ドライヤーガン戦士シリーズ④キヨラ前編
開始日21.09.01.
「タカラ」「キヨラ」この話は三好と錦戸の「タカラがサクラを殺す」「タカラがサクラとレズ」という二次創作を阻止する為に生まれたお話です。
体験談と聞かされる悪口で私を殺す名前の人をシャッフルして、イメージは違うけどdramaticに仕上げてもらいました。なのでご注意を。
元々代筆屋さんを頼んだのは、「キヨラ」は小野と「タカラ」は錦戸にゲシュタルト崩壊させられたからです。
終了日21.11.27.
001
ある日。
現代日本のとある場所に、壊れたかけた魔法のgunがありました。
それはドライヤーのような形をしており、”悪者退治”が可能なgunでした。
ドライヤーガンと呼ばれたganは、『妄執』という人の感情から生まれる悪者を気化する能力がありました。その為、使い手は慎重にそれを使わなくてはいけません。また、コードレスになったgunは充電式で、充電が切れるまでは僅か3時間。決着は早くつけなければなりませんでした。
そんなgunの所持者として、当時小学3年生であった、1人の少女が選ばれたのです。
名前を“紀眞キヨラ”といった少女は、代々引き継がれる特殊な戦闘服を纏い、守護を受けると共に、人々の苦悩である『妄執』と戦う使命を背負ったのです。
また、キヨラは家系のしきたりによって、幼い頃から婚約者を決めなければいけませんでした。しかし、婚約者を決められずにいたキヨラは、クラスメイトの匕背トオルと一緒に学生生活を送るよう、言いつけられたのです。
元々、悪者退治をしていた紀眞の家系と匕背の家には繋がりがあり、生まれつき持つ障害を補う関係にありました。
紀眞の家は聴覚が弱く、通常では測定出来ない音が五月蝿く聞こえる体質で、匕背の家は生まれながら極度の視覚障害を負っている。
――目と耳。
それぞれ互いに、弱い部分を補うかのように紀眞家と匕背家は今生まで生き残って来たのです。
これは、そんなドライヤーガン戦士の、壮絶な過去の物語。
002
――私、匕背トオルは見てしまった。自分と同じ小学3年生の紀眞キヨラが、シュロ細工の加工場で数日間社長をしているのを。クラスメイトであり、婚約者候補として一緒にいることの多い彼女が、何故シュロ細工の加工場なんかに居るのだろうか。そんな疑問も他所に、彼女は笑いながら作業員を激励していた。大人たちは快く応えていて、彼女がここに居る違和感何て物ともしてない。
003
たくさんの木に囲まれた一帯にある加工場。——その植物がシュロだと解ったのは、以前キヨラちゃんの庭に2本の木が生えていたのをみて、「椰子の実の無い椰子?かわってるね。」と問いかけたところ、「あれはシュロの木だよ」と教えられたからだ。そういうのが好きなのかと首を傾げれば、「いつか教えてあげる」と微笑まれたのだ。長細くて変わった木だと、思った事だけは覚えている。
004
視覚障害者の私は、同じクラスであるキヨラと『婚約者関係』になるはずだった。しかし、私は”トオル”なんて名前をしていても、立派な女の子。もちろん、由緒正しい家系で女の子同士の婚姻を結ぶことは出来ない為、そういう関係にはならなかった。最初は男に生まれなかったことへ申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、一緒に過ごしていくうちに、それで良かったと思うくらいには紀眞キヨラは学園のカリスマ的存在——つまり、みんなの憧れの的だった。
005
老若男女を魅了する彼女は、頭脳明晰で運動神経も抜群。人当たりもよく、見目は驚くほど整っていた。お人形と並んで立っていたらわからないくらい。そんなキヨラは、内気で漫画家を目指す私には、もったいないくらいの存在だった。……同性で良かったと胸を撫で下ろす反面、こうしてきびきびと働くキヨラに「素敵だなぁ」と心の中でひっそりと憧れる。“デキる女”というのは、凄くカッコイイ。
006
シュロの加工品。見た事のないそれに、トオルは目を奪われる。だが、箒を出荷し終えたところで、キヨラちゃんの社長業は終わりを告げたようだった。
「お待たせ。行こう、トオルちゃん」と声をかけられ、私はキヨラに手をひかれて彼女の家に向かう。遠い血縁関係という事もあり、誕生日も近い私達。元々、親戚として家族ぐるみで仲が良い事もあって、互いの家にお泊まりする事は頻繁にあった。
007
ふと、私は前を歩くキヨラちゃんのランドセルの内側に、何かマスコットのようなものが付いていたのを見つける。「それはなあに?」と聞けば、意味深な顔で「トオルちゃんだから教えてあげるね」と笑う。こそこそ話をする時と同じ至近距離で、頬を染めた顔で笑いながら言うものだから、私の胸は早鐘を打った。どきまぎする私の手に、紐を解いたマスコットが置かれる。それは小さな草鞋だった。可愛い。『どれくらいの小人さん用なんだろう』と思う私に、「これは交通安全のお守りなんだよ」とキヨラがくすくす笑いながら教えてくれた。自分の気持ちが筒抜けになったのかと思ったが、どうやらそうではなかったらしい。
008
「大好きなおばあちゃんの形見で、手づくりなの」とキヨラは自慢げに言って、トオルの手から草鞋をとると、再びランドセルの内側につけた。可愛らしい仕草に頬が熱くなってくるが、なるほど。そうだったんだ。「そのおばあちゃんは?」「もう、死んじゃった」「そうなんだ……」「でも、とっても素敵なおばあちゃんだったんだよ」嬉しそうにはにかむキヨラに、「私も、会ってみたかったなぁ」と言えば「私も。会わせてあげたかったな」と微笑まれる。大切なものがあるキヨラが何だか羨ましい反面、心底嬉しそうな彼女に、私自身も嬉しさが込み上げてきた。
「いいなぁ」と本音が自然に漏れてしまった私に「トオルには私が作ってあげるから待ってて。もちろん、一生大切にしないと承知しないわよ」と可愛らしく微笑むキヨラ。その可愛らしい微笑みに、私は顔を真っ赤にして頷く他なかった。
009
キヨラの家に入り、夕ご飯をご馳走になった私は、お風呂に入った彼女と同じベットに二人で横になった。眠れない私に、何時もなら『神話』『民話』『伝説』を語ってくれるキヨラが、この時はどこか意味深な口調で、「寝れないの?」と問いかける。その言葉に頷けば、彼女は「内緒だよ」と微笑んでいつもより潜めた声で話し出した。
──彼女の親族は、仏壇に供える槙を栽培し、“お寺”や“神社”に売っているのだとか。
そして別の親族がゴミ回収員と廃品回収にあたっており、それがどういう意味を持つのかを、キヨラは教えてくれた。
元々、キヨラの家系は部落と呼ばれる、昔は差別に苦しんだ血族婚の一族で、更に彼女は幼いながらも“ドライヤーガン戦士”として「妄執」という、怒り狂い、人で無くなった元人間をハントする特殊警察の身分で有るのだと。
私はまるで御伽噺のような話にびっくりして、眼が冴えてしまった。しかし、それとは逆に打ち明けを終えたキヨラは、幸せそうにすやすやと眠ってしまって、あどけない顔を晒している。……これ以上は問いかけるのも出来なさそうだ。
010
聞くことを諦めた私は、寝てしまったキヨラを見つめる。モデルの子の様な、小さな顔にどきまぎが止まらない。私はキヨラから打ち明けられた話を思い浮かべ、結局眠れないまま、眠たい朝を迎えた。ゆっくりと布団からでるキヨラは、隣で呆けているトオルに「おはよう」と告げて、着替えだした。私は何だか見てはいけないような気がして、上布団で顔を隠してキヨラが制服に着替え終わるのを待った。
011
「さきにいくね」とキヨラの声が聞こえ、次いで階段を小気味良く歩く音が聞こえた。私はようやっと布団を下げると、呆けた頭にげんこつをいれて、急いで制服へと着替えた。動揺にボタンが上手くとめられなかったけれど、仕方がない。なんとか制服に着替え、私も下へと降りていく。転ばない様に慎重に足を踏み出し、──ずるりと置いたはずの足が滑った。慌てて手を伸ばすが、それよりも早くたまたま階段近くに来ていたらしいキヨラにキャッチされた。無意識に瞑った目を開いて、キヨラを見る。「大丈夫?」と聞かれ、私はどくどくとうるさい心臓に手を当ててコクリと頷いた。
012
お姫様だっこされていることに気づき、慌ててキヨラに下ろしてもらうよう頼んでいれば、それを見たキヨラのお母さんが「早く食べないと遅刻するわよ」と二人の仲を笑いながら見守り、声をかけた。「あぶなかったね」と笑うキヨラに、破裂するかの様な心音で汗だくになった私は、全身が真っ赤に火照ってしまう。「ありがとう」と蚊のなく様な声でキヨラに礼を告げ、今度は落ち着いて降ろしてくれる様に頼んだ。「てへっ」とペロッと舌をだし、キヨラは王子様の様に丁寧に私を腕からおろした。キヨラが私の襟を直し、「早く食べよう」と満開の笑顔で言う。私は「うん」と小さく頷き、キヨラの後ろを追いかけた。
013
朝ごはんを詰め込み、学校へと登校した私は羨望の眼差しに晒されながら、自分の席に腰を下ろした。キヨラちゃんの人気は衰え知らずだ。授業が始まり、私は意識を宙へと投げる。思い出すのは、昨日キヨラちゃんが寝る前に話してくれた事の数々だった。──紀眞家は昔、差別に苦しんだ血族婚の一族であること。そしてドライヤーガン戦士として「妄執」という、怒り狂い、人で無くなった元人間をハントする特殊警察の身分であること。……夢物語のようにも思えるそれらを、私は何度も何度も反芻する。
014
嘘、とは思えない雰囲気が、キヨラの言葉には詰まっていた。未だ幼い子供である私には、難しいことはあまりよく分からなかった。けれど……『元人間をハントする事』が“どういう事”なのかは、何となく想像がついていた。それを言ったキヨラが、その時だけはどこか悲しい表情をしていたから。私は考える。それが『悪を成敗する』という事は分かるけれど、その『正義』は人から見ればただの『人殺し』で。でも、きっとそれがないと私たちは皆『妄執』に囚われてしまうのだろう。良い事……なのだろうけれど、私には『いい事』だと言い切る事は出来なかった。——是か非か。寝不足の頭では、授業が終わるまで結論は出なかった。
015
