第三章 ーーーフィッシングドライバーーー
高校卒業後、就職すると選択した一美は、自分で選択したことで覚悟も混ざっていた
男性の多い職場は、部活で味わった上下関係よりも甘かったが、試されているような視線と評価は厳しく感じた…初めての社会に適応しようと必死なだけだった
富高帝人製紙の主力事業は勿論製紙業だ
一美が配属されたC棟工場で作られた紙は、10tトラックに積み込み出荷するのだが、直径3M程のロール状にしてから積み込まれていく
天気が良い短距離の配送の場合は、まるでトイレットペーパーを3つ積み込んだ玩具のトラックは、異様で可笑しさを含んだジオラマのようだった
そのロールを作るためには、それに見合う巨大な紙管と呼ばれる芯が必要になる。
製紙会社で紙管を製造するにはコストがかかり技術も必要とする、製紙会社が多い富高市ならではの固有種生物のように、紙管製造を専門とする会社が存在していた。
そして富高帝人は駿河紙管という会社と取引していた。製紙会社の歴史は浅くない、一美が入社する20年以上も前から駿河紙管との取引は行われていたため、今ではシビアな取引交渉もなく慣れ親しんだ関係が続いている
C棟工場の内部も多くの部署に分けられ、一美は資材管理部に配属され…今日もいつものように納品されて来るあらゆる物を書き止め、専用の用紙にチェックをしていく…
7日間で締められる資材管理書は、製造管理部でもチェックされているため、間違えば60歳を過ぎても再雇用されていた見た目から全て貫禄に満ち、バーコードの禿げ頭が板についている、管理課長の庄司さんに怒られるのも業務の一部として回っている
この日も紙管の納品があった、駿河紙菅の営業納品担当をしていたのは6歳年上の小林真也だった、今では真也君と呼べるような関係が築けていた
入社して直ぐに顔を合わせてはいたが、周りが見れるほど一美に余裕がなかった、入社して1年以上がたった今では、仕事の話が終わると、真也君も俺を「カミちゃん」と呼んでくれている
今日も真也君が納品のついでに声をかけてくれた
「カミちゃん休みの日は何してんの?なんか趣味とかあんの?」
「いや・・趣味ですか・・・ずっと部活しかやってこなかったから趣味という趣味はないですね・・・就職してからは自宅と職場の往復しかしてないですよ…」
「今度さ、釣りにでも一緒に行かない?全部道具は揃ってるから」
「釣りですか⁈ 昔、父親に小さいころ連れてってもらった以来ですよ、久しぶりにやってみたいです!連れてってください」
釣りにも興味があったが、姉ではなく兄が良かったと思っていた昔の想いが蘇る
一美はいつも予定が空いていたので、早速今週末に、自宅近くの富宮駅に車で真也君が迎えに来てくれることになった。
ーーーーーーーーー
――――魚釣りは朝が早い
4時に待ち合わせの約束だったが、3時半には駅前についていた。部活の習慣が抜け切れていない一美には、早起きは苦痛ではなかった。
就職を機に、地元に戻ることになった一美は、貯金が貯まるまで電車通勤を続ける事も決心していた。
毎朝通い慣れた富宮駅も早朝3時は全く違う様子で、晩夏という訳でもなく日はまだ登っていない、駅の街灯が眩しいくらいだった。
............
あれから両親も
(車は必要だろう)
(お金は出すから教習所申し込みしてきたら?)
父からは1回だけだったが、母からは何度か繰り返された。
(電車通いが慣れてるから…)
ここで親に甘えることは就職すると判断した気持ちが台無しになる…
もちろん内心は、喉から手が出る程欲しかった。
一美の世代は男の誰もが車に憧れていたと言って良い程の世代で、(走ればなんでも良い)は確実に少数派だった。
(車で迎えにきてくれる)
自転車と電車しか選択肢がなかった今までとは違い
どこかに遊びに行くために、車で行くという事だけで新鮮で気持ちが踊る
.......
