3話『おもしれーデート』
前日の健康診断を終えた土曜日。
例の茜へのご褒美として、デートをしていた。
デート先は水族館で、俺たちは今、その入場ゲートに踏み入れようとしている。
辺りを多数の人々が行き交い、老若男女関係ない楽しげな声が木霊する。それが心底、胸を高鳴らせた。
「水族館、久しぶりに来たよね」
「うん。本当に久しぶりだよね……懐かしいなぁ」
懐かしい過去に想いを馳せ、二人は破顔した。
「あの頃は茜、迷子になってたよね……それで泣いてた」
「あーっ! そのことは忘れてよー!」
「絶対に忘れてあげねーよ」
「むーっ……」
俺は茜に手を差し出すと、そっと微笑む。
「ほら」
「ん……?」
不思議そうに間抜け面で、俺の顔と手を交互に見る茜。
そんな鈍感で焦れったい、だけど昔と変わらない、誰よりも明るくて優しい女の子の、その手を取った。
◆◆◆
「ママァ───ッッ!!ママァ─~~─~ッッ!!」
数多な人と水の怪物が、奇怪な目を向けてくる空間。
その中で私は、独りの寂しさに喘ぎ、水槽に背を預けるように座り込みながら、ただ泣きじゃくっていた。
涙を浮かべる瞳に保護者が映ることを望むも、その望みは一向に叶わず、辺りは見知らぬ人で溢れてる。
『あの子、迷子かしら?』
『可哀想ねぇ~』
『誰か行ってあげないのかしら?』
知らない人のボソボソとした声が聞こえてくる。
しかし、耳に届く内容は酷く残酷で……頑張って上げた筈の顔が、漏れ出る涙と共にへたり込んだ。
(誰も助けてくれない・・・わたし、もうママに会えないのかなぁ……)
そう思うと、感情がブワッと流れ込んできた。
抑え切れない気持ち。けれどもこの時の私は、抑えようとも思わなかった。
だからなのだろう、下に俯きながらも、言葉を発することが出来たのは……。
「嫌だよぉ……ママに会いたいよぉ……おねがい……」
──誰か、助けて。
私は弱々しく、それでいて情けなく、助けを乞いた。
この声はあまりに小さくて、誰の耳にも入っていないかもしれない。
例え聞こえてたとして、誰も私に、救いの手を伸ばしてくれないかもしれない。
でも、それでも……まだ子どもの自分に出来るのは、誰かに助けを求めることしか無いから……。
私は流涕して潤んだ顔を上げた。しかし、私の目の前に救いの手は無く、当然ママの姿もなかった。
嗚呼、やっぱり……私は要らない子なんだ。と、絶望を前に塞ぎ込もうとした。
そんなときだ。一筋の希望が聞こえてきた。
「ねぇ……泣いてるけど、だいじょーぶ?」
それは私と同い年の男の子だった。
人混みの中からスポッと顔を出した彼は、私の方へと少しの迷いも無く駆け寄って来る。
泣いてる私とは対極に、彼の表情は笑顔で満ちていた。
「うん……だいじょー、ぶ……」
「それならよかったよ……それにしても……んー……?」
何の不安も無いかの様に笑う彼は、マジマジとした真剣な眼差しで、私の顔を見つめる。
そのことに気恥しさを感じた私は、何処かで見たことがあるような彼に、頬を赤らめた。
「……どうしたの……?」
「もしかしてさっ、アカネちゃん?」
「えっ……?」
彼は私の名前を呼んだ。そのことに驚いた。
何で私の名前を知っているのだろうか、と……。
動揺している私に、彼は目をキラキラさせる。
「やっぱりアカネちゃんだよね!」
「う、うん……でもどおして、名前を知っているの?」
私の問いに、彼はちょこんと首を傾げた。まるで、何を言っているのか、分からないと言う風に。
そしてまた、その答えは酷く単純だった。
「だって……バラ組のアカネちゃんでしょ?」
そうだ・・・だって彼は、私と同じ幼稚園の、生徒だったのだから。
「ボク、ユーストマ組のツムグだよ!」
「ツムグ……くん……?」
「うんっ!」
彼は満面の笑みを浮かべ、その手を差し出す。
