新学期のはじまりと紗季の罪
夏休みが終わった。
夏の暑さがまだギンギンに残る道を歩いていると、なんだか現実感がなくなってくる。あの冷たい洞窟の通路を歩いていた時のほうが現実だったかもと思えてくる。
学校に着くと、ふつうにみんなが登校してきていた。勝太はふつうに校門を潜った。各教室の扉を開けるとモンスターがいるなんてことはありえない、ふつうの廊下を歩き、自分の教室の前に辿り着いた。
扉を開けるとふつうにクラスメイトたちがいた。ある者は静かに席に着き、ある者たちはグループで騒いでいる。
目で探したが、紗季の姿はなかった。
後ろから背中を叩かれた。
「オッス! オラ、ゴクウ!」
勇吾だった。
「そういえば『スライムハンター』の中でおまえ、そんな名前だっけ」
「おう! ゴクウとしてバシバシ活躍してきたぜ! 楽しかったぁ!」
笑顔でそう言うと、勇吾は教室を見渡した。
「紗季ちやん、来てねーの? お礼言わなきゃ」
「怖い思いしたんじゃなかったのかよ」
「最初はな。でも、まさかあんな展開になるとは思わなかったからな」
勇吾のところにも開発者が助けに来たらしい。
最初は襲いかかってくるモンスターから逃げ回っていた勇吾も、開発者の『すらたん』さんが仲間になってからは、ゲーム世界をリアルに楽しみ、クリアした時には世界の英雄気分だったそうだ。
クラスの他のみんなもそれぞれの好きな世界に送られたはずだ。みんなとても楽しい思いをしたような、スッキリした顔をしている。
勝太はといえば、複雑な気分だった。
他のみんなは単に好きな世界に送られただけだが、勝太だけは知っている。紗季が、みんなを、殺そうとしたことを。
担任教師が入ってきた。紗季はまだ登校して来ていない。
「白銀は風邪をひいて休むと連絡があった。他は……全員来ているな」
戻って来なかったやつは一人もいなかった。全員死ぬことなく、現実世界に生還していた。
だからといって勝太は紗季のことを許す気にはなれない。
『風邪なんて嘘だ。あんなことをした以上、学校に来にくいんだ……』
勝太は考えていた。
『今日、帰りにあいつの家に行ってみよう。お見舞いを口実にして』
女子の家に行くのは少し抵抗がありはしたが、自分には紗季のところに行く理由があると思った。
むしろ行かなければならないと思っていた。
みんなの話し声が耳に入ってきた。
「紗季ちゃん、休みかよ」
「お礼を言いたかったのにな」
「それにしてもあんなことが出来るなんて、白銀さんて、超人?」
「あたし、異世界に転生して悪役令嬢になれたんだよ。王子にざまぁしてやって、スッキリしたぁ」
ちょうど先生から渡してほしいプリントがあると言われ、預かった。
住所を聞き、スマートフォンの地図アプリを見ながら勝太は紗季の家に向かった。
「……ここ?」
家が病院だということは知っていたが、思ったより大きな病院だった。まるで総合病院のようなおおきな建物で、個人病院には見えない。
インターフォンを押すと、女のひとの声がした。
「はぁい。どちら様?」
「さっ……紗季さんの戦友……じゃなくて友達です。風邪で休んだって聞いたんで……」
おばさんの看護師さんが出てきて、二階に案内してくれた。
薬臭い白い階段を上がり、角を曲がって最初の部屋がそうだと言うと、おばさんは下へ降りていった。
しーんとしていた。
勝太の生唾を飲み込む音が白い廊下に響いた。
木のドアに小さなプレートがかけてあり、かわいい文字で『Saki』と書いてある。
勝太はそのドアをノックした。
返事がないのでもう一度ノックすると、中から犬の荒い息が聞こえてきた。
「サキ? 俺だ、ショウタ。入るぞ?」
やはり返事がない。
なんだか嫌な予感もして、勝太は構わずノブを回した。
鍵はかかっていなかった。
ドアを開けるとおおきな白い犬が助けを求めるように出てきて、すぐに部屋のベッドのほうへくるりと戻る。ベッドに紗季の寝姿があり、その左手首からドクドクと、赤い血が流れていた。
「おい!?」
びっくりして勝太は駆け寄った。
「なんだよ! おまえ、死んで罪が許されるとでも思ったのかよ!?」
紗季は目を閉じ、右手におおきなカッターナイフを握っている。
下の階に知らせに行こうかと踵を返そうとすると、後ろから紗季の声がした。
「あんたバカ? 人間、こんなもので死ねやしないわよ」
「生きてたか!」
「私様がなんで死ぬとか思ったの? あんた、ほんとうの私のこと知ってるでしょ?」
「ああ……」
勝太は紗季の手首から流れ出る赤い血を見つめながら、うなずいた。
「みんなは天使だと思ってっけど……ほんとうは悪魔……と天使の中間の、人間だもんな」
「違うでしょ!」
だるそうにベッドに伏せたまま、紗季が勝太を睨む。
「私様は、くだらないひとたちとは違う、価値ある人間よ! 人間を超えた人間なの!」
「そんな価値ある人間が……」
勝太は声を震わせた。
「……なんで、自殺を?」
「違うってわかったのよ」
「違う?」
紗季が泣きそうな顔をしたように見えた。それを右腕で隠すと、青く見える唇で、言った。
「私……、もう学校に行けない。あんなことをしても、この私なら平気でまた学校に行けるって思ってたのよ。自分はそんな、超然とした人間のつもりだった。……でも、行けないんだもん」
紗季の左手首から流れ出る血が止まらなかった。白いベッドには既に赤黒い染みが広がっている。
「おまえのお父さん、呼んでくる!」
「待って!」
呼び止められたので仕方なく振り向くと、紗季は泣き顔を隠そうともしないで勝太を見つめていた。
ひどい顔だと思った。少なくともほんとうの彼女を知らなかった頃には見たこともない紗季の姿だった。
茶色いロングヘアーは乱れに乱れ、透明な鼻水が小さな穴から垂れていた。汗でびっしょりの肌は臭気さえ感じさせ、パジャマの襟から鎖骨が見えているのにドキドキすらさせなかった。
「私……、自分は世界を変えられるほどの人間だと思ってた」
紗季が顔を歪ませ、喋った。
「でも……。あんたがくらげどんに潰されて、死んだと思った時、私、思い知ったわ。自分は、ただの……どうでもいい人間の死さえ悲しんでしまう、ただの、ふつうの人間だって」
「どうでもいい! お父さん呼んでくる!」
「待って!」
「なんだよ!」
「お願い……。言って?」
「何をだよ!」
「一言……『許す』って」
勝太は許さないつもりだった。
しかしそう言われて、心がぐらついた。
ただ、急いで早口で、今日学校で見た事実を沙希に告げた。
「みんなおまえにお礼が言いたいんだってよ。楽しい世界に送ってくれて、ありがとうって。だから学校に行くことは怖がらなくていーよ」
「あんただけは知ってるじゃない」
「うん。そうだな……」
勝太は紗季を見た。まじまじと、見た。
入学の時から憧れていた彼女は、幻想だった。
今、目の前にいる現実の紗季を見ながら、痛切なまでに、自分の気持ちを思い知った。
『なんだ、コレ……』
勝太は自分の胸に手を当てた。
『なんで前より好きになってんだ?』
そして縋るように自分を見つめている紗季に、神様のような喋り方で、口にした。
「俺がおまえを許すよ」