街灯以外が完全に静まり返った駅
だからこそ余計に際立った
遥か遠くの方で
微かで確実なマフラーの音
そんな駅の雰囲気も嫌いではない
マフラーの音が聞こえ始めて5分以上が経った時、段々と近づいてきている事に気が付いた
音の持ち主がどんな形をしているものなのか……好奇心が沸く
信号から、駅にまっすぐ伸びる舗装したての真っ黒なアスファルトは、軽い下り坂で200mくらいの直線となっている。
信号が赤になりマフラー音が一旦聞こえなくなるが、遠くても、かなり近くなったその低いゴロゴロとしたアイドリングが震動する。
マフラー音の正体は直ぐそこまで来ていた、一美はまさかという想いも含めて高揚する
信号が青になると、一度アクセルが噴かされてから、独特な低音に変わって聞こえてくる明らかなマニュアル操作は、信号を右折して直線に入る
暗闇からヘッドライトをハイビームにして登場する真っ黒な車は、アスファルトと調和しながらオレンジ色の街灯に照らされて走ってくる、今までテレビを通して見てきたどの車よりもカッコよく映った
直線を走り終えて、ロータリーを回ってピットインするかのように一美の前で停車した。
―――窓ガラスが下がる
「おはようカミちゃん!よく起きれたね、待たせちゃったかな?」
「あ・・・おはようございます! いや・それより・車すごいですね・・・」
・・・・・・・・・・・・
いつか見た、未舗装の道を、車を横に滑らせて時速100km以上で走る世界ラリー選手権に出ていた車だ、一美は感動と憧れが溢れて、真也を職場とは別人の芸能人にでも会ったかのような感覚になった。
そんな一美を素早く察した真也は
「俺って車好きでさ・・・カミちゃんも好き?」
「はい、詳しくはないですけど憧れちゃいます! いいな・・・すごいですね!」
話をしながら、一美は車の周りを一周してから逆回りで2周目に入った。
「カミちゃんも嫌いじゃなさそうだね、乗ってよ」
真也も一美のリアクションが嬉しそうだった。
車に乗り込んでから、一美が更に車の虜になるのは必然だった。真也も得意になって運転していた。釣り場までは、1時間程度だったが、あっという間に到着した。今日の目的が何だったのか、わからなくなってしまった。
・・・・・・・・・・・
防波堤近くに車を止めて、真也が釣り道具をトランクから出し始めた、
「おーい、カミちゃん手伝ってよ」
一美は、また車に見惚れて立ちすくんでいた、
「すみません、こんなこと聞いて申し訳ないんですけど、この車っていくら位するもんですか?」思い切って聞いてみた。
「車自体は、中古で300万くらいだけど、改造費がね・・・もう少しで車体価格を超えちゃうよ・・」
真也の顔は、苦しそうな顔で言っていたが、口元だけは演技しきれていなかった。
今の一美には、そんなお金はもちろんある訳がない、さっきまでの憧れに輝く顔が曇った表情になった。
真也君はそんな俺に――
「俺だってローン地獄だよ、親から少し出してもらったけど、残った給料もガソリン代で終了って感じ・・・でも好きかどうかじゃないかな・・車なんて自己満の塊だからさ」
こんな話も、手のかかる我が子が可愛くて仕方がない母親のように話してくれた。
―――釣れるかどうかもわからないのに、大きなクーラーボックスを担ぎ、防波堤の先端まで歩いて到着した。
海の見晴らしも良いが、ここからでも真也の車が見えて、海よりも車をこの距離で眺めている方が一美の心を踊らせた。
釣竿を伸ばしリールを取り付けて、ガイドに糸を通す。
10年以上は、やっていなかったが意外とすんなりとできた、自転車を乗るように体がおぼえている感じだった。
そこから針に到達するまでは、真也君にだいぶ助けてもらった、ようやく釣りの準備が完了した頃には、水平線がしっかりと浮き出ていた。