「そろそろ、お前たちも将来の夢について考えておくんだぞ」そう言って笑う先生は、教壇を下りて教室を出て行った。ついさっきまで道徳の時間だったのだ。教室がガヤガヤと賑やかになるのを横目に、私は自分の机の引き出しからノートを取り出した。どのノートよりも草臥れている紙の集まりは、自分だけの秘密のノートだ。先生の言葉が脳裏を過る。——私の、夢。それは、人気漫画家になることだった。
少女漫画のようなキラキラした世界が描きたい。可愛い女の子たちが自分らしく、悩み、葛藤して成長していく姿を、私が描くのだ。そう意気込んで、私は何作も描き続けている。途中で終わっちゃったのもあるけど、でも、描くのは授業を受けるよりも楽しい事だった。
016
そして私には今、画策している事がある。——紀眞キヨラ。彼女をモデルに、何か良い作品が描けないかと悩んでいるのだ。
同学年の同性から見ても可愛らしいキヨラちゃん。先輩達や後輩達にもとってもモテていて、まるでみんなのお姫様的存在。そんな彼女を描きたいと、そんな密かな願望が私にはあった。しかし、彼女を輝かせる舞台が中々思いつかないのだ。どんな舞台でも輝いてしまえるほどのオーラを持った彼女は、主人公として完璧すぎたのだ。でも、出来るなら一番多く描きたい。自分の願望と現実に、私はネタ作りの時点で頭を悩ませていた。
キヨラちゃんは、大人しく地味な私には無いものを沢山持っている。別に居ても居なくても変わらない山の枯れ木……それが私。賑やかしにすら参加できないくらい臆病で、人見知りな私はキヨラちゃんのようなカリスマ的存在とは真逆の存在だ。だからこそ、憧れる訳なのだが……。
017
キヨラちゃんの背中を見つめる。眼鏡をかけていても少しぼやける背中は、どこか他のクラスメイトとは違うように見えて。——キヨラちゃんは、どうして私と一緒に居てくれるんだろう。なんて言葉がぽつりと頭に浮かんだ。キヨラちゃんと真逆の存在で、家の事がなければ、本来キヨラちゃんと話すらできなかったかもしれない凡人だ。なのに、キヨラちゃんは私といてくれる。……笑いかけてくれる。それが友情からなのか、それとも家繋がりからくる使命感なのか。……私には、分からなかった。
018
互いに一人っ子だ。姉妹ごっこ、なのかな? と考えた瞬間、頭の中で重々しいショック音が響くのを感じた。思った以上にショックを受けている自分に驚く反面、込み上げる感情の波に鉛筆を持つ手が震えた。──『一緒に居たい』、『離れたくない』、『誰かにその眼差しを向けないで』、『私だけ見て』。……次々に溢れる気持ちに、私は息を飲む。友達に抱くにしては重過ぎる感情は、どう考えても少女漫画の中で書かれるものばかり。──私はきっと、彼女が好きなんだと理解したのは、すぐだった。
自分の中で目覚めた、はじめての恋。それは淡く脆く、清らかさに翻弄される。自分の“感情”が、彼女に受け入れられない事が何よりも怖かった。『キヨラちゃんと離れた方が良いのかな』と悩む反面、『私は素敵なキヨラちゃんを漫画のヒロインにしたいだけで、恋なんてものじゃない』なんて言い訳する。……相容れないアンビバレンスに苛まれた私は、結局どの授業も集中して聞くことが出来なかった。
019
——キヨラちゃんはクラスだけに留まらず、学校中のカリスマ的存在だ。親衛隊の許可なしには近づけない。目を合わせることが出来たらそれだけで羨ましがられるほど。家の事もそうだし、彼女自身の努力が滲み出ている結果でもある。……そんな子が、同じ小学三年生である事も驚きだが、何より自分と近しい人である事に驚愕する。とはいえ、自分のこの目を真に理解してくれているのは、彼女だけである。彼女だけが自分のこの目の弊害を正しく理解し、手を伸ばしてくれるのだ。この短い人生の中で、私はそれを心身共に理解していた。そんな“例外”である私は、よくキヨラちゃんと一緒にいる時に鋭い眼差しで睨まれるのを感じて、身を竦めているわけなのだが。
020
キヨラの一族……紀眞の血族である私は、親衛隊に親類と認識されているから苛めには合わないけれど、もしそうじゃなかったらと思うと怖くて仕方がない。それでも、キヨラちゃんに近づけない他のファンにはよく思われていないらしいし……いつ苛めに合か分からない、危ないポジションに私はいるのだ。——そんな私が、彼女に“恋”……だなんて。
それこそ、親衛隊の子達に目を付けられてもおかしくない。無償でキヨラちゃんの隣に居たがる人間は、山ほどいるのだから。しかも、私はキヨラちゃんと同じ女の子。結婚が出来るわけでも、彼女を守る力がある訳でもない。……私、お荷物だなぁ。そう考えれば考えるほど、私は自分の気持ちを認めることが出来なかった。
021
「トオルちゃん、一緒に帰ろう」「う、うん」キヨラに話しかけられ、慌てて頷く。いつの間にか帰りの会は終わり、みんな各々にランドセルを背負っていた。私も自分のランドセルを引っ張り出すと、中に教科書とノートを詰めた。あの間も、待ってくれるキヨラちゃんは優しい。私はランドセルを背負って、キヨラちゃんと一緒に教室を後にした。
──そんな綱渡りのような関係が崩れたのは、それからそう時間の経っていない時だった。
022
とある日。私の荷物が突如、その姿を消したのだ。「トオルちゃん、あった?」「う、ううん……」キヨラの言葉に首を振る。教科書はあるのに、ノートだけが見つかない。今日の授業はなんとか終えることが出来たけれど、明日は今週のまとめが出される小テストだ。ノートがないととても困る。それに。「漫画のノートまで……どうしてそんな事……」「……」そう。私の描いていた漫画専用のノートがどこかへと行ってしまったのだ。音楽の授業から帰って来て、直ぐにノートがない事に気が付いたけれど、移動教室中だったのだ。犯人何てわからないし、隠された場所の検討もつかない。ゴミ箱は最初に見たけれど、そこにもノートは捨てられていなかった。「私、ロッカーの方探してくるね!」「う、うん。ありがとう……」キヨラが教室を出て行くのを見て、私は視線を落とす。……キヨラちゃんに、迷惑が掛かっている。そう思うだけで、心臓が張り裂けそうな程悲しくなってきてしまう。自分なんかの為に。探し始めて、もう一時間だ。そろそろ外も暗くなるし、このままじゃノートより先に自分たちが見つかってしまう。「……私の目が、もっと良ければ……」そんな事言っても仕方がないとはわかっているのに、言わざるを得ない。私は周囲を見渡す。ぼやけた視界は、どうやっても鮮明になりそうにはなかった。手探りでクラス全員の机の中を調べていく。ごめんなさい、と謝りながら、置き去りにされた教科書の間も探させてもらいながら——しかし、残念ながら見つけることは出来なかった。
「トオルちゃん、こっちにはなかったよ」キヨラがそう言いながら教室に入ってくる。「そっか……」「そっちは?」「こっちも、全然」「そっかぁ……」キヨラと二人、顔を見合わせて、自分のランドセルを見つめる。いつもよりスカスカの中身は、どこか寂しそうだった。本当は見つかるまで探して居たい。けれど、そろそろ帰らないと……これ以上キヨラちゃんに迷惑をかけるのは、本望じゃない。「今日はもう、帰ろうか」「えっ、でも……」「大丈夫。明日早く来て探してみるから」心配するキヨラに、私はにこりと笑って見せる。渋る彼女に、「暗くなると足元見えなくなるから」と自分の事を餌にして、一緒に帰るように背中を押した。渋々頷いたキヨラちゃんは、本当に優しい。
023
——結局、翌日になっても見つからなかったノートは、数日後裏庭にばら撒かれていたのを発見した。雨風に曝されたノートは使える状態ではなくって、文字も読めやしない。「……キヨラちゃんがいなくて、よかったなぁ」そう思う他、私には出来なかった。ノートを盗んだ犯人はわからなかったけれど、ページが破られていなかったのは唯一の救いだった。
024
湿気の多い薄暗い家の縁側に、一人の男が座っていた。ランドセルを背負った少女――紀眞キヨラを見つめる男は、心底愛おしげに目を細めた。彼の名は『殺人マシン ごろう』。異名と共に語り継がれた彼の名前は、裏の界隈では有名なものだった。彼はキヨラが生まれてからずっと、彼女を龍神として使役する事を目的としていたのだ。何時しか彼女をこの手で支配し、殺してやりたいのだと、『殺人マシン ごろう』は常々語っていたという。そんなごろうは、陰陽師”はれあけ”の後継者のひとりであった。才能を認められ、陰陽師として力を与えられたのだ。——しかし、力を確実に自分の物にした時。彼はこの世界に愛想を尽かせてしまったのだ。
025
陰陽師のごろうに媚びを売る人間は、ひどく多かった。とある男は「『そらうみ』の生け贄を卒業したまきを、世界一残虐に虐げることが出来た暁には、私と結婚して頂きたい」と下品に笑い、ある女は「一夜で良いから私めに一元を是非。しかし、もし私が孕んだら、あなたは私のモノですよね」と薄気味悪い笑みを浮かべながら口にする。自分のいいなりにしたいと欲望を滾らせる奴らに、『殺人マシン ごろう』は心底飽き飽きしていた。人間の欲なんぞ、数数えればそう多くはないのだから。興味のない事を延々と語られる中、ごろうは考えた。この飽き飽きした世界を、どうにか自分の過ごしやすい状況に出来ないものか、と。考えて、考えて————そうして、思いついたのだ。
026
“言い寄ってくる彼らに、自身に近づいたらどうなるか”を見せしめよう、と。元々、ごろうにとって人助けなんてものはどうでもよかった。それよりも人が苦労していたり、どこか不幸に顔色を染めている方が心が躍る。ごろうは純粋に人が不幸であることに、幸福を見出せる人間だったのだ。それが近しい人間であっても、遠い人間であっても、変わらない。しかし、それを大多数に対してやることは、どう考えても効率が悪い。だから、見せしめとしてたった一人を痛めつけることで、周囲に勝手に認知させよう、と思い至ったのだ。
027
時には味方として接し、時には頼り助けを求めることで、相手の気持ちを自分に引き寄せていく。そうしてここぞという時に、裏切るのだ。『そんな約束、した覚えはない』『君なんぞが、俺の為に何ができる? そのよく回る口で言ってみろ』等と口にしては、その絶望に染まった顔を堪能する。常に一人を標的にするため、壊した人間はそう多くは無いものの、あまりにも外道な所業を見た奴らは、思惑通りに勝手に身を引いて行った。もちろん、それでもいいと媚びてきた人間は居たが、それらも同様の仕打ちをしてやれば泣き喚きながらどこかへと去って行った。
