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ドライヤーガン戦士シリーズ④キヨラ後編

開始日21.09.01.

「タカラ」「キヨラ」この話は三好と錦戸の「タカラがサクラを殺す」「タカラがサクラとレズ」という二次創作を阻止する為に生まれたお話です。

体験談と聞かされる悪口で私を殺す名前の人をシャッフルして、イメージは違うけどdramaticに仕上げてもらいました。なのでご注意を。

元々代筆屋さんを頼んだのは、「キヨラ」は小野と「タカラ」は錦戸にゲシュタルト崩壊させられたからです。

終了日21.11.27.

挿絵(By みてみん)

093

それから数日後。学校を休み始めて既に一か月が経過していたが、未だにトオルの体形が戻る気配はなかった。トオルは少しだけ慣れてきた体を引き摺って、リビングへと向かう。最初は食べるのも嫌だったけれど、元々術のせいで太っているのだから食べても食べなくても見た目は変わらないのだと言われてからは、必要最低限は食べるようにしている。「私、これからどうなるんだろう……」膝を抱え、呟く。いつの間にか勉強もする気も起きなくて、気が付けばこうして足を抱える日々。どんどんと沈み込む感情が嫌で嫌で仕方ないのに、それが更に気分を落ち込ませる要因になっている事には、トオルは気づいていなかった。——その頭上で漂う、黒い霧の存在にも。



094

そんな中、「人間関係破壊の術」を掛けることに必死なようこは、執拗にキヨラを追いかけていた。


しかしキヨラは、『妄執』に憑かれないように術にかかった人間たちのメンタルケアをして回ることで、それを未然に防ぐばかり。自分だけではない、周囲の怒りをコントロールするキヨラにようこは更に躍起になった。だが、中々成果が出ないまま幾日もが過ぎ、ようこは遂に痺れを切らせた。怒りに任せて術を放とうとしたその時──彼女の目にトオルの存在が映った。窓から僅かに盗み見える彼女が以前に掛けた術を立派に育てているのを見て、ようこは途端上機嫌になる。「初めからこいつを使えばよかったじゃない」ようこはそう口にすると、トオルへと歩み寄っていく。窓に触れようとして……彼女は手をとめた。何とタイミングのいいことか。獲物であるキヨラが扉から姿を現したのだ。彼女がトオルへと微笑みかける様子を見て、ようこはニンマリと笑んだ。——神は自分に味方したようだ。



095

「トオルちゃん」「いらっしゃい、キヨラちゃん」トオルが歪な顔で微笑む。トオルの頭上で揺れ動く黒い霧を見て、キヨラは泣きそうに顔を歪めた。初めて見るその“弱弱しさ”に、ようこは確信を得た。——彼女こそが、トリガーであると。「キヨラちゃんはいいわよねぇ。スタイルがよくて」口に出した術は透明なガラスを突き抜けて、トオルの耳へと入っていく。ふくよかな肩がピクリと揺れる。トオルの口が僅かに開き、そして無理矢理閉じられた。抵抗しているのだ。ようこは歯を噛み締め、再び口を開く。「私はこんなに不幸なのに、キヨラちゃんは幸せそうでいいなぁ」「っ」「キヨラちゃんも、私と一緒に不幸になっちゃおうよ」「ぁ……」ようこの再三の誘惑に、遂にトオルが声を零す。それと同時に、キヨラがようこの存在に気が付いた。「『粉々にするマシン

ようこ』……! いつの間に!」「ふふっ。貴方達の友愛も、粉々にしてあげるわ!」ようこは高笑いをし、再び術をかけ始めた。

096

「キヨラちゃんも一緒に、みんなで不幸を分かち合おうよ」「キヨラちゃんがいないなんて、寂しいよ」「一緒に地獄へ堕ちよう?」歪な猫なで声で、ようこはトオルの心へと語りかける。キヨラだけずるい、一人は寂しい、と。トオルの口からそれが放たれる度、頭上に会った靄が更に大きく広がりを見せた。トオルの頬に涙が伝う。「ごめん、ごめんねキヨラちゃん。こんなこと、言いたくないのに……」遂に泣き崩れたトオルに、キヨラは込み上げる憤りを抑えることが出来なかった。

097

「やめて! これ以上トオルちゃんを侮辱しないで!」「嫌よぉ。こんな都合のいい人間、そういないもの」「き、さまぁ……ッ!!」上機嫌に笑うようこに、キヨラは怒りに身を震わせた。キヨラはgunを持ち、ようこへと狙いを定める。ようこはその姿に不気味な笑みを浮かべると、再びトオルの耳へと術を乗せた。「キヨラちゃんはいいわよねぇ。一人だけ幸せだなんて」「友達なんだから、不幸も分かち合うべきよねぇ?」ようこの言葉の数々に、トオルの目が見開かれる。握り締められた手が、白くなっていく。キヨラはトオルの隣に座ると、乱れた髪を優しく撫でた。その温もりに、トオルはハッとした。その瞳には、今にも零れ落ちそうなほど大きな涙を携えている。



098

キヨラはそんなトオルに微笑むと、ようこを睨みつけた。「……あなたがどう思っているかは知らないけれど、私にとって、あなたが壊そうとしてきた関係は全部大切なものなの」「なぁに、そんな事ぉ?

知ったこっちゃないわよ」ようこはそっぽを向いて続ける。「私は全てを『粉々』にするのが好きなのよ。知っているでしょう?」「それこそ知ったこっちゃないわ!」飄々としたようこの様子に、キヨラは激高した。「確かに私だって、本当は嫌われているんじゃないかって思う事はあるけど……そういう人たちの意見を聞くのは大切な事だって、気づいたの」「ハァ?

何を言っているのかしら。人の意見を聞くなんて馬鹿のする事よ」「バカなんかじゃないわ! 人と関わる事は大切な事よ!

ぶつかるのだって、相手を知りたいからぶつかるんじゃない!」「フンッ。そんな世迷言を言っているから、その“大切な友人”に裏切られるのよ。ねぇ——トオルちゃん?」「ッ、!」ようこの呼びかけに、トオルがゆっくりと顔を上げる。彼女を取り巻く黒い霧は、最初に見た頃よりも更にどす黒く、重みを増していた。このままいけば、確実に“妄執”にとりつかれ、キヨラを取り込むことが出来るくらいに大きく鋭く変質するだろう。



099

ようこは嗤う。心から、何よりも邪悪に。しかし、その笑みすらもキヨラには利かなかった。キヨラはそう微笑むと、ようことトオルの間に立ち塞がった。「大丈夫だよ、トオルちゃん」「キ、ヨラ……ちゃん」「必ず助けてあげるから」全くもって綺麗な友情に、ようこは虫唾が走る。……こういう、“いかにも”な関係を見ると、粉々にしたくなる衝動に駆られるのだ。「その子も結局、周りの人間と同じ。人間はすぐに裏切るのよ」「トオルちゃんは違うわ!」「あなたが知らないだけよ」「そうだったとしても、私はトオルちゃんを信じてる!」「チッ。面倒くさいガキね!」決して折れないキヨラにようこは忌々し気に舌を打つと、次なる術を掛けるために息を吸い込んだ。それをキヨラは見逃さなかった。構えたドライヤーガンをようこに向け、狙いを定める。「トオルちゃんを侮辱したこと、絶対に許さないわ!

死んで侘びなさい!」「何を今更ッ!」ようこが声を上げるのと同時に、キヨラは引き金を引いた。その威力は今まででも一段と大きく、強い。ようこは予想外の威力に、逃げるのが遅れてしまった。

100

「きゃああああッ!!」甲高い悲鳴と共に、光に当たったようこがのたうち回る。忌々し気にキヨラとトオルを睨みつけたようこは、自身の消えゆく体で彼女に向かって吐き捨てた。「はれあけ様の後継者はまだまだいるわ!

アンタなんて直ぐに誰かの元に取り込まれる!

せいぜい恐怖に震えていなさい!」蒸発する体で叫ぶようこを、キヨラは黙って睨み続けた。揺らがないその視線が居心地悪く、腹立たしく……どこか眩しくてようこは視線を逸らした。消滅していくようこは、彼女が妄執であることを示していた。



101

ようこを鋭い目のままで見送ると、背中の服をきゅっと握られる。こつりと背中に当たるのを、キヨラは感じとった。背中に感じる生温かい感覚に、キヨラは激高していた気持ちが徐々に落ち付いてくる。「……ごめんね、キヨラちゃん」「ううん。私も、気づかなくてごめんね」「そ、んなこと、ない。キヨラちゃんはちゃんと助けてくれたもん」「……うん」「ごめんね。私がもっと強ければ……ごめんね……」黒い霧が霧散していく。泣き崩れるトオルに、キヨラはなんと声を掛けたらいいのかわからないまま、ただただそこに座り続けていた。

102

泣きつかれて眠ってしまったトオルに、キヨラは優しく微笑む。「……私が絶対守ってあげるからね」泣き腫れたトオルの瞼を撫でる。自分勝手な約束だったとしても、口にしなければ彼女を失ってしまうような……そんな気がしたのだ。





103

ようことの戦いを終えたキヨラは、悩んでいた。内容はもちろん、トオルの事。中々見つからない解除方法に手を焼いているのもそうだが、それ以上にトオルとの距離感に悩んでいた。トオルの事が嫌いになったわけではないのだが、如何せん、彼女にしてもらったことに自分が応えられていないのではないだろうか、という不安が徐々に強くなってきていたのだ。ようこの時も、ゆづるの時もそうだ。トオルが居てくれたから、勝てた。だからこそ、キヨラは彼女に対して何かをしてあげたかったのだが……力不足を目の当たりにして肩を落とす日々が続いていた。そんな時だった。



104

「初めまして。よろしくお願いします」——転校生だ。秋も後半になり始めた、珍しい時期にニコリと笑って教室へと入って来た男子生徒に、女子から黄色い悲鳴が上がる。整っている顔に、整えられた髪。話し方も優しく、同級生にしてはどこか大人っぽい。世の中の“美男”というのは、まさに彼の事を言うのだろう。そんな事を思いながら、キヨラは隣の席へと座った転校生へと笑みを浮かべた。「よろしくね。何かわからない事があれば、遠慮しないで聞いて」「助かるよ。よろしく」ニコリ。優しく微笑む彼にキヨラは好感を持ちつつ、まだ手にできていないという教科書を見せる為、席をくっつけた。美男美女の背中に、クラス中が『お似合い』だと持て囃すまで、そう時間はかからなかった。



105

クラス中の女子の視線に晒されながら、転校生——『全て逆解釈するマシン わたる』は、笑顔の奥でほくそ笑む。彼はキヨラを付け狙う『陰陽師

はれあけ』の候補者の一人だった。数日前、蒸発してしまった候補者の話を聞き、今度は自分の番だとキヨラに近づいてきたのだ。


『全て逆解釈するマシン わたる』は、キヨラを自身の狗神にして使役しようと考えていた。彼女が狗神にさえなってしまえば、自身への脅威が無くなる上、候補者として頭一つ抜き出ることが出来る。それはわたるにとって、大きく意味のある事だった。だからこそ、こんなに面倒な手続きまでして彼女と同じ学校に忍び込んだのだ。そしてわたるの作戦は、上手くいったも同然であった。隣で呑気に教科書を覗き込んでいるキヨラを横目に、わたるは静かに術を練り始める。授業に集中しているらしいキヨラは、気づく様子はない。わたるはゆっくりと口を開いた。

106

「ねぇ、紀眞さんは将来、何かなりたいものとかあるの?」「どうして?」「熱心に授業聞いてるみたいだったから」キョトンとするキヨラにそう告げれば、彼女は何の疑いもなく自分の夢について語り始めた。「みんなに愛される読者モデルになりたいの」と嬉々として話すキヨラに、わたるは込み上げる笑いを必死に堪える。敵に向かって、なんと無防備なことか。




「でもそれって本当に君に合ってるのかな?」「えっ?」「だってそうでしょう?