「カミちゃん投げたことある?」
突然と真也が問いかけた。
「昔、砂浜で天秤投げたことあるけど、全然自信ないです・・」
「失敗してもいいから、やってみる?」
「いえ、真也君やって見せてください、自信が全くないし」
失敗して恥ずかしいというよりも、せっかく付けてもらった仕掛けを切ってしまっても申し訳ないと思って遠慮する気持ちもあったが、これ以上情けない自分を晒せない気分だった。
「そんなに気を使わなくていいよ、せっかくの休みだし楽しもうよ。仕事のストレスだってあるでしょ?」
一美の心を察してか、真也は、付き合いの言葉ではなく、本当に気を使わないようにしてくれた。
そして手本を見させるように(ビュォ)という気持ちが良い音を立てて、慣れた手つきで赤い大きな浮きが付いた仕掛けを堤防の先端の延長線上に投げた。その竿は専用の竿置きに寝かされ、一美には別の小さな竿を用意してくれていた。
「それで足下を狙ってみたら?」と差し出された竿には、オモリの先にミミズのようなゴムでできた擬似餌が付いていた。生きた餌でしか釣りをした事がなかった一美でも、ルアーやワームという名前は聞いたことあった、
(多分これが、ワームというやつなんだろう。)
おぼつかない手つきを見た真也は―――
「ちょっと貸してみて、これは一度底まで落として、竿先使ってコツコツする感じでやってみて」と説明しながらやって見せてくれた。
その姿を見て、釣りの事に感心するよりも、姉と真也くんを見比べてしまった。
空腹を感じた頃には日差しは熱く水平線にはミニカーよりも小さくなったタンカーがボヤけていた。
真也は合計で7匹釣り上げ、一美は、赤い小さい魚を2匹と、赤い浮きに反応があることを真也に教えてもらって、リールを巻くだけ巻いたら釣れていたサバが1匹の釣果だった。
――――「カミちゃん、ボチボチ飯にするかい?」
「あ、はい・・どっか食べに行くですか?来る途中のあの時間じゃ開いている店はなかったし、どうします?」
「ここまできて外食なんてもったいないよ、この状況なら何食っても美味いよ」
そう言って真也は、大きいクーラーボックスの留め金をバチンと強い音を出しながら広げ始めた、魚が釣れるたび、クーラーボックスに入れるのも全部任せっきりだったから気付かなかったが、クーラーの中は2つのスペースに分かれていて、一方には小さい赤い魚を除いた釣果の魚たちが氷に埋もれ、もう一方には弁当箱とは言えない、クリアのタッパーが重ねられていた。
カラフルなボケた色合いを映し出し、後は食べるだけになっているだけの果物が入っていると直ぐにわかった。プラスチック性の大きな蓋をめくると、オニギリがぎっしりと入っている、もう一つ開けると、唐揚げや、ウィンナー、ブロッコリーとミニトマトも入った、彩りも考えられたおかずが入っていた。
「おお!!めちゃくちゃ美味そうですね?・・え・・これ真也君が作ったですか?」
釣りの準備から、車は外装だけでなく内装も綺麗に掃除されていたこと、こんな釣り初心者にも飽きないで面倒を見てくれる真也の印象から作ってもおかしくないと思った。
「まさか・・俺は料理だけはどうにもこうにも無理、全く無理!」
「え・・じゃお母さんですか?」
真也は車とは違う反応でにやけている。
「彼女が作ってくれたんだよね、前の晩のうちに作って準備してくれたんだよ」
「彼女いるんですか!?」
車の時よりも、大きな声でリアクションした。
「最近ね、車にしか興味なかったんだけどね、車のことも理解してくれるんだよ、この弁当だって、頼んでないのにさ、ガソリン代でカツカツの俺を考えてくれてるんだと思う、釣りに出かけるって言ったら支度してくれたんだよね」
「すごく優しい方なんですね」
