ドライヤーガン戦士シリーズ③タカラ後編
開始日21.09.11.
カクヨムから角川つばさに
野いちごから野いちごジュニアにも
エントリーします。
今作から、代筆屋さんと私への著作権譲渡の合作をしてる為、カッコよくなってます。イメージは伝えきれなかったのですが(苦笑)
終了日22.02.17.
037
「……」——帰り道。背に感じる漠然とした、違和感。それは次第に人間の視線である事に気が付いた。バっと勢いよく振り返っても誰もおらず、首を傾げる。……今絶対、誰かいたような気がするんだけど。少し進んで、振り返って、また進んで振り返る。そんな事を繰り返し行ってみるが、やはり誰の姿も見えない。しかし、視線はさっきよりもしっかりと感じるほどには強くなって。トオルは震えあがるように肩を震わせると、慌てた様子で駆け出した。——それがつい一週間前の話。
「……まただ」ここ一週間。ほとんどと言っていいほどの時間に感じる視線。それは日に日に強くなっていき、トオルの精神を着実にすり減らしていた。大学でも感じるようになった時には、自分の勘違いかとも思ったが、残念ながら勘違いだと思えないほど鋭い視線に、やはり勘違いではなかったのだと理解する。「……」纏わりつくような視線が、気持ち悪い。ちらりと後ろを視線だけで振り向くが、やはりそこに人の姿はなく、あまりの不気味さにトオルは泣きたい気持ちをぐっと抑え込んで駆け出した。幸い、授業中は視線をほとんど感じないのだ。——それならば。「はあっ、はあっ……!」トオルは目を細めてもなお悪い視界を記憶で補足しつつ、彼女は図書室へと駆け込んだ。驚く先生に「すみません」と息も絶え絶えに謝罪を述べ、本の群れへと足を進める。気が付けば、視線はもう感じなくなっていた。ホッと胸を撫で下ろして、トオルはゆっくりと小説が並ぶコーナーへと向かった。数冊の本を取って、席へと座る。そのまま本を開けば、トオルはたちまち本の世界へと没頭していく。——その後ろで、トオルの姿を見つめる“モノ”がいるとは知らずに。
そんな日々が一か月と過ぎ、トオルはぼんやりと朝食に出されたパンを見つめていた。千切る気力も、パンを手に持つ気力もないトオルは、ただただパンを見つめているだけ、という異常な行動をしていた。その様子に気づいたのは、キヨラだけではない。心配そうに眉を寄せたトオルの両親、キヨラ達の両親、そして仲の悪いはずのタカラですらわかってしまうくらいだった。全員が顔を合わせ、キヨラが頷く。トオルの隣へと腰を下ろしたキヨラは、努めて冷静に声を掛けた。「と、トオルちゃん」「……!」ビクッと反応する彼女に、キヨラも釣られて肩を揺らす。トオルの瞳がゆっくりとキヨラに向き、その瞳の色にキヨラは息を飲んだ。焦点の合わない瞳。生気がなく、まるで死んだ魚のような——。
038
「……どうしたの」「あっ、えっと……最近、何か悩みとかあったり……」「大丈夫だよ」「そ、そう……?」「うん。心配してくれてありがとう」淡々と、色のない声で言われる言葉は、今までに何度も言われた答えだった。まるで機械だ。同じことを何度も繰り返すだけの、機械。キヨラは悔しさに思わず歯噛みをする。——どうして。彼女がこんなになるまで気が付くことが出来なかったのか。キヨラは自分の無能さに頭を抱えたくなる。
トオルはこの一か月で見違えるほど、やせ細ってしまっていた。骨と皮だけにしか見えない腕。足も細くなり、骨格がよく見える。薄かった肩は更に薄さを増し、首は手を掛ければ折れそうな程細くなってしまっている。表情も暗く、目はくぼんで隈がこびりついている。こうして食卓に顔を出したのも、久々だった。「……トオルちゃん」「なに?」——やっぱり、大丈夫じゃないよ。……そう口にしようとした言葉は、喉の上の方で止まってしまった。いつだったか、トオルが自分に言った言葉を思い出す。『いつか、キヨラちゃんの隣に立てるように頑張るから。だから、見ててね』その言葉と共に、トオルは助けられることを拒むようになった。それはひとえに、彼女が強くなりたいと思う気持ちに沿ったもので。キヨラは強く手を握り締める。この状況になっても、見ているだけしかできないのか。——彼女が助けを求めない限り、キヨラは助けに入ることが出来ない。そう、二人で決めたのだから。キヨラはトオルに「何でもない」と首を振った。「変なの」と笑う彼女に「そうかな」と笑いかける。……見ているだけというのがこんなにつらい事だったなんて、キヨラは知らなかった。
そんな二人を見て、タカラはなんとも言えない気持ちでパンを咀嚼していた。トオルとキヨラのギクシャクした様子は、見ていて気持ちが悪い。「……言えばいいのに」助けてって。助けてあげるよって。何をそんなに難しく考えているのだろうか、この二人は。奥歯に物でも詰まったかのような感覚に、タカラはため息を吐いた。……大人っていうのは、本当に面倒なことばかり考えている。――それに。タカラはゆっくりとトオルの後ろへと視線を向けた。「……」あれは――妄執だ。トオルの上に渦巻く黒い残穢に、タカラはため息を吐く。『引き寄せやすいから』……これはもう、引き寄せるとか言う話ではない。完全にターゲットにされているだろうその様子に、タカラは眉を寄せる。
039
しかも、トオルは気づいていないようで、彼女の心の奥に入り込んできている。キヨラには見えていないのだろうか。それとも、見えていて尚、彼女との約束を守ろうとしているのか。どちらにせよ、このままでは妄執に取り憑かれるのも時間の問題だ。助けるべきか。彼女達の気持ちを優先するべきか。「タカラ、そろそろ出ないと遅刻するわよー」「うん」母さんの声に、タカラは空になった食器を重ねると立ち上がる。人のことばかり気にしている場合じゃない。早く行かなければ、遅刻してしまう。タカラはトオルをちらりと盗み見ると、ランドセルを背負って駆け出した。少しばかり気にはなるが、自分には関係ない。「……」関係ない、はずだ。
タカラが自分の気持ちと戦いながら学校へと向かっている、その時。トオルは大学へと向かっていた。珍しく途中まで一緒に来た彼女は、途中で事務所の方へと向かっていった。最後まで心配そうな顔をする彼女を、自分はちゃんと笑顔で見遅れただろうか。そんな事を考えつつも、トオルはふらつく足取りで大学へと向かう。視線はもう、自身を捉えている。突き刺さる視線は、やはり気持ちのいいものじゃなくて。トオルは身を縮めるようにして講義を受けるべく、部屋へ向かった。トオルは小さく体を丸めて席に座ると、授業が始まるまでスマートフォンを開いた。メモ帳にポチポチと文字を打っていれば、少しして予鈴が響き、トオルはスマートフォンを伏せた。少しして、ふとトオルは周囲がおかしいことに気がついた。通常の授業よりも、どこか人数が多いのだ。しかもその大半が女子生徒ばかりで。トオルはやっと自分が受ける予定の授業をする担任が誰かを思い出した。「Hello,everyone.」刹那。流暢に響いた英語に、出入口の方へと全員の視線が向く。視線を巡らせて微笑んだのは、英語の担当教師である——七妹だった。「さあ。今日も授業をしていくよ」教壇に立つ男教師に、女子生徒達が色めき立つ。その声に、トオルは顔を顰めた。――やはり、何度経験してもこの空気は慣れない。確かに、スラリとした体躯に金髪を揺らしている彼は所謂“イケメン”と言われる部類なのだろうけれど。キヨラへと想いを寄せているトオルにとっては、興味のない事だった。トオルはどこか浮き足立っている空気の中で、疎外感を感じながらも真面目に授業へと耳を傾けた。
鐘が鳴り、授業の終了を告げる。女子生徒が七妹先生に話しかけるべく、我先にと立ち上がる。
040
そんな光景を横目に、トオルはいち早くこの場から去るため、荷物をまとめていた。が、それは掛けられた声に止められてしまった。「匕背さん」「……なんでしょうか、七妹先生」名を呼ばれ、顔を上げる。端正な顔が立ってこちらを覗き込んでいた。にこりと笑みを浮かべた彼は、女子生徒たちの視線を独り占めしており。注目の的である人物が自分を見ている事に、得体のしれない恐怖を覚える。蘇るのは、遠目で見られてきた小学校時代。あの時も、キヨラがよく話しかけて来てくれたことで、色々と弊害が生じてしまっていた。例えば、知らない人からの嫌がらせだとか、知らない事への言いがかりだとか。ともかく、注目を集めている人物との接触はトオルにとってあまりいい記憶を残してはいなかった。それが異性であるのなら尚の事。トオルは彼等——ひいては彼女たちを刺激しないよう、努めて普通に振る舞った。「さっき匕背さんに提出してもらったものなんだけどね。よくできているよ。Bravo!」「あ、ありがとうございます」一人、拍手をする七妹に、トオルは少しばかり身を引きつつ礼を述べた。それからも『この描写がいい』『ここの表現はまるで文学小説を読んでいるようだ』と褒めちぎる七妹。どんどんと重ねられる言葉に、トオルは遂に突き刺さる視線を感じた。取り巻きの女子生徒たちだ。先生と話すためにこの授業に参加している者も多い中で、一人が独占状態にあれば、それはもう批判をかう事だろう。トオルも例に漏れず、批判をかいこんでいる状態だった。トオルは冷汗を感じつつ、七妹に「すみません、先生。私次の講義もあって」と心底申し訳なさそうに取り繕った。しかし、七妹も教師である。講義があると言えば、それを押してまで付き纏ってくることはないだろう。「いやいや。もう少しいいじゃないか。君は優秀なのだろう?」……否。どうやらそれはトオルの願望で終わってしまったらしい。トオルの手を掴み、尚も話を続けようとする彼に周囲の視線はより鋭さを増していく。勢いを増していく七妹の言葉の裏で、刻々と過ぎていく時間。もうどうしたらいいのか、わからない。「す、すみません!