028
——何もかも、思惑通りだった。だからこそ気に入った人間を虐げる事で、『殺人マシン ごろう』は今日まで平穏を手にしてきたのだ。まるで子供が泣いて喚けば、大人が自身のいう事を何でも叶えてくれると勘違いしているのと、同じように。
029
そして、ごろうは壊れた人形を捨て去り、標的を変えることにした。その時、偶然耳にしたのが“紀眞家の長女”だったのだ。何でも、相当な力を持って生まれたのだとか。自分よりも遥か年下の子供なんて常ならば興味はないが、ごろうの本能が告げる。『その娘は、絶対に服従させるべきだ』と。
結果、紀眞家の娘――キヨラは、奇しくも『殺人マシン ごろう』の標的となってしまったのである。彼女の本来の目的を撹乱し、自身の人形として彼女を手に入れるため、彼は期が熟すのを待って——ついに動き出したのだ。
030
『殺人マシン ごろう』の思惑を知らないまま、小学三年生まですくすく育ったキヨラ達は、いつもよりも陽が落ちて暗くなった校庭をキヨラとトオル、二人で一緒に歩いていた。校門付近で先生の手伝いで遅くまで残っていた二人は、今日も仲良く手を繋いで歩いていた。黄昏時と言われるこの時間は、キヨラの可愛らしい顔を更にしっかりと映し出しており、繋いだ手も合わさってトオルの心臓を跳ね上げる。自覚した恋心は、彼女の意に反して日を追うごとにどんどんと大きくなっていくばかり。最近ではまともに顔すら合わせられない日々が続いていた。
031
「ねぇ、今日家に来て泊って行かない? 面白いお話があるの」「あ、え、えっと……」キヨラの言葉に、トオルはどこか歯切れの悪い言葉を返す。そんな彼女に気づいたキヨラが足を止め、振り返った。「どうしたの、トオルちゃん。最近なんか変だよ」「そ、そうかな」「うん。前も、この前も。私の家に来なかったし」「あ、あれは、テスト期間だったから……」「トオルちゃん、いつもちゃんと勉強してるから必要ないでしょ」「そんなことないよ」不貞腐れるキヨラに、トオルは困ったように笑う。まさかあのキヨラちゃんからこんなに言われるだなんて、思ってもいなかった。嬉しい反面、感情が追い付かなくてどこかふわふわとしてしまう。緩みそうになる頬を抑え込んで、トオルは周囲を見渡した。不意に視界に入った人の姿に足を止める。
032
「あれ。あの人、」「……トオルちゃん、下がって」キヨラがトオルの言葉を遮って前に出る。離れていくキヨラの手に、不安が募る。
相対したのは、キヨラとトオルが通う学校の持つ、四百メートルトラック。その校門前で『殺人マシン ごろう』は待ち伏せていた。キヨラはランドセルからドライヤーガンを手にする。しかし、時刻は放課後。この時間では残った充電は残り僅かだ。キヨラは目の前でほくそ笑む『殺人マシン ごろう』を睨みつけた。彼女は彼の噂を知っていたのだ。
033
——『殺人マシン ごろう』。あの陰陽師”はれあけ”の候補者の一人だ。強大な力を持った人間が集まる陰陽師“はれあけ”の中でも、かなり優秀だと聞いたことがある。……それと同時に、かなり残虐性を持っているとも。きっと壊れかけたドライヤーガンでは、到底太刀打ち出来ないだろう。内心焦るキヨラに、『殺人マシン ごろう』は笑う。
「やあ、君が紀眞キヨラだね?」「……だったら何か? 生憎、知らない人と話さないようにって教わっているの」「君が俺を知らないわけがないだろう。汚らしい紀眞家の人間だろう」「そう言っているのはあなた達だけよ!」「ほぅら。図星を突かれるとすぐ怒る。性格の悪さが顔に滲み出ているぜ?」「あなたに言われたくはないわ」言葉の応酬が始まる。トオルは目の前の男をじっと見た。ぼやけている視界ではよく見えないが、男——『殺人マシン ごろう』が話すたびに黒い霧が周囲に充満していくのを感じる。重々しい霧は、いつだったか感じたことがあるものだった。
034
「そんなんじゃ、お前の夢は一生かけても叶わない」「そんな事ないわ!」「いいや。その醜い顔では、どんなに努力しても報われることはない」ごろうの自身を否定する言葉をキヨラが振り払う。しかし、まるで歌を謡うかのように『殺人マシン ごろう』は口を開いた。「お前は誰にも愛されていない。チヤホヤされるのは、家のおかげだ。お前自身じゃない!」「そんな事ないわ。私を好きだと言ってくれる人はたくさんいる!」「いいや、いない。お前みたいなつまらない人間は、誰かの同情に曝され続けて生きていくしかないんだ」「つまらなくないわ!私は私、それ以上でもそれ以下でもない!」言葉の刃物を仕掛ける『殺人マシン ごろう』に、キヨラは必死に対抗する。しかし、膨れ上がる黒い霧は留まるところを知らない。圧し掛かる圧に、流れる冷や汗は誤魔化せなかった。
035
「お前を見てくれる人間は誰一人いやしない。その隣にいる人間も、お前に縛られて大層不快だろうよ!」「そ、んなこと……っ、!」「家の力でチヤホヤされて嬉しいか? 他人の同情で認められた気になって無様だと思わないのか? 一人じゃ何も出来ない、ノロマでグズな人間がよぉッ!」強い言葉の数々に、黒い霧が一瞬にして膨大に膨れ上がる。その圧力にキヨラがついに膝を折った。ごろうの言葉に発動した黒いモヤが、次々にキヨラに取り憑いていく。ほくそ笑む口元はどこか不気味で、トオルはゾっとした。
036
焦った表情でトオルはキヨラの背中を見つめる。「キヨラちゃん……」「……大丈夫よ」キヨラの言葉にトオルはほっと息を吐く。ゆっくりと立ち上がる小さな背を見つめる。トオルは知っていた。——キヨラには、譲れない夢がある事を。夢にひたむきに向かっていく、キヨラの後ろ姿を、トオルは今まで一番近くで見ていたのだ。「……そうね。私はもしかしたら家のお陰で、チヤホヤされているのかもしれない」「そうだ。お前の存在に価値などない」ごろうは嗤う。心底愉快そうに肩を揺らして、まるでご機嫌だ。——けれど、トオルにはもう不安はなかった。『絶対に芸能人になって、雑誌看板モデルになるんだ!』そう言って笑っていた彼女は、それを叶える為に昔から常にダイエットや必要な筋肉作りを始め、読者に愛される為の話術・知識をつけようとしていた。雑誌モデルになる為に両親を説得している最中で、その間も自分で必要とされる事などを調べ、実践している。努力家である彼女だからこそ、信じられる。トオルは胸元に当てた手を握り締めた。
037
「でも、私がしてきた努力は私のものよ!」「なにを、っ!」「私は私! 誰にも否定なんてさせないわ!」キヨラの言葉が、構えたドライヤーガンの威力を上げていく。ガンが歪に唸るが、キヨラが気にする気配はなかった。「消えなさい、妄執!」狙いを定め、引き金を引く。
『殺人マシン ごろう』の出した黒いモヤは一瞬にして吹き飛び、男は悔しげに顔を歪めた。予想外だったのだろう、僅かに焦りが見えてくる。ざまぁみろ、なんて。内心で呟いた瞬間、トオルはごろうと視線が合った。ギラリと光る視線に、トオルは背中が凍える気持ちになる。——標的を自分に変えたのだと理解するには、十分だった。トオルはキヨラとは違う一般人。きっとすぐに墜ちてしまうだろう。……自分には、それだけの胆力があるはずがないのだから。
038
「なんだ、随分根暗そうな奴じゃないか。まるでナメクジのようにジメジメしているな」「なっ、!」「座り込んで、よく見えていないようだ。役立たずはさっさとお家に帰って、おネンネでもしてな!」キヨラの表情が驚愕に浮かぶ。しかし、それに反応する余裕は、今のトオルにはなかった。黒い霧が自身の周りを渦巻き、自分を拘束していく。腰が抜けたのだろう。後退ろうとして、自分の全身に力が入らない事に気が付いた。「あ……」「ただの足手纏いじゃないか。こんなクソガキが家系のお陰でのうのうと生きているなんて、片腹痛いわ!」「っ、卑怯者めっ!」「卑怯? 冗談を。ただの事実じゃないか。なあ?」三日月形に歪む瞳に怯む。逃げようとしたトオルの指が地面を抉った。……事実。確かにそうかもしれない。自分でもキヨラの隣に居ることに疑問を持っていたのだ。家の為。家族ごっこの為。……どれも違う。そう言いたいのに、言い切るための材料が足りていない事は痛いほどわかっていた。
039
俯き、唇を噛むトオルに、『殺人マシン ごろう』は愉しそうに嘲笑を浮かべた。——思った通りだ。まだまだ子供である彼女を堕とすことは、下手に鍛えているキヨラを手籠めにするよりも安易だった。タイプではないが、先にこいつを取り込んでキヨラを引き摺り下ろしていくのも悪くはない。そう考えるごろうに、キヨラは歯噛みした。鍛えている自分ではなく、一般人であるトオルを狙うなんて卑怯以外の何物でもない。噛み締めた歯が、苦しげに音を立てる。キヨラの反応に、ごろうは自身の勝利を確信する。ごろうはトオルを見つめ、細く長い指を差す。見下ろした瞳はどこか卑下た笑みを浮かべていた。「お前みたいな社会のクズに、夢なんて持つ資格すらない。ちまちました努力なんて無駄だ。今すぐやめても誰も気づかないさ」「そ、そんなこと……」「わからないのか? これだからバカは救いようがない! それとも、人類の話は家畜にはわからないか? ん?」「っ……!」痛い言葉の数々に、トオルはついにその場で蹲ってしまった。顔が真っ青になった彼女を見て、キヨラが声を上げる。「トオルちゃんっ!」トオルを庇おうと走り出すキヨラ。彼女の表情をみて、更に自分が矮小な人物に思えてしまう。——足手纏い。……確かにそうだ。こんなに心配かけて、自分で立てもしない。ここに居たのがキヨラちゃんだけだったら、きっとすぐに決着もついていたはず。そう思えば思うほど、気分は沈み込んでいく。考えてはだめだとわかっていても、中々持ち上げる事が出来ない。「邪魔だ! 退け!!」ごろうの声に、ついに腰を落としてしまった。——手が震える。もう無理だと、諦めの感情が込み上げてきた。
040
『トオルちゃんってすごい絵が上手いんだね!』『わあ。この主人公、すごく可愛いわ! まるでモデルさんみたい!』『私、トオルちゃんの描く漫画、面白くて好きだよ』