この時の真也君の表情は、なんとも言えない顔だった。オニギリの中身を紹介する真也君も、今の話だけで伝わってくる優しい人であろう彼女、仕事同士では見ることができなかった駅から今までの時間は、真也君に彼女ができた理由がわかったような気がした。
海は穏やかで防波堤にあたる波は潮の香りを運ぶ、雲がゆっくりと形を変えていき、海を挟んで半島が見える。母の知り合いのおにぎりは、食べる事に抵抗を感じていた一美だったが、真也君の彼女が作った真也君から受け取ったおにぎりは抵抗感どころか、只々美味しく感じた。
・・・・・・雲の形が何度も違う表情を見せ、満腹感から防波堤で寝そべっている一美に真也はまた唐突に投げ込んた。
「カミちゃんは彼女欲しくないの?」
―水平線の様な質問だ・・・
車、釣り、お弁当、彼女まで重ねられて想像もつかない。
「彼女なんて考えたことなかったです、まだ仕事もしっかりできていないし、やっとギリギリ社会人やってますよ」
「今まで彼女作ったことないの?」
「学生の時に、何回か・・女性から・・・手紙で付き合いませんか?みたいなことがありましたけど・・・土曜も日曜も部活だったんで、手紙の返事は書きましたけど・・・付き合ったという感じはないですね・・・」
・・・・・・・
この話をきっかけに、実家のことや、バレーボールの話、そして就職を選択した事、まだ電車通勤で、彼女を作る余裕もない、
(こんな男に・・)という説明を真也にした。
「何言ってるの?カミちゃんは凄く仕事できるし、この前、話してくれたけどパソコンで納品を管理する方法なんて、俺には理解できなかったよ、パソコンなんて触ったこともないしね」
「いや、あれはまだ構想段階ですよ、こんな下っ端が提案するなんてまだ早いし、真也君も庄司さんの性格わかりますよね?」
「課長の?」
「はい、ちょっと苦手なんですよね・・俺の失敗を待っているかの様で・・」
「そうなんだ、俺はカミちゃんより庄司さんとは長い付き合いになるけど、そういう風には見えてないかな・・一緒に働いてると違うかもしれないけどね、でも本当に嫌な人なら、取引先と言っても、俺は売り手でカミちゃんちが買い手だから、もっと強く出てきそうだけどな・・・まぁ・・・どこにでも自分と合わない人っているもんだよ」
「そんなもんですか?」
「そんなもんすよ!」
真也は軽い返事をした後、少し多めに残っていたオニギリを一口で口に突っ込んだ
弁当を食べた後は、僕たちのように満腹になったのか、魚が全然、釣れなくなった。
後から真也君に聞いたが、水温が上がるととか、潮が止まってとか…理由があって釣れなくなるらしいが、帰り道の車内で聞いたのであまり理解ができなかった。
自宅まで送ると真也君から言われたが、駅に送ってもらうようにお願いした。
ロータリーからピットインする、今度は車内から体感できた。車から降りて、真也君の目線よりも深く頭を下げ、お礼を伝えてドアを閉める。見送ろうとするとウィンドウが下がる。
「今度また行こうよ、彼女も紹介したいし、じゃ、おつかれさん」
「あ・・はい、お願いします」
ウィンドウが閉まりながら、車が走り出す。車が見えなくなるまで見送りながら、(彼女を紹介)と言われたことが気になっていた
帰路の間、車のことよりも
(もし自分に彼女ができたら?)と考えてみたが、想像ができないまま家に着いてしまった…
そして真也は、今日の釣果のほとんどを一美に持たせた
渡されながら――
「お父さん釣りするなら見せてあげなよ、お父さん喜ぶと思うよ」
そう言われて、真也君と約束したかのような感覚になった
―――自宅に到着したのは、夕方の4時を回った頃だった、夕食の準備をしている母の後ろ姿、テーブルには夕刊と父、いつもの風景…
真也君との約束を果たしたことで、久しぶりに父と話をしたような気がした