もう、時間なので!」トオルはそう叫ぶように口にすると、七妹の手を振り切って鞄を引っ掴み、走り出した。後ろから止める声が聞こえるが、それに振り向く度胸はトオルにはなかった。早く、早く図書館に。既に逃げ場と化している図書館へと向かう足。辿り着いた図書館は、いつも通り静かで、沢山の資料に囲まれていた。大きく深呼吸をし、トオルは異常な出来事を整理するように本を取り出して中に没頭することにした。突き刺さる視線は、感じられない。
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駆け出していく女性の背を見送った男は、くつりと喉を鳴らした。我先にと話しかける女子生徒たちに笑みを浮かべつつ、あしらっていく。男——七妹は、大学の教師でありながらトオルに憑く『妄執』の原因でもあった。きっかけは単純である。忌々しき祓い屋の家系である紀眞に深く関わっている人物だったから。紀眞家の現戦士である少年——タカラとは許嫁の関係で、自分達『そらうみ』を破滅へと追いやった紀眞キヨラの親友でもある。こんな都合のいい人物は、他にはいないだろう。七妹はにやりと悪い笑みを浮かべると、自分が問答無用で根城に仕上げた科学準備室へと向かう。薄暗く、少し不気味な雰囲気を醸し出している事もあって、必要以上に人が寄り付かない準備室は、企みを持つ自分達にとってかなり都合のいい場所だった。七妹が扉を開ける。
「おかえりなさいませ、七妹様」「おかえりなさいませぇ」「ああ。ご苦労様」七妹を出迎えたのは、二人の女性。見目がいい女が智子で、少しばかりふくよかな姿をしているのが阿父という。彼女たちは二人とも“そらうみ”と“もっともすみ”に関係する者たちで、七妹の忠実な下僕であった。二人の間を抜け、七妹は自分の為に用意された豪華な椅子へと腰かける。「やれやれ、全く。サル共は扱いやすくて困る。二人もそう思うだろう?」「そうですね」「はぁい。私もぉ、見た目がいいからぁ~?
男どもが釣れ放題なのぉ! ほんと、単純でぇ、ばかみたぁい」ふふ、と上機嫌に笑い、髪を指先に巻き付ける智子の姿に「そうだろうとも」と同意を示せば、嬉しそうに微笑む。薄い茶髪に染め上げた髪は綺麗にカールされ、短い丈のスカートからは細く、棒のような足が覗いている。むっちりとした唇には真っ赤な紅が引かれ、目元には強いアイシャドウが彩っている。男性としての意見を述べるのであれば、その姿はまるで夜の世界で働く者のようで。彼女が元男性であることを除けば、魅惑的な女性に見えなくもない。「それで、七妹様。獲物は」「ああ。今日接触が出来た。これで今までとは比にならない早さで彼女は取り込まれていくだろうな」「さぁすがぁ、七妹さまぁ~。かぁっこいい~!」「わかったから寄るな、智子」「はぁい」七妹の拒否に、立ち上がって駆け寄った智子が大人しく下がる。その様子を横目に、七妹はトオルの様子を思い出していた。ガクガクと震える体。狼狽える視線を見るに、彼女はどうやら美形に絡まれる事で生じる副作用のようなものをしっかりと理解しているのだろう。
042
——実に面白い。張り合いのないサル共よりも何倍も楽しめそうだ。七妹は高らかに笑う。その笑みは、確信した勝利への祝福か。それとも、これから弄ばれるであろうトオルへの僅かな手向けか。どちらにせよ、七妹の計画は着実に進んでいた。
——嗚呼、本当に。「……壊し甲斐があるな」「あー、七妹さま、今すっごぉくわるぅいお顔してるぅ~」七妹の笑みに、二つの笑い声が重なる。三重奏になった笑みは大学の一角を覆い尽くし、空へと消えて行った。
「匕背くん、ちょっといいかな」「匕背くん、君いいセンスしているよ」「今日の服装はとても素敵だね、匕背くん」「……ありがとうございます」トオルは毎日のように降りかかる迷惑行為に、うんざりとしていた。例の授業から頻繁に関わって来るようになった彼は、大学に行くたびにこうして声を掛けてくるようになった。その内容は提出したレポートの内容以外にも、だんだんとその日の服装、髪型、持っている本にまで及んだ。まるでナンパにも似ている行為に、周囲の視線はどんどん鋭くなっていくばかり。先日なんか、遂に知らない女性に「調子に乗らないでくれる?」と言われてしまった。調子になんか乗っていないし、そもそも何で話しかけられているのかすらもわからない。トオルにとっては彼女たちの僻みこそ、的外れなものだった。
「匕背さん」——嗚呼ほら、またやってきた。トオルはいい加減にしてほしいと言わんばかりの瞳で、彼を見上げる。そこには今日も今日とて端正な顔をした七妹が、こちらを見下ろしていた。「……何でしょうか」仕事の締め切りとレポートで忙しいんですが。言いかけた言葉を咄嗟に飲み込む。相手は一応、教師なのだ。変なことを言って、単位を落とすような事はしたくない。「実は君に見て欲しいものがあってね。よければこの後、科学準備室に来てくれないかい?」「えっ」「待っているよ」返答も聞かず、ポンと叩かれる肩。僅かな触れ合いに悪寒が走った。——どうしよう。行きたくない。けれど、行かなくてはいけないような気もしてしまう。相反する気持ちが鬩ぎ合う中、連日畳かけるような仕事をしていたトオルは、回らない頭でぼんやりと考える。もし行ってしまったら。もし行かなかったら。……けれど、上手くまらない頭では、最適解を浮かべる事すら出来なかった。トオルはゆっくりと荷物をまとめると、教室を出た。向かう先は、ほとんど使ったことのない科学準備室。
七妹のストーカーの被害を受け始めた頃、トオルは再び無茶なスケジュールに悩まされていた。
043
トモから提供されたのは、新しい企画のシナリオ作成。小説とは全く書き方が変わるそれは、トオルの貴重な時間を次々と食い散らかしていった。慣れないスマートフォンを使ってシナリオの書き方を勉強した頃には、大学のレポートの提出期限が近付いており、寝ずに仕上げた日には大学で七妹に絡まれる日々。シナリオにオーケーが出た後も、短い小説を何本も頼まれては十分な睡眠が取れていない頭でストーリーをひねり出す日々。徐々に自分の書くストーリーの質が落ちている事に、トオルは頭の片隅で気づきつつもキヨラへ吉報をおくることだけを見据えて進み続けていた。そんなトオルの様子に、キヨラは流石に口を出したがトオルは「大丈夫だから」の一点張り。——大丈夫だから。自分はまだ頑張れるから。……まるで暗示にも聞こえるそれは、キヨラが撮影で遠くに行くことになっても変わらなかった。その様子を見てきたタカラは、最初は素知らぬふりを続けていたものの、それも限界が来ていた。「……あのババア、家庭教師さぼってんじゃねーよ」時間になっても姿を現さないトオルはここ数か月、家庭教師として自分の隣に立つ事をしていない。最初に『ちょっと忙しくなるから、これからは難しいかも』とは聞いていたが、ここまでとは思ってもいなかった。タカラは進まない宿題を放り投げるようにして、机に脚を乗せる。漫画本を開いては、内容が入って来ない事に舌打ちをした。『トオルちゃんの事、くれぐれもよろしくね』何度も聞かされた言葉が、頭を過る。知るかよと漫画を放り投げれば、スマートフォンがメッセージの着信を報せた。アプリを開いて内容を見れば、そこには『トオルちゃんの様子はどう?』の文字。『知らねえ』と送れば、『見て来て。お願い』と言われた。これも、今初めての出来事ではない。昨日も、一昨日も。キヨラが外に出てからずっとこの調子だ。そろそろ鬱陶しくてミュート設定をしてしまいそうになる。しかし、今回ばかりはタカラも断ることが出来なかった。——昨夜。直ったばかりの新しい窓から、ふらふらと家に入るトオルの姿を見かけたのだ。その後ろに取り憑いた“妄執”が、トオルと同化しようとしていたのを見たら、誰だってそうなるだろう。「チッ、めんどくせー」タカラは舌打ちをして、自分のランドセルからドライヤーガンを取り出した。……仕方がない。もしトオルが取り込まれてしまったら、批判を受けるのは自分なのだから。幸い、明日は祝日だ。学校があるのかはわからないが、彼女が忙しそうにしている原因を突き止めるには十分だろう。休みを返上してまでやるのは面倒だが、仕方がない。「ったく、世話がやける」全ては、キヨラからの鬱陶しい連絡を終わらせて、自分の平穏を守るためである。