僕は君に読者モデルが務まるとは思えないもの」「なっ……!?」驚きに見開く目を見て、わたるは心底悲しそうな顔を浮かべる。もちろん、心の中では嘲笑を浮かべているのだが。「もしかして初めて言われたのかい?

君の周りの人間は随分薄情なやつらばっかりなんだな」「そ、んなことないわ。みんな優しくて、応援だって」「本当にそうかい?」「っ、!」「本当に、周りの人達は心から君を応援してくれてるのかなあ?」心底不思議そうに首を傾げるわたるに、キヨラは息を飲む。心臓が握り潰されるような感覚に、キヨラは大きく顔を歪めた。悲しそうな顔に満足したわたるは、響くチャイムに席を立った。「まあ、僕は構わないけど。身の丈にあった将来を描くことをおすすめするよ」わたるはそう言い捨てると、教室を後にした。術を仕込んでしまえば、後は彼女が自ら人間不信になって堕ちてくるのを待てばいい話だ。






107

夕方。トオルは自らの足で、学校への道を歩いていた。ダイエットも兼ねた登下校は、トオルの重い体にはとてつもない負荷がかかる。だが、いつまでも甘えてはいられない。トオルは慣れた登校の道を歩いていくと、校門をくぐった。刹那。良いとは言えない視界に入り込んだ光景に、驚く。


——それもそのはずだ。目の前には、想像すらできないほどボロボロになったキヨラが、暗い木々の間でひとり孤独に座っていたのだから。「キヨラちゃん!」トオルは咄嗟に駆け寄った。しかし、振り返ったキヨラの言葉に、トオルは足を止める。「来ないで!」「キヨラ、ちゃん……?」おかしい。そう気づくのに、時間はかからなかった。綺麗な服は泥で汚れ、凛とした瞳は濁り、怯えに染まっている。初めて見るその光景に、トオルは一瞬夢なのでは、と思ったが、それは聞こえた声に、霧散した。

108

「ハハッ! 随分ヤワなお子ちゃまじゃねーか。術使う必要なかったんじゃねぇの?」嘲笑する影に、トオルが振り返る。見た事のない美少年の姿に驚くが、彼がキヨラをここまで追い詰めた人間であるという事は明らかだった。トオルはキヨラを庇うように立ち塞がる。美少年——わたるは、その様子に「ほう」と息を吐いた。そんな状態になったキヨラを、守ろうと思う人間がいるなんて予想外だったのだ。クラスメイトは自分の術にはまり、疑心暗鬼になったキヨラに対して怒りを露わにするのがほとんどだったのだから。「キヨラちゃんに何をしたの?」「君には関係ないよ。ただ僕は彼女に“真実”を教えてあげただけ。彼女に本当の“愛”を教えたかったのさ!」腕を広げ、高らかに告げる彼に、トオルは不快に顔を歪めた。「あなたに、キヨラちゃんの何がわかるんですか」「さあ?

ただ、その女が傲慢で自分勝手なくだらない人間だって事は知っているよ?」「ッ、違う!!」わたるの言葉に、トオルは心の底から叫んだ。「キヨラちゃんは傲慢でも自分勝手でもない!

こんな姿になった私にいつも通りに接してくれる。昔から根暗で、ちっとも変わらない私を、友達と言ってくれる!

素敵な子なんだ!」「それはお前に夢を見せているだけじゃないのかい?

彼女はもっと欲深い人間さ」「っ、そうだったとしても、私はキヨラちゃんを信じる!」昂る気持ちをそのままに、トオルは言葉を紡ぐ。わたるの術をその身に受けても揺るがないその声に、聞いていたキヨラは大きく目を見開き、叫びを正面から受けたわたるはその瞳を輝かせた。

109

わたるは目の前に立ちはだかる人物を見つめた。こちらを威嚇する姿は、まさに番犬のよう。わたるはトオルに運命の出会いを感じ取った。「面白い!

君の方がその女よりもよっぽど狗神の素質がありそうだ!

どうだい、僕の僕に、」「な、なるわけないでしょ!」「それは残念。ならば——その女共々、さっさと死ね」冷徹な表情へと変わった彼に、トオルは寒気のようなものを覚えた。しかし、飛んでくる術を避ける気はなかった。これ以上、キヨラに怪我を負わせるわけにはいかない。トオルは自分の体を盾にすると、込み上げる疑心暗鬼を押し殺した。元々、根暗なトオルだ。他人への不信感など、今更である。

110

「あなたに、私は負けるもんか……!」「そう言っていられるのもいつまでかな」愉快に笑うわたるをトオルは強く睨みつけた。その動作すらも、わたるにとっては面白いものでしかなく。「頭だけ残して土に埋めようか、それとも全身を拘束してご馳走をぶら下げて無様に涎を垂らす姿を見ようか。君はどっちがいい?」「ッ、どっちにも、ならない!」「ふぅ。これだから子供は。よし。跳ねた首を土に埋めて、君の荒ぶる魂を狗神として使役してあげるよ」わたるの高笑いが響く。その表情は、どこからどう見ても殺人鬼のようにしか見えず。トオルは恐怖と術で重くなっていく頭を抱えつつも、睨みつける目は変わらず彼を捉えていた。


「——死ね」冷たい声が響く。成す術を持たないトオルには、降りかかる術を避ける事も迎え撃つことも出来ない。ぎゅっと強く目を瞑り……感じる事のない異変にゆっくりと目を開いた。「えっ」「……ふざけないで」立ちふさがったのは、ボロボロの体で立つ——キヨラの背中だった。「キヨラちゃん!」ドライヤーガンを構え、ふらつく足で立つ彼女にトオルが声を上げるが、キヨラは揺るがない。「そんなに首が好きなら、アンタのその喉元に打ち込んでやるわ!」「ほう。やれるものならやってみればいいさ!」嘲笑するわたるに、キヨラは飛び掛かる。体が軋むのを感じるが、そんな事気にしている余裕はなかった。トオルが、信じてくれているのだ。ここで格好悪いところなんて、見せられない。

111

ドライヤーガンの引き金を引き、光線が一直線に飛び出す。わたるが驚く中、キヨラはそれを彼の首に突き立てた。「地獄で後悔しなさい!」悶えるわたるが、反撃に手を翳す。ハッとしたキヨラは、次の瞬間目を見開いた。後ろにいたはずのトオルが彼に向って体当たりしたのだ。急な力の変動に体が吹っ飛んだわたるは、成す術もなく蒸発していく。その様子を見て、二人はすとりと腰を地面に落とした。




「……トオルちゃん」「キヨラちゃん。ありがとう、守ってくれて」笑うトオルに、キヨラは泣きそうになる。「……私の方こそ、信じてくれてありがとう」はにかみ合う二人。あまりの緊張感と負傷にふたりはゆっくりと目を閉じると、そのまま寝入ってしまった。仲良く寝る姿は、まるで寄り添う恋人のようであると、顔を出したばかりの月だけが見ていた。






112

「月が綺麗ねぇ」煙管を吸い、煙を優雅に吐き出す女。キヨラとトオルが学校の校庭付近で、紀眞の大人たちが二人を発見しているのと同時刻。女——『


希望を与えて全てを叩き潰すマシン

かよこ』は丸い月を見上げて、次いで目下にある街を見下ろした。眠らない街と言われるだけあって眩しほどの街並みは、もう夜になると言うのに静まる様子はない。かよこは煙を吐き出し、煙管の吸い殻を地面へと叩き落とした。向かう先は、この街で一番大きな病院。そこで、彼女たちを待ち伏せる為、かよこは歩き出した。





113

——数か月前。その病院には、大人数の人たちが運び込まれていた。大事故が起きたわけでもないのに大量の救急車が走った事は、世の中のニュースになるほど大きな出来事であった。というのも、一台の救急車に乗る人数が限定されていたのだ。病的なほどの肥満を抱えた人間がこんなにもいた事に病院側は畏怖し、その様子を見ていた周囲の人間はあまりの光景に圧を感じてしまうほど。その中にそらうみの生贄を卒業し、自身を隔離していたゆづるが霧散していくのを目の当たりにしたまきも、その病院へと来ていた。ゆづるの近くにいた、更には一時心酔をしていたという事もあり、まきは入院を余儀なくされていたのだ。まきはゆづるの家で飼っていたペット——パピーチワワのことを心配しつつも、一般人であるまきには警察の言うことに逆らうことは出来なかった。そんなまきの元に、一人の女性がやってきた。着物を着た、大人びた女性はまきを見つめると優雅に微笑み、面会のための椅子へと腰掛けた。その所作は女性であるまきですらも見惚れてしまいそうなほど美しく、自然と頬が染まる。「貴女がまきさん?」「は、はい。えっと……」「ああ、ごめんなさいね。私はカウンセラー。かよこって呼んでください」「かよこ、さん……」「ふふっ。よろしくね」優雅に笑う彼女に、まきは緊張しながらもコクリと頷いた。

114

女性はどこからかお茶を取り出すと、まきに振舞った。久しぶりに飲む抹茶は温かく、とても美味しかった。「最近心配そうな顔をしているって先生からお聞きしてね。何かあったの?」「あ、はい。その……」まきは話し出した。ゆづるの家で飼っていたパピーチワワの安否。今どうしているのか。他の人に引き取られてしまったのか。飢え死にしていないか。心配で心配でたまらないのだと。かよこはまきの話を静かに聞いていた。「そうなのね。確かにそれは心配だわ」かよこは静かに同意した。くだらないと一蹴されなかったことへ安堵の息を吐きながら、まきは頷く。それからはリハビリの調子や、ダイエットの進み具合などを話し、かよこは去った。おっかない人でなくて良かった、と内心で思いながら、まきは再び外の景色を眺めた。チワワ達が無事だとかよこが知らせに来てくれたのは、それから三日後のことだった。





115

安堵に包まれたまきは、自分のリハビリとダイエットに専念することにした。経過は順調。三十も増えてしまった体重も、そのうちの十は落ち、体も幾分か軽くなってきた。しかし、やはりまだ適正体重というにはほど遠い数字であるまきは、引き続き医師の元でダイエットしている。そんな時だった。少し慌てた様子で病室にかよこが入って来たのだ。焦りの滲んだ表情に、まきはどうしたのかと問い掛ける。「それがね……」神妙そうな顔をして話し出したかよこ。「チワワ達のお世話をしてくれていた子がね、チワワをご近所さんにあげてしまったらしいの」「えぇっ!?」「話によればその子、近所のイケメンくんに恋しちゃったみたいでね。周りの人に『きっと上手くいくわ』って煽られたんだけど、全然上手くいかなくって。それでそのイケメン君にチワワをあげちゃったんですって」「ど、どうしてそんな事……!」「わからないけれど、一番仲良くしてたチワワをあげれば、仲良くしてくれるんじゃないかって考えたんじゃないかしら」まきは絶望した。退院したら迎えに行こうと思っていたのに、誰かに渡されてしまったら迎えに行けなくなってしまう。「ひどいわよね。人から預かっている子を勝手に他人に上げてしまうなんて」「……でも、正式に頼みに行ったわけではないので……邪魔、だったのかもしれません……」「けれど、生き物よ?しかも、貴女の大切な大切な、“オトモダチ”。ひどいと思っても当然だと思うけれど」かよこの怒りぶりに、まきは心の中で同意しつつも、それを口に出すのは躊躇われた。確かに、かよこの言う通り、チワワは自身の唯一の友人であるけれど、それでも手放したのは自分が最初だ。チワワは自分に裏切られたと思っている事だろう。……愛される人間の元にいったほうがいい。わかっている。わかって、いるけれど……。「……」「……まあ、落ち着いたら貴女の本心を教えて頂戴」かよこは早々に病室から去って行った。その背中を見送りながら、まきは絶望にも似た気持ちを抱えて、布団の上で蹲ってしまう。