不意に蘇る、声。嬉しくて何度も何度も噛み締めた言葉たちが、次々に頭を過ってはまるで心の中に染み込んでいくかのように落ちていく。……そうだ。私の漫画を、あのキヨラちゃんが好きだと言ってくれたんだ。それがどれだけ嬉しかった事か。トオルは今でも覚えていた。彼女は落ち込みかけた心を引き上げた。ゆっくりと立ち上がり、トオルは『殺人マシン ごろう』を睨みつける。もう、負けない。負けてたまるものか。キヨラちゃんが言っていたじゃないか。『私の夢は、私のものだ』って。
041
ごろうの鋭い視線がトオルを射抜く。しかし、彼女は諦めなかった。驚くキヨラと顔を合わせ、退いた足を踏み出す。震えているのは、きっと気のせいだ。自身の気持ちを取り込んで膨大になった黒い霧を目の前に、絞り出した声は震えていたけれど後退る気はなかった。
042
「わ、私は、漫画家になる! あなたになんか負けない!」「何を生意気な。薄汚いガキが!」ごろうの剣幕にトオルは悲鳴を上げる。けれど、睨みつける瞳の強さは変わらなかった。「そ、それにっ、私は絶対にプロの漫画家になるんだ! そのために、毎日毎日頑張ってるもん!」「はっ、無駄な努力だとわからず、随分、」「無駄じゃない! 確かに、絶対なれる訳じゃないけど……でも、無駄じゃないって、私は信じてる……っ!」「小賢しいッ! 俺の言う事を聞いていればいいんだ!」「私は……キヨラちゃんは、アンタなんかに負けない!」高らかに宣言するトオルに、茫然としていたキヨラがはっとする。瞬時に取り戻した冷静さでもって、彼女はドライヤーガンを構えた。その行動の早さにごろうは驚いた。——急な形勢逆転に、思考が付いていかないのだ。
043
驚愕に狼狽えるごろうを余所に、極限まで高めた力を込めたドライヤーガンはカタカタと音を立てて、今か今かと発射を待ち侘びている。キヨラは強大な力に震えるドライヤーガンを両手で制し、『殺人マシン ごろう』に焦点を当てた。「死になさい、妄執っ!」その叫び声と共に、耳を塞ぎたくなるほどの音で発射された眩いほどの光線。輝く光線は黒い霧を霧散させ、ごろうを直撃した。ごろうの四肢が黒い霧と化し、霧散していく。「く、そぉおおおおっ!」『殺人マシン ごろう』の悲鳴が轟く。白い光に当てられ、『殺人マシン ごろう』は一瞬にして気化した。
044
一撃でごろうを砕く事に成功したキヨラは、完全に電池の切れたドライヤーガンを片手にトオルへと駆け寄る。はあ、はあ、と荒い息を繰り返しながらも茫然と立ち尽くすトオルをぎゅっと強く抱き締めて、「ありがとう」と笑った。「キヨラちゃん……」緊張の糸が切れたのだろう。涙ながらにキヨラの名を呼んだトオルは、今にもへたり込みそうで。キヨラはトオルの頬に流れた涙を指先で拭う。目が合って、どちらともなく笑みを浮かべた。「あ、ははっ」「ふふっ」ボロボロと涙を流す中で、小さなわら声が二つ響いていく。——終わった。終わったのだ。“殺人マシン”なんて異名を持った人間を、倒すことが出来たのだ。込み上げる安堵に、トオルは再び地面に座り込んでしまった。しかし、先ほどの冷たさは感じられなくて。少しの間笑い合った二人は、感極まって互いを抱きしめた。温かい温もりに、トオルは強く抱きしめる。この時ばかりはキヨラへの“想い”も、前に出てくることはなかった。「トオルちゃんなら素敵な漫画家さんになれるよ、絶対」「うん。キヨラちゃんも、モデルになれるって、私信じてる」「ふふっ、ありがとう」
——『殺人マシン ごろう』は、以降二度と二人の前に顔を出すことはなかった。
045
『殺人マシン ごろう』との闘いから数日後。トオルは何時にも増して漫画を描くことに力を入れていた。
あの後、キヨラに言われたのだ。「今度、トオルちゃんの漫画読みたいなぁ」と。それがトオルは嬉しくて嬉しくて堪らなかったのだ。授業の合間を縫ってまで描き始めた漫画は、今のところ順調に進んでいた。クラスメイトからは少し遠巻きに見られたが、それすら気にならないくらいには没頭していたのだ。
「熱心だね」「うん。早くキヨラちゃんに見せたいから……」「ふふっ、すっごい楽しみ」上機嫌に笑うキヨラに、顔がかぁっと熱くなる。可愛らしい笑顔が至近距離で見えて、思わず目を逸らしてしまった。「でも、授業はちゃんと聞かないとだめだよ」「う、うん。そうだね」キヨラの注意に曖昧に頷いて、再びノートに視線を移した。響くチャイムに、トオルは顔を上げる。続きのストーリーはどうやらお預けのようだ。
046
綺麗な快晴の下。校庭には子供達の元気な声が響き渡っている。「がんばれー!」「いっけー!」コートを取り囲んで自分のチームを応援する子供たちに混じって、トオルも声を張り上げる。「頑張って……!」一際小さい声が、声援の中に紛れていく。目の前では、ぼんやりとした視界で二個の球が行き来していた。
047
——午後一番の授業は体育。内容はみんな大好きドッチボールだった。はしゃぎ回るクラスメイトに、トオルはなんとも言えない気持ちになる。目の悪い自分には、誰がボールを持っているかも、何個持っているのかも全く見えない状況で逃げる羽目になるので、恐怖以外の何物でもないのだ。しかし、それを理解してくれる人は少なく、トオルも他の子達と一緒にグラウンドに立っている。外野決めの時、自ら外野に行ったのはそういう理由でもあった。
048
眼前のコートには、クラスの男子と一体一で向き合うキヨラがいる。「流石キヨラちゃんだね!」「可愛くて運動神経もバツグンとか、本当にうらやましい~!」「頭もいいしね!」きゃあきゃあとはしゃぐ女の子たちの声が聞こえる。――わかる。私もすっごく羨ましいし、そんな子が同世代にいるというのは、自慢したくなる。「どっかの誰かさんと違って、明るいし、みんなに優しいし」「授業も真面目だし、誰かさんみたいにラクガキばっかりしてないしさ」「ねー。本当、なんで一緒にいるんだろ」……聞こえてますよー、とトオルは内心でのんびりと応える。生憎、彼女たちのような陰口には慣れているトオルは、気にした様子もなく試合経過を見送っている。しかし、送っていた声援は止まってしまった。それがお気に召したのか、女の子たちの陰口はエスカレートしていく。「でも、キヨラちゃんも優しいよねぇ。あんな子の“お友達ごっこ”に付き合ってあげてるなんて」「お家の“めいれい”なんでしょ?かわいそー」「私達が教えてあげちゃう? 最近、勘違いしているのが可哀想なくらいだもん」「えー、やだよー。私あんな子の近くに行きたくなーい。病気移っちゃうかもしれないし!」「それもそっか」ひそひそと聞こえる言葉に、トオルは立ち上がりかけた。自分の事を悪く言われるのは別にいいし、慣れっこだから気にしないけれど、キヨラが“可哀想”だと言われる謂われはないはずだ。確かに、家の命令で一緒に居ることになったかもしれないけれど……あの時、言ってくれた言葉は本物だった。『トオルちゃんなら素敵な漫画家さんになれるよ、絶対』そう笑って言ってくれたのだ。そんな子を、疑いたくなんかない。
049
「……確かにキヨラちゃんは、私の事を友達とも思っていないかもしれないけど」「えっ」「何? 急に話し出したんだけど、こわぁ~い」「逃げよ逃げよ!」「キヨラちゃんは自分の意見を言えないほど、臆病じゃないし、かわいそうでもない!」トオルは女の子たちを目にした。あまりよく見えない顔は、どこかぼやけていて。それでも、彼女たちが怒りに染まっていくのがありありとわかった。「はあっ?!」「なに、盗み聞き? 気持ち悪いんですけどー」「私の事はどう言ってもいいけど、それでキヨラちゃんを悪く言うのは、許さない」キッと睨みつける。女の子たちは反論があったことに驚いたのか、一歩二歩と退いた。と、その時。丁度よく響いたホイッスルに、彼女たちの意識が逸れた。「勝者、Aチーム!」「やったぁ!」「流石キヨラちゃん! 最後かっこよかったよ!」わっと膨れ上がる歓声に、いつの間にか試合が終わった事を知った。どうやら自分たち、Aチームが勝利したらしい。キヨラを褒め称える声に振り向けば、クラスメイトに囲まれて嬉しそうに笑みを浮かべているキヨラがいて。流石だなぁ、と感心していれば、先生の集合の合図が響いた。「い、行こ!」「うんっ」慌てて走り出した女の子たち。その背中をぼうっと見送っていれば、女の子たちとすれ違うようにしてキヨラがこちらに向かってきた。彼女たちに不思議そうな顔をするキヨラは、しかし何を聞くわけもなくトオルの目の前にまでやって来た。彼女の手をとり、キヨラがぱっと笑う。「ねぇ、私の活躍見てくれた?」「う、うん……見てたよ」嬉しそうにはしゃぐキヨラにトオルは逡巡した後、コクリと頷いた。やった、とはしゃぐキヨラに、本当は途中から余所見していたトオルは内心で両手を合わせた。……ごめんね、キヨラちゃん。でも、笑顔で嬉しそうに笑みを浮かべる姿を見ていると、余計に言い出せなくて。キヨラに手を引かれ、先生の前にまで来たトオルは苦笑いの下で本当の事をかみ殺した。
050
——そんな折。
遠目から二人の学校を見つめる細身の男——『ブタにするマシン ゆづる』は、薄くほくそ笑んだ。恐ろしく長い指先が、彼自身の髪を弄ぶ。“ブタにするマシン”の異名が付いたその男は、その能力を使って人をブタに……つまり、強制的に太らせることができるのだ。陰陽師として、気にくわない男や女を毒舌マシンガンの憑坐にし、欲求の飢餓状態を招く。対象の人間の内蔵を陰陽術で動かし、人間の満腹中枢を操って欲を膨大に膨れ上がらせるのがゆづるの常套手段であった。他にも人を想像妊娠させ、食事の変化を促しては過食症に追いつめ、日常生活すらまともに送れない程の自宅監禁する様に誘導することもある。急に太った人間は、通常今までの自身との対比に泣き喚き、醜い自分の姿に絶望するのだ。妄執にとって、これ以上好都合な場所はない。
051
彼に媚びを売る者たちはもちろん、“そらうみ”の生け贄を逃れた“まき”までもが、その被害を被った。“まき”は生贄として長い間悲惨な目に合っていた。そんな中でも、唯一頼れる人間“ゆづる”のお陰で、彼女は心を保ったままで居られたのだ。しかし、まきの預かり知らぬところで、ゆづるは彼女を蔑み、嗤う。時折、だいすけやごろうと“まき”の壊し方を話し合い、談笑するほど。ゆづるは思う。最終的には割腹自殺——つまり、牛頭天王にさせたい、と。そんなゆづるの本音も知らず、まきはゆづるにまだまだ終わらない苛めからの助けを求める。それに、ゆづるは何事も無かったかのように優しい笑みを携えて、手を差し出すのだ。まきはその笑みに簡単に騙されてしまう。その繰り返しが見えない水面下で、容易に行われている。——結果、まきは騙されたまま、ゆづるの術の餌食になった。薄く綺麗だった腹は、孕み腹の様に膨らみ、彼女の元の体重から三十キログラムの増加を受けた。ゆづるの術は、うっとりする程美しかった体を簡単にまきから奪い去ったのだ。