044
——翌日。タカラは鞄にドライヤーガンを仕込むと、友人の家に遊びに行くと言って家を飛び出した。そのまま外壁をよじ登り、匕背家の庭に忍び込むとトオルが出てくるまで身を潜めることに。雨が降っていなくてよかったと胸を撫で下ろしたのは、ここだけの秘密だ。小石で足元に落書きをしつつ待っていれば、トオルが家から出てきたのが見えた。あ、と声をあげそうになって咄嗟に口を覆う。後ろから静かに様子を確認するが……その様子に、タカラは息を飲む。——まるで、幽霊のようだ。あちこちへとフラフラしながら歩く彼女は、生きているのか死んでいるのかすらも怪しい空気でそこに存在している。どう見てもただ事ではない状態に、タカラはキヨラの気持ちが僅かに理解できてしまった。「あのババア……」慣れない事をして、強がるから。弱い人間は弱い人間なりに、誰かに頼ればいいのに。そう内心で呟きながら、タカラはトオルの背を追って行く。気づかれないように慎重に……とも思ったが、その必要はなかったらしい。蓄積した疲労で、彼女の注意力は散漫になっているのだろう。こっちに気づくどころか、明らかに見えていたであろう自転車に牽かれそうになって、謝り倒している。色々と気にしているこっちが馬鹿みたいだ。タカラは尾行という名の、ただただ着いて行くだけの作業をしつつ、周囲を見回す。今のところ、彼女に襲い掛かりそうな脅威は見当たらない。あるとすれば、彼女を今にも飲み込みそうな“妄執”だけ。先に退治したほうがいいのだろうか。……いや、ドライヤーガンの起動は多くても一日二回が限度。変に使ってチャンスを逃すのも面倒だ。トオルを囮に使っているようで少し居心地が悪くなるが、正義というものは時折悪者に似通ったことをしなければいけないと、ゲームの主人公も言っていたし。結果的に助けるためだ。仕方がない。
駅まで歩き、電車に乗り込むトオルを追いかけ、タカラも電車へと駆け込む。降りる駅を間違えないように注意しつつ、電車に揺られていれば二駅ほどを過ぎてトオルが電車を降りた。タカラも慌てて降車する。あまり降りることのない駅を珍し気に見回しつつ、トオルを見失わないように追いかけていく。ロータリーを抜け、住宅街に入って行く。美味しそうなパンの香りにつられそうになりながらも、タカラはトオルを追いかける。高いビルが立ち並ぶ道に出れば、トオルは吸い込まれるように一つのビルへと入って行った。
045
その姿を追いかけて中に入れば、受付の人と何かを話すトオルの姿が見えた。「……何してるんだ?」ぼそぼそと喋っているからか、よく聞こえない。タカラは耳に意識を集中させると、会話を聞くべく耳を傾けた。『……で、予約……確認……します』『あちら……です』……どうやら、何かを予約したらしい。トオルはぺこりと頭を下げると、エレベーターの方へと足を向けた。タカラもそれを追いかけようとして——「お客様。どうなされましたか?」……引き留められてしまった。受付の女性がカウンターから出てきて、自分の前で腰を屈める。どこか胡散臭い表情をしている女性は、そのままニコリと笑みを浮かべた。「あら?
もしかして迷子?」「いや、そういう訳じゃ」「それじゃあ、お母さんと一緒に来たのかしら? 保護者の方は?
お名前は?」「……」矢継ぎ早に聞かれる質問の嵐に、タカラはぐるぐると思考を回転させる。どうしよう。まさかこんな所で足止めを食らうとは、思っていなかった。どうにか……どうにかしてこの場を切り抜けなければ。「あら、君」「!」不意に聞こえた覚えのある声に、タカラはハッとして顔を上げる。振り返れば、そこにはいつだったか遊園地で出会った女性がそこに立っていた。名前は確か——。
「アモイ愛!」「アモイ愛、さん! でしょ!」「いっ!」ガツンと頭を殴られ、痛みに声を上げる。何すんだよ!
と声を上げようとして、ハッとする。……そうだ。どうせいるのなら、彼女を上手く使えばどうにか中に入ることが出来るのではないだろうか。思い立ったが吉。タカラはトモの腕をしっかりと掴むと、その顔に笑みを浮かべた。自分の容姿がいい事は、キヨラに似ていると言われる時点で理解している。
「俺、愛姉に会いに来たんだ」「はあっ!?」素っ頓狂な声を上げる彼女に、タカラは鋭い視線を送る。「アンタ何言って、」「愛姉のおすすめしてた作品、友達に勧めたらすっごく楽しそうに読んでたんだけど」「は、はあ?」アモイ愛はこちらの意図を把握できていないのか、顔を思いっきり顰めた。変なことを言ってくれるなよと睨みつけていれば、彼女は徐ろに自身の腰に手を当てた。「当り前じゃない。トモ先生の作品よ!
面白くないわけがないわ!」「はっ、ちょろっ」「何か言った?」「ううん。何でも」フルフルと首を振れば、上機嫌になった彼女はタカラの頭を乱雑に撫でた。かき混ぜられた髪に腹が立って彼女の服の裾を握れば、アモイ愛はそれを戯れだと受け取ったらしく笑顔で鼻歌を歌い始めた。
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……もしかしたら、助けに選ぶ人間を間違えたかもしれない。タカラは今にも離れたい気持ちを抱えつつ、受付の女性に目を向けた。女性は首を傾げていたものの、会社の人間の知り合いだという事で、今すぐに摘まみ出される事はなさそうだった。その事に安堵しつつ、タカラはアモイ愛に「そんな素敵な作品を知っている愛姉に頼みがあるんだけど」と口火を切った。「俺、他にもいい作品がないか気になるんだよね」「はあ?
そんなの後ででも」「今じゃなきゃ駄目なんだよ! な?
いいだろ?」タカラはそう言うと、両手を合わせてお願いのポーズをとる。自分の顔をの良さを理解しているタカラの様子に、アモイ愛はわかりやすく頬を染めると、タカラの低い肩を組んだ。「しょーがないわねぇ!
教え尽くしてあげるわ!」———ちょろいな。高らかに言う彼女に、タカラは見えない下の方でぐっとガッツポーズを作った。やはり、扱いやすい人間はいい。口が裂けても言えないであろう事を思いつつ、タカラはアモイ愛に連れられ、エレベーターへと向かった。
無事、社内を見学したタカラは、二時間以上に渡るオタク談義を聞かされる羽目になった。張り切るアモイ愛に勧められた作品は、もう幾つめだろうか。タカラが「帰りたい」などとは言えない雰囲気になっている事に気が付いた時には、もうまだ三冊目の途中だったはず。暇を弄ぶように外へと視線を向ければ、そこにはビルを出たトオルの姿があって。「わ、わりぃ!