116

「チッ」まきの病室を出たかよこは、大きな舌打ちを零した。——まったく、さっさと堕ちればいいものを。絶望していたくせに、それを受け入れようとする姿勢はそらうみの生贄としての時間が生んだ“慣れ”なのだろうが、それが今は鬱陶しくて仕方がない。しかし、種は撒いた。一度堕ちた人間は“そういうもの”を育てるのには、酷く適しているのだ。存分に育ててくれれば、それでいい。それよりも、数日前に運び込まれた彼女たちが目を覚ましたというじゃないか。かよこは昂る気持ちを抑える事無く、煙管に火をつけた。病院内では吸ってはいけない、なんてことは、彼女にとってはどうでもいい話だった。煙を吐き出し、優雅に廊下を歩いていく。向かう先は、運び込まれたキヨラとトオルの元だ。




——その日の夜。まきは絶望に耐えきれないまま、病院を抜け出した。




117

病院に運び込まれたキヨラとトオルは、“友人同士”という事で同じ部屋に収容された。


トオルの隣のベッドでは、キヨラは綺麗な四肢に包帯を巻いており、一見痛々しい見た目をしている。本人は気にした様子はないが、間近で見ていたトオルは気が気ではない。キヨラが動く度にハラハラとした気持ちを感じながら、接すること数日。軽傷だったトオルは、次に肥満をどうにかしようという話になっていた。なんでも、ここの病院には今似たような症状を持っている人間が、数多く運び込まれているのだとか。トオルは少し疑問に思ったものの、特に追求することもせず医師の言うことに従っていた。そうでなければ、先に退院することになり、キヨラと離れ離れになってしまう。それだけは嫌だった。


トオルはリハビリ帰りの体を引き摺りつつ、自室へと戻っていた。その帰り道ですれ違った着物を着た女性──かよこに、トオルは振り返った。「……綺麗」「あら」ふと呟いた言葉は、無意識だった。感嘆にも似た声は、女性の耳にも入っていたようで。振り返った彼女に、トオルは驚いた。まさか振り返るなんて思っていなかったのだ。「す、すみません!

突然……その、すごく綺麗だったので……」「ふふっ、ありがとう」かよこの笑みに、トオルが頬を染める。「あら、もしかして貴女も……」「えっ?」「最近肥満気味の人が多く運ばれて来てるって聞いたから、貴女もその被害者なのかしら」かよこの言葉に、トオルはハッとすると自分の体を隠すように腕を交差させた。その行動に微笑ましそうにかよこが微笑む。「大丈夫よ。絶対に元に戻せるわ」「ほ、本当ですか?」「もちろんよ」かよこの言葉に、トオルは目を輝かせた。ずっと術のせいで元に戻らないのだと思っていたけれど、それが今、崩された。明るい表情を見せるトオルに、かよこは「少しお話しましょう」と手招いた。断る理由もなかったトオルは、彼女の後を着いて行った。談話スペースにまで来た二人は、備え付けのベンチに座ると、他愛のない話をし始めた。最初は緊張していたトオルも徐々に慣れてきたのか、いつもと変わらない様子で会話を続けていた。「それにしても一人で入院なんて、寂しくない?」「一人部屋は寂しいですけど……友達が一緒なので寂しくはないですよ!」「そうなの。それならよかったわ」「でもキヨラちゃん……友達、凄い怪我しちゃってて……見てて泣きそうになるんです」「怪我?

どうしたのかしら?」「それが……私には分からなくて……」俯くトオルに、かよこは優しく微笑んだ。「そんなに気にする事はないわ。全てを理解するなんてこと、私たち人間にはできないもの」「でも……」「それにしても、そのお友達は凄いわね。痛かったのに貴女が来てくれるまで我慢したんでしょう?

凄いわ」しみじみと言うかよこに、トオルは目を見開く。キヨラを褒められたのが、心底嬉しかったのだ。「そうなんです!

キヨラちゃんは本当にすごくって……!」嬉々として話し出したトオルの言葉を、かよこは静かに聞く。それが更にトオルをヒートアップさせた。結果、看護師が呼びに来るまで続いたキヨラ談議に気分が良くなったトオルは、部屋に帰るとすぐさま寝入ってしまった。

118

そんなトオルを見送ったかよこは、密かに笑みを浮かべる。彼女が意気揚々と話してくれたおかげで、かよこの中には相当の情報量が募っていたのだ。「ふふふっ。馬鹿な子」自分で自分と友人を危険の晒しているなんて、きっと彼女は気づいていないのだろう。なんと愚かで、愛らしいのか。キヨラ共々、水神にして使役してもいいかもしれない。「ふふ、せいぜい絶望するといいわ」



119

それからかよこはトオルに取り入った後、キヨラとも接触を果たした。相変わらず忌々しいオーラを持っている彼女に笑みを送りながら、かよこは術を練っていく。高く高く持ち上げた方が、その分落下する勢いも凄まじいものだ。どんな顔をして絶望するのかと想像しながら、かよこは二人に親身になって煽てていく。そして——その時はやって来た。退院を目の前にしたトオルに「とある漫画家が私の友人でね、貴女に会いたいそうなの。ぜひ会ってくれないかしら」と声をかけた。とある漫画家は事前にトオルから聞いた、彼女の憧れの人物の名前。もちろん、そんなものは嘘なのだが、トオルの喜びようといったら可哀想なほどだった。


そして約束の日。待ち合わせと称して病室で待ち続けるトオルに、口元が歪むのを抑えられない。約束の時間をとうに過ぎてもやってくる気配のない人影に、トオルはとうとう泣きそうな顔をして俯いた。隣にいたキヨラが顔を顰める。その様子に、かよこはここぞとばかりに姿を現した。トオルの目が縋るようにこちらを見上げてくる。「か、かよこさん」「ふふっ、どうしたの。トオルちゃん」「あ、あの、あの方ってまだ……その……」言っていいのかと躊躇うトオルに、かよこはニンマリと笑みを浮かべた。「あの方って一体誰なのかしら?」「えっ、だ、だってご友人だって」「ふふふ、そんなの嘘に決まってるでしょう?

そんなことも分からないのかしら?」あははは、と高笑いをするかよこに、トオルとキヨラの目が大きく見開かれる。信じられないと言いたげな表情に、かよこは煙管を手にするとひとつ大きく煙を吸い込んだ。ふぅ、と術と共に煙が吐き出される。「あなた、ここ病院よ!?」「だからどうしたのかしら?」キッと睨みつけてくるキヨラにほくそ笑む。煙が病室に充満し、その煙がどんどんと分厚く、濃くなっていく。かよこはほくそ笑んだ。「その信頼感。どこまで続くのかしら。見物ね」




120

「私、キヨラちゃんのこと、大好き」「キヨラちゃん!」「キヨラちゃん、ずっと一緒にいようね」「私はキヨラちゃんを信じてる!」「キヨラちゃんが無事で、良かった……」反芻する声。意識がゆっくりと浮上するのを感じながら、キヨラは周囲を見渡した。「トオルちゃん!」真っ白な中、唯一見えた背中に、声をかける。そうだ、確かトオルがかよこに騙されて……。「キヨラちゃん」「大丈夫、トオルちゃん」「何が?」「何がって……」ニコニコと笑うトオルに、キヨラは違和感を覚える。「ねぇ、キヨラちゃん」「な、何?」「キヨラちゃんは本当にすごいよね。一人で立ち向かって、夢にまで真っ直ぐで。……私とは、大違い」「トオルちゃ、」「だからね、──バイバイ、キヨラちゃん」応援してるよ、と口にして、ゆっくりと降下していくトオルに、キヨラはハッとした。いつの間にか足元は高いビルの最上階になり、トオルはその上から身を投げていた。腕を伸ばした時には、もう遅い。ひゅんっと落ちて行ったトオルが、ぐしゃりと音を立てる。顔を真っ青にしたキヨラは下を覗き込む勇気はなかった。「トオル、ちゃん……」込み上げる悲しみに、心臓が押し潰されそうになる。何故?

どうして? 問いかけても返事をする者は居ない。膝をおり、呆然とするキヨラ。──しかし。「キヨラちゃん」不意に聞こえた声に、キヨラは振り返った。微笑むトオルが、そこに立っていた。



121

「あぁあぁあああ……!!」それからキヨラは、何度も何度も身投げをするトオルを見ては、痛みに泣き叫ぶ。幻覚だと分かっていても、そう割り切れるものでは無い。──痛い。痛くて堪らない。「キヨラちゃん」掛けられる声に、キヨラはついに返事をすることが出来なかった。しかし、手を伸ばしてしまうのは、無意識だった。助けて、と口走りそうになるのを、必死に堪える。──その時だった。手に感じた温もりに、混濁していた思考が浮上する。……この、温もりは……登下校の時、いつも感じていたものだ。キヨラは無意識に、その手に擦り寄った。──本物のトオルの体温……。それだけで、目の前の幻覚から救われるような気がした。「トオルちゃん、大丈夫だよ」「私はここにいるからね」キヨラは胸の痛みを誤魔化すように、そう口にする。もしかしたらトオルも、同じようにこの光景を見ているのかもしれない。そう思うと、どうしようもなく心配で堪らなくなる。手を握りしめ、温もりと共に心音が伝わってくる。ゆっくりと頭の奥が晴れていき────目を開ければそこには、同じように涙のあとを残したトオルが眠っていた。ゆっくりと開く瞳がキヨラを捉え、安心したように微笑んだ。

122

「キヨラちゃん……」「トオルちゃん。良かった……」繋いだ手に、二人して微笑む。急加速していた気持ちが穏やかなものへと変わるのを感じながら、キヨラは起き上がった。涙を拭えば、驚いた様子のかよこと目が合う。「な、なんで……!?」「残念だったわね。あなたなんかに引き裂かれるほど、柔い絆じゃないの」「っ、生意気な、!」呪詛返しにガクリと膝が折れ蹲るかよこは、心底忌々しそうに彼女たちを睨みつけた。しかし、膨大な呪詛返しを受けたかよこはその身に強い衝撃を受け、耐えきれずにその場に倒れ込んでしまった。キヨラはトオルと一緒にかよこの四肢をシーツでぐるぐる巻きにすると、キヨラの家へと電話をかけた。キヨラはトオルと二人でハイタッチをした。「やったね、キヨラちゃん」「トオルちゃんこそ、ありがとう!」



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──その後。回収に来たキヨラの家の者によって別の病棟へと運ばれたかよこは、悲惨な日々を送ったのだとか。曰く、周囲の患者たちに心無い言葉で刺され、『妄執』となった。それから直ぐに、かよこは患者達の手で蒸発させられ、『希望を与えて全てを叩き潰すマシン

かよこ』を無事退治することに成功。退院したキヨラとトオルは、その報告を遠い家でひっそりと受けたのだった。


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「いいよいいよー、こっち向いて」パシャパシャと響くシャッター音に、キヨラは目を輝かせた。目の前で次々とポーズを取るのは、男性カリスマモデルのちひろさん。イケメンで物腰柔らかな彼は、今や男女問わず、色々な雑誌に引っ張りだこである。キヨラが目を輝かせるのを隣で見ていたトオルは、未だぽっちゃりとした体型をした自身を見下ろした。落ち込みそうになる心を引き上げて、トオルはキヨラへと視線を戻した。「素敵……」憧れに頬を染めるキヨラに、周囲の人間が視線を向けているのを、彼女は気づいていないらしい。「ちひろさんはモデルでもあるんだけど、八幡神を祀ったところの神主さんなの。イケメンで神の使いって、とってもロマンだと思わない?」「き、キヨラちゃん、落ち着いて」「これが落ち着いてられないわ!