052
まきは、自身のお気に入りだった白いハイウェストのふわふわのワンピースが着れない事を、心底嘆いた。自分の体が変化していくことに気がつかなかったのだ。そして、それが心を許したはずの人間の所業であったことも、その人間が全人類を同じ目に合わせてやると策を企てている事にも。彼女は自分が餌食になるまで、一切気がつかなかったのだ。
しかし、まきは気丈にもゆづるを引き留めると、潤む瞳で彼を睨みつけた。「自分はどんな体系になってもいいわ。でも、全人類から……女の子から、ファッションの楽しさを取り上げるのはやめて!」まきは叫ぶ。心からの願いだった。それを聞いたゆづるは、あまりの必死さに策を進めることを一旦やめることにした。このまま身近な人間に警戒されたままでは、策がどこかしらで綻ぶかもしれない。そんな懸念もあった。しかし、腹を膨らまされたまきを見て、周りの人間は「実に面白い!」と称賛し、ゆづるを囃し立てる。その声を、まきはどうにもすることが出来なかった。
053
褒められたことでゆづるは気分を高揚させ、次第にまきの声を無視するようになる。結果、『ブタにするマシン ゆづる』の名を持つようになったゆづるは、最近蒸発したと聞いた『殺人マシン ごろう』が執心していた“紀眞キヨラ”を標的にすることにしたのだ。きっと、ごろうを倒したのは、彼女に違いないと踏んで。
054
『ブタにするマシン ゆづる』は、念入りに策を練った。攻撃力の高い『殺人マシン ごろう』が葬られた今、正面突破は分が悪い。どうするか、と考え、まずは自身の術が利きやすい狭い所へとおびき出すことにした。時間はもちろん、魔とこの世が一番近くなる頃——逢魔が時。
そして女は小さきものが好きであるということは、何時の時代も同じことだ。ゆづるはさっさと野良猫を一匹捕まえると、キヨラの通う学校の通学路に身を隠した。黒い毛並みをした猫をじっと見つめる。猫は暴れる様子はない。「いいか。あの女を見つけたらここまで戻って来い。戻って来なかったら、お前の内臓も爆発させてやるからな」猫は言葉を理解できないものの、彼の異様さを理解したようで脅えるようにひと鳴きすると、早々に飛び去った。
055
しなやかな体で地面に降り立った猫は、言われた通り学校の方へと足を向け、ランドセルを背負った目の前の少女たち——紀眞キヨラ、匕背トオルの前に姿を現した。二人は猫に気づくと足を止める。「あ、猫だ! かわいい」「わあ、本当だっ」笑顔で猫を見つめる二人に、猫は徐ろに来た道を戻って行く。「待って!」「あ、キ、キヨラちゃんっ、待ってよぉ……!」走り出した猫を追いかけるキヨラ。そんな彼女を追いかけるトオル。目論見通りに向かってくるキヨラの姿に、ゆづるはほくそ笑んだ。一人多いが、まあいい。あの子も、漏れなく自分の力の餌食にしてやろう。
056
細い路地に入っていく猫を、二人は何の疑いもなく追いかけてくる。僅かしか光の届かない路地に二人が足を踏み入れた瞬間、ゆづるは姿を現した。「何の疑いもなく来るなんて、無防備だなキヨラ!」高らかに叫んだゆづるに、キヨラは咄嗟に足を止めた。ひょろ長い、もやしのような姿にキヨラはハッとする。後ろを追いかけていたトオルは、キヨラの反応に誰かがいることには気が付いたが、悪い視界の中では先に居る人間を見ることは出来なかった。「お前は……っ!」「貴様も醜いブタにしてやろう!」高らかに響く声と、一気に膨れ上がった黒い霧が路地を埋め尽くした。強襲とも言える圧力に、キヨラは動くことが出来なかった。「キヨラちゃん!」そこに反射的に飛び込んできたのは、トオルだった。目の悪いトオルには、離れた先に居るゆづるとそこで起きている出来事の様子を見る事は出来なかったのだ。
057
綺麗な細身に浴びた術は、彼女の体を一瞬で豹変させた。トオルの薄い腹は大きく膨れ、どんどんと重なっていく。まるで分厚いホットケーキを重ねているかのようだ。細い四肢はその重みに耐えきれず、ぐらりとバランスを崩す。聞いたことも無いような重々しい音を立てて、トオルは尻もちをついた。
058
「トオルちゃん!」「うう……体が重い……」「これは……」目も当てられないくらい醜くなったトオルの姿に、キヨラは驚く。男の異名は知っていたが、まさかこんな術を持っていたなんて。もし自分が餌食になっていたらと思うと、あまりの絶望感に寒気がしてきてしまう。しかし、だからといってトオルがこんな醜い姿になる必要なんてないわけで。キヨラは慌ててランドセルからドライヤーガンを取り出した。
059
愉快に嗤うゆづるに、キヨラはガンを向ける。キリッとした視線がゆづるを射抜いた。「トオルちゃんを戻して!」「それは出来ない相談だなぁ。でも君が餌食になってくれるなら、考えてやらなくもないよ?」「くっ、!」にやにやと笑むゆづるに、キヨラは悔しそうに顔を歪める。キヨラは考えた。彼の術をどうにか出来ないだろうか、と。しかし、考えている間をゆづるは待ってはくれない。術を凝縮した弾がキヨラ目掛けて、いくつも放たれる。咄嗟にキヨラは身を捩って避けると、二転三転と横に回転する。着地地点に次々と地面に打ち込まれる術を間一髪で避け、再びガンを構える。体制を整え、二回ガンを発射した。しかし、飛び出した丸い光はゆづるに当たる前に、黒い霧によって振り払われてしまった。やはり力を蓄えていない状態では、本体まで届きそうにない。……どうしよう。キヨラは焦りに顔を歪める。
060
「どうやら手も足も出ないようだな!」「く……!」「ハハハ!」自分の計画通りに進んでいる現状に、ゆづるの機嫌は最高潮だ。それを表すかのように、ゆづるは笑みを浮かべる。キヨラは何も言い返すことが出来なかった。中々浮かばない打開策に、キヨラはトオルを見た。どこか苦しそうに顔を歪めているトオルに、使命感がキヨラを襲う。考えて、考えて——思い至った。そうだ、跳ね返せばいいんだ、と。そうと決まれば、キヨラがやる事は一つ。自分の力と相手の術が放たれるタイミングを合わせる事だけだ。
061
「そんな術、私は揺らがないわ!」「ハァ? 突然何を言い出すんだお前」「そんな術、利かないって言ってるのよ!」「ハッ。勝ち目がないと思ってやけになったのかぁ?」キヨラが挑発するように声を荒げ、ゆづるは嘲笑する。しかしキヨラはめげない。「私の完璧なボディは、努力の結晶。そんな幻覚みたいなもの、簡単に跳ね返してみせるわ!」「ほーぉ? なら、やってみやがれ!!」——かかった。キヨラはそう確信した。手に持ったガンの力は既に蓄えられている。キヨラはゆづるが術を放つタイミングに合わせて、ドライヤーガンの引き金を引いた。
吹き出た光がゆづるの放った黒い霧とぶつかる。「何、だとぉっ!?」「消え去れ! 妄執!」凄まじい勢いでぶつかり合った術は、徐々に傾いていく。膨大な量の黒と白の眩しさに、トオルは堪らず目を閉じた。しばらく競り合った白い光は、黒い霧を押し切り、ついに術を全て跳ね返した。「嘘だろ?!」まさか自分の術が押し退けられるとは思ってもいなかったのだろう。目の前の光景を見たゆづるは、信じられないとばかりに声を荒げた。だが、そんな悲痛な声も他所に、跳ね返った術は止まる事はなくゆづるの元へと走っていく。逃げようとしたゆづるは、足元に居た猫に気が付かなかった。「シャーーッ!」「うわっ!? なんだこの猫ッ!? やめっ、やめろっ!」ゆづるの服に爪を引っ掛けた猫は、まるで親の仇でも取らんばかりに牙を剥きだしにしている。尖った爪を振りかぶり、猫はゆづるの皮膚に爪を立てる。「いたたたっ! このくそ猫っ!」「や、やめて!」「うるせぇ! 邪魔をするのが悪ぃんだ!!」ぶんぶんと足を振っても離れる気配のない猫に、ゆづるは大きく手を振りかぶる。その様子にキヨラが慌てて声を上げた。ゆづるの手が猫にぶつかる直前で、キヨラの投げたランドセルによって防がれた。突然目の前に出てきて叩き落されたランドセルに、流石に猫も驚いたのか体を翻すとトオルの元へと非難していく。苦し気なトオルの頬に、謝るように猫は舌を這わせる。「く、くすぐったいよ」「にゃぁお」「ふふっ」笑い合うトオルと猫の姿に、キヨラはほっと胸を撫で下ろす。その直後、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が路地に大きく響いた。どうやら猫に気を取られている間に、逃げ遅れたらしい。ゆづるはまともに自身の術をその身に浴びた。
062
「う、うわあああっ!」黒い霧が瞬く間にゆづるを飲み込んでいく。細長い身体はぶくぶくと面積を広げ、Tシャツの下からは弾力のある肌色がはみ出した。ゆづるはその体を巨漢へと変えた。心なしか肩幅も広がり、四肢にも肉がついていく。だるんだるんの腹部と、下も見られない程重なった顎下の肉に、ゆづるは気を失いたくなる程のショックを受けた。——まさか自分で自分の術を浴びることになってしまうとは。全く予想していなかった。
063
信じられないと顔を真っ青にするゆづるに、キヨラは高らかに笑みを浮かべる。「ざまぁみなさい! 人の嫌な事をするからよ!」「な、な……ッ!」言葉に出来ない怒りが、ゆづるを支配していく。しかし、自分の体を戻す術など、ゆづるが見つけているわけもなかった。それもそうだろう。自分がかかる事なんて、一切合切想定していなかったのだから。「くそっ、クソッ! クソォッ!」ダンダンと地団太を踏む。ゾウが足踏みをするかのような音が響き、足元が揺れ、キヨラはたたらを踏む。地面に座り込んでしまっているトオルですら驚いている。その様子を歯ぎしりしながら見た『ブタにするマシン ゆづる』は、悔し気な表情のまま踵を返した。このまま戦っても、自分に勝ち目はないだろう。一旦仕切り直しだ。そう考えたゆづるは、悠々としている猫を睨みつけて、重たい身体を引き摺りながら早々にその場を後にした。
064