俺もう帰る!」「はあっ⁉」アモイ愛の声を振り切るようにタカラが椅子から降りる。しかし、その様子を見たアモイ愛は反射的に彼を捕えると、般若の形相で睨みつけた。「アンタが聞きたいって自分から言ったんでしょ」「で、でも!」「男なら自分の発言に責任もって、最後まで聞いて行きなさいよね!」怒りに表情を染めたアモイ愛は、慌てた様子のタカラを椅子に縫い付けるように座らせると、再びあの作品はこうだ、これはこうだと話し始めた。机を覆い尽くすそれは、まるで本屋にでも来ているかのような錯覚を覚える。けれど、アモイ愛がどれだけ説明してくれても、タカラにとってはその全部が同じものにしか見えていない。タカラは焦燥に駆られるように窓をちらりと見る。が、そこにはもうトオルの姿はなく。——結局、解放された時には夕日が沈み始めていた。
タカラは一人舌打ちを零すと、トオルを探すのを諦めて自分の家へと帰ることにした。最後に睨む様にして見上げた看板には『出版社』の文字があって。トオルの夢を知っていたタカラは、自分が勘繰りすぎたのだと理解した。嗚呼くそ。——最悪の一日だ。
047
「よく来たね」「……」「そんな顔をしないで。ほら、そこに座って」淡々と響く、落ち着いた声。暗く、どこか陰湿な空気を持ったそこは——キヨラとトオルが通う大学の、科学準備室。そこにいる男——七妹は、トオルの姿を見るなりここへと誘い込んだ。
きっかけはもちろん、先日ここに初めて顔を出した時の事だった。トオルに見せたいものがあると言って科学準備室へと誘き出した彼は、トオルに向かってこう言ったのだ。「見せたいものがあるというのは……あれは嘘だ。私は君の秘密を知っている。だからね、交渉しようと思ったんだ」と。粘着質な笑みを浮かべて、何処か自信ありげに言う彼にトオルは言葉に出来ない悪寒を感じた。「秘密、ですか……」「そうだ」頷く七妹。そして、告げる。「君は、紀眞キヨラに恋心を抱いているだろう?」「っ!」「間違っているかい?」その言葉に、トオルは返答を口にすることは出来なかった。どうして、彼がそんなことを知っているのだろう。ずっと、ずっと秘密にしてきたのに。——誰かが告げ口をした?
自分の行動がわかりやすかった?
それとも、それとも。ぐるぐると回る思考を止めることが出来ず、トオルはその波に溺れていく。うまく行かない仕事。枯渇していく情熱への戸惑い。寝不足と蓄積された疲労。……その全てがトオルに向かって牙を向いていた。彼女の精神状態をわかった上での警告なのだろうか。タチが悪い。
「もしこれをバラされたくないのであれば、君は今日から私の僕になれ」「なっ……!」「それとも、彼女にバラすか?」君が好きなのだと。襲い掛かって、服をひん剥いて、その美しい四肢を撫でまわしたいのだと。——そう、告げるか?
「違う!」七妹の言葉に、トオルは反射的に叫んだ。違う違う、違う! 「何が違うのだね」「わ、私はそんなこと全く考えてない!
そんな、卑猥で汚らしい事なんか……!」「ならば、言うか?」「っ、そ、れは……」トオルは口ごもる。……確かに、疚しい事はないが、キヨラに言ってもいいと思うかどうかは、話が別である。トオルは考えた。考えて、考えて——「……わかりました」「ふっ。サルにしては、賢明な判断だな」彼の言う通りにしようと決めたのだ。
そんなトオルの気持ちも他所に、七妹は上機嫌に笑みを浮かべると、紅茶を注ぎ入れた。もちろん、自分の分だけである。「それじゃあ、そうだな。まずは服を脱いでもらおうか」「はっ⁉」「下僕なのだから、当然だろう」超理論を繰り出してきた七妹に、トオルは息を飲む。
048
……まさか、こんな自分にそんな命令が下るだなんて、思ってもいなかった。「何をしている。早くしろ」優雅に足を組む七妹を小さく睨みつけ、トオルは大きく深呼吸をした。ゆっくりと伸ばした手が、彼女のブラウスに伸びる。やがて綺麗な四肢をさらけ出した彼女は、七妹に呼び寄せられるまま足を進める。「っ、いたっ」「うるさい。物が勝手にしゃべるんじゃない」胸を強く鷲掴まれ、痛みに顔を歪める。飛んできた叱責に、トオルはぐっと唇を噛んだ。——こんな……こんなどうでもいい男に。触れられているところから、何か悪いものが侵食していくような感覚がし、トオルは込み上げてくる感情を口の中で噛み締めた。胸を掴んでいた手は、ゆっくりと脇へと滑り込み、肋骨、腹部へと下がっていく。「最悪の肉付きだな。まるで骨じゃないか、気色が悪い」「……」鼻でトオルの姿を笑う七妹。品定めでもするかのような視線に、トオルは今にも逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。しばらく七妹の愛撫に耐え続けていれば、少しして満足したのか手が離れていく。安堵に息を吐き——「不味い」「っ——!」頭から文字通り降りかかってきたそれに、トオルは声にならない悲鳴を上げた。熱い。トオルは何をされたのか、一瞬理解が出来なかった。ふわりと香る紅茶の香りに、トオルは息を飲む。紅茶を、掛けられたのだ。ぽたりと髪を濡らして落ちていくそれに、徐々に状況を理解し始めたトオルは唖然とするしかなかった。「ど、うして……」こんな、事……。「何か言ったか、下僕」「っ!」髪を捕まれ、無理矢理視線を合わせられる。キヨラに憧れて伸ばした髪が、汚い男の手に触れているのを見て、トオルは絶望にも似た気持ちを抱いた。——それはまさしく、惨めさだった。「……なんでも、ありません」トオルは暴れる気力もなく、ただただ淡々と謝罪を口にした。さっさと解放されたい。その一心であった。そんな彼女の反応に気をよくしたのか、七妹は掴んでいた髪を離した。「フン、わかればいい。その泥水、片付けて置け」「……はい」七妹の言葉に、トオルは反抗することもなく頷いた。授業の鐘が鳴り、部屋を去って行く七妹を見送り、トオルは立ち上がると服を手に取った。袖を通せば白いブラウスの袖が黒く汚れてしまっている。「……はあ」どうして私がこんなことに。そう呟いた声は誰に届くこともなく、静かに地面へと落ちて行った。ぼんやりとし始めて数分。こうしていても無駄だと思い当たったトオルは周囲を見回し、雑巾らしき布を手に取ると濡れた床を拭き始めた。
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それからも、呼び出されては脅され、馬鹿にされては体を撫で回される。その繰り返しにすり減っていた気持ちは更にすり減り、それは仕事の執筆にまで影響を及ぼした。「いい加減にして頂戴‼」トオルの頭に原稿が叩きつけられる。バサバサと落ちていくそれは、トオルの小説を印刷したものだった。「何これ!
ストーリー性も何もない、ただの文字の羅列じゃない!」「……すみません」「すみませんじゃないっていつも言ってるでしょ⁉」ふざけているの⁉
と叫ぶユキに、トオルは生気のない目で「すみません」と謝罪を繰り返した。ユキの言葉がトオルの鼓膜の上を滑っていく。彼女が何を言っているのかすら、トオルにはもうわからなかった。「聞いてるの⁉」「はい。すみません」「ちょっと!」「まあまあ、ユキさん。ちょっと落ち着いて」喚きたてる彼女の声を聞きつつ、トオルはぼんやりと宙を見つめていた。怒っている様子すらも、もう他人事にしか思えなくて。——もう、どれだけキヨラに会ってないだろう。トオルは叱られている横でそんな事を考えていた。撮影に行くと遠くに行ってしまってからもうどれくらい経ったのか。帰ってきたのか、それともまだ帰って来るのは後なのか。どちらにせよこんな状態じゃあ彼女に会う事は出来ないなと思いつつ、トオルは自分の書いた原稿を見つめた。……取り留めのない、何の面白みもないただの文字の羅列。自分なら絶対読まないだろう、こんなつまらないもの。トオルは捲るのも面倒で、適当に紙を半分に折り畳むとそれを鞄に突っ込んだ。専用のファイルを開く余裕すらない。「もういいわ!
話している時間がもったいない!」「あ、ちょっとユキさん!」会議室を出て行くユキと、それを追いかけるヨシ。彼らに何かを思う事もなく、トオルは鞄を持つと会議室を後にした。廊下を歩き、エレベーターの前に来る。ボタンを押そうとした、その瞬間。聞こえてきた言葉に、トオルは手を下げた。——嗚呼もう、面倒だ。何もかも、どうでもいい。自分の未来も、手元の企画も、全て。「……階段、使おう」トオルは小さく呟くと一度も使ったことのない外階段へと足を向けた。びゅうびゅうと風が彼女を煽る。このまま力を抜けば、きっと宙に投げ出されるのだろう、なんて。それを試すのも、どこか面倒で。「……」トオルは生気のない目で下を見ると、ゆっくりと階段を下りて行った。
「本当、騙されているなんて知らずに、馬鹿みたいだわ」「ははっ、そう言ってやるなよ」会議室を後にした彼等——ユキとヨシは、軽快に弾む会話に花を咲かせていた。
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話題の中心はもちろん、あの間抜けにも自分から罠にかかってくれた女、匕背トオル。お淑やかに見えてどこか頑固な所があると聞いていたけれど、まさかこんなにも都合よく自分達に有利に働いてくれるとは思わなかった。「ばっかみたい。プロだからって何でもかんでもやるわけないでしょー。少し考えればわかることじゃない。ねぇ?」「ええ。そもそも私達デザイナーが素人の、しかも面白くとも何ともない作品に、力を尽くすと思っているのが滑稽で堪りませんね」「ほんとほんと!
