの中でも、「夢持ってる組」の代表みたいなやつ。


 


 「どうせまた、

  “やりたいことないし”とか言うんでしょ?」


 


 「図星ついてくるなよ」


 


 「いやだって、本当にないんでしょ?」


 


 悪気はないのかもしれないけど、その直球がしんどい。


 


 「桐谷は、あれだよな。保育士になりたいんだっけ?」


 


 村上が話を振ると、桐谷は誇らしげに胸を張った。


 


 「そう。○○短大の保育科、絶対行くし。

  倍率高いけど、そこしか考えてない」


 


 「“そこしか”って言えるの、すげえな」


 


 口から勝手に出た本音に、自分でびっくりする。


 


 桐谷は、少しだけ表情をやわらげた。


 


 「別にすごくないよ。

  これしか考えたことないだけ。

  他にやりたいこと、思いつかないし」


 


 「それを“やりたいことがある”って言うんだろうが」


 


 そう言いかけて、飲み込んだ。


 


 たぶん、俺と桐谷は、逆方向に極端なだけだ。


 


 ◇


 


 放課後。


 進路希望調査票をそのままカバンに突っ込んで帰ろうとしたところで、背中から声をかけられた。


 


 「安藤、ちょっといいか」


 


 振り向くと、西尾先生が廊下に立っていた。


 


 「職員室、来い」


 


 逃げ道はなかった。


 


 ◇


 


 職員室の隅の、進路指導コーナー。

 丸テーブルを挟んで、俺と先生が向かい合って座る。


 


 机の上には、真っ白な進路希望調査票。

 先生の手には赤ペン一本。


 


 「まず、正直に言え。

  “やりたいこと”って、今のところゼロか?」


 


 先生は、授業のときより少し柔らかい声で言った。


 


 「……ゼロです」


 


 嘘ついてもバレる気がしたので、素直に答える。


 


 「そもそもさ、“やりたいこと”って何なんですかね」


 


 思っていたことが、そのまま口からこぼれた。


 


 「小さいころからサッカーやってました、とか、

  ピアノ続けてました、とか、そういうの、俺何もないんで。

  今さら“これがやりたいです”って言えって言われても、無理なんですよ」


 


 先生はしばらく黙ってから、赤ペンのキャップを外した。


 


 「よし。じゃあ、こうしよう」


 


 調査票の一番上の空白に、先生は大きく文字を書く。


 


 『やりたくないこと』


 


 「……え?」


 


 「やりたいことがゼロなら、やりたくないことから先に埋めろ」


 


 西尾先生は、黒板に書くときと同じトーンで続けた。


 


 「毎日スーツ着るのはどうだ」

 「満員電車通勤は?」

「ずっとパソコンの前に座りっぱなしは?」

 「休み不定期は?」

 「夜勤は?」

 「人と話すのが多い仕事は?」

 「逆に、ずっと一人きりで作業する仕事は?」


 


 次々と“条件”が並んでいく。


 


 「そんな急に言われても」


 


 「今ここで決めろとは言わん。

  ただ、“これはマジで嫌だな”ってものを一個ずつ消していくところからだ」


 


 先生はペンを俺に押しつけてくる。


 


 「夢とか立派な目標とか、今は別にいらん。

  ただ、“ここまでは嫌だって言っていいライン”を自分で決めろ」


 


 「……それで、進路決まるんですか」


 


 思わず聞き返すと、先生は肩をすくめた。


 


 「決まらないかもしれん。

  でも、“どこでもいい”よりはマシになる」


 


 目の前の調査票を見下ろす。


 


 『やりたくないこと』


 


 その文字の下に、とりあえず一行目を書いてみた。


 


 『体力テストでいつもビリだから、力仕事メインはたぶん無理』


 


 書いてみて、なんだこの情けない文、と自分でも思う。


 


 でも先生は、「いいじゃないか」とうなずいた。


 


 「そういうのでいいんだよ。

  ちゃんと自分のこと分かってるってのは、進路決めるとき一番大事だからな」


 


 「自分のこと、分かってないから困ってるんですけど」


 


 また本音が出てしまう。


 


 先生は少しだけ笑った。


 


 「だったら、“分かってる範囲”から埋めていこう。

  全部分かってるふりなんかしなくていい。

  空欄のままでもいいところは、そのまま残しとけ。


  でも、本気で嫌なことだけは、

  最初から避けられるようにしておけ」


 


 それは、今まで誰にも言われたことのない種類のアドバイスだった。


 


 夢を持てとも言わない。

 妥協しろとも言わない。


 


 ただ、「ここまでは嫌だって言っていい」と言ってくれた気がした。


 


 「……じゃあ、もう一個書きます」


 


 ペン先を紙に落とす。


 


 『国語のテストで毎回眠くなるから、ずっと本を読む仕事もきつそう』


 


 目の前で、先生がわざとらしくため息をついた。


 


 「それは俺に対する当てつけか?」


 


 「いえ、たまたまです」


 


 思わず笑いがこみ上げる。

 先生も、苦笑しながら椅子の背にもたれた。


 


 「いいぞ。そうやってちょっとずつでいい。

  “全部分かってるふり”なんかしなくていいからな」


 


 全部分かってるふり。


 たぶん俺は、ずっとそれをやってきた。


 


 「やりたいことがないまま進路希望出すやつなんて、山ほど見てきたからな」


 


 先生のその一言で、胸の奥が少しだけ軽くなった。


 


 ――俺だけじゃないんだ。


 


 真っ白だった調査票のスペースが、

 さっきよりほんの少しだけ“埋められそうな余白”に見えてくる。


 


 家に帰ったら、この紙の続きを書いてみよう。


 やりたいことは相変わらずゼロだけど、

 やりたくないことのリストなら、いくつか書けそうな気がした。


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