「折角、ボクたち水族館にいるのにさ……こんなところで泣いてたら勿体無いよ」
潤んだ瞳の私は、彼の手と顔を交互に見る。
その救いを掴んで良いものか……。
卑屈な心の私は彼の善意に素直になれず、無為徒食に悩んでしまっている。
行動に移さなければ……彼の手を取らなければ……何も状況は変わりやしないのに……。
「………………………………」
私は黙った。何も言えず、停滞を選んだ。
その何と愚かなことか、自分が嫌になる。
彼の救いを拒んでしまった私は目を瞑る。
「………………………………」
もう……嫌だ……怖いよぉ……。
このときの私は、身体が小刻みに震えていた。
だからなのだろう、彼が行動を起こしたのは……。
「ほらっ、いくよ!アカネちゃん! 一緒にさ、アザラシ見にいこうよ!!」
「えっ……!」
彼は私の手を強引に取ると、身体が着いて行く私を引っ張りながら、往々する人混みを駆け抜けた。
一歩一歩を踏み締める度に、ポツポツと滴り落ちる涙がコンクリートの床を濡らす。
「なんで……」
私は小言を吐いた。
私の前に居る彼は振り向かず、言葉を紡ぐ。
「なんで、って……アカネちゃんが、寂しそうに泣いてたからだよ。もしかして、嫌だった?」
彼は止まって、私の方へと振り向いた。
「んーん……うれしい……。ありがとう……」
私の目にはもう、一人の男の子しか映らなかった。
有象無象の人も、水の中の怪物達も気にならない。
「だいじょーぶ……アカネちゃんの手、ボクは絶対に離さないからね」
このとき・・・涙が治まってきた。蟠った気持ちが軽くなってきた。私の世界が広くなっていった……。
そして、そんな私の世界に色が着いてきて……とってもカラフルに見えた。
「うんっ!」
―――
その後、紡と一緒にアザラシのショーを観た。
紡が無邪気な笑顔を浮かべる度に、私の胸の鼓動は高鳴りをみせていった。
正直な話、あまりアザラシのショーは覚えていない。
だって……私の目はアザラシじゃなくて、紡のことを見ていたのだから。
「アザラシ、かわいかったね」
「かわい、かった……?」
プシューと顔が赤くなる。
(かかかかかか、かわいいって、言われちゃった!)
「うん、かわいかった! ねぇ、アカネちゃんもすき? (アザラシ)」
「えっ……(もしかして・・・アカネちゃんも"ボク"のことが好き? ってこと?!)」
俯き、唇を尖らせ、瞳を潤わせる。
「うん、すき……だよ……」
「ならよかった! じゃあさ、こっちきて!」
「うんっ!」
紡は私の手を取ると、売店へと急いで向かった。
アザラシショーの売店に着いた私達は、目を輝かせてる他の子ども達に混ざり、アザラシのグッズを見る。
アザラシのぬいぐるみ、アザラシの文房具、色んなグッズが光を放って輝いて見えた。
だけど、そんな数あるグッズの中で、一際輝いて見えた物があった。それは、アザラシのストラップだった。
「あっ……これ、かわいい……」
「それが欲しいの?」
「うん・・・でも、お金ない……」
「いいよ、ちょっと貸して」
そう言った紡は私の手からストラップを取り、それをレジへと持って行った。
やがて会計を終えると、私の元まで駆け寄って来る。
「はいこれ、あげる」
紡はギュッと手に握っていたアザラシのストラップを、私の顔の前でぶら下げた。
それを受け取る様に両手を添えると、ボトンとストラップが手に落ちてきた。
「いいの?」
「うん、いいよ」
「……ツムグくんはさ、なんで優しくしてくれるの?」
私は気になった。関わりの無い私に、何で紡は優しくしてくれるのだろうか、と。
だから聞いた。そのときの私にとっては、真面目で難しい話だった。
だけどきっと紡にとっては普通のことで、そう思わせるほどに紡の表情が、光に満ちていたのだ。
