君に鬼灯
あの子がいなくなって三日たった。探せるところは探してしまった。秋の夕暮れ、風と共に虫の鳴き声が吹いてくる。
あの子とは二年前に出会った。脱サラしてやさぐれていた頃だった。近所の男の子が「空き地に捨てられてた」 と段ボールを持って玄関先に立っていた。中を覗き込むと、小さな命がそこにあった。
僕は男の子にあとは任せてといい、段ボールの中から、手毬のような子猫を出して胸に抱いた。
白と黒の模様、なんて小さい。しっぽをピンと立ててミャアミャアとしがみついてくる。
こうして僕の一人きりの育児は始まった。実家の猫の子猫時代を思い出しながら、お風呂に入れたり病院に連れて行ったりとその日は過ぎた。
深夜、用意したタオルの上ですやすやと眠る白黒の子猫をずっと見つめていた。目や手がピクピクと動いている。ミルクを飲んで膨らんだおなかは、規則正しく動いている。
煙草とコーヒーだけを食らう、荒んだ生活をしている僕と、同じ命。
僕にとって、あの子は生きる希望そのものになった。
子育てをする下僕、それが僕だった。子猫のスタミナは尽きず、不貞寝してる場合ではなくなった。閉めたきりだった遮光性のカーテンは、子猫を日向ぼっこさせるために開けるようになり、新しいおもちゃや餌を買いに外出するようになった。小さな庭に一緒に出ると、あの子は隅に生えてる鬼灯でじゃれて遊んだ。小さな手でパンチされて揺れる鬼灯。僕の心に暖かいものが広がっていく。
この子のために稼がないとな。責任として先には死ねないよな。
子猫が嫌がるので煙草はゴミ箱に捨てた。
猫の成長は早い。一年もたつ頃にはすらりとした大人の猫になった。去勢はしていたが窓越しに会いに来る雌猫との恋の模様を、同じ男として、親として、横目で見守ったりもした。
仕事を見つけ生活を立て直し、これからも幸せな日々が続くのだろうと疑いもしなかった。
二歳になる少し前に、猫エイズとてんかんを発症した。獣医は猫エイズでも長く生きられると言っていたが、症状は悪化する一方だった。毎日苦痛を取る注射を打ちにいき、あの子は衰弱していった。発作で痙攣するたびに僕はあの子のそばにいき、まだ逝かないでくれと祈った。
まだ逝かないでくれ。僕をひとりにしないでくれ。
トイレにも自力でいけないのに、数歩も歩けないほど衰弱してたのに、病院にいく用意をしている時にドアの隙間からあの子は全力でどこかへ走って行ってしまった。数日前に獣医から、ウイルスが悪さをしていて、長くは持たないと言われ覚悟はしていた。でも看取るなら腕の中でと思っていた。
三日間近所を探し続けて、途中から涙が出てきて、なんでおまえどこにもいないんだよって、いつもなら車の音を聞くだけで玄関で待っていてくれたじゃないかって、喉の奥がギュウギュウなった。
とぼとぼと家に帰る途中、もう一度あそこにいってみようと思った。
うちのみっつ隣の空き地、草原の奥、おまえが捨てられていた場所。
さっき探した時はいなかったのに、あの子はそこに丸くなって眠っていた。膝が震えて手も震えて、触れてみたら暖かかった。
ひゅっと安心したけれど、あの子の目はもう開かなかった。
葬儀屋からお骨を手に取り家に戻り、帰り道に買った煙草を吸った。悲しくなんてなかった。無性に腹が立った。いなくなってしまったこと、死んでしまったこと、灰になったこと。僕に希望を与えて奪い取った、運命や神に腹が立った。
骨壷をテーブルに置いてから、静かな部屋に立ち尽くすと耐えきれなくなった。あの子が好きだったおやつが目に入り、壁に向かって投げつけた。ゴミ袋にあの子が使っていたトイレや爪とぎ、おもちゃを手当たり次第に詰め込み始めた。あの子が子猫の時に悪戯をして傷が入ったリビングの壁紙を、剥がして破り捨てた。
こんな思い出だらけの家にいたくない。あの子はもういないんだ。なにもかももういらない。引っ越そう。
ペット不可の新しいアパートを探そうとスマホを手にしたら、液晶に僕の顔が映って、馬鹿みたいに泣いてることに気づいた。ぼたぼた涙が落ちてきて、唸り声と共に床にしゃがみこんだ。
僕は……、僕は駄目にはなれないと思った。あの子のために、駄目にはなれない。僕はちゃんと生きていくんだ。悲しみも苦しみも逃げずに受け止めて、あの子がくれたものを忘れずに生きるんだ。
「ごめんな、ごめんな」
袖で涙を拭うと、そこにあの子の毛がくっついていて、僕はそれを一本指で取って口に入れると、涙と一緒に飲み込んだ。
僕はね、今よりもっと強い人間になって、優しい人間になって、いつかまた、おまえみたいな子と巡り会えたら、全力で幸せにする為に、今をしっかり生きるよ。
泣き腫らした朝、カーテンを開けてぼんやりと外を眺めた。
小さな庭に、この世界に命を灯すような、鬼灯がなっていた。