第1話
久しく感じた刺激に多少の嫌悪感を覚える。未だ衰えぬ激情が、そうさせたのだろうか。風に撫でられた頬を形を歪めた口が持ち上げる。
俺は喜んでいるのかーーーーーーーー
受容しがたいその事実に抗うように、眉間にシワを寄せ虚空を睨み付けた。
「もう戻ってくるなよ」
ふいに放たれた背後に立つ男の言葉が俺の耳を通じて脳内で反芻される。
その一言でゴブリンのような形相が一転、間の抜けたものになる。
そうか、俺は喜んでいいのだ。喜ぶべきなのだ。あれだけ待ちわびた日が今日だということに気付いていなかった事が滑稽で吐き捨てる様に笑う。
「ありがとな」
この五文字に含められた意味を正しく理解してないであろう男が、満足げに微笑んだ気配を感じ心の中で嘲るが、すぐに興味を失い澄んだ空を仰ぐ。
ようやくだ。俺から全てを奪ったあの女に代償を支払わせる時が来た。
歓喜と覚悟に拳を握り締めると僅かに空間が揺らいだ。
第1話 放たれた巨悪
監獄の外は林だった。真っ直ぐに生える木々が収容されていた牢の鉄格子を想起させたが、自由の身となった今はそれが愛おしくも感じられる。
「そういえばここはどこなんだ?」
行動前の現状把握の重要性を知る俺は後ろを振り返ると男に問うた。しかし男は申し訳なさそうな表情を浮かべ答える。
「すまないが質問には一切答えられない。そういう決まりでね」
いっそ暴力の前に洗いざらい吐かせようかとも思ったが、再び監獄に囚われてしまえば復讐は遠ざかる。忍耐の重要性すら知る俺はため息1つで気持ちを切り替えるとその場を離れた。
林の中にあった明らかに人の手の入った道を進み続けてまもなく、開けた草原へたどり着いた俺は舗装された道を見つけ、適当な方向へと進んでいた。日も落ちかけた頃、道から少し外れたところで野営の準備を終えたのであろう2つの人影を見つけた。
ーーーーーーーー女だ。しかも2人。
その瞬間、抑圧されていた怒りの感情がその支配体制を逆転させる。気が付いたら駆けていた。いや、駆けていることにすら気付いていないのかもしれない。為すべきを為す、ただそれだけでいい。
幸い奴らは背を向けていてまだこちらに気付いていない。
「ウォォォォォォォォォォォォ!!!」
咆哮し、右手を振り上げる。
虚をついた一撃でまずは1人葬り去ることに成功したと確信したその時、
「あーダメだよ。不意打ちで声を出しちゃ」
急に反転した女に振り下ろした拳はあっけなく止められてしまった。それに動揺し見せてしまった隙が致命的なものであると気づいた時には女は体勢を低くして反撃の準備に入っていた。
見え透いた足払いに対処しようと意識を向けたその時、
「上段だよぉ」
突然脚の軌道が跳ね上がり顔面へと迫る。
とっさに後ろに飛び退いた回避の代償は頬の薄皮1枚が支払った。
「警告してあげなかったら今ので首獲れてるけど…大丈夫?」
侮られ、かけられた屈辱的な言葉にさらに怒りが沸き上がる。
今度こそ肉塊にすべく地を蹴ろうとしたその時、
「ちょっとちょっと、二人とも落ち着いて!」
側で見ていたもう一人の女が俺達の間に割って入る。
「パディ、かいぶつみたいな見た目だけど彼はギリギリ人間だよ。あなたも、いきなり襲ってくるなんてどういうわけ?」
「逆だよメイチャ。彼は人間みたいな見た目だけどギリギリかいぶつなんだ」
2人のやり取りの間抜けさと、突然の襲撃の動機の言語化を求められたことで冷静さを取り戻した俺は、自身に非がないことを弁明するために咄嗟に言葉を紡ぐ。
「お前らが女なのが悪いわな」
「ほら、仮にあれが人間だとしても別に倒してしまっても構わないでしょ?」
パディと呼ばれた女が物騒なことを言う。監獄暮らしの間に人々の道徳は失われてしまったのか。
そんなことを考えていたら割り込んできた女が笑顔をこちらに向ける。
「そうかもしれないけど…ねぇあなた、お互いに誤解があると思うんだ。まずは話し合ってみない?」
話が通じそうな奴がいて助かった。
「話が通じそうな奴がいて助かった」
女は満足そうに頷くと少し離れた位置にあるテントの方向を指差した。
「じゃ、決まり。日が暮れる前に食事も済ませちゃおう」
先程は建てられたテントのつくりだした死角のせいで気付けなかったが、どうやら女2人の他にもう1人男がいたようで、彼は座りながら火にかけられた鍋をかき混ぜていたが、こちらを向くとその手を止め少し驚いた様子でゆっくりと立ち上がった。
「あれ?お客さんだったの?」
「いや、ボク達が女だから襲ってきたギリギリ人間の変態」
蹴りも言葉も鋭い女の言葉に苦笑いしながら男は目線をこちらへ移す。
「ごめんね、彼女はすぐ人を煽るんだよ。でもちょうど良かった。出来たばかりだからさ、料理食べていってよ。」
監獄から釈放され、半日近く歩き続けた俺には自身の空腹を満たす術は無い。思考効率の低下した現在でも、ここは誘いに乗るべきだという結論にはすぐに至れた。
「そうしよう。これは、俺が決めたことだ」
鍋を囲むようにして座った俺たちに、男は料理を取り分ける。
受け取った器に注がれた白濁色のデロデロとしたソースには得体の知れない肉と、様々な野菜が色彩めちゃくちゃに沈んでおり、香りはやや甘ったるいものであった。
意を決して啜る。その瞬間に感じた衝撃に目を見開く。
「どう?口に合うといいんだけど」
返事もせずにさらに器を傾ける。
口内に流れ込んでくる熱いソースと色とりどりの野菜や肉。それらを一気に頬張り、咀嚼し、味わう。
口に合う?そんな次元じゃない。
これが合わない口になんて価値が無いと言えるだろう。食材の旨味が溶け込んだソースと筋肉質で野性味があるが柔らかく臭みの無い肉、軽く噛むだけでほろほろと崩れ甘みを広げる野菜たち。これは、それぞれが引き立て合った料理というよりは、支え合って作り上げられた作品と言える。優しい味という概念の体現。完成品がここにある。
あまりの美味しさにこぼれた涙が料理に混ざりそうになる。
「あぁ!だめだ!!やめろ!!!」
咄嗟に器をずらし、すんでの所で余計な塩味が足されることを阻止する。
危機を回避し安堵した俺は、守護した残りの料理を堪能すべく器に目をやるが、絶望する。
そこにあったものは、いや無いと言うべきか勢いよく動かしたせいで中身の零れ落ちた空っぽの器だった。
「ウォォォァァァァァァァァァァ!!!」
あたまとこころがぐちゃぐちゃになる。
この慟哭も、俺を守ってはくれないだろう。
視界が揺らぐ。意識が薄れていく。肉体の制御を失い、重力に逆らえず倒れる。
「やっぱり彼、かいぶつなんじゃない?」
最後に聴いた言葉の意味も理解しない内に、俺は気を失った。