そうだ、サイン貰わなくっちゃ!」憧れのモデルを前に、テンションが高いキヨラをトオルが窘めていく。しかし、目を輝かせたキヨラは落ち着きを見せる様子はない。生の撮影現場を目の当たりにした彼女は、暫くその場で立ち尽くした。結局終わるまでそこにいたキヨラは、サインを貰うとホクホクとした顔で帰路へとついた。「良かったね、キヨラちゃん」「うん!」キラキラと目を輝かせるキヨラを、トオルが微笑ましく見つめる。——最近いろいろな事があって疲れていたようだし、こうして嬉しそうなキヨラを見るのは久々かもしれない。そう思うと、トオルも嬉しくてつい頬が緩んでしまった。その後ろ姿を、睨みつけている人物がいるとは知らずに。



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——それから数日後。キヨラは神社への用事のついでに、神主に挨拶をしようとしていた。


「こんにちは!」「おぉ、キヨラちゃん」見慣れた神主の背中に声を掛ければ、振り返る“憧れの人”。髪の艶も整った顔も今日も健在で、キヨラは思わず破顔してしまう。そんなキヨラに微笑みかけた神主——ちひろは、持っていた箒を手に姿勢を正す。「今日も可愛いね」「えへへ。ちひろさんも、イケメンですね」「はは。ありがとう」最初は多少の恥ずかしさもあった挨拶でも、元々言われ慣れた二人だ。何度か熟している内に、慣れてくる。キヨラは伝達事項を告げると、モデルになるための話を聞きたがった。それに苦笑いしながらも応えるちひろに、周囲の人々は微笑まし気に見ては邪魔することなく去って行く。此処の辺りでは二人とも有名なのだ。そんな事を気にすることなく、キヨラとちひろは穏やかに話を続けていく。しばらく時間が経った後、不意にキヨラの携帯が鳴り響いた。「あ、ごめんなさい。ちょっと」「いいよ、気にしないで」ちひろへと断りを告げたキヨラは、携帯を手にすると画面を開いた。家からだ。何か急用でもあったのだろうか。キヨラは不思議に思いながらも、通話ボタンを押すと耳に当てた。「もしもし——」



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こちらに背を向け、携帯を耳に当てるキヨラの背中を見て、男——『焼き物として扱うマシン

ちひろ』はほくそ笑んだ。なんと無防備な背中か。このまま手を伸ばしてしまえば、簡単に捕まるであろう得物の背中。幸い、今ここに彼女の手下はいないし、あの厄介な小娘もいない。いいタイミングなのではないだろうか。そう心の中で彼は思うと、ゆっくりと手を伸ばした。——少し前。蒸発したはれあけ候補者の手下を捕まえて聞き出したことによると、どうやら目の前の娘、キヨラの力の原動になっているのは、“トオル”とかいう匕背家の小娘だそうだ。直接の関わりもないその家は、調べればすぐに分かった。そして二つの家の結びつきを知り、ちひろは納得した。確かに。これならば互いを大切に思う気持ちにも、説明がつく。だからこそ、彼女たちが一緒に居ない時……つまり、キヨラが一人になる時を待っていたのだ。そしてその状況が、今、目の前に落ちている。これを好機と言わず、何という。


ちひろはゆっくりと手を伸ばした。術を掛けた手のひらは徐々に温度を増していき、灼熱の火を纏う。『焼き物として扱うマシン

ちひろ』は、彼女を埴輪にして使役したい欲があったのだ。その為には、一度キヨラを高温で焼き、丹念に捏ねて再び焼いた後に、優しい日陰で冷ます必要がある。面倒だが、出来上がった埴輪への愛着は生半可なものではない。ちひろは興奮に上がる息をそのままに、キヨラの肩へと触れた。



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「きゃあぁあッ!」ジュワッ、と肉が焼ける音がし、キヨラの全身に痛みが走る。急な襲撃に混乱する思考を抱えつつ、キヨラは反射的にその場から飛び退いた。華奢な肩がじりじりと痛み、嫌なにおいが立ち込める。それは次第に腕へと浸食し、指先へと響いた。「な、何!?」「チッ、動くんじゃねえよ」ふと、耳に入った聞き慣れた声。嘘でしょう、と言いたげに視線を持ち上げれば、そこには綺麗な顔を凶悪なまでに歪めたちひろが湯気の漂う手を伸ばしたまま、立っていた。「ち、ひろ、さん……?」「折角、愛らしい埴輪にして、俺の僕にしてやろうと思ったのに」「な、何を、」「わかんねぇのか?

チッ。これだからガキは。テメェを俺の僕にしてやるって言ってんだよ」通常の彼からは考えられないほど荒っぽい言葉遣いと言い分に、キヨラは自分の中の“憧れ”が崩れていくような気がした。緊張に引き攣った息をし、キヨラは痛みを訴える腕を抑えた。


「ま。もうバレちまったし、しゃーねぇな。——とっとと無様な姿になりやがれッ!!」「きゃあっ!?」ブワッと舞い上がる熱風に、キヨラの体が舞い上がる。不意に見えたちひろの足元には、何の意思も持たない大きな空洞の目と口を開いた、埴輪たちの姿があり、キヨラはついに思い出した。『焼き物として扱うマシン』と呼ばれる術者が、“はれあけ”の候補者にいると言う事を。あのちひろさんが、“はれあけ”の候補者だった……?

——そんな、嘘よ。


「キヨラちゃん!」絶望の淵に立たされたキヨラの耳に届く、甲高い声。それは隣でいつも聞いていたトオルの声だった。「ッ——!」舞い上がった体が、ドサリと何かに受け止められる。ふくよかな物かと思えば、どこか硬い部分も持ち合わせたそれは、小さく聞こえた呻き声に正体を理解する。「トオル、ちゃん……!」「ッ、だい、丈夫……?」衝撃と熱さに顔を歪めたトオルは、冷や汗を頬に浮かべるとそうぎこちなく微笑んだ。その笑顔に、キヨラは息を飲む。「トオルちゃん!

離れて!」「ダメだよ。キヨラちゃんを一人にさせる訳にはいかないもん」「でも火が……!」「大丈夫。私は死亡だらけだもん。これくらい、へっちゃらだよ」キヨラの言葉に、トオルは無理矢理笑みを浮かべる。トオルの言い分はハチャメチャだったが、それでも自分を一人にしたくないという思いは、キヨラにひしひしと伝わっていた。——大丈夫だなんて。そんなはず、ないじゃない。キヨラは自分の不甲斐なさに歯噛みする。……私がもっとちゃんとしていれば。ついこの間後悔したばかりだというのに、自分は何も成長していないのだと思うと悔しくて仕方がない。知り合いだからと気を抜いてしまった。憧れだからといって無防備だった。……そんな後悔が次々とキヨラを襲う。しかし、そんな懺悔の時間を待ってくれるほど、相手は優しい人間ではなかった。



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「小娘ッ! 貴様いつの間に……!」「キヨラちゃんに、手出しはさせない!」「小癪な……!

貴様から埴輪にしてやろうかァッ!?」青筋を浮かべたちひろが腕を大きく振りかぶる。その姿に、キヨラはハッとして立ち上がろうとした。しかし、それはトオルの手によって阻止される。「トオルちゃ、」「キヨラちゃんは、勝つ方法だけ考えて」真剣な眼差しと真剣な声に、キヨラは何もいう事が出来なかった。その瞬間、離れた術により、先ほどの倍以上の威力を持った熱風が二人——否、トオルを襲う。トオルはふくよかな体にキヨラをすっぽりと隠すと、受ける痛みに悲鳴を噛み殺した。「ッ——!!」「トオルちゃん!」「だい、丈夫……!」じりじりと焼けていく全身。直に熱風を受けた服は焼け、現れた皮膚から彼女の体を焼いていく。一瞬にして遠退く意識をトオルは根性で引き寄せた。——此処で倒れる訳にはいかない。トオルはほとんど自棄になった気持ちで、その場に踏ん張った。しかし、離れた術の熱は異常なほどに熱く、トオルは遠のく意識を引き戻すことが出来なかった。「トオルちゃん!」薄れていく意識の中、キヨラの呼ぶ声がした。トオルはキヨラを抱えるようにして倒れ込むと、そのまま気絶してしまった。キヨラは、じゅわりと焼ける自分の手も構わず、トオルの体を受け止めた。「トオルちゃん、しっかりして!」「ハハハッ!

無様じゃねぇか! なァ?!」「ッ、黙りなさい!」キヨラは初めて声を張り上げた。「人を騙した上、無抵抗の人間をいたぶって……何が楽しいの!?」「楽しい?

バカな事言うなよ。必要な犠牲だ。こいつらも、その小娘も」「ッ、腹立たしいくらい、心底腐ってるわね……!」「面白れぇじゃねぇか。そんな男が君の主になるんだぜ?

中々出来ない体験だ! よかったなァ?」下衆の笑みを浮かべるちひろに、キヨラは顔を怒りへと染め上げた。よかった……?

そんなわけ、ないだろう。「アンタと対等な存在になりたいと思っていた、私が馬鹿だったわ」「ハッ。今更知ったところでどうなる?

お前はここで終わりなんだよォ!」「絶対に、許さない!」キヨラはトオルの体をゆっくりと地面に下ろすと、大きく飛び上がった。ちひろの術がキヨラに向かって放たれる。しかし、キヨラは火傷を顧みないまま、スカートの下に付けていたベルトから、gunを取り出した。熱風での対決は不利だ。光線ももしかしたら熱に負けてしまうかもしれない。かくなる上は——。

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「死ねぇええ!!」キヨラは渾身の力を振り絞って、gunの引き金を引いた。温風ではない。冷風の引き金を。「何ィ!?」メキメキと凍っていく炎。溶かされるよりも先に上から抑えつけるように冷風が吹き荒れ、それはちひろの元にまで及んだ。「く、そ、ガキャあ!!」頭の先から一気に凍り付いていくちひろ。その姿をキヨラは最後まで見つめると、数秒後、凍った彼の姿は氷と一緒に砕け散った。キラキラと光を反射させる氷の数々。その光景はまるでクールな印象を持つ“モデル

ちひろ”のように綺麗で、美しかった。「……その顔でそんな言葉遣い、聞きたくなかったわ」猫を被っていたとしても、プロ意識を持ったちひろの仕事への姿勢は、キヨラの目指すものそのものだったのだ。一度持った憧れをそう簡単に振り切るなんて事は、幼いキヨラにはまだ難しかった。


キヨラは散る氷が最後までなくなるのを見送ると、トオルの元へと向かった。火傷に呻くトオルに、自分の上着でくるんだ氷を当ててやる。これで少しでも冷えればいいのだけれど……。「……それにしても、力、使いすぎちゃったな……」「トオル!」「キヨラ様!」ふと、聞こえた声に振り返る。焦った様子の大人の姿に、キヨラはしばし思考を巡らせ、『嗚呼』と思い出した。「おばさま。おじさま」「そのような呼び方は……いえ。今はこの話は置いておきましょう。まずは二人を病院へ」「ええ。キヨラ様、向かうのは私達の知り合いの病院ですが、問題ございませんか?」「……ええ。早くトオルちゃんをお医者様に」「もちろんです」頷く男女——トオルの父と母に、キヨラは安堵に息を吐くと、ゆっくりと意識を手放した。




目を覚ました瞬間、目の前に広がる光景に「……最近多いわね、この光景」と呟いてしまったのは、仕方がないだろう。








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——それは、静かな夜の事だった。痛みと熱っぽさに魘されて目を開けたキヨラは、直ぐに周囲へと手を伸ばした。何にも触れることのない手に、そういえばトオルは別の部屋なのだと思い出す。


数日前、一度目を覚ました際にキヨラは大人たちから事情を聞いていた。——曰く、トオルの火傷はかなりの重傷で、未だ目が覚めていない事。キヨラも火傷のひどい部分があり、あまりいい状況ではないという事。二人の部屋を、引き離したこと。キヨラは今からでも、と相部屋を望んだが、流石に集中治療室での相部屋は許可されなかった。そのため、キヨラは一人で夜を越える事になったのだが……それがどうもよくなかったらしい。元々、トオルの家へと泊まりに行くことの多かったキヨラだ。一人きりの夜——しかも、こんなに他人の音が溢れる世界での一人での夜は、キヨラにとって苦痛でしかなかったのだ。痛みに魘され、熱っぽさに眠れない日々。話し相手も、心配してくれる相手もいない状況で、キヨラの心は徐々に蝕まれていた。いっその事、トオルの部屋へ行ってしまおうかとも考えたが、集中治療室は大人がいないと安易に入れない様になっている。自分の我儘で大人たちに迷惑をかけるのは、本意ではなかった。


キヨラは与えられていた鎮痛剤を飲むと、無理矢理にでも眠るべく、ベッドへと横になった。眠いはずなのに、中々寝付けない。そんな時間をどれほど過ごしただろう。キヨラがやっと訪れた睡魔に身を任せられたのは、窓の外が僅かに明るくなってからだった。





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「……ここは」ふと、目が覚めた。痛みも何もない世界に、少しばかり疑問が残るが、それよりも周囲の様子が気になって仕方がない。真っ白な世界に、キヨラの等身を優に超える黒い箱がぽつりと置かれたその空間。暑くも寒くもない。においもなく、眩しくも暗くもない——そんな世界。キヨラは周囲を見渡すと、不意に箱の上に乗っている人物を見つけた。「あの」「君は、私が怖くないのかい?」「えっ」キヨラの呼びかけにすぐに反応を示した人物——声を聞く限り女性、だろうか——は、振り返ると真っ黒なローブの大きなフードで顔を隠したまま、こちらへと向き直った。キヨラと同じほどの背丈を持った彼女は、コテリと首を傾げた。キヨラは警戒しつつも、気丈に振舞う。「怖くないわ。あなたは誰?」「私?