母は、ほとんど夕食の準備ができていたのに、食卓に追加できるよう、魚の下処理に取りかかった。夕食は、魚がきっかけになって、昔、家族で釣りに出かけた事や一美には記憶がないような話も聞くことができた
母が作ったサバの煮つけは、いつもの味付けなのに美味しいく感じたのが不思議でたまらなかった…食事が終わると、父が改まった
「一美も、仕事始めて一年以上がたったな、仕事はどうだ?」
「父さんが言ってた、学生と仕事は違うっていうことが、少しはわかってきたかもしれません」
少し笑みを浮かべながら言った
「そうか、また一緒に釣りにでもいってみるか?」
一美の心境がどうであれ、約束は交わされた
――――――――
父との約束は、予想よりも早く訪れた、約束はしていても、お互い仕事があると、なかなか都合や気分も合わないものだが、週が明けてすぐに再来週の日曜と言われ、断る理由もなく約束は交わされた。父は再来週の約束をした翌日から、物置の奥から釣り道具を引っ張り出してきた、あれから毎晩、準備をしている。
こんな父親を見るのは初めてだったーー
――自宅を4時に出発することになり、父と一美は早寝をした。
父と二人の空間になることが、中学以来だった、部屋で二人の状況には耐えられそうになかったが、車内だと、なぜかそれほどの気持ちにはならなかった。
・・・・・・・・・・・
「父さんも、久しぶりの釣りが楽しみだよ、母さんも気合入ったみたいだな」
そういうと、顎で後部座席を見ろと言われた、そこには中身は見えるはずもないが、二人分とは思えない大きさの弁当の包みが置かれていた。
「あれ、弁当だったの?すごいな・・・でも母さんの弁当食べるのも久しぶりだな、運動会とか?思い出しちゃうかも」
真也君と行った漁場ではなく、父の行き付けがあるらしく、久しぶりの父の助手席は、途中でウトウトしてしまったが、父はそんな僕を自然のままにしてくれた。
・・・・・・・・・・
「おい、一美、着いたぞ、起きてるか?寒いかもしれないぞ・・」
目を覚ますと、車は待避所のような所に路駐するように止められていた。まだ日は登っていなくて、暗くてここがいったいどこなのか全く見当もつかなかった、寝ていたせいのもあって、どれくらいの距離を走ったのかもわからなかった。
ドアを開けた瞬間に潮味の冷気が突き刺さる
「さむっ・・こんなに寒い?」
「もう一枚着とけよ、下はもっと寒いかもしれないぞ、日が昇るまではな・・」
真也君と行ってから1ヶ月程しか経っていなかったが、急に寒くなった気がしたが、それが余計遠くまで来た感覚になった。
荷物を下ろして、父が向かおうとする先を見ると、さすがに獣はいないだろうが、人が通る事でできた自然の道は、海へと続いているらしい。
父の後に導かれて、蜘蛛の巣や、父が通った反動の枝や草と格闘していると、風の隙間から聞こえ始めた波の音が海の存在を知らせてくれた、徐々に波の音が大きくなる、それが鮮明になったところで道が開けた。
時間もわからないまま、うっすらと海と岩場の輪郭と遠くに見える山がシルエットの様に見えるだけの場所は、どんな所なのか、やはり想像さえもできなかったが、父と一緒だと疑問にすらならず言われたままになっていた。
「さぁ、支度するぞ、ここは砂場と日陰があるから、シートを引いて荷物はここに置いておこう。釣りをするのは、岩場まで歩いて行かなきゃなんねぇからな、釣り道具だけ持っていく事になるぞ」
微かな陰影の中、手探りの作業が始まる
小さい懐中電灯を父が照らすと、それだけの中を父だけが手早く動き始めた、一美も真也くんの時の反省を活かして準備を手伝うが、また竿にリールを取り付ける専門になってしまった。
ある程度の支度を終えてからも言われるがままの荷物を背負った。
・・・・・・・・・・・・・・・