「待ちなさい!」逃走を図るゆづるの背中にキヨラの鋭い一声がかかる。しかし、追いかけようとした足はすぐに止まってしまった。キヨラには、彼を追いかける事が出来なかった。「……次は逃がさないわ」大きくなった背中を睨みつけ、キヨラは踵を返した。振り返った先には、猫を撫でながらも不安そうな顔をしたトオルの姿があった。見慣れないその容姿に、悔しさが募る。……自分がもっとちゃんとしていれば。彼女は術を浴びずに済んだのかもしれない。そう思えば思うほど、居た堪れなくなってしまう。後悔しても仕方ないとはわかっているが、心が追い付くか否かは話が別だ。キヨラはトオルを見つめ、悲しそうに眉を下げる。筋肉はないが、細く儚げな印象があるトオル。しかし、今はその面影すらもない。トオルの隣に跪く。驚いた彼女と視線を合わせれば、ツンと鼻の奥が刺激されたような気がした。すり寄ってくる猫をそっと撫でて、キヨラは頭を下げた。
065
「トオルちゃん……ごめん。私のせいで……私がもっと早く反応できていれば……」「キヨラちゃん……」「ごめんね……」俯いた視線では、地面しか見えないけれど、トオルの顔を見る勇気は今の自分にはなかった。痛いほどの無言が流れる。静寂が耳に痛くなってきた頃、トオルの手が自分の手を引いた。ふっくらとした手はいつもとは違う感触で一瞬戸惑うが、その中でもいつもと変わらない体温に、キヨラは顔を上げた。「キヨラちゃん、助けてくれてありがとう」ふわり、と微笑んだトオルに、キヨラは目を見開く。どこまでも優しいその微笑みに、キヨラの頬を一粒の涙が伝い落ちた。——守れなかった。悔しい。その思いだけが、キヨラの心に残った。
066
「くそっ……あんなの卑怯だぞ」体を引き摺って無様に逃げ帰ったゆづるは、吐き捨てるように言うと壁に手を付いた。いつもよりも重い身体に早々に息が切れていく。汗も通常の二倍以上が流れていき、肺が圧迫されたように息苦しい。ふと、カーブミラーに映る自身を見て、ゆづるは盛大に顔を顰める。「最悪だ……!」腹の底から滲み出ていく声は、まるで地響きのよう。ゆづるは再び足を踏み出すと、自身の家へと向かった。
「おかえりなさいませ。ゆづるさ……ま……」見覚えのある玄関を潜ると同時に、聞こえた声に振り返る。そこにはふくよかな体で頭を垂れる女性がいた。にこやかで表情豊かな彼女が、ゆづるを見て表情を止める。動揺し切った心は、声にまで現れていた。ゆづるが不快そうに睨みつける。「何だ。何か言いたい事でもあるのか」「い、いえっ! 何でもございません……っ」「フンっ」そっぽを向いて颯爽と家の中へと入っていくゆづる。その背中を女は訝しげに見つめた後、他の屋敷の人間に報告すべく走り出した。重そうな体では、早歩きしているのと大差はないのだが。
067
屋敷に足を踏み入れたゆづるは、ひそひそと聞こえる声にイライラと苛立ちを募らせていた。「邪魔だ、どけ!」「きゃっ! も、申し訳ございませんっ!」前を横切った世話役の女性を押し退け、ドスドスと足音を立てて奥へと向かう。苛立ちで気持ちが急く中、足は思った通りのスピードで動かず更に苛立ちが込み上げてくる。「くそっ、どうして俺がこんなことに!」くそっ、くそっ、と何度も苛立ちを言葉にして吐き捨てる。しかし、どれだけ吐き捨てても心の中は全く軽くなることはなかった。「体が重いとこんなに動きづらいのかよっ。何をするにも前より二倍の時間がかかるな」感情のコントロールが出来ないまま、ゆづるは苦し気に言う。重すぎる体が本当に腹立たしい。自室へと足を踏み入れ、前に折る事も出来ない体をどうにかこうにか座布団の上に落とす。衝撃が尻から突き抜けるが、それよりもやっと足を休めることが出来るようになったことに、嬉しさすら感じる。
刹那、ぐぅ、と鳴るお腹に思考が持っていかれる。食べない方がいいとはわかっているものの、やはり頭に浮かんだ欲求を簡単に消すことは出来ず、ゆづるは唸り声を上げた。「ぅ、ぐぐぐ……っ、ああもう! やめだやめだ!」しかし、唸り声で腹は満たせない。空腹を訴える胃に手を当て、思考を振り払うように頭を振った。「先に飯だ、飯! オイ、まき!」「は、はいっ!」「食事を持ってこい!」「えっ。しょ、食事……ですか」「何か問題があるのか」「い、いえ。只今お持ちします」家に隔離していたまきを呼びつけ、要件を言い、直ぐに追い払った。大きなでっ腹を頑張って持ち上げ、廊下を小走りに走っていく。最近、何かと口うるさいまきを貶める為に何か策を練っていた気もするが、ゆづるにはそんな事どうでもよくなっていた。ただただ腹を満たしたいばかりの欲が、彼を支配していた。
068
「足りない、足りない、足りない! もっとだ! もっと持ってこい!」運ばれてくる食事を全て食しては、次の料理を要求する彼にまきが目を丸くする。彼が彼自身の術にかかった事は既に屋敷中で噂になっていたけれど、その状況をこうもまざまざと見せつけられれば、いろいろな意味で圧倒されてしまう。同時に、自身は欲求との戦いに勝ったり負けたりを繰り返していたが、欲求に忠実になるとこんなに変貌するのか、と顔を青褪めた。——まるで飢えた家畜のようで、見ているだけで同じ人間とは思えない。
ただただ、食すだけ。その行為がこんなにも汚らしく感じたのは、まきの得た人生で初めての事だった。
069
ゆづるの食べるスピードは凄まじい。あっという間に五人前の大皿を平らげると、不機嫌そうに眉を顰めては新しい皿へと手を伸ばす。「ゆ、ゆづる様」「なんだ、今食べるのに忙しいんだ」見ればわかるだろう、と言いたげに視線を寄越すゆづるに、まきはおずおずと口を開いた。「も、申し訳ございません。じ、実は屋敷の中の食材がもう……」「んなもん、買ってくればいいだろ」「それが、い、今動ける人がいないみたいで……」「そんなもの、時間を待てば問題ないだろ」話は終わりだと言わんばかりに、視線を逸らされる。まきは慌てて声を出した。「それがっ! そうもいかないみたいでして……」ぐぅ、と聞こえる腹の虫の音。その音にゆづるはゆっくりと振り返った。視線の先では、まきが自身の腹を抑えて真っ赤に頬を染めているのが見える。腹が空いたのだろう。いつもならば楽しみが始まるとばかりにほくそ笑むところだが、今回ばかりはそうもいかなかった。ゆづるの中に込み上げるのは、“自身の食事を取られる”という恐怖感だけ。自身の体を使って食事から視線を遮るように動く。——が、危機感は去ってはくれなかった。
あちらこちらから。もしくは屋敷の全てから、空腹の音が響き渡ってくる。欲が膨れ上がる気配を感じる。狂気にも似た空気は、術を通してゆづるの全身を奮い立たせると、警告を慣らす。次第に欲は色を付け、喧騒を呼び起こし、方々で争いを生み始める。人間の欲とは止め処ないのだと、妄執であるゆづるは知っていたのにも関わらず、見落としてしまっていた。——一人が贅沢をすれば、周りの人間は心底羨ましく思う事を。
070
最初に来たのは玄関で自身を迎えた女だった。「失礼いたします。ゆづる様、このままでは私は飢えてしまいます。食事……食事を恵んではくださいませんか」穏やかで、急いたような声が響く。続いて彼女の後ろからやって来たのは、いつだったか自身を手籠めにしようとしていた男たち。「食事を、肉を」「飯が欲しい。飯を食わせてくれ」「食いモンを! 腹を満たすものを! 今すぐに!」空腹に迷った者たちが、欲求を口にぞろぞろとゆづるの元へとやって来る。どこからやって来たのかもわからない、家敷外の人間も揃い踏みだ。ゆづるの部屋が人間で溢れかえるのに、そう時間はかからなかった。
071
「ま、待て! 来るな!」「お食事を」「どうか、どうか」ゆらりと音もなく動く人間たちは、まるで幽鬼のようで恐ろしい。欲に塗れた目はどこか虚ろで、開いた口元からはだらだらと涎が流れ落ちていく。亡者たちの視線は、ゆづるの食していたであろう皿に釘付けだった。「自分だけ、いい思いをしやがって……」「食いモン! まだあんだろ! 隠してねぇで出せよぉ!」欲は嫉妬に変化し、嫉妬は瞬く間に怒りに変化していく。ゆづるの胸倉を掴んだ男は、ふんふんと鼻息を荒くさせ、飯を食わせろと怒鳴りつけた。ゆづるは本能的に危機を感じる。必死に掴まれた胸元から手を離させようとして、ゆづるは男の手を掻き毟る。しかし、外れる気配どころか、離される気配すらない。「来るな! 来るなって言ってるだろ!」「ゆづる様だけずるい」「そうよ、私たちにも恵んでくださいな」「どうせ隠してるんだろ!?」「早くしねぇと死んじまうよォ!」——まさに阿鼻叫喚。次から次へと自身の気持ちばかりを口にする人間たちに、ゆづるは押し潰されていく。本来ならば自分の力になるはずの黒い感情の数々は、人間たちの欲によって膨大に膨れ上がりすぎて、ゆづるが一回で受けきれる量を遥かに超えていた。——圧し潰される。身も、心も。全てが持っていかれる。
072
「く、そぉお……ッ」どうしてこんなことになった! 自分はちゃんと計画してやっていたというのに! まきを拾ったのも、どうでもいい人間に愛想を振りまいて着実に術の餌食にしてきたのも、全ては計画のうち。全て、自分の思うがままだったはず。——それが、どうしてこうなった。どこで間違えた。ぐるぐると回る思考が、一つの答えに辿り着く。それは自分の姿を変えた張本人であり、この事態を引き起こした元凶。「……あいつだ……あいつのせいだ……!」紀眞家の娘——キヨラが、弱いくせに姑息な手を使ってきたからだ! アイツさえいなければ、自分はもっと大きくなれた。陰陽師として更に名を馳せ、いずれ『殺人マシン ごろう』の名前すらも自分の物に出来たはず! 「許さん……! 許さんぞおぉぉ……っ」恨みを孕んだ言の葉が、肉の壁に圧し潰されていく。ゆづるの姿かたちは既に保てなくなっていき、手足は黒い霧に攫われていく。体が徐々に霧の中へと吸い込まれて、顔は右半分しか形を保てていなかった。「おれは、ま、だ——」強い意志も半ばに、ぷつりと途切れる声。残ったのは、醜い人間の塊と醜い欲の名残だけ。——『ブタにするマシン ゆづる』は、その日を境に完全に消滅した。
073
その様子を、まきだけが少し離れた場所で見ていた。伝う涙は、解放された安堵か、それとも——。
074
ゆづるが消滅する少し前。