今日持ってきた時なんて滑稽な顔してたわよねぇ~」「ははっ、言いすぎですよ、ユキさん」「そういうヨシも、否定はしないくせに」「ええまあ。本当の事でしたからね」「アンタも大概よ、大概!
ねぇ、アンタもそう思うでしょ?
――トモ」ユキの声に、両手にコーヒーを手にした女性が顔を上げる。その表情は他二人と同じ、何処か陰湿な笑みを浮かべていて。「本当に。簡単に他人を信じちゃって、馬鹿みたいですよねぇ」トモはそう告げると、コーヒーを煽った。
アニメデザイナーのヨシ、少年漫画家のユキ、レディースコミック作家のトモの三人は、それぞれ『もっともすみ』と『そらうみ』の派閥の人間だった。彼女たちは元々事業が忙しい分、ほとんど会合などには顔を出さなかったのだが、チート戦士アキラによって滅ぼされたのをきっかけにこうして手を組んでいるのだ。目的はもちろん、紀眞家への復讐とその系列の全てを根絶やしにする事。そしてトオルに近づいたのも、その作戦の一種であった。それがまさかこんなにうまく行くなんて、思ってもいなかったけれど。トモは静かに窓の外を見下げた。視線の先には、ぼんやりとしたトオルがゆっくり歩いている姿があって。変わり果てた様子に、トモは何となく息苦しさを感じた。それが何を示しているのか、それは彼女本人にもわからなかった。
それから僅か数日。再び開催された親戚の集まりに、タカラは暇を持て余していた。それもそうだろう。以前と違い、キヨラもトオルもいないのだから。しかも、タイミングが悪い事に友人は全員予定があり、手持ちの本も読み終わってしまった。宿題も終わっているし……やることがない。タカラは四肢を投げ出すようにしてベッドへ寝転がると、天井を見つめた。——……そういえば、トオルの事はあれからずっと曖昧になったままだ。タカラは再び謎解明に走り出すか、悩み始めた。しかし、時間はあってもその対象がいなければ、話にならない。タカラは起き上がりかけた体を再び横たえた。——ああ、暇だ。
051
暇を持て余し切っていたタカラ。その元に一人の女性が向かっていた。ふくよかな体系をした彼女は、一括りにした黒髪を揺らしつつ、タカラの部屋へと向かう。その手にはお茶菓子とジュースが乗っている。「タカラくん」コンコンとノックをし、女性の声が響く。その声に、タカラは起き上がると扉を開けに向かった。「はーい……え、誰?」扉の先に居たのは、初めて会う女性だった。思わず零してしまった声に、彼女は朗らかに微笑む。「初めまして。わたくし、阿父と申します」「は、はあ……」「今までは忙しかった事もあって中々顔が出せなかったのですけれど、わたくしもあなた方の遠い親戚なんですよ」女性の言葉に、タカラは「へぇ」と小さく言葉を返した。……そんな話、初めて聞いたけれど。「遠い親戚と言っても、もうわたくし以外いないのですけれどね」「そうなんだ?」「ええ」上機嫌に笑う彼女に、トオルは目を細める。なんとなくだが……嫌な予感がするのだ、この人は。「あ、そうだ。これ、もし良ければと思いまして」「これは?」「わたくしの住んでいる場所の特産品を使ったお菓子です」差し出された茶菓子に、タカラは視線を落とす。皿に盛られていたのは、テレビでも見たことのあるお菓子だ。女性へと疑いの目を向けつつも、差し出される菓子に罪はないと受け取れば、女性は朗らかに微笑んだ。その表情はまるで母親のようで。「ですが、まさかこんな小さな子が戦士をしているとは……」感心した様に頷く阿父に、タカラは首を傾げる。戦いに出る前、必ず親族でのお披露目会をするのだが、彼女はその場にいなかったのだろうか。「わたくしがもどってきたのは、最近ですので、知らなかったんです」「ふーん。本当に最近なんだな」「ええ。ですが、もうわたくしの家には力はありませんし、こうしてお会いするのは最初で最後になるかもしれません」「そんなに言う程なのかよ」「はい」女性の言葉に、タカラは眉を寄せた。女性――阿父は、悲しそうに視線を下げると、泣きそうな声で呟いた。「幼いあなたに言うのもおかしい話かもしれませんけれど、……実は数日前にわたくしの家にとある方がいらっしゃいまして」「とある方?」「ええ。その方曰く、先の長くないわたくし達に残されているのは、紀眞家と合併し、元の紀眞家よりと強くなったと広めていくことだけだと。そう言われまして」そう告げる阿父は、悲しみに溢れたように俯き、手で口元を隠している。その姿に、タカラは妙な違和感を覚えた。泣いているわりに、彼女の肩の揺れが可笑しいのだ。まるで嘘無きをする時のキヨラのようで——。
052
「……そんなん、俺に言っても意味ないと思うけど」「そうですよね……ですが、関係のない話ではありません。だって——もしそうなったらクソガキで雑魚の貴方様は、わたくし達の傘下に下るのですから」「!」ぶわりと。嫌な予感が部屋の中を埋め尽くす。タカラは本能に従うように飛び跳ねると、後ろへと後退った。一瞬にして鼻先スレスレを掠め取った黒い霧は、どこからどう見ても『妄執』に憑りつかれた鋭い腕で。「チッ。ガキの癖に。逃げ足だけは早いのね」「っ、お前!」「あら。そんな口を利いていいのかしら?
あなたにひどい事を言われたのだって言ってこの場で自害してやってもいいのよ?」ふらりと立ち上がって笑いかける女に、タカラは「ウソだろ」と笑みを浮かべた。「アンタにそんな度胸はない」とも。女は焦る。「わからないじゃない。私が本当にここで舌を噛み切るかもしれないわよ」「そんなに生きたそうな顔してるくせに?」「なっ!」「出来るのかよ」勝ち誇ったように笑うタカラに、阿父はどうしようもない敗北感を抱える事になった。「バカなことしてねぇで、さっさと作戦?