歩き始めても父は小さい懐中電灯の光で迷いなく歩く、その歩き方からここには父が何度も来たことがある場所なのは間違いないと思った。
「ここからは、ゆっくり行くぞ、足元しっかり見て着いてこいよ」
俺も子供にこんなことが言えるだろうか?と思える言葉だった。
何度も言われてきた様に感じたが、今までと同じ様には聞こえなかった。
暗くてよくわからないが、真也くんと行った時の竿や仕掛けが全然違う。
「父さん、今日は何を釣るの?」
「磯だからな、当たればデカいかな」
ワクワクしている父を見るのも久しぶりだ、自然な岩場には白く泡立つ波が打ちつけ、のぞき込むのも怖いくらいだった、こんな場所で釣れる魚は何なのか、一美には想像すらできなかった。
そこへ真也くんとの釣りと比べて、明かに太かったり、大きかったりする竿と糸は足元に投げられる、
赤い浮きがついた竿は、3回目で父の合格がもらえた。足元の太い竿は父が常に構えて、引き上げては餌を変えて撒き餌を巻く地道な作業を繰り返す、徐々に日が昇る、防波堤やテトラポットもない視界が開けていき、それ以外の人工物は見当たらない自然の形しかない風景に父と2人だけの空間に鳶が空を飛んでいた。
・・・・・・・・・・・・・・・・
父とはケンカどころか、言い争いさえしたことがなかった。高校を父と離れて過ごし、社会人となっただけで生じた異物は、急に小さくなった。
・・・・・・・・・・・・・・・・
父の地道な作業は昼まで続けても魚が釣れることはなかった、赤いウキが反応するたびに一美が釣り上げたが、試験官の前でリールを巻いた気分だ。そしてリールの使い方ではなく竿の使い方が重要であることを午前で学んだ
――――――――――
釣り道具は、そのまま岩場に置いたまま、弁当を置いた木陰に戻る事にした。
「さぁ母さんの弁当開けてみるか?」
「うん、お腹すいたよ、でもなんで母さん付いて来なかったんだろう、一緒に来れば良いのにね」
「さぁな・・・気を使ったのかもしれないな・・」
「そうか、こんな岩場じゃ母さん危ないもんね」
父は優しく微笑んでいる様に見えたが、何も言わずに弁当の包みを開け始めた
・・・・・・・・・
大きさの期待通りの母の弁当は、やっぱり運動会を思い出させてくれて、父と2人でそれを食べる違和感は不快ではなかった。
「ところで、ここに俺って連れてきてもらったことある?」
「いつだったかな・・・はっきりおぼえてないけど小学校入る前かな?3歳か4歳くらいってとこかな、俺は釣りをして・・・お前と衣里奈を母さんが・・ちょうどここで遊んでたぞ、まぁ、小さかったからかな、衣里奈はおぼえてるかもしれないな」
―――姉への嫉妬も久しぶりだ―――
「全然、おぼえてないや、姉ちゃん元気にしてんのかな・・」
「なんだ、お前んところに連絡ないのか?月に一回は電話があるぞ、知らなかったのか?」
「自宅の電話に出ることなんてないから、それに俺のことなんか忘れてんじゃないの?」
「馬鹿野郎、電話ではお前のことも心配してたぞ」
子供同士仲良くしていて欲しいという、単純な親として言ってるだけの言葉として耳に入っただけだった。
(そんなわけない、あの姉ちゃんが俺のことを心配するなんて・・)
姉は、高校在学中に調理師免許を取得して、保育園の調理場で働く事になったが、もちろん富宮市は少子化で保育園も市内に一カ所しかなかった、そのまま他県の保育園で働くようになってからは、正月に顔を合わせて以来、会っていなかった。
そんな思いの中、父から
「ところで、働くようになって一年以上たつが、貯金できてるのか?」
初めて金の事を聞かれた。
「給料も少ないし、少ししかできてないよ」
約一年半で20万程、貯金をしたが、金額までは恥ずかしさだけの気持ちではなく父には言えなかった。
「そろそろ車が欲しいんじゃないか?」
これには流石にドキッとした...