私の事はどうでもいいの」「よくないわ。知らない人と話すなって、家の人に言われているの」「そうなの?

面倒ね」女性の声はどこか知的で、キヨラは身構える。……こういう女性は何を企んでいるのか、よくわからない事が多いのだ。

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「私の名前はあんの。あなたは?」「……キヨラよ」「そう。それじゃあキヨラ。私の話を聞いてくれない?」「話?」「ええ」女性——あんのは、淡々と話を進めていく。キヨラは彼女のペースに呑まれない様にしながらもその言葉に応じた。すると、あんのはどこからかヴァイオリンを取り出すと、演奏のための構えをした。突然の事に、キヨラが戸惑う。「私ね、音楽が好きなの。聞いてくださらない?」「……曲名は?」「そうね……アベマリア、なんてどうかしら」そう言うと、あんのはゆっくりとヴァイオリンを弾き始めた。流れる繊細な音に、キヨラは警戒心を僅かに解いてほぅ、と聞き惚れる。——なんと綺麗な音色なのだろうか。幼い頃、オーケストラに連れて行ってもらった事があるが、その時に聞いたものよりも遥かにいい音をしている。キヨラは目を閉じ、音に集中するように耳を傾けた。天国のような時間が過ぎ去り、一番の盛り上がりへと入っていく。——刹那。聞こえた不快音に、耳がキンッと悲鳴を上げた。

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「うッ……!」——なに、これ。こんな嫌な音、今まで聞いたこともない。どんどんと大きくなる不快音に、キヨラはついに耳を塞いだ。しかし、元々聴覚の優れたキヨラには、それも僅かな抵抗でしかない。音は次第に脳を揺さぶり、全身から冷や汗が流れていく。「やめ、て……!」「まだよ」耳が、壊れる。そんな恐怖が膨らむ中、地獄の音は続いた。頭がぐらりと揺れ、キヨラは倒れ込む。いくら耳を強く塞いでも、遮断される音はたかが知れたものだった。意識が遠退く中、不意に終わりを告げた演奏に、キヨラはぐったりとした様子で目を開く。涙を流していたのだろう。視界が水で濁るのを、どこか他人事のように認知する。「ねぇ、どうだった?」未だ耳鳴りのする鼓膜に入り込んだ、あんのの声。その声に視線は自然とあんのへと向かった。「……耳が痛いわ」「それだけ?」キヨラは追及された疑問に、返答しようとして……口を閉じた。自分の声すら頭に響く中、返答を考える余裕なんて、今のキヨラにはない。「……私は、好きじゃない」「そう?

どこが嫌いだった?」「……わからない」「なんで?

最初はあんなに嬉しそうだったのに。私の演奏の何がダメだったの?」……何が、なんて。次々に重ねられる質問に、キヨラはついに顔を顰めてしまう。——そんなの、自分でわからないの?

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「ふざけないで。自分で演奏してるのに、自分がどんな音を出しているかもわからないの?」「そんなことない。私は真剣に弾いているの」「真剣?

あんな不快音が? 冗談じゃないわ。あなた、奏者に向いていないんじゃないの?」キヨラは痛い頭を抑えつつ、真っすぐ彼女へと意見を告げる。——その時だった。「馬鹿にしないで」静かに、けれど怒りを携えた声が、キヨラの耳に響く。その瞬間、キヨラの体を落雷が撃ち抜いた。「きゃああああッ!!」痺れる体が、焼かれていく。まるで熱風に電気を流したかのような強烈な痛みに、キヨラは絶叫した。しかし、すぐさまその元はなくなり、自分の体に痛みを残して去って行く。触れる服が、痛い。「私は演奏の感想を聞いているの。私自身への批判なんて聞いてない」あんのはそう告げると、倒れたキヨラの前髪を掴み上げた。綺麗な顔が苦痛に歪む。「さあ、早く。次は殺すわよ」「ッ、」キヨラはフードの中でぎらつく白い瞳に、ゾクリとしたものを感じた。次いで込み上げるのは、本能的な恐怖。——このままでは、殺されてしまう。「……音階が、酷いわ。ヴァイオリンなのかも怪しいくらい、音がバラバラで……初心者ののこぎり音なんて、非じゃないくらい、最悪」「そう。それで?」「……」「もう出ないの?

仕方ないわね。もう一回聞かせてあげる」「待って」「いいじゃない。時間はたっぷりあるでしょ?」キヨラの前髪を放し、再びヴァイオリンを構えだしたあんのに、キヨラは慌てて手を伸ばす。しかし、それは届かなかった。



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「あぁあ゛ああ゛あ——ッ!!」再び奏でられる音に、キヨラは耳が千切れるんじゃないかと思うほどの痛みを受ける。耳から生温かいものが流れ落ち、キヨラの抑えた指を赤く湿らせていく。しかし、それを気にしている余裕は彼女にはなかった。「どう?

いい演奏でしょう?」「く、ぅううう……!」——だめだ。このままでは本当に耳が壊れてしまう。キヨラはのたうち回りながらも、あんのを睨みつけた。「やめ、て」「嫌よ」「やめ、なさ……!

——やめてぇええええッ!!」キヨラは激しくなる旋律と共に、絶叫した。それは容易に喉を枯らし、喉の奥を引き裂いた。血の味が舌を刺激する。どれくらいの時間、叫んでいただろうか。すっかりとしゃがれた声になり、それでも叫びを止められないキヨラが自分の耳を掻き毟り始めて少し。——小さく聞こえた声に、キヨラはハッとした。「……ちゃん」「キヨラちゃん」聞き慣れた、安心する声。何度も何度も聞いてきた、自分よりも少し低めの、小さな声。「キヨラちゃん、落ち着いて。それは夢だよ。大丈夫、ほら、私の名前を呼んで」どこまでも優しい声に、キヨラはゆっくりと目を開ける。そこには既にあんのはおらず、さっきまで響いていたヴァイオリンの音もしない。——私は、一体なにを。



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ハッとして起きた時には、周囲に白衣を着た大人たちが慌ただしく走り回っていた。一番に目覚めたキヨラに気づいた看護師が、声を掛けてくる。「大丈夫ですか?

紀眞さん」「……トオルちゃん、は」いつもと変わらない自分の声で呟いた言葉に、医師たちが顔を見合わせる。心配そうな顔をした医師が、安心させるように微笑みながら、キヨラに話しかけた。「匕背さんはまだ、目覚めていないよ。でも大丈夫。ちゃんと目は覚めるから」その言葉に、キヨラは納得した。——きっと彼女は、泣き叫ぶ自身の声を聞きつけ、夢の中にまで助けに来てくれたのだろう。「……本当、助けてもらってばっかり」「紀眞さん、どうかした?」「いえ。何も」看護師の言葉にふるりと頭を振ったキヨラは、急遽行われた検診の後、再び眠りについた。——今度は、幸せな夢が見られるようにと、トオルの顔を思い出しながら。






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「お疲れ様。よかったね、今日で退院だよ」医師の言葉に、キヨラは「ありがとうございました」と頭を下げた。しかし、その表情は浮かばない。それを見て、医師もわかったのだろう。「匕背さんの事は、私たちに任せて。たまにお見舞いに来てあげてね」「もちろんです」医師の言葉にキヨラはにべもなく頷く。数時間後、キヨラは荷物を纏めて病院を後にした。




——それから数週間。


遅れた学業と、以前ちひろの仕事場でスカウトされたモデル事務所への入所手続きで、てんやわんやの日々を送っていた。「おはようございます!」「おはよう、キヨラちゃん。今日もよろしくね」にこやかに返してくれるカメラマンと、同僚たち。未だまだ馴染みきれていない空気はあるものの、キヨラの人柄に周囲の人間はちゃんとした姿勢で応えてくれていた。雑誌の売り上げは上々。初めて出演した雑誌は、異様な売り上げを叩き上げるなどの逸話を残したキヨラは、今や人気絶好調の子役モデルの中に名前を連ねるほどだった。トオルの見舞いには、まだ数回しか行けていないが、それでもトオルはまだ目を覚ます気配はない。医師に寄れば、急な精神ショックで目覚めるのが遅れているのだとか。……確かに、元々内気だった彼女が、術を受けて体形にまで悩み始めていたのはキヨラが一番よく知っている。そのために奔走していたのだから。精神的ショックと肉体的負荷、更には点滴ばかりの生活で、今はほっそりとしてしまったトオルを思い浮かべ、キヨラは苦い思いになる。しかし、そんなキヨラ達を待ってくれるほど、世の中は甘くはなかった。



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「おはようございます!」キヨラが二日ぶりに事務所に来た時の事だった。いつも通りに挨拶をしたのに、返事が返ってこなかったのだ。「社長?

先輩?」キヨラが不思議に思いながらも事務所の奥へと進んでいけば、そこにはひそひそと話す先輩たちの姿。なんだ、聞こえていなかったのかと再び挨拶を口にしようとして、おかしい様子にキヨラは足を止めた。「おい、ビッチが来たぞ」「ビッチだ、ビッチ」「いろんな奴にいい顔しやがって。こえー」「……え」キヨラは聞こえてきた言葉の数々に、思考が止まる。……突然、何だと言うのだ。キヨラは言葉が出ないまま、漠然と立ちすくむ。その中で、キヨラの元に来たのは、一人の女性モデルだった。「ねえねえ。キヨラちゃんはあの中で誰が一番ヨかったの?」「えっ、な、何がですか?」「何がって、別に恥ずかしがらなくていいのよ。ヤったんでしょ?

“マクラ営業”」キヨラは先輩の言葉に愕然とした。——“マクラ営業”って。そんなの、子供が出来る訳がないじゃない。そんな思いは先輩たちに伝わる事はなかった。それどころか、誰がよかっただの、あの人に手を出すのはやめてねだの、好き勝手言い放題だ。——どうしてこうなったのか。キヨラは耐えきれない恥辱に、事務所を駈け出した。あんなに優しかった先輩達が、揃いも揃って——おかしい。

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「……私、ビッチだったのかな」キヨラは足を止めて、その場に蹲った。……確かに、誰にでも愛される読者モデルになるため、愛想を振りまいてきた自覚はある。けれど、それはただ夢に必死だっただけで。それにマクラ営業なんてもの、やろうと思ったこともない。キヨラは溢れる涙を止めることが出来なかった。しかし、仕事を投げてしまったのはプロとして失格である。……それは、キヨラの目指す“モデル”ではない。「……頑張らないと」トオルちゃんだって頑張ってるんだ。私だって。



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しかし、罵倒の嵐はその日だけでは済まなかった。日々を重ねていく毎に苛烈さを増していく罵詈雑言。キヨラの心はギリギリだった。「ねえ、誰が本命なの?