ひとしきり泣いたキヨラに、トオルは戸惑っていた。突然泣き出したかと思えば、ぎゅっと抱きしめられたのだ。背中を撫でてあげたくとも、こんなぼよぼよの腕で触れるのはどこか憚れてしまい、抱きしめ返すことは出来なかった。「……大丈夫?」と問いかければ、コクリと頷くキヨラ。ゆっくりと離される体温。至近距離で見たキヨラの顔に込み上げる熱を感じて、思わず視線を逸らしてしまった。が、見えた自身の四段腹に羞恥は瞬時に引いていく。——こんな姿で、あのキヨラちゃんに触れているなんて。申し訳なさ過ぎて、今すぐいなくなってしまいたくなる。
075
落ち込むトオルにキヨラが気づき、両手を包み込むように握る。安心させようとしているのだろう。……今はその気遣いが逆にトオルの心を堕としていっているのだが、キヨラは気が付かない。浮かない顔をするトオルに、キヨラはにこりと笑みを浮かべる。「早く戻さないとね」「う、うん……でも、どうしよう……」「うーん……」キヨラの優しさに刺激されたトオルは、涙目になりながらキヨラを見上げる。醜く出っ張った肉の塊に、咄嗟に目を背けたくなった。……いつだったか、術を解くには術者本人が解く、あるいは術者が死亡した時に解けるのだとキヨラから聞いたことがある。しかし、自身の術を跳ね返された術者の男——ゆづるは、その巨体を引き摺りながらどこかへと去ってしまったし、彼の事をトオルは知らなかった。キヨラちゃんは追いかけようとしたが、それもまた、術を受けて動けなくなってしまった自分が居た事で追いかける事が出来ず終い。ここまで来ると助けに入ったはずがただ足を引っ張ってしまったという罪悪感と、自身の情けなさに泣きたくなる。追いかけようと言うにも、急変した体は中々いう事を聞かない。本当に、どうしたら。
076
キヨラを見つめ、トオルは考える。どうにかキヨラに迷惑をかけない方向で……と考えたところで、身動きがほとんど取れない現状にそれは無理そうだと諦めた。「とりあえず、家に帰ろう。もしかしたら、あの男が居なくても解決できる方法を知っているかもしれないわ」「う、うん。そうだね」「立てる?」「た、たぶん……」キヨラが差し出す手を、トオルが握り締める。華奢なキヨラの手を握り潰しそうで、慌てて力を抜いた。しかし、予想とは反してキヨラは力強い手でトオルを引き上げた。自分よりも二倍も大きなトオルの体を悠々と引き上げた彼女は、トオルを安心させるように微笑むと、ゆっくりと歩き出した。ゆっくりと引かれながら、壁伝いに足を進めていく。動くたび揺れる腹の重さにどんどん虚しくなっては、泣きそうになりながらも、地面を踏みしめた。——惨めだ。惨めでみじめで、堪らない。泣いちゃだめだと思っても、込み上げる悔しさと悲しみは止まる事はない。……ただでさえ、自分は根暗で可愛らしくもないのに、みんなの憧れであるキヨラちゃんと一緒に居られて。恋……だって、自覚したばかりなのに。こんな姿に変わってまで彼女の隣に居るなんて、心が押し潰されてしまいそうだった。——今度こそ、私はキヨラちゃんの隣から去らなければいけないかもしれない。折角自覚した恋も、彼女に見せようと思って頑張っていた漫画も、全てを諦めて。……嫌、だなぁ。
077
「ふ……ぅ……っ」「トオルちゃん?」「ご、ごめ……私っ、!」トオルは崩れ落ちるのを、止めることは出来なかった。口元を覆い隠し、必死に嗚咽を抑えるが、それもあまり効果があるようには思えなかった。「もう、キヨラちゃんの隣、歩けないよぉ……っ」次から次へと、ボロボロと零れ落ちる涙。足は止まり、繋いでいた手が少し解けた。キヨラが焦る気配がする。「そんなことないよ。トオルちゃんはトオルちゃんだもん」「で、でもぉ……っ!」「それに、全然醜くなんかないよ」キヨラがトオルの涙を拭う。けれど、溢れる涙の量には追いつかなくて、大粒の涙がトオルの頬を濡らす。キヨラは仕方なさそうに眉を下げると、解けかけた手をぎゅっと握り締めた。トオルの前にしゃがみ込むと、顔を覗き込んだ。「私が必ず助けるから」「ふ、ぅっ……ほんと……?」「うん、本当。それに、私はトオルちゃんと一緒に居たいよ。どんなトオルちゃんとでも。だって友達だもん」キヨラの笑みに、私は心が落ち着いていくのを感じた。握った手はやはり違和感があるけれど、彼女の体温はいつでもトオルを安心させてくれる。変わらない事があるという状況は、今のトオルにはとてつもない安心感を齎した。「……うん。私も、キヨラちゃんと一緒に居たい」「もちろん!」力強く笑うキヨラに、つられてトオルも笑みを浮かべる。……きっと、同じ“一緒に居たい”でも、トオルとキヨラでは意味が違う。けれど、そう言ってくれるだけでトオルには十分だった。
078
結局、必死になって家に帰って来ても、トオルの受けた術を解除する方法はわからなかった。しかも、ゆづるを探しに行ったキヨラちゃんの家の人の話によれば、術者である『ブタにするマシン ゆづる』は逃げてからすぐ、彼の取り巻きに殺されてしまっていた事を知った。それが術を受けてから三日後の出来事だった。
079
本来ならば術者が死ねば術は解けるはずなのだが、ゆづるの術は後に残るものだったらしい。キヨラちゃんの家の人に何か変わったことはなかったかと聞かれ、トオルは思い出す。「……そういえば、お腹空かなくなったかも?」「なるほど。それが本当なら、強制的に食欲を刺激する術か……」「ならば術が解けているのに変わらない理由も説明がつくな」「どういうこと?」隣に居たキヨラが問う。トオルはそれをどこか他人事のように聞いていた。難しい話は、幼い彼女には理解するのに時間がかかってしまう。「あの男の術は恐らく、体に何かしらの危機感を与えて食欲を刺激すること。何故一瞬で姿形を変えられたのかはわかりませんが、恐らく“空腹にならない“時点で、彼の術は解けているのだと思います」「……なるほど。姿を変えた術者が、実は別の人間だった可能性は?」「ない事はないですが、そうすると情報がなく、現状では……」「……そう」キヨラ達の話が終わるのを横目に、トオルは何となく自身の状況を察する。どうやら、すぐに解決するのは難しそうだ。「えっと……私はどうしたら……」トオルは目の前の三人に問う。トオルの家——匕背家は知識はあるものの、あまり実働向きではない。目が悪いのだから、当然と言えば当然なのだろうけれど。「とりあえず、痩せるか、解除の方法がわかるまでは学校は休んだ方がいいかと」「確かに。トオルちゃん、元々食は細いしあとは運動すれば……」「うっ」「そんな嫌そうな顔しないで」へにょ、と眉を下げるキヨラに、トオルは自身の心が読まれたのかと錯覚する。心底嫌そうな顔をしたのを、キヨラが見てしまっただけなのだが、ここ数日自身の顔を見ていないトオルは思い至る事はなかった。しかし、学校を休まなければいけないのはその通りだと、トオルも思う。目も悪く、自分一人で体も支えられない。今だって頑張って立っていたけれど、さっき座り込んでしまったばかりなのだ。一人で行動が出来ない以上、学校に行くのは危ない。それくらい、幼いトオルでも理解できた。キヨラと一緒に学校に行けないのは寂しいが、トオルは頷く。「出来るだけ早く、解除方法を見つけるから」「うん。ありがとう、キヨラちゃん」
080
——それからは、淡々と時間が過ぎて行った。つまらないと時間が長く感じるというのは本当だったらしく、トオルは漫画を描いたり、時々運動をしたりして時間を潰していた。夕方になればキヨラはその日受けた授業のノートを見せに来てくれたし、土日の休みには一緒に勉強だってしてくれた。時々、キヨラの立てた“モデルへの道 鍛錬編“に付き合ったりもしたが、トオルはいつもプラン前半でギブアップしてしまう。それでも、出来るだけ早く元に戻りたいという気持ちは、トオルを奮い立たせた。努力で埋め尽くされる反面、キヨラと二人という状況に恥ずかしい気持ちを感じたりもしたが、それ以上に嬉しかった。……こんな姿になっても、一緒に居てくれる。それが彼女の情けだとしても、トオルは嬉しかった。素直に真正面から言うには恥ずかしすぎるから、まだ伝えられていないけれど。
081
学校を休み始めてから一週間。今日も今日とて、キヨラと共に自分の部屋で教科書と睨めっこをする。「これはここを先に計算して……」「う、うん」キヨラとの急接近に、トオルの心臓はバクバクと音を立てる。ち、近い……。キヨラのいい匂いが漂ってきたようで、思わずこくりと喉を鳴らしてしまった。「トオルちゃん、聞いてる?」「う、うん」「……江戸時代の将軍は?」「うん」「……」緊張しきったトオルの様子に、キヨラは無言で講義をした。そして徐ろに立ち上がると、トオルの背後に回った。気づくことのないトオルの脇に一気に手を差し込み、こしょこしょと手を動かした。「わっ、えっ、あ、あはっ、あははははっ!」あまりのくすぐったさに、トオルが声を上げて笑う。「人が教えてるのに何呆けてんのよっ」「あははははっ、ご、ごめっ、あはははっ、!」甲高い笑い声が部屋の中に響く。トオルの手がキヨラの手に重なって引き剥がそうとするが、笑い過ぎて全く力が入っていない。「ごめっ、ゆるして、キヨラちゃ、」ヒーヒーと苦し気に言ってくるトオルに、キヨラはやっと手を放した。解放したトオルは雪崩れるように後ろに寝転がる。腹から大きな息を何度も吸い込むと、息を整えることに神経を注いだ。少し落ち着いてきたトオルに、キヨラはしゃがんだまま彼女の顔を覗き込んだ。「人の話はちゃんと聞くこと。いい?」「はあ、はぁ……う、うん。ごめんね……?」「わかればよろしい」わざと偉ぶって見せれば、トオルは歪に頬を上げた。笑い過ぎて頬が痛いのだろう。……そういえば、姿が変えられてからトオルの笑った顔は見ていなかったような気がする。いつも不安げで、笑っていたとしてもどこか引っ掛かっているような顔をしていたような。そこまで考えたところで、トオルがゆっくりと起き上がった。再び勉強机に向かうトオルに、キヨラは思考を振り払って定位置に座ろうとして————叫んだ。「危ないッ!!」ビュンッと眼前を切る空気に、キヨラが咄嗟に反応する。トオルの眼前に迫った凶器を叩き落として、キヨラが窓との間に立ち塞がる。「下がって!」伸ばされた手が、トオルを庇うように伸ばされた。トオルが状況を把握した時には、既に窓の直前にまで“ソレ”は迫っていた。
082
