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1話 便所のベン

俺の人生は、流されっぱなしだ。

流れの速い濁流のごとく。

どんなに必死に掴んでも、手のひらからスルリと抜け落ちてしまう。

金も、女も、夢も、明るい未来も——。

ぜんぶ、きれいさっぱり流れていった。


今の仕事は冒険者ギルドの清掃員だ。

正式名称は「冒険者支援スタッフ」だが、要はトイレの掃除係。

俺みたいな、しょぼくれたおっさんに正規の事務仕事なんて任せてもらえるわけがない。

朝から晩まで、しょんべん臭い床を磨き、詰まった便器を直し、

出来が悪いと自分よりも若い社員に叱責される。

夜中には酔っぱらった冒険者たちのゲロの処理をする。

たまにチップをくれる物好きもいるが、

大抵は「おい便所のベン! まだ詰まってるぞ!」の一言、二言だけ。


“便所のベン”?

なんだよ、それ。

違う。

俺は“ベンジャミンのベン”だ!

こんなこと、やってられるかよ!


最初のころはそういうふうに、バカにされてると思って苛立っていた。

でも今はもう慣れた。

慣れたってことは、負けたってことだろうけどな。

せっかくありつけた仕事を辞めるわけにはいかなかった。

借金がある。

額は言えない。

言おうとすると胃が痛くなって、死にそうになるんだ。

本当だ。

昔、ちょっとした賭け事に手を出して——いや、これは嘘だ。

ちょっとじゃない。

まあ、なんだ。

俺は本気で当たると思っていた。

だから気づいたら、大金の借用書に拇印を押していた。


取り立て屋はやさしかった。

最初のうちはな。

「大丈夫、ちゃんと働けば返せますよ」って笑っていた。

俺も「倍にして返します!」なんてヘラヘラ笑っていた。

でも期限を過ぎた日から、取り立て屋の笑顔は鋭利な刃物に変わった。

俺の笑顔?

もう笑えるわけねえだろバカやろう。

あいつら「身体でも大丈夫ですよ。眼球とか腕とか」なんて言い出すんだぜ?


それからの俺は散々だ。

死なない程度に働いて、細々と金を返し、ぎりぎりで生きている。

寝床はギルド裏の古びた倉庫。

布団は食料やら酒やらが入っていたであろう麻袋。

飯は安い干し肉と黒パン。

それからギルドに併設された食堂のあまりもん。

身も心もぼろぼろだった。


でも——まだ生きてる。

それだけが俺の誇りだ。


今日も相棒の青バケツを持って職場(トイレ)へと向かう。

タイル張りの床は泥だらけ。

壁には血の跡があった。

昨日、酔った冒険者同士が喧嘩をして、ひとりが鼻の骨を折ったそうだ。

この街はそういう街だ。

命の価値があんがい軽い。


「はあ」

思わずため息をつく。

下を向くと、四十手前のくたびれたおっさんがバケツの水に浮かんでいた。

歯を磨いたり、髭を剃ったりする気力もない。

「はあ……情けねえ……」

ごしごしと目を擦る。

だが目の下にくっきりとへばりついたクマは取れないし、

なぜだか涙が溢れそうだった。

でも、まだ生きてる。

それだけで十分だろ。

先のことは考えるな。

まずは目の前の床を掃除しようじゃないか。


「おーい、ベン!」

急に背後から呼びかけられた。

振り向くと、そこにはギルドの受付嬢であるアナが腕を組んで立っている。

金髪で美人だが、口が悪い。

「ベン! 聞いてる?」

でもアナは俺の名前を唯一、ちゃんと呼んでくれる。

そのうえ、巨乳だ。

「ちょっと、どこみてんのよ。変態」

巨乳だ。


「もう! 掃除は後回し! ベンにぴったりの依頼が来てる」

「……依頼? 俺にぴったりの?」

俺はアナに思い切り叩かれた頬をさすりながら、聞いた。

「そう。パーティメンバーが足りないらしくて、雑用係を募集してるんだって」

「雑用、ね」

いぶかしむ俺に、アナはにやりと不敵な笑み浮かべる。

「参加費無料、交通費全額支給、食事付き、高報酬。さらに依頼主はA級冒険者」

細長い指を折り数えながら単語を連ねていく。

「えっと、学歴不問、経験不問、資格不問、それから……履歴書不要!」

「ベン、乗る?」


俺はバケツを見つめた。

汚れた水面に、光が一筋、差し込んでいる。

「いったい、どこに連れてかれるんだか」

「通称『箱庭』。前人未踏のS級ダンジョンよ」

アナは即答した。


「箱庭……」

その名前をつぶやいた瞬間、俺の丸まった背筋にしびれが走った。

まるで小さな小さな雷に打たれたような。

心臓がばくんばくんと早鐘を鳴らし、ちりちりと痛む。

なぜだろう。

聞いたことも見たこともないはずなのに。


「なに? 知ってるの?」

「……いや、そいつはまた、とんでもねぇトイレ掃除だなって思ってよ」

アナが呆れたように笑った。

「死ぬかもよ?」

「いつでも死にかけてんだ。今さら変わらねぇさ」


俺はバケツを置き、肩に引っかけていたタオルを外した。

汚れた水面と同じように、俺の心も波打っていた。

ゆらゆら、ゆらゆら。

何かが今にも目を覚まそうとしているみたいに。

 

風が強く吹き抜けた。

ひどい匂いが目に染みる。

泥まみれの床の片隅で、紙切れがひらりと舞い上がる。

それはふわふわと飛行して、

濡れたバケツの縁に、ぴったりと張りついた。

——透明な羽だ。


俺はそれに気づかないまま、ゆっくりと立ち上がった。

大きく背伸びをする。

「どうせ地獄行きの片道切符だろ」

そう言って、俺は笑った。

久しぶりに胸が高鳴っていた。

そんなことが、ほんの少しだけ、嬉しかったんだ。

最後までお読みいただきありがとうございました!

ちょっとでも息抜きになれば嬉しいです。

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