私にだけでいいから、教えてよ~」「こよも先輩、そういうのは」「何よ。皆に相手されるからって調子乗ってんの?」「そういう訳じゃ……!」「アンタなんて単なる都合のいい“穴”にしかみられてないのよ。馬鹿じゃない」「ッ、」キヨラは溢れそうになる涙を必死に堪える。しかし、こよもはそんな彼女を見下げると、ほくそ笑んだ。「どーせ今回の仕事もカラダで取ってんでしょ。アンタ、そんなに可愛くないもんね」「ッ、ちが、!」「へえ?

じゃあそのショーコ、見せてごらんなさいよ」ほらほらぁ、と頬を指先で押すこよもに、キヨラはついにしゃがみ込んでしまった。その様子を、こよもは心底愉快気に見つめる。


こよも——『不倫女扱いするマシン こよも』は、実は“はれあけ”の候補者の一人だったのだ。先日、番である『毒舌オタ扱いするマシン

あんの』を不具にしたとして、彼女はキヨラを貶める為、彼女へと近づいてきた。そしてそれは、現在進行形で成功している。こよもは、目の前で蹲るキヨラを笑みを隠すことなく見つめる。そうやって傷ついて、疑心暗鬼になって一人ぼっちになってしまえばいい。あんのはそれを強いられたのだ。同じ目に合ってもらわなければ、割に合わない。こよもは周囲に更なる術を掛けるため、嘘八百を頭の中に浮かべていく。ああでもない、こうでもない。あっちがいい、こっちもいい。まるで服でも選ぶかのように取捨選択をしていく彼女は、ウインドウショッピングでもしているかのように楽し気だ。——だからこそ、彼女は気づかなかった。





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「……ドライヤーガンよ。ドライヤーガン戦士が命ず」「あ?」「今すぐ全ての妄執を気化しろッ!」絶望に打ちひしがれていたはずのキヨラが、鋭い目つきで叫び、どこからか飛んできた光がこよもを含めた、その場にいる全員に降り注いだのだ。「ッ、何よ、この光……!」こよもは咄嗟にストールで顔を隠すと、光が収まるまで待った。徐々に弱くなっていく光。完全にその姿が無くなったのを見て、ゆっくりとストールを下ろし、周囲を見回した。「あれっ。今、俺たち何の話してた?」「え?

いや、わかんね」「私達、どうしてここに?」「あっ、早くいかないと次の現場に遅れちゃう!」次々と耳に入ってくる言葉の数々に、こよもはハッとする。——術が、解けているではないか。こよもは周囲から去って行くモデルや俳優たちに慌てて声を掛けようとするが、それも慌ただしい中では虚しい音でしかない。


結局、一人取り残されたこよもは、悔しさに拳を握り締めた。「何て事、するのよ……!」キヨラは俯いたまま、微動だにしない。「アンタのせいでみんないなくなっちゃったじゃない!

何よ、高嶺の花みたいなフリしちゃって!

最低!」キヨラは答えない。それが腹立たしくて、こよもは歯ぎしりをした。どうにか彼女に応えさせたい。こよもは周囲を見回した。そして、机の上に“差し入れ”として置かれていたものを見て、ハッとした。

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「……ねえ、あんた。洋菓子は好き?」「……」「好きかって聞いてんのよ!」耐えられなくなったこよもが、机を蹴り上げた。散らばった菓子を握り締め、形が変わるのも構わずキヨラの頬へと突き立てる。キヨラが不快そうに顔を歪め、「……好きですけど」と呟いた。その返答にこよもはニンマリと笑う。「ハッ。洋菓子ってのは女の生殖器の事を言うのよ


。知らないの? このくそビッチが」こよもはそう告げると、自身の体が霧散して行っている事に気が付いた。……どうやらさっき浴びた光線は、自分達“妄執”を祓うものだったらしい。声も出せないこよもの、最期の目に映ったのは悔しそうな顔をしたキヨラの顔だった。『ハッ。ブサイク』そう告げた言葉は、音になる事無く霧散する霧と一緒に消えていく。あんのを一人にした奴に、少しだけでも報いられたことがこよもは嬉しかった。



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「……そんなの、知らないわよ」キヨラは吐き捨てられた言葉に俯きながら、そう呟く。こよもに握りつぶされた洋菓子は、小袋の中で粉々になり原型も留めていない。それを拾い上げつつ、他の菓子も拾い上げていく。溢れる涙を、キヨラは必死に堪え、その場の清掃を終えた。「キヨラちゃん、そろそろ入ってー!」「……はい」——しかし、プロはプロ。仕事は仕事だ。キヨラはかけられた声にいつも通り元気に返事をすると、撮影場所へと走り出した。キヨラはモデル業に没頭することで、怒りも悲しみも胸の中で押し込めたのだ。——だから、知らなかったのだ。まだ目覚めないトオルがそんなキヨラの様子を、“悪夢”として見続けていることなど。




144

「失礼します」大火傷を負った日から、遂に三か月が経った。キヨラは未だ目覚めないトオルの病室へと入ると、彼女の隣の丸椅子に腰を下ろした。既に集中治療室からは移動し、普通の病室になった今も、トオルは一度も目覚めてはいない。骨と肉しかないトオルの姿に、キヨラは胸が痛むのを抑えられなかった。「……トオルちゃん」持って来た本も、ノートも。今日も意味を為さないらしい。キヨラはランドセルを下ろすと、静かにトオルの頬を撫でた。……まるでお人形さんみたい。そんな言葉を、何度飲み込んだだろうか。口にしてしまえば本当になってしまうかもしれないという恐怖が、キヨラの心を巣くっていた。


キヨラはしばらくひとり言のようにトオルに自分の話を聞かせると、病室を後にした。学校が終わってから来るキヨラは、面会時間が限られている。いつもの看護師とすれ違いながら、キヨラは家に帰るために帰路に着いた。一人きりの帰り道は、どこか寂しく、どうしても隣が気になってしまう。キヨラを気遣ってクラスメイトが一緒に帰ろうと声を掛けてくれるが、キヨラはそれを断っていた。——隣に居るのは、トオルでないとだめなのだと、漠然と思っていたから。「……怪我、よくなってたな」徐々に取れ始めた包帯の量を見て、キヨラはぼんやりとそう思う。火傷ももう少しで落ち着くのだと、医者は言っていた。トオルが目覚めて痛みを感じないのならば、それでいい、何て最近は思うようになっている。心配なのはただ一つ。“はれあけ”の候補者が、寝たきりのトオルを襲わないかどうか。



145

「病院で争いごとをする気はない」「!」突如かけられた声に、キヨラは咄嗟に飛び退く。反射的にドライヤーガンを構えれば、自動的にキヨラの姿がバトル用コスチュームへと変化した。最近、襲撃が多かったので変更してもらったのだ。キヨラはgunを構えたまま、声を掛けてきた主を睨みつけた。——本を持った、細身の男。上から下まで真っ黒な彼は、キヨラよりも少し上で、一見普通の中学生にしか見えない。しかし、足元から伸びる影が九つの羽を広げているのを見て、キヨラは彼が“妄執”の類である事を理解した。「何か用かしら」気丈に話しかけたキヨラに、男——九龍は本から視線を上げた。真っ黒で、光のない瞳にキヨラは冷や汗をかいた。九龍はゆっくりと口を開くと、開いた本の上に手を置いた。「ひいき。ちふん。出ておいで」静かな声と共に本の中から出てきた人影に、キヨラは驚く。操縦ではなく、意思を持った術を初めて見たからだ。


「まずは俺からだぜ!」「ッ——!」奇襲のように襲い掛かって来る影が、キヨラを飲み込む。すると、途端にキヨラの腰が痛みを発した。「なに、を、!」「俺は九人の中の長男坊のひいき。敵の急所を壊して、主を守る者だ。人間は腰が動かないと何もできんからなァ」へへへ、とあくどい笑みを浮かべるひいき。痛みで立っていられなくなったキヨラは、強く眉を顰めた。「兄さんは相変わらずちゃっちいなぁ」「あ?」ふと、ひいきを遮るようにして割り込んできたのは、もう一人の影。「僕は次男坊、ちふん。自分よりも年下の弟たちをこよなく愛する者さ」「お前の方が大したことないだろ」「うるさいなぁ」キヨラを放置して交わされる、言葉の嵐。キヨラはその二人から感じる兄弟への愛が、自分の中に入ってきている事を感じ取った。ぞっとするほど大きな愛情に、キヨラは何もいう事が出来ないまま、その場で静かに成り行きを見守っていた。きゃんきゃんと兄弟喧嘩をする二人に痺れを切らせたのは、術者の少年だった。「ああもう。お前たちは騒々しいんだから」「そんな事言うなよ!」「そうだよ!」「わかったから。戻れ」少年の声に、彼らが再び影に飲み込まれていく。その様子を見つつ、キヨラはドライヤーガンを構えた。いつでも打てるようにとしているのだが、少年が再び本を開いたことでそれは止まってしまう。

146

「ほろう。へいかん。とうてつ。こうふく。出ておいで」次いで言われた四人の言葉に、一斉に影が飛び出してくる。一番最初に出てきた影に、キヨラは驚いた。「どうも。三男のほろうです」「ど、どうも」辛気臭い顔をした人物の正しい姿勢に思わずキヨラも反応してしまう。瞬間、上から何か押し付けられるような感覚に陥った。重みで思わず頭が下がる。必死に抵抗してほろうを睨みつければ、地面の下から縄が飛び出しキヨラを締め付けた。——何、これ。「ちょっとー。やる気だしなよ、ほろ兄」ほろうと名乗った彼を押し退けて、やって来た三人の影に、キヨラは視線を向ける。「俺は四男のへいかん」「僕はとうてつ。五男だよ」「こうふく。六男」次々に自己紹介がなされ、その度にキヨラは襲い来る衝撃に身を震わせた。へいかんの時には心臓が強く締め付けられ、心を閉ざした状態に。とうてつの時には、異常なほどの食欲が。こうふくの時には絞められた心臓が無理やり動かされたような感覚に。キヨラはそれを受ける度に、痛みに声を押し殺した。内臓がバラバラに動くような感じに、不快感と痛みが込み上げてくる。腹を抑えたくても抑えられない状態に呻くキヨラを横目に、少年が本を開いた。「がいし。おいで」四人の影が霧散し、一人の影が顔を現す。次は何が来るのだと震える体を、キヨラは無理矢理抑えつけた。

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「あははッ! なぁに、この雑巾みたいな無様なニンゲン!」「敵だよ」高らかに笑う影に、少年が端的に告げる。ふぅん、と声を漏らした影は、楽し気にキヨラを見つめると、ニヤリと笑みを浮かべた。「初めましてぇ。七男のがいしでぇす。好きな事は——人間を、殺すこと」ドクン、とキヨラの心臓が強く脈打つ。彼女の心を占めたのは——抗いようもない、殺人衝動だった。よろしくね、と笑うがいしの言葉なんぞ、キヨラの耳には届かない。ブチブチと縄を千切り、殺人衝動に従って体が動いていく。だめだとわかっていても、体がいう事を聞かない。『キヨラちゃん!』——不意に横切る声に、衝動がプツリと切れる。その瞬間、全ての呪縛から解き放たれたような、そんな感覚がキヨラを包み込んだ。



148

「……アンタの言いなりになんかならないわ!」キヨラは咄嗟にドライヤーガンを構えると、少年——『大人の龍にするマシン

あまぎ』へと引き金を引いた。突然の事に反応できなかったあまぎは、光線の熱により蒸発。キヨラは無事彼に打ち勝つことが出来たのだった。






149

それからというもの、キヨラはあまりの忙しさに日々を淡々と消費していた。トオルの見舞いにも行くことが出来ず、仕事と学校と、それから自分の家の事と訓練と。忙殺される時間に、キヨラは疲弊していた。——そんな時だった。


「ねぇ、君の事、愛してあげようか」ふと聞こえた無邪気な声に、キヨラはハッとした。にんまりと笑みを浮かべたどんぐり眼が、キヨラをじっと見つめている。しかし、キヨラが彼に気づいたのも束の間。全身に強い痺れが襲い来る。「ッ—―!」立っていられなくなったキヨラが、悲鳴を上げることもなく倒れるのを見て、「あはっ!」と男は甲高い笑みを浮かべた。走る電流にキヨラが体を丸め、耐え忍ぶ。そんな彼女に、男は歩いて近寄ると、にんまりと笑顔を見せた。「僕ね、いつもこうやって両親に愛されてるんだぁ。ねぇねぇ、どう?