とかいろいろ、白状した方がマシだと思うぜ?」タカラの言葉に、阿父は「……何の事やら」と肩を竦めた。その表情からは、さっきまで彼女を染め上げていた焦りが徐々に消えていくのを感じる。……なんだ。なんでそんな冷静なんだ。タカラは得体の知れない出来事に、背中に冷や汗が流れるのを感じる。けれど、ここで引くわけにはいかなかった。「ガキにいろいろ言われて飛び下りたって方が、ダサいと思うんだけど?」タカラは出来る限り弱みを見せない様に話す。しかし、彼の言葉に、阿父は笑みを浮かべるだけで全く動じている気配がない。「そうかもしれないわね」「だ、だろ?」「でも」タカラの嘲笑を、女——阿父は冷静に笑みを浮かべてねじ伏せる。「物を知らないガキの方が、時にはひどい事を口走るもんなのよ。例えば——死ね、気持ち悪い、ババア……とかね」阿父の言葉がタカラの心臓を的確に抉る。その言葉のいくつかに、タカラは心当たりがあった。『うっせぇババア!』『間抜け!』『役立たず!』……そうだ。タカラが実際にトオルに浴せた言葉の数々だった。「言葉の暴力は人類平等。子供の貴方でも、大人の私でも、関係ないのよ」阿父が緩慢な動きで手を上げる。その表情は、どこか穏やかな中に狂気的な色を含んでいて。攻撃がくる、とわかっているのにタカラの足は動かなかった。
053
まるで、縫い付けられたかのよう。「——なーんてね」優しい顔が一気に闇に染まる。瞬間、トオルの足元がえぐり取られた。「ッ⁉」「そんな綺麗ごとを信じるくらいなら、死んだ方がましだわ」ニヒルに笑みを浮かべる彼女に、タカラは歯を噛み締めた。彼女の主張が嘘であると見抜くことは出来たのに、情を誘う言葉だけが交わし切れなかった。——最悪だ。伸ばした手が、辛うじて抜けた足元の板に引っ掛かる。「うっ、ぐ……!」「あら、結構しぶといのね」カラカラと乾いた笑みを浮かべる女に、タカラは強い視線で彼女を睨みつけた。その視線が彼女は気に入らなかったのか。不機嫌そうに顔を顰めると、タカラの手を踏みつけた。「いッ!」「ほんっと。これだから子供は嫌いなのよ」「っ——!」指が、痛い。ぐりぐりと押し付けられる踵が指先を刺激し、痛みに目がちかちかとする。——どうしたら。どうすれば逆転できる。タカラは思考を一気に回し始めた。その間も痛めつけられる指先に、感覚が失われていきそうになる。……何が戦士か。何が。
タカラは息を大きく吸い込むと、ほとんど力の入らない指先に力を込めた。バキバキと音を立てる床板。「な、何をしている!」「さあ、ねッ!」力を込め、板をへし折ったタカラは、浮遊感に体を包まれた。どうにも慣れない感覚に恐怖が湧き立つが……これで体は自由になった。タカラは持ち前の身体能力を使って空中で体制を整えると、咄嗟に引っ掴んでいたドライヤーガンの引き金を引いた。「きゃあっ!」——刹那、眩すぎる閃光が辺りを包み込んだ。その光の強さに阿父は目を細め、タカラは光に体を包み込まれた。
タカラの四肢はしなやかな物へと変わり、長く伸びた髪が風に揺れる。服装は質素な部屋着から、フリルがふんだんにあしらわれた戦闘服へと変化した。服の裾を靡かせながら落下していくタカラは宙で体を回転させると、家の壁に足を着いた。「えっ」どこからともなく、誰かの驚いた声がする。しかし、タカラは止まる事無くそのまま空へと目掛けて壁を蹴り上げた。勢いよく宙を飛び、女性の目の前へと飛び出す。目を大きく見開く彼女へ、自然と漏れた笑みを浮かべた。「確かに、言葉の威力に子供も大人もないかもしれない」タカラは静かに言葉を紡ぐ。自分のしたこと、してきたこと。それが悪い事だったとは思えないけれど、それが誰かを傷つけていたのかもしれないと思うと、少しばかり罪悪感なんてものが芽生える訳で。
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「でも、それは俺たち自身が解決することだから、アンタはせいぜい天国で見守ってくれや」タカラはそう言い放つと、ドライヤーガンを阿父へと向けた。彼女がその意図に気づいた時には、もう遅かった。「ぎゃあああァアァアア‼」耳障りな叫び声と共に、阿父は黒い霧になって消えて行った。タカラは自分の部屋に危なげなく着地をすると、部屋の中を見回した。折角もらったお菓子は潰れ、ジュースは倒れて床を汚してしまっている。そして何より、外に向かって開いた穴はタカラを三人集めても塞げそうにないほど大きいもので。「やっべ」怒られる、と思った時にはもう、騒動を聞きつけて駆け上がって来た母によって発見され、結果、こっぴどく怒られてしまった。「俺のせいじゃないって!」「だからって室内で戦うなんて、アンタねえ……!」「いいだろ!
勝ったんだから!」
そんな騒動も知らず、紀眞家を見つめる一人の目があった。ぼんやりとしていた瞳は僅かに生気を取り戻しつつ、宙を見つめている。「……キヨラちゃん」美しい彼女の髪が、宙を舞うのを久しぶりに見た。トオルは久しぶりに色を取り戻した目で、宙を見つめていた。舞うフリルに包まれた四肢は、憧れのまま。身のこなしは少し記憶とは違ったが、きっと昔の自分の記憶が間違っていたのだろう。そもそも、トオルがあの姿を見たのは僅か数回だけなのだから。鳴り響く着信音を余所に、トオルは外せない視線をそのままに自身の頬へと手を伸ばした。熱い。あつい。高揚する心臓も、鮮明になっていく意識も。何もかもが久しぶりに感じるもので。「……会いたい、なあ」——よく頑張ったねって。凄いねって。褒めてくれるだろうか。何時しかから考える事もやめていた事を思い出し、トオルはゆっくりと視線を落とした。嗚呼でも。「……汚い、なぁ」汚れてしまった自分が彼女に会うのは、どこか許せない。トオルは僅かに心が引き裂かれるような痛みを感じつつ、静かに踵を返した。行かなきゃ。鳴り続けているスマートフォンを鬱陶しく思いながら、トオルは再び絶望が待つ場所へと足を向けた。……逃げられない。それを知っていたから。
こってりと絞られたタカラは腑に落ちない気持ちで、キヨラの撮影の手伝いに出ていた。例の戦闘で家を破壊したバツとして命じられたのは、最近忙しくなったキヨラの付き人役だったのだ。母曰く、「折角の連休なんだから、お姉ちゃんの手伝いでもして社会勉強してきなさい」との事。
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モデルなんて興味のないタカラだったが、「それじゃあお小遣い減らすわね」と満面の笑みを浮かべた母に、浪費家に近いタカラが逆らえるはずもなかった。「タカラー!
それこっち持って来てー!」「はーい」大きな機械があちこちに並び、足元にはコードが床を埋め尽くさんばかりに伸びている。どれがどれか大人たちは理解しているようで、移動の時に迷いもなく手に取る姿にタカラは感心しつつ、足を引っ掛けない様にキヨラの元へと向かう。レースのようなそれは、キヨラに渡せば、たちまちお姫様の雰囲気を醸し出す小道具へと変わっていく。有名ブランドらしい服に身を包んだキヨラは、贔屓目なしに綺麗だ。
「おはようございます!」「おはようございます!」キヨラの撮影風景を見ていれば、ふとタカラの耳に聞き慣れない言葉が入って来る。おはようございます、なんて。今はお昼だけど、と首を傾げていれば隣に居たスタッフが「此処でのあいさつは“おはようございます”が基本なんだよ」と教えてくれた。何でも、時間問わず働く人の方が多いから、だそうで。なるほど、と納得しつつ、タカラは入って来たであろう人物へと視線を向けた。長いストレートの黒髪を揺らし、歩いてくるのは細身の女性。目の下に大きなクマを携えており、どこか暗い雰囲気を醸し出している。その姿は、どこかで見た覚えがある。——確か。「……あ。あの人」「なぁに、タカラ。知り合い?」「いや、別に。そういう訳じゃないんだけど」問いかけられた言葉にタカラは首を横に振る。しかし、知り合いではなくとも見かけたことならあった。あの時……トオルの後を付けて良くわからない会社へと行った時。そこで窓ガラス越しに見た事があったのだ。話もしなかったから思い出すのが遅くなってしまった。しかし、彼女は一体何のためにここに来たのだろうか。
「トモ先生!」「お久しぶりですね、監督さん」駆け寄る男性に、女性が微笑む。その様子に撮影が止まる。「どうしたんですか、突然」「いえね。以前話していたモデルの女の子を題材にした作品をね、書こうかと思って」「そうだったんですか!
いやはや、トモ先生の作品の糧になるのは嬉しいですね!
ささ、こちらへ!」「ありがとう」矢継ぎ早にされるやり取りに、タカラとキヨラが首を傾げる。先生、と言われるということは、上の人……なのだろうか?
いや、そういう雰囲気には見えないけれど。混乱するタカラとキヨラを余所に、周りはざわざわとざわつき始める。
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聞こえる声は全て交友的なもので、「あの先生が来てくれるなんて……!」「私、あの作品大好きなの!」まるで外で撮影しているときに聞こえるガヤに似ていた。作品、と言っているのを聞くに、彼女は何かの作家なのだろう。ここに居る全員がファンなのではないかというくらい騒いでいるのを見ると、かなり大きな作品を書いている人らしい。そういえば、“トモ”って名前、どこかで聞いたことがあるような……。「初めまして。私、レディースコミック作家のトモです。君が紀眞キヨラさん?」「は、はい!」「見学させてもらう事になるけど、気にしないでいつも通りにお仕事に専念してね」よろしく、と手を伸ばす女性——トモに、キヨラも手を差し出す。二人が握手するのを見つつ、タカラは女性を見つめる。どこか具合が悪そうな顔をしているが、周りの人が何も言わないところを見るにそれは常なのだろう。周囲に目を向ければ、ほとんどの人がタカラ達の方……正確にはトモの方を見ていた。その視線は憧れというには少し気持ち悪い色を灯しており、タカラは咄嗟に視線を逸らした。ふと、トモと視線が合う。「……君は?」「っ、!」ニヤリと目じりを上げる彼女に、タカラは得体の知れない悪寒を感じ取った。冷や汗が流れるのを感じて半歩退けば、キヨラが心配そうにタカラの顔を覗き込んだ。「……タカラ?」「あ、いや……」大丈夫、と続けて、タカラはトモを再び見つめる。その後ろに見えるモヤは、……見間違いではないのだろう。「……紀眞タカラです」「タカラくんか。よろしくね」差し出される握手に、タカラは応えずキヨラの後ろへと隠れた。まるで人見知りな子供を装った反応にキヨラが慌てて弁明をするが、それすらタカラにとってはどうでもいいものだった。何となく、触れるのが嫌だったのだ。「すみません、いつもはこんな事ないんですけど……慣れない場所に来たからかなぁ……」「いえいえ。気にしていませんよ。それに……」トモの声に、タカラが肩を揺らす。「聡明そうな顔をしていますので、何か悪い事をしてしまったのかも」「!」ニヤつくトモに、タカラはぐっと目を細くした。徐々に肥大化する黒い霧に、気づかない程タカラは鈍感ではない。
「例えば——こんな風に」そう言って膨張した重い空気が、室内に漂い始める。一気に膨れ上がった空気に、周りの人間が次々に倒れ出した。「なっ!?」「やっぱり、パンピーは張り合いがないわねぇ」トモの悠長な声とは別に、そこは一気に阿鼻叫喚に包まれた。
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「う、うわあああああ!」「あ、ああ……!」「手が、手がぁあああ!」それぞれの体の一部から黒い霧が飛び出し、悲鳴が交差する。「こんな初歩的な手に引っ掛かるなんて。頭悪いわねぇ」そんな中でも上機嫌に微笑む彼女は、この場ではかなりの異質さを醸し出している。「なっ、アンタまさか……!」「あははっ、気づくのが遅かったみたいねぇ」タカラの言葉に、トモが意気揚々と口を開く。紅の引かれた唇が歪に形作られ、恐怖を感じる。タカラは自分の腰に下げていたドライヤーガンを手に取った。念のために持って来ておいてよかったと、心底思う。「お前、もっともすみか!?