「んーとね……ツムグって名前には、細い糸が絡まり合うことで強くて太い糸になる、って意味があるんだって」
「そうなんだ……いい名前だね……」
「そう、かな? ……ふふ、ありがとう」
紡は私に語りかける様に言葉を続ける。
「まぁ……だからさ、これはボクからのお礼だよ。一緒に遊んでくれてありがとうね」
紡は二ヘラと、照れくさそうに微笑んだ。その優しい表情の彼に、私の唇が微かに綻ぶ。
「んーん……ツムグくん、助けてくれてありがとう……」
私は感謝の言葉を伝えた。だって紡が救いの手を差し伸べてくれなかったら、もっと泣いていたから。
目の周りが赤く腫れて少し痛いのも、彼が不安の涙を止めてくれた証だから……。
だから私は顔を綻ばせながらも、精一杯の満面の笑みを浮かべて微笑む。
「ずっと、大事にするね……」
私はストラップを、ギュッと握り締めた。
きっと私は、今日という日を一生忘れない。だってこの日は私が、彼に初めての恋をした日だから……。
泡沫の夢みたいな一日でも、これは現実だから……。
だから私は星に願う、穏やかな茜色の空に、彼との色鮮やかな一本の橋が、掛かりますように……と。
◆◆◆
茜の右手を取った俺は、水族館へと走り出した。
髪が春風に揺らぎ、瞳が思い出に染まる。そんな何処か浮ついた俺の唇は、微かに綻んでいた。
「茜の手、絶対に離さないから」
「うんっ!!」
二人は追憶する。
だってそこには・・・
後ろを顧みず真っ直ぐに前を見据える紡と、
小さなストラップを満面の笑みで握り締める茜しか、
存在しては、いないのだから……。
(大好きだよ……紡)
―――
俺達は先ず、アザラシのショーを見に行くことにした。
最初こそは「楽しみだねー」とか、「懐かしいねー」とか話してて、楽しげな雰囲気だった……。
しかしそれも、今となっては過去のことだ。
何故なら俺達の身に、突如として、神格級のSAN値チェックが発生したからだ。
「グアッ! グアッ! グアッ! う"~~~」
『ギャハハッ!!!』
「アザラシちゃん可愛いですね~」
「「…………………………おっふ」」
俺と茜の目の前で、沢山の子ども達が笑っていた。
それも楽しげに、純粋な満面の笑みで、だ。
え?それなら良いだろうって?子ども達が楽しんでいるところでSAN値チェックとか、神格舐めてんのかって?
あぁ、確かにその通りだ。俺の目の前に居るのが、アザラシの真似をしてるダチじゃなければの話だがな!
「なぁ茜……」
「なに、紡?」
「いやさぁ、俺達の目の前に居るのって……」
「うん、誠と真奈だね……」
「「すぅううううううう……」」
名状し難い現状を目の当たりにした俺達は、その深淵と同じくらい深い呼吸をした。
「うおっWうおっWうおっWうおっW」
「次はオットセイちゃんですね~」
アザラシときて、次はオットセイの真似をする馬鹿。
幸いにして子ども達には受けてるモノの、保護者のナイフみたいな視線が心に突き刺さって痛い。
「なぁ茜……」
「何? 紡」
「俺から提案があるんだが……」
「う、うん……」
「無視しね?」
「・・・それ良いね、賛成」
記憶から友達を抹消した俺達は、抜き足差し足忍び足でソロリソロリと、アザラシのショーに往く。
その予定でした……(過去形)。
「キュー、キュー……キュー、キュー………」
「次はイルカちゃんですね~……って、あれ? あそこに居るのって、紡と茜じゃない?」
「キュー…………って、ホントだ! おーい!」
「つむぐー! あかねー! こっちー!」
「「うげっ、バレたっ!!」」
あわわわわわ……大人の突き刺す様な視線が痛い……。
「「オワタ」」
こうして俺達のデートは、イカれたカップルと合同の、ダブルデートになったのであった。
この後、アザラシのショー見たり、ペンギン見たり、チュロスとか食べたりした。