愛されるってどんな気持ち? 幸せ?」と首を傾げる彼に、キヨラは言葉を告げようとして——しかし、出来なかった。全身——主に下半身と脳に感じる痺れに、何かを言うのもつらい状況だったのだ。男はしゃがみ込むと、キヨラを見つめ、ぶつぶつと何かを呟き始めた。何を言っているのかと耳を傾ければ、まるで呪詛のような「死ね」の嵐。その言葉を耳にした瞬間、頭が割れそうな程の痛みを発した。キヨラが必死に頭を押さえて抵抗するが、それも叶わずびりびりと痺れる脳に、吐き気が込み上げてくる。

150

「う、あぁぁ……!」「いいねぇ、いい顔するねぇ。もっと、もっと見せてよ!」ふふふ、と笑みを浮かべる男——『知的所有財窃盗マシン

ぱぱぱ』に、キヨラは強く睨みつけた。急にこんな事をして、ただじゃ済まさないとでも言いたげな好戦的な視線に、ぱぱぱは笑いをひっこめると真顔で首を傾げた。「なぁに、その顔。気持ち悪いんだけど」真顔でそう言い放った彼に、キヨラは息を飲む。——刹那、更に強くなる電流に、キヨラはついに悲鳴を上げた。「ああ゛あぁ゛ああッ!!」「ふふふっ。うんうん、いい顔いい顔!

やっぱりそうじゃなくっちゃね!」「く、ぅうううっ……!」痛みに悶えるキヨラに、ぱぱぱは心底愉しそうに微笑む。その手には、スケッチブックのようなものが握られていた。そこにはなんと、キヨラの悶え、苦しむ顔がしっかりと描いてあったのだ。しかも、どれもどこか魅惑的で、耽美な印象を受けるシーンばかり。恍惚に歪む紙の中のキヨラは、一見性的なものにも見える。「ふふふっ。やっぱり被写体がいいといいねぇ」「くっ、や、めッ、!」「『体の中に電流が入ってくるぅ!』って?

あははっ、頭わっるそー!」あははは、と笑うぱぱぱは、その後もキヨラの内心を勝手に決めつけ、勝手に口にすると、それを更に紙の上へと描き殴っていく。それはお世辞にも“上手い”と言えるような代物でもなく、キヨラは屈辱的な思いが込み上げてきた。——どうにか、どうにか反撃する隙があればいいのだけれど。



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「ふざけないで。そんな卑劣な顔、キヨラちゃんは絶対にしない」ふと聞こえた声に、キヨラは意識が浮上していく。「私がキヨラちゃんをモデルに、漫画を描くから!

すっごく可愛いキヨラちゃんを。だから——!」「「負けないで!!」」……どこからともなく聞こえた声に、キヨラはゆっくりと起き上がった。手にはドライヤーガンを持ち、服は戦闘コスチュームに切り替わっている。「な、何で!?

動けるはずないのに!」「ッ、私を侮辱したこと、絶対に許さない……!」キヨラはキッとぱぱぱを睨みつけると、gunを構えた。「死ね!

妄執!」高らかに叫んだ声が、ドライヤーガンの力を増幅させ、鋭い閃光が紙ごとぱぱぱを貫いた。「ぎゃああああっ!!」汚らしい叫び声を上げながらも消滅したぱぱぱ。キヨラは全ての紙を塵も残さず燃やし尽くすと、ふと、思い出す。

152

——あの時聞こえた声は、一体誰のものだったんだろう。聞き覚えのある声だったが、脳に電流が流れていた為に、上手く聞き取ることが出来ていなかったのだ。キヨラは重い頭を軽く振ると、ゆっくりとため息を吐いた。……まあいいや。それよりも、早く事務所に向かわないと。仕事に間に合わなくなってしまう。






153

キヨラは走った。向かう先は家でも、学校でもない。——この街で一番大きな山の、その奥の奥。


自然しかないであろうそこは、昔、“そらうみ”の生贄が閉じ込められていたのだと、キヨラは聞いたことがあった。“そらうみ”の生贄は、数年前まで実際にあったらしい。キヨラ自身は詳しいことを知らないが、それはもう悲惨な目に合っているのだと、聞かせてくれた人は語る。——曰く、生贄はそういうものなのだとか。キヨラはその話があまり好きではなかった。生贄にされた人間にとっては、ただただ我慢するしかないのだから。だからこそ、キヨラは話を聞いた時からずっと、その話を“おとぎ話”だとして認識していた。——そのツケが、今になって回って来たのだろう。


「いたいっ! やめて、おねがっ、!」「うるせぇ! 黙れ!」「っ、!」浴びせられる罵詈雑言。暴力の嵐に、キヨラは頭が可笑しくなってしまいそうだった。



154

キヨラの元に届いた手紙を見たのは、今日の朝の事だった。ポストに直接投かんされたであろう手紙。そこに書かれた文言に、キヨラの血の気がサァッと引いていく。——『匕背トオルは預かった。返してほしくば、以下の場所まで来い』……発信元はわからなかったが、これが本当なら大事である。キヨラは紙を握り締めると、飛び出した。——それが地獄の始まりだとは、知らずに。



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愛される事しか知らなかったキヨラの身に降りかかる心ない言葉はつらく、痛々しいものでしかなかった。「お前が生まれた事で、すべてが害悪に染まるのだ」と何度も何度も言われ、鞭を打たれる。——それが“そらうみの生贄”が実際に経験したことだと知ったのは、長い暴力の中での事だった。自身の知らない名前を何度も何度も呼ぶ男女たち。飯に入れられた虫の死骸の数々。『いっその事、殺してほしい』……そう願う生贄の娘——

“まき”という少女は、泣きながらも耐え続けた。次第にその返事は少なくなり、痛みに耐え続ける時間だけが続いた。キヨラは痛みさえ薄れゆく中で、考える。——もしこれをトオルが経験しているのであれば。見過ごすことなど、出来る訳がないだろう。「……トオルちゃんを助けるのは、私だ」キヨラはそう決意を口にすると、痛みに悶える体に鞭打って、蔵の扉へと手を伸ばした。軽く扉を押してみて、ハッとする。——鍵が、かかっていない。誰かがかけ忘れたのだろう。キヨラは扉を開け、蔵を逃げ出した。

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満身創痍のまま、森の中を走って行くキヨラ。いつ気づかれたのか、後ろから追いかけてくる人々の怒号に震える足を叱咤して、キヨラは走り続けた。向かう先なんてわからない。けれど、蔵が頂上に近かったという事は、麓に降りていけばどうにかなるはず。キヨラはとにかく足を動かした。木々に服を引っ掛けながらも、振り切るように走り——「見つけた!」遂に目的の家を見つけた。その時にはもう、キヨラはみすぼらしい姿ではなく、いつものコスチュームを身に纏っており、手にはドライヤーガンを持っていた。



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「待ちなさい!」扉を叩く直前、キヨラは見えたその背中に声を上げる。ゆっくりと振り返ったのは、トオルをその両腕で抱いた男——『縁組みマシン

たくや』だった。「やあ。随分と早かったじゃないか。そんなに僕の路線図は簡単じゃなかったと思うんだけどなァ」たくやはほくそ笑む。——そう。さっきまでの幻影は、彼の術だったのだ。“阿鼻叫喚”を敷き、“宿る陰”で周囲の人の心に陰を宿らせた。そこから始まる、“妃餓死”の術。生贄を餓死させる作戦だ。“待つ蟲”は飯に掛けた幻影で、“水神ノ森”は深い深い森の奥で孤独に幽閉することを意味する。その他にもたくさんの術を重ね合わせた結果、あのような地獄が行われ——キヨラはその術を一心に受けることになった。ボロボロの体は、今にも崩れ落ちてしまいそうだ。しかし、目的としていたトオルが目の前にいるのだ。こんなところでくたばるわけにはいかない。



158

「その子を離して」「どうして?」首を傾げるたくやに、キヨラはgunを突き付けた。両腕でお姫様抱っこをされたトオルは、目を開けていて、キヨラとたくやを交互に見ている。キヨラは歓喜に震える心を抑えながらも、たくやを睨み上げた。「その子は私の大切な人なの。あなたのじゃないわ」「いいじゃないか。女の子同士で結婚も出来ないんだろう?

僕が貰って、“大切に”してあげるよ」強調された言葉に、キヨラはハッとする。そして、先ほどまでの痛みを思い出したかのように、その身を震わせた。「……あれが愛情だっていうの?」「当然。僕の理想の愛情さ」「くだらない。トオルちゃんを返して」「……嫌だと言ったら?」「強制的にでも、連れて帰るわ!」キヨラの声に、たくやはぞっとするほどの笑みを浮かべた。

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「──鬼多波多気」「きゃあっ!?」たくやが呟いた瞬間、沢山の音がキヨラの耳を劈く。「うぅっ、み、みが……っ!」キヨラは耳を塞いで蹲った。聞こえてくるのは数多の声。耳のいい彼女にとっては、地獄のような時間だ。キンキンと高らかに響く声に混ざるようにして、低い声が地響きとして伝わってくる。「うっ、く……!」キヨラの瞳に涙が浮かぶ。その様子を見下げたたくやは、片手で印を結ぶと、目を閉じた。「いでよ、穂素意龍」静かに口にしたたくやに応えるように、周囲が震える。するとキヨラの足元が共鳴し、地面が揺れる。刹那、地面が左右に大きく引き裂かれた。痛みの残る身を翻して、キヨラは間一髪でそれを避ける。地面が引き裂かれたのを舞う宙の中で見たキヨラは、息を飲んだ。「っ、凄い術……!」暴力的なまでの力に、勝てるかどうか不安が過る。しかし、ここで怖気づいている暇はない。キヨラは前回転をすると、痛みに呻きながらも、トオルに怪我が及ばない様に注意しながら、gunを打ち続けた。だが、たくやは手を振ってそれらを跳ね返す。跳ね返ってきた攻撃を間一髪で避け、キヨラは宙へと飛び上がる。



160

既に光線を放っているドライヤーガンだ。もうそんなに長い時間は持たないだろう。軋む体を押して、キヨラは次に放たれる攻撃を避ける。大きな岩が体のスレスレを横切り、ひやりとしたものが背中を伝う。……もしさっきのに当たっていたら、じぶんはきっと、こうして息をしていないだろう。キヨラはそんな恐怖を飲み込み、気丈にも彼を睨み上げた。


「トオルちゃんを返して!」「そんなに返してほしくば、力づくで取り戻してみろ!」たくやの声に、地面が共鳴する。土の中から出てきたのは、人の形をしたゾンビのようなものだった。蠢くそれらに、キヨラは素早くgunの引き金を引いていく。家の特訓で身に着けた射撃の腕は、伊達じゃない。それよりも弾切れの方が、キヨラは心配でたまらなかった。激しい攻防が宙を行き交う。連続での戦いで満身創痍だったキヨラは、たくやの攻撃を避ける事で精一杯だった。岩を避け、足を掴もうとする亡者たちのおぞましい手から跳躍し、逃げるキヨラ。

161

体力はもう、限界だった。薄れそうになる意識を引き戻して、キヨラは歯を食いしばり、狙いを定めた。「これで終わりよ!」踏み込んだ足がバランスを崩し、ぐらりと揺れる意識の中。最後の抵抗だとばかりにキヨラは渾身の弾を打ち放った。——しかし、それは虚しくも外れ、たくやの足元を貫いた。キヨラの顔が絶望に染まる。彼女の持つドライヤーガンの充電は、残り僅かだというのにこのタイミングで外れてしまうなんて。「そん、な……!」「ハッ!