トオルの部屋の窓ガラスが衝撃を受けて砕け散る。散らばる破片から視線を反らし、目元を庇うように腕を上げた。「っ、キヨラちゃん!」トオルが叫ぶ。自分を守るように前に立っていたキヨラは、座布団を引っぺがし、盾にしてガラスを防いでいた。「あら。思ったより反応がいいのね」聞こえてきたソプラノにキヨラの上げた座布団が徐々に下ろされる。徐々に見えてきたのは、見覚えのない髪の長い女性が一人——キヨラと睨み合っていた。
083
「キヨラちゃん!」「トオルちゃんはそこに居て!」いつもと違う、真剣な声が響く。トオルは動こうとした体を、その場に縫い留めた。キヨラは髪の長い女性を真っすぐ見つめると、真剣な声色のまま問うた。「貴女、『粉々にするマシン ようこ』ね」「あら。小さいくせに私の事を知っているのね。それだけ有名なのかしら。嬉しいわぁ」「危険人物の顔と名前は一通り覚えているもの」「ふーん。ガキの癖に生意気ね」女性——ようこの目が細まり、キヨラを睨みつける。キヨラも負けじと睨みつけ、鞄から取り出したドライヤーガンを手に取った。今は昼間。今までの奇襲を思えば、充電量はまだまだあるはずだ。「それで、レディの部屋に無断侵入してまで何の用?」キヨラが挑発するように、ようこに問う。ようこは「うふ」と女らしい笑い声を浮かべると、口紅を引いた真っ赤な唇を不気味なほど緩やかに上げた。
084
「私はね、あなたを私の王蟲にしてあげようと思ってきたの」「おうむ……?」「知らないのかしら。有名なのよ? 醜くて、ブサイクで気色が悪い、まるで蛆虫のような存在」首を傾げたトオルに、ようこが醜さを伝えるように所々口調を強めて言う。トオルは初めて聞く虫の形に想像が追い付かないまま、再び首を傾げた。「……わかんない」「ふふっ。大丈夫よ、目の前で見ることが出来るんだもの。すぐにわかるわぁ」「トオルちゃん、安心して。あなたが見ることは一生ないと思うわ」「随分余裕ね。その姿勢も、どこまで続くか見物だわ」バチバチとキヨラとようこの間で火花が散る。その様子に、トオルは今度こそ口を噤んだ。「今の人間の姿より、よっぽど有用でそそるわよぉ。なんせ私の為に働けるんだから」薄気味悪く笑みを浮かべるようこに、トオルは血の気が引いていくのを感じた。ニィ、と更に引き上げられた口元はなんというか……お話に出てくる“口裂け女”のようで、思わず息を飲んでしまう。——しかし、キヨラは動じない。凛とした姿勢のまま女性を真っすぐ見て、ガンを構えていた。女性がゆっくりと手を上げるのを見て、トオルは嫌な予感を過らせる。
——もし。もしキヨラが、自分と同じように術を受けて醜い姿になってしまったら。想像するだけで耐えられない。トオルは反射的に身を乗り出した。
085
「だ、だめ! やめて!」「あら、急に積極的ね。でも、あなたの醜い姿には王蟲の姿はとびっきりお似合いだと思うの」「キ、キヨラちゃんは、だめなの!」ようこの言葉にトオルは一瞬言葉に詰まるが、ふるふると顔を横に振って否定する。けれどようこは薄く嗤って、トオルを見た。初めて合う視線に、ドクリとトオルの心臓が嫌な音を立てる。「あなたはそんな姿をしているのに?」「っ、」「トオルちゃん、聞いちゃダメ!」ようこの言葉に、頭が真っ白になる。キヨラの叫び声がどこか遠くに聞こえた。ようこは続ける。「あなたはその子を庇ってそんな醜い姿になった。不公平だと思わないかしら」「そ、んな事……っ」「あの男の狙いも、あなたじゃなくてその子だったのよぉ?」ようこの言葉を聞かないようにと耳を塞ぐが、手の隙間から流れてくる声に反応してしまう。「その姿になったのは、あなたのせいじゃない。そこの紀眞家の娘が悪いの」「トオルちゃんっ!」自分じゃない、自分は悪くない。キヨラが悪いのだと。何度も囁きかけてくるようこに、トオルは視線を落とす。キヨラの声が聞こえるのに、どうしてこうも心が揺るがされるのか。思考は纏まらず、ぐるぐると脳内を渦巻いていく。……自分の、せいじゃない。自分はこんな事望んでなかった。あの男が、キヨラちゃんを狙ったから……キヨラちゃんが、狙われたから。「トオルちゃん!」キヨラの必死な声に、トオルはゆるりと顔を上げる。キヨラの綺麗な顔が、スタイルのいい四肢が見えて、トオルは自身の中で黒い渦が加速していくのを感じる。——嫉妬。羨望。切望。全ての欲が一気に膨れ上がっていく。「キ、ヨラ、ちゃん……」トオルの顔は、見た事もないほどに真っ青だった。
086
キヨラは焦っていた。トオルの心に踏み入ったようこは、その姿を見て心底愉しそうに笑みを浮かべている。
血の気の引いたトオルの顔に、ぐっと唇を噛む。僅かに伸ばされた手は助けを求めているようにも、自分から全てを引きはがそうとしているようにも見えて、触れることが出来ない。キヨラはようこの動向を気にしつつ、トオルに視線を合わせる為にしゃがむ。「トオルちゃん、聞いて。確かに、あの男の狙いは私だったけど……でも、私は必ずトオルちゃんを戻すことを誓うから。だから、」「……でも、もう術者の人、死んじゃったんでしょう?」トオルのか細い声が、言葉を紡ぐ。心臓が、痛い。「戻るのは難しいってみんな言うよ? キヨラちゃんだって、戻し方わからないんでしょ?」「……それでも、探すから。私が見つけるからっ!」キヨラは縋るようにトオルの手を取った。触れた手は、今までで感じた事もないほど冷たく、頼りない。「……信じられないよ」「っ、どうして?」「だって、キヨラちゃん、可愛いもん」「えっ?」「可愛いから、わからないでしょ。私が……ただでさえ暗くて何も取り柄のない私が、こんなにブサイクになって、どれだけ……っ」溢れ出た涙が、トオルの頬を撫でる。しかし、キヨラにはそれを拭う事は出来なかった。——許されていない気がしたのだ。私……“トオルの友達のキヨラ”は、この状況で何もできないのだと、確信した。
087
「……ごめんね、トオルちゃん」握ったトオルの手を額に当て、願うように頭を垂れる。ゆっくりと離した手は驚きに固まっていた。——友達である私にできないのなら、やる事はたった一つ。“紀眞家の娘のキヨラ”になるだけだ。トオルの前に立ち、キヨラは再びガンを構える。彼女が自分にどんな気持ちを抱いていたとしても、キヨラは彼女を守らなくてはいけない。それは使命感であり、“トオルの友達のキヨラ”の願いだから。
088
「容赦しないわ!」「チッ」ようこが大きく舌打ちをして、顔を歪ませる。「はぁ、興醒めね。もういいわ」「待ちなさいっ!」ふっと窓の外へと身を投げるようこに、慌ててキヨラが飛び出す。しかし、宙で黒い霧に受け止められたようこは、そのまま消え去ってしまった。キヨラは空を飛ぶことは出来ない。悔し気に歯を食いしばり、ようこが消えて行った場所を睨みつけた。
089
夕方の涼しい風が、トオルの部屋を満たす。キヨラは自身の家族へ先程起きた事と、トオルの部屋の窓の事を報告すると、携帯を閉じた。ゆっくりと振り返るキヨラ。そこには未だに放心状態のトオルが座り込んでいた。
「……トオルちゃん」「……」俯いたまま、微動だにしないトオルに、どんどんと心配が募っていく。しばらくの沈黙の末、トオルがゆっくりと口を開いた。「……がっかりしたよね」「えっ」「私が、あんな事……キヨラちゃんに思ってたなんて……」泣きそうな声で言われ、キヨラはきょとんとした。……一体どういうことなのか。がっかりした? あんな事? 思い当たるのはさっきの事だが、トオルの言う事は一理あると思っている。「……よくわからないけど、私はがっかりなんてしてないよ」「……」「寧ろトオルちゃんが言ったこと、当然のことだと思うし……」だから、その。続かない言葉に、キヨラは口を噤む。今の自分が何を言っても情けをかけているようにしか思えなくて、それはトオルにとってはよくないだろうというのは何となくわかる。わかるからこそ……下手に口を出すことは出来なかった。「……ふふ」どう声をかければいいのか。悩みに悩んでいれば、不意に聞こえる小さな笑い声。それは次第に大きくなっていき、それがトオルから聞こえている事に気づくのに、そう時間はかからなかった。
090
キヨラは口を尖らせた。「なんで急に笑うのよ」「ふふっ、ご、ごめん。キヨラちゃんでも悩むんだなあって思っちゃって」「……私を何だと思っているのよ」「ふふっ、ふふ……」キヨラの言葉がそんなに面白かったのか、トオルはくすくすと笑う。それは徐々にキヨラにまで伝染していき、ついにキヨラも吹き出した。トオルがキヨラを見つめる。「ごめんね。ひどいこといっぱい言っちゃって……でも、本心じゃなくて、えっと、」「ううん、気にしないで。どうせあの女が何か術でも掛けてたんでしょ? 私の方こそ、気づけなくてごめんね」「う、うん。……ねぇ、キヨラちゃん。これからも遊んでくれる?」「うん、もちろん!」さっきまでの重い空気は何処へ。明るい空気に包まれた部屋に、ひゅるりと風が吹き込んでいく。冷たい空気も、今のキヨラは気にならなかった。
091
「それじゃあ、今日は帰るね」「うん。気を付けて」「うん」バイバイ、とキヨラが手を振る。それにトオルも振り返し、扉の先を見送った。「……」ゆっくりと下げられる手。笑みを浮かべていた口元は一直線に引き結ばれ、光を灯していた瞳は光を失う。「……キヨラちゃん」
092
……ごめんね。私、まだそんなに強くなれないみたい。内心で呟いた言葉は彼女の中で大きくなり、ようこの言っていた言葉を反芻させた。自分のせいじゃない。……なんて魅力的な言葉だろう。誰かのせいにすれば、こんなにも心が軽い。だめだと、違うとわかっているのに、一度開けられた蓋は簡単に閉じてはくれそうにない。トオルは溢れる涙を隠すように俯いた。顔を手のひらで隠し、小さく嗚咽を零す。……ごめん、キヨラちゃん。私、嘘ついた。「術なんて……かけられてないよ、私……」あれは自分の中の本心だった。だからこそ、トオルは心が痛んで痛んで、仕方がなかった。どす黒い気持ちが自身の中にこんなにあるなんて、気が付かなかったのだ。次から次へと溢れる懺悔の涙の中に、埋もれるように流れ出る、小さなトオルの欲。それは部屋の床にひっそりと溜まり、彼女の足元に絡みついていく。
——唯一、トオルの心を救ったのは、一度たりとも『キヨラちゃんを助けなければよかった』と思わなかったことだけだった。
前編(33605文字)