真也君と釣りに行ってから、車の雑誌を買っては、部屋で眺めながら妄想していることが、バレたのかと思った。
「そりゃね、車は欲しいけど、まだとても買えないよ」
「そうか・・・」
緊張感はあったが、父とも車の話ができるかもしれないと期待もした、しかしそれだけ言って父と車の話になることはなかった。
――――――――――
午後の釣りが再開しても、父の竿には反応がなかった、それどころか赤いウキの反応もしなくなった、真也と行った時と同じ状況になったが、父もわかっていたかのようにしている。
一美は、完全に飽き始めていたが、父には帰ろうとする雰囲気が全く感じられなかったので、何時に帰るのかの質問さえも遮られた気分だった。
―――3時30分を過ぎて、風がさらに冷たく感じた頃
「ここからが勝負かもな・・・」
独り言のように、父がつぶやいた。
父の集中力と執念を見て、釣りのことよりも、父が普段、どんな仕事をしているのか気になった。
――無口の父が沈黙する・・そして・・・
ついに父の竿が大きく曲がった!!
「お前は・・・タモだけ・・準備してろ」
父の表情で、魚が引っ張る力が、どれだけ強いかが伝わってくる。父の格闘は10分以上続く、感覚的には倍以上の時間だ。
「そろそろ頼むぞ、のばしておけ」
タモが伸縮する仕掛けになっていて、伸ばすと白波が立つ海面までギリギリ届く長さだった。
「さぁ、上がってくるぞ、頭から入れるんだ」
白い波に浮き上がる、黒く大きな魚は、父が竿でタモの方向に誘導するが、打ち続ける波が邪魔をしてなかなか入らない、何度も頭をめがけて入れようとするがうまくいかない、恐怖心で腰が引けて余計に力が入らない、父は竿で手が空くはずもなく、これは一美が一人で何とかしなければならない。
「大丈夫だ、針はしっかりかかってる、落ち着け・・・さぁもう一度・・」
波のタイミングと父が寄せてくれるタイミングが合った、そこにタモのタイミングを合わせることに成功した、タモ網の中に魚が入った途端、動かすことができなくなった。
「そのまま持ってろ!」
父は竿を置き、タモを縮めながら岩場の上まで引きあげる。魚との戦いは数分程のはずが凄く長く感じた。上がった瞬間の父と上げた歓声は忘れられないものとなった。
「これなに?すげーでかいんだけど、なにこれ?」
想像とは全く違って、驚きと興奮しかなかった。
「石鯛だよ、父さんも今までで3回しか釣ったことない、これで4回目だ、釣りたかったけど釣れるとは思わなかった」
黒い魚体に、銀色のようなシマ模様がうっすらと入っていて、口ばしの様な歯が怖さも感じるほど強烈な存在感だ。
「こ・これ・・・はぁ・過去最大だわ・・・70間違いなく超えてるわ・・」
父は息を切らしながら、岩場に横たわる石鯛を立って見下ろした。
―――――――
釣り上げた後の記憶がない・・・帰り道の車内は寝てしまってどうやって帰ったのかもわからない、あの海は・・・
現在の一美も、どこだったのかわからないままになってしまった。
もう一度あのシルエットが見たい、浮かび上がる風景は、ゆっくりと変化していく影絵のようにも見える
なぜ父に詳しく聞かなかったのか・・・・いや・・・何度か聞いたはずだった、理解ができなかったのか、深く刻まれた思い出のはずなのに、今では夢の中の出来事になってしまった…
帰ってから、石鯛を食べてみたかったけど、すぐ食べずに寝かした方が良いと言われて、残念な気持ちになったことは憶えている・・・
石鯛との武勇伝を親子で母に報告をした・・その時、父の顔を見ながら微笑む母の顔も、今でも目に焼き付いてる…
今でも…
前半
一章ごとが長くてすみません
読みにくいかもしれませんが
宜しくお願いします!