馬鹿な奴だ。最後の弾を外すなんてなァ!」高らかに笑うたくやの声が、キヨラの耳を劈く。キヨラは初めて敗北するのではないかと焦りを覚えた。




——せめて、トオルだけは。

162

キヨラは焦ったように彼女へと手を伸ばした。「トオルちゃん!」「させるかよ!

——素巳世死!」たくやが印を結び、高らかに宣言をする。それに呼応するように、引き裂かれた地面から黒い、巨大な蛇が顔を出した。「ッ——!」急速にキヨラへと向かった蛇は、彼女の華奢な体をその牙で捉えると木々をなぎ倒しながら山へと叩きつけた。「カハッ……!」激痛が全身を走り、キヨラの喉から渇いた悲鳴が零れる。綺麗な四肢は木々に引っ掛かり傷だらけになり、キヨラは痛みで遠退く意識を必死に手繰り寄せた。gunを使った攻撃は出来ない。体を捻るが、その度に蛇の牙が体に突き刺さる。霞んでいく視界で捉えたのは、優雅に歩いてくるたくやと抱えられたトオルの姿。「っ、トオル、ちゃん……っ」「しぶといなァ」「くっ……この、妄執め……。私が絶対、祓ってやる……!」「ハッ。何を減らず口を」たくやがほくそ笑みながら、彼は再び印を組む。キヨラは、次に来るであろう痛みに身構えた。「——阿太刀鳥!」たくやの凛とした声が響き、刹那、キヨラの肺を鋭いものが貫いた。「ぃッ……!!」悲鳴が空気のように抜け、つぅっとキヨラの口元から赤い血が流れる。キヨラは突然の事に動揺を隠せないまま、ゆっくりと自身の胸元を見下ろした。

163

「ぇ……」——かた、な……? 見下ろした自身の胸元から伸びる銀色の刃物に、キヨラは目を見開いた。肺が貫かれているのだろう。ヒューヒューとした細い呼吸に、キヨラは全身が一気に冷えていくのを感じた。これは、まずい。キヨラの頬に、冷や汗が流れる。しかし、目の前でニヤつくたくやは、まるで抗うキヨラを楽しそうに見つめているだけで攻撃を止める様子はない。……どうしよう。どうしたら。キヨラは痛みに鈍る思考を無理矢理動かした。……けれど、痛みに支配された思考はそう上手くはいかなかった。『痛い』『逃げたい』『助けて』『だれか』……そんな弱気な言葉が、つらつらとキヨラの全身を流れていく。キヨラは俯いた。「っ……」——もう、嫌だ。こんな痛い思いをしてまで、頑張らなきゃいけないなんて。自分だってもっと友達と遊びたいのに。こんな……こんな、紀眞家に生まれたからって、こんな事——。



164

「キヨラちゃん!」「——!」高らかに響いた声に、キヨラはハッとして顔を上げた。……今の、声は。キヨラはゆっくりと正面を見つめ、その目を大きく見開いた。たくやの手に抱き寄せられたトオルが、キヨラの方へと手を伸ばしている。細い指先に、惹かれるようにキヨラは手を伸ばした。二人の指先が触れ——ドライヤーガンが光を放つ。「なっ……!」輝かしい光にたくやの目が眩む。不意をつかれたことで術が弱まったのか、蛇が霧となって霧散して行く。その瞬間を、キヨラは見逃さなかった。「トオルちゃん!」触れた指先を掴み、引き寄せる。——その瞬間。ゴゴゴと鈍い音がし、たくやの足元が大きく崩れ始める。「な、なんだこれはっ、!?」悲鳴にも似た声を耳にしつつ、キヨラは颯爽と地面を蹴り上げると、トオルを抱きかかえたまま少し先へと着地した。音は次第に大きくなると、地面を大きく抉った。切り裂かれた地面、そして蛇の与えた振動により、土砂崩れが起きたのだろう。

165

「う、うわあああ——!!」木々すらも巻き込んで、土砂が麓へと向かって行く。その勢いに飲み込まれていくたくやは、悲鳴も聞こえないまま切り裂かれた地面の底へと落ちていく。その様子を見つめ、キヨラは安堵に胸を撫で下ろした。——偶然も味方にする。それこそが本物の戦士だと、何時しか聞いたことのある母の言葉が脳裏を過った。限界に近いドライヤーガンを手にしながら、キヨラはゆっくりと目を閉じると、トオルの手を引いてその場を後にした。——もう、彼が起き上がってくることはないだろう。





166

「トオルちゃん、大丈夫だった?」キヨラは一先ず体を休める事にした。近くの小屋に身を隠すと、救急セットを取り出し、自分の傷を処置していく。その時、はたと気づいたのだ。——トオルの声を、まだ聞いていない。キヨラは問いかけるのと同時に、トオルをちらりを盗み見た。トオルはぼんやりとこちらを見ていて、まるで心ここにあらずの状態であった。「……トオルちゃん?

どうしたの? 具合でも悪い?」トオルは答えない。いつもなら優しい笑みで応えてくれるのに、と思うのと同時に、トオルの顔がゆっくりとキヨラを見つめた。そしてぎこちない笑みが浮かべられ————「あの……どちら様、でしたっけ?」静かに言われた言葉に、キヨラは自分の腕に巻いていた包帯を取り落とした。

167

「……え」「すみません。私、まだ起きたばっかりで……その、さっきの人も見覚えないですし……ここは一体……お父さんとお母さんは」「ちょ、ちょっと待って、トオルちゃん」矢継ぎ早に質問を口にするトオルに、キヨラは限界だとばかりに声を上げた。何よりも、自分を“どちら様”なんて言う彼女を、キヨラは信じたくなかったのだ。「トオルちゃん、本当に私の事、覚えてないの?」自分を落ち着かせるように、トオルの両肩を掴み、彼女へとゆっくり問いかける。その問い賭けに驚いたトオルは、視線を彷徨わせた。……その反応で、キヨラはトオルが嘘をついていない事を、理解した。「……ごめんなさい」「……そ、っか……」




——嗚呼。神様はなんて無慈悲なのだろうか。

168

一人でいることに不安になりながらも、彼女を助けようとして駆けつけて、敵にも勝って。それなのに助けた“大切な友人”の彼女の中には、自分はいない。そんな事が、本当にあっていいのか。キヨラは痛む心の臓を服の上からぎゅっと握り締めた。……今までで受けた術の何よりも、痛くて痛くて、堪らなかった。身を挺してキヨラを守ってくれたトオルは。一緒に居ようと約束してくれたトオルは。夢を一緒に追いかけようと約束してくれたトオルは。——もう、ここにはいないのか。

169

「あの、」「なあに、トオルちゃん」「なんで、泣いて……」——泣いて?

おろおろとしたトオルの様子に、キヨラは首を傾げる。その瞬間、頬を伝った生温かい感触に手を触れ、キヨラは自分が泣いている事を理解した。瞬間、溢れる涙が止まる事無くボロボロと落ちていく。「ひっ、うっ……ごめ、ごめんね、トオルちゃん」「え、ええっと……」「ごめん。守れなくて、ごめん」キヨラはトオルの華奢になった体を抱きしめた。骨と皮しかない、立っているのもギリギリではないかというほど細い姿に、キヨラは更に涙が込み上げてくる。



170

トオルは自分の事をあんなに守ってくれたのに、自分は結局、何もできなかった。ゆづるの術を解く方法も、彼女へと伸びる敵の手も、体だけではなく心に受ける傷も。“守ってあげる”なんて約束しておいて、一ミリも成し遂げる事の出来なかった約束事に、キヨラは悔しくて悔しくて堪らなかった。それどころか、自分との記憶を忘れ去っているのを見て、自分はやはり彼女にとって害悪でしかないのではないかという思いが込み上げてくる。もし、自分と彼女が一緒に居なければ。自分が紀眞家ではなく、別の家の出身であれば。はたまたトオルが、匕背の家に生まれることがなければ。そうすれば、もっと普通の友達でいられたのではないか——。そんな、“もしも”話が頭を過っては消えていく。情けない。そう思っても、もう彼女は自分を励ましてはくれないだろう。それが、寂しくて、苦しくて——。

171

「えっと……泣かないで、ください」ポン、と頭の上に置かれた手に、キヨラは息を飲む。抱きしめ返されたのだと気づいたのは、そのすぐ後だった。ぎこちなく撫でるような動作は、記憶を失う前と変わらない。体温も、心音も、香りも。全てが“匕背トオル”のものだった。「私が何か、忘れてしまっているのなら謝ります。だから、泣かないで——キヨラちゃん」「ッ、!」まだ教えていない、自身の名前。それをトオルが口にしたことに、キヨラはハッとした。「あれっ。私、なんで……すみません。記憶が混乱しているのかもしれません」「……ううん。大丈夫、合ってるよ。トオルちゃん」「そう、ですか……?」「うん」不安げなトオルに、キヨラがはにかむ。「遅れてごめんね。私は紀眞キヨラ。トオルちゃんの、友達だよ」「とも、だち……?」「うん、友達。それも、とびきり仲がいいの」キヨラははにかみつつ、トオルとの関係性を口にした。初めて会った日の事。一緒の学校で一緒に過ごしたこと。思い出なんて何の意味もないかもしれないけれど、少しでもトオルの役に立てればと思ったのだ。「そう、だったんですね」「うん」「それなのに、私は忘れてしまって……ごめんなさい」泣きそうになるトオル。その頬を両手で包み込んで、キヨラは首を振った。「ううん、いいの。トオルちゃんには沢山助けてもらった。一緒に楽しい思い出も作ってもらえた。だから、いいの」「……そう、ですか」「うん。だからね。——トオルちゃんさえよければ、これから先も、私と思い出を作ってくれないかな?」「えっ」「ダメ?」驚愕に見開かれる、トオルの瞳。予想外だったのだろう。そんな顔をしている。


「……私、前までの“トオル”じゃないですよ?」「うん、わかってる」「また、迷惑を掛けちゃうかも」「寧ろかけてよ。そうじゃないと私、不安になっちゃう」





172

「わ、たし——あなたの隣に、いてもいいの……?」「——もちろんだよ」


キヨラの言葉に、今度はトオルが瞳に涙を溜める。しかし、零れないそれに、キヨラはとてつもない寂しさを覚えた。泣き虫で、内気で。そんな子が、泣きたいのを我慢している。……そのことが、どれだけ寂しい事か。キヨラは初めて感じる気持ちに、トオルを再び抱きしめた。強く、強く。彼女の心を自身に縫い留めるように。僅かにトオルの頬を流れた涙が、キヨラの服を濡らしていく。その感触に、キヨラは込み上げる嬉しさに涙した。





173

月明りが照らす小屋の中。二人の少女が互いを支え合うように、寄り添う。その姿を、明るすぎる満月だけが見守っていた。「……そろそろ帰ろうか、トオルちゃん」「うん。帰ろう、キヨラちゃん」どちらともなく手をつなぐ、二人の少女。恥ずかしそうにはにかむ二人は、どこかぎこちないものの、幸せそうに微笑んでいた。


——焼け焦げたドライヤーガンは、もうその役目を果たすことはないだろう。






174

キヨラを付け狙う、“はれあけ”の陰陽師との戦いは、その日を境に終幕を迎えた。候補者は全ていなくなり、——彼女の戦う意味は、もうなくなった。




そしてその年、キヨラの母はもう一人の子——タカラを身籠った。その小さな魂に、キヨラとトオルは歓喜した。タカラのドライヤーガン戦士生活に無くてはならないのが、先輩戦士であるキヨラなのだが……タカラは果たして、役目を全うすることが出来るのか。——それはまた、別の話。


ドライヤーガン戦士 キヨラの話はこれで終焉だ。


おしまい


外伝につづく

挿絵(By みてみん)

垣野内成美で慰謝料コミッカライズ出来ないかな?

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