それともっ」「そんな事より、貴方の大切なお姉ちゃんが苦しそうよ?」「えっ」「ほら。うしろ」トモの指さす方向へと、視線を向ける。そこでは苦しそうな顔をして蹲る、キヨラの姿があった。彼女の手元を覗き込めば、先程トモと握手したキヨラの右手が見事に黒い霧に染まっていた。「キヨラ姉!」「あははは!
あのドライヤーガン戦士でも、成長してしまえば腑抜けになってしまうのね。滑稽だわ!」高らかに笑う彼女を、キヨラを抱き留めたタカラは強く睨みつける。「な、何が目的なんだよ!」「目的?
そうねぇ……強いて言えば、あなた達一家の大虐殺かしら?」こてりと首を傾げ、さらりと物騒な言葉を並べる女に、タカラは本能的にキヨラを引き寄せると、その場から飛び退いた。瞬間、目の前を掠め、さっきまでいた場所に巨大な爪が突き刺さる。は、と息を吐くのと同時に、パラパラとコンクリートが粉々になって落ちてくる。「あら。意外と反射神経がいいのね」「っ、黙れ妄執が!」「そんな口利いていいのかしら?」上機嫌に笑うトモは、手を上げると巨大な熊の顎を撫でた。まるで大きなぬいぐるみのテディベアのような顔をしたそいつは、こちらを見てニヤリと目を細める。どうやら熊にも自我があるようで。というかどこから出現したんだ、あの熊。僅かに現実逃避をしつつ、タカラはキヨラを下ろす。「キヨラ姉、動けるなら安全な場所に逃げて」「で、でもタカラっ。あんな大きい敵となんて……っ!」「何言ってんだよ。キヨラ姉も今までやって来たんだし、大丈夫だって」心配そうなキヨラの視線を宥めるように笑みを浮かべ、タカラは立ち上がる。ドスン、ドスンと重々しい音を立てて寄って来る熊とトモ。「それに、キヨラ姉が逃げてくれないと、俺が変身できないだろ」「そ、それもそうね」
058
痛みに顔を顰めたキヨラはゆっくりと立ち上がると、機材が立ち並ぶ場所へと身を隠した。それを気配で感じつつ、タカラはトモと相対する。「いいのかしらぁ?」「何が?」「アナタみたいな小さくてひ弱な子供を残して、去って行ってしまうなんて」上から舐めるように見上げてくるトモに、タカラはニヤリと口元を引き上げた。——ナメられている。そう理解するのは早かった。そしてそれが好機を運んでくる事も。「さあ。俺でも、アンタくらいなら大丈夫だって判断したんじゃね?」「……あ?」「まあでも、そんなぬいぐるみみたいに弱そうな奴をいつまでも制御できるとは思わねーけど」ハッと鼻を鳴らせば、トモはわかりやすく激高した。「……何ですって?」「だから、そんな」言いかけた言葉を遮るようにして、熊の手が空を切った。その勢いがタカラの頬を撫で、目を見開く。「あんまり侮辱しない方がいいわよ。——死にたくないなら」淡々と言われる言葉に、タカラは冷や汗を流した。……これはもう、逃げるしかない。タカラは変身が出来ない時間を逃げ回る事で稼ぐ事にした。
「ふふっ。いいわ、いいわよぉ!
ベアちゃん、出来るだけ派手にやっちゃって!」彼女の声に、熊は応えるように声を上げた。室内を駆け抜け、機材を盾に逃げ惑う。繰り出される猛攻に、壁には熊の鋭い爪がめり込んだ大きな穴が開き、床にはヒビが入っていた。「クソッ、でかいくせにすばしっこい……!」「うふふっ!
イキのいいガキは嫌いじゃないわよぉ~!」心底愉快だとばかりに声を上げる女。その表情はどこかキマっており、彼女の異常さをありありと見せつけていた。「さあ、ベアちゃん!
七妹様に報いる為、頑張りましょう⁉」「グォゥウウ!」「ふふっ、いい子ねぇ」「くっ……!」目の前で恍惚に表情を染める彼女は、何の遠慮もなく高そうな機材を壊していく。その度に派手な音が聞こえ、タカラの背中を冷や汗が流れ落ちていく。——まだ……まだなのか。ちらりとキヨラが逃げた方を見て、タカラは次に来る攻撃をギリギリで避けた。タカラの葛藤も知らず、トモは心底楽しそうに声を上げる。「ほぅら、暇でしょう?
うさちゃんも行ってらっしゃい!」意気揚々と下された指示に、ぶわっと風が舞い、嫌な予感が全身を覆う。堪らず振り返った先で量産される赤目の兎を見て、タカラは悲鳴を飲み込んだ。兎なのに顔が完全に鬼だし、その量が大量であるのが更に怖さを助長させる。——もう無理だ。これ以上は自分の体力が限界を迎えてしまう。タカラは腰のドライヤーガンを引き抜いた。指を掛け、少し躊躇った後、引き金を強く押し込んだ。
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ゴォオオと聞こえる、独特な風の音。それと共に感じる温もりはどこか渇いているようで、しかしどこまでも温かいものだった。自分の中に何かが入り込んでくるのを感じる。少し身じろげば、鈍い痛みのようなものが体を走ったが、それさえも受け入れてしまえば後はスムーズだった。綺麗に自分の中へと収まっていく魂の形。『お待たせ』自分の中から響いた優しいその言葉に、タカラはゆっくりと目を開けた。どこまでも軽い自身の体。何でも出来そうな気持ちに包まれた体は、自信に溢れていた。
目を開ければ、すぐに兎の大群が迎えた。咄嗟に拳を振りまくり、兎達を一匹、一匹と確実に蹴散らしていく。三十は消したであろうというところで、容姿の変わったタカラに気が付いたのか、トモが目を見開いた。「あらぁ、随分可愛らしい姿になっちゃって」「うっせぇ!」「チッ。ガキのくせに生意気ね。最悪だわ、近寄らないで頂戴」女性の理不尽な言い分に、タカラは眉を寄せた。再び飛び掛かって来た兎達に、タカラは慌てて拳を振り切った。手応えのない攻撃に眉を顰めるが、次々と消えていく様子を見るに、効果はない訳ではないらしい。どんどんと黒くなっていく兎達の群れを避けては、蹴散らしていく。キリが見えたところで、目の前に例のクマが立ちはだかった。自分の三倍はあろうかという大きさを持つクマは、タカラへと牙を剥くと襲い掛かって来た。
タカラは攻撃を二度、三度と交わすと、体制を立て直す。深呼吸をし、タカラはゆっくりと半身を引いた。この熊に打撃が利くかはわからないが、攻撃は最大の防御というし、何より攻撃しなければ死ぬのは自分だ。熊の腕を躱し、懐へと入る。自分の何十倍もあるであろう毛むくじゃらの腕を掴むと、左足を軸に半回転する。振るわれた腕の勢いを利用して、思いっきり前へと倒れ込んだ。体のどこかが悲鳴を上げたような気がするが、気のせいだろう。勢いに任せた攻撃は熊の体を浮かせた。感じた重みは一瞬だった。ドォン——と重々しい音が響き、クマの体が壁を突き抜けて外へと飛んでいく。青空が見えてしまっているが、背に腹は代えられない。外に投げ出されたクマは、少しばかり宙を浮遊すると重力によって落ちていった。その姿を見送り、タカラは驚愕に顔を染める女を見る。まさかこんなことになるとは思っていなかったのだろう。開けた口をハクハクと動かす女の表情は、どこまでも滑稽であった。「そ、そんな……!
あのお方に見初められた私がっ、こんな……!」腰を抜かし、べしゃりと地面に座り込むトモ。そんな彼女にタカラはgunを向けた。
060
「アンタの負けだ」「う、嘘よ!」「嘘じゃねーよ」嘘だと何度も喚く共に、タカラは呆れて物も言えなくなってくる。しかし、怒りに身を任せたトモはふらりと立ち上がると、タカラを睨みつけた。「恵まれているあんたなんかに、私が負けるはずがないわっ!」「ッ、!」突然発狂し、怒り狂うトモ。刹那——頬を掠めた女性の攻撃に咄嗟に身を反らして避ける。鼻先を過った光の球は、まるで卵のような形をしている。とはいえ、その攻撃は見た目ほど可愛らしいものではなかったけれど。ひゅっと息を飲んで、タカラは振り返った。壁にめり込んだソレを見て、頬が引き攣る。「絶対に許さない!
私達を滅ぼそうとした紀眞家なんて、全員私が殺してやる!」トモの慟哭に、タカラは冷や汗が流れるのを感じつつも、気丈に女性を睨み上げた。「だから、俺は何もしてないっつってんだろ!」「うるさい!
アンタも、さっきの子も、あの子も! さっさと死んでしまえばいいわ!」——あの子?
喉が裂けるんじゃないかと思うほどの声で叫んだ彼女の言葉に、タカラは首を傾げる。自分とキヨラの他に、彼女の毒牙にかかった人間がいるというのか?
そんなタカラの思考を遮るようにして、トモは体を前のめりにして手を振るった。指先から飛び出してくる卵の弾丸は、容赦なくタカラへと向かっていく。慌てて全弾を避け、タカラは一気にトモとの距離を詰めた。中距離戦を挑んでくる敵に対して距離を取るのは悪手だ。それならば、距離を詰めてしまった方が断然いい。「お前を粉々にしてやるわ!」「やれるもんならやってみろ、ばーか!」「キィイイイイイイイッ‼」甲高い奇声が、耳を劈く。タカラは頭に響く痛みに眉を顰めつつ、構える彼女の手を叩いて攻撃の角度を変えると、そのまま突っ込んだ。彼女の顎を掌底で叩き上げ、足払いを掛ける。足場が崩れたトモは大きく体制を崩した。しかし、彼女は体制を立て直すよりもこちらを攻める事を優先したらしい。頬を掠める卵の弾丸に、タカラは焼けるような痛みを感じる。が、この好機を逃すわけにはいかない。タカラは手を精一杯伸ばし、彼女の細い首をひっ掴んだ。「ぅぐっ!」「許そうが許さまいが、どうでもいいんだよ!」「なっ、⁉」口を開いた彼女に向かって、ドライヤーガンを突き付ける。彼女の顔が引き攣った。「まっ、待って、!
待っ——!」必死に命乞いをしようとした女の口にgunを押し付け、引き金を引く。瞬間、眩いほどの光が輝き、目の前の女は一瞬にして霧散した。悲鳴のようなものが聞こえるが、それは意識して耳を閉じていたタカラには届かなかった。
061
——数秒後。女性の姿はなくなり、その場に残ったのは大きな穴が開いた部屋と、卵弾丸が当たったであろう弾痕。そして彼女のせいで倒れた大人数の大人たちと、粉々になった機材の残骸。……どうせなら全部直してから居なくなってほしかった。なんて思っても、もう消滅してしまったのだから叶わない。クタクタの体を引き摺って穴から外を覗き見れば、落ちたはずの熊はいなくなっており、代わりに知らない人間が横たわっていた。あれは……確か監督と呼ばれていた人だった気がする。どうやらトモによって人の体を依り代に、動物の力を付与されていたらしい。「……病院」まずは電話をして、助けを呼んでから。そう考えていればバタバタと慌ただしい足音と、「タカラ!」と自身を呼ぶ姉の声が聞こえて来ていた。いつの間にか、変身は解けていたらしい。ぼんやりとする思考の中、見えた姉の姿にタカラは意識を手放した。「タカラ!」
「……負けたか」「えっ」「はっ。サル共も中々やるものだな」静かで、暗い——科学準備室。そこで椅子に腰かけたまま呟いた男——七妹の声に近くで跪かされていたトオルは小さく声を上げる。幸い、男にそれは聞こえなかったらしい。トオルはほっと胸を撫で下ろし、視線を落とす。トオルは紅茶を彼等の座るテーブルに音が出ない様におく。「えー、あたしぃ、紅茶よりジュースの方がよかったぁ~」「えっ、でもさっき紅茶が飲みたいって……」「ねえ、どうでもいいからさ。さっさと買って来てくんない?」下から睨めつけるように見上げてくる女性——智子に、トオルは慌てて頭を下げた。「イチゴジュースが飲みたいなぁ」「っ、わかりました」頷いたトオルは慌てて部屋を出ると、廊下を走り出した。イチゴジュースなんて、この大学のどこにも売っていない。売っているのは近場のコンビニくらいで。トオルはそこまで走ると、イチゴジュースを取って慌てて戻って行った。しかし、五分程度の時間だったが、それも彼女には気に入らなかったらしく。「おっそ~い」「す、すみませ……っ」「もういいわぁ。あなたにあーげる」「っ!」智子はトオルからイチゴジュースを奪い取ると、乱雑に開けて彼女の頭からそれを被せた。トオルの可愛らしいワンピースがどんどんピンク色に染まっていく。「ほ~ら、たーんとお飲み~!」「おい。あんまり高いところでやるな。汚れるだろう」「えぇ~」「……」嫌そうな顔をする七妹に、智子はつまらなさそうに唇を尖らせた。しかし、トオルはそんな事を気にする余裕もない。びしゃびしゃと濡れていくワンピースは、もう着れないだろう。
062
これを着てかえるのかと思うと、気が重い。体にぴったりと張り付くワンピースを着たトオルを見た七妹は、トオルを舐めるように見る。「ふむ。……こっちに来い」「……はい」七妹の指示に、トオルが近づいていく。濡れて体のラインを明確にさせたワンピースを見て、ニヤリと気色の悪い笑みを浮かべる。「脱げ」「っ、!」「早くしろ、クズが」鼻を鳴らす七妹に、トオルは息を飲む。もう何度目になるかもわからないその命令に、トオルは今回も従わなくてはいけない。震える指先でボタンを開けていく。——もうこうして心を殺すのには慣れた。「ハッ。本当に気持ちの悪い身体だな」「……申し訳、ありません……」「まあでも。俺なら貰ってやってもいい。もちろん、永遠の忠誠を誓うんであれば、だがな」トオルの脱いだワンピースをぐしゃりと踏み潰した七妹。トオルの顔を覗き込み、その脇腹に手を差し込んだ。体が引き寄せられたトオルは、反射的に七妹の事を突き飛ばした。が、ひ弱な女の力では、七妹を完全に遠ざける事は出来なかった。「……なんだ。何か文句があるのか?」「い、いえ」「いいんだぞ、無理矢理犯してやっても」七妹の言葉に、トオルは耳を塞ぎたくなった。だがそれをしてしまえば、目の前の男の逆鱗に触れてしまう事は明確で。トオルは動かしかけた手を自分で握り締める事で衝動を抑えた。「まあ、私が嫌なら、素敵な女性を紹介しようじゃないか」七妹がトオルの耳をゆっくりと撫でる。その気色の悪さに、トオルは泣きそうになった。「まあ、お前よりも不細工で脂肪をたんまりため込んだ、毛深い女性でもよければ、だけれど」「あはははっ!
それってつまり男じゃあん! 七妹様、おもしろ~い!」ケタケタと嘲笑う二人の声は、とてつもなく汚くて、トオルにとって聞くに堪えられるものではなかった。トオルは視線を落としながら、何故自分がこんな目に合うのかと内心腹立てていた。けれど、こんな状態ではそれを誰に言う事も出来ない。しかも、トオルは少女漫画のような恋愛に憧れを持っていた。だからこそ、彼の述べた言葉の羅列に心を痛めたのだ。もしできるなら、キヨラのようにすらりとした体躯で、美しい人とそういう関係を持ちたかった。だから、タカラとの関係にも反発をしていたのだ。……とはいえ、幼い頃に記憶を失くした事もあってトオルは男性が苦手なのだが、それを目の前の男が知るわけもない。トオルは自身の体を撫で摩る手に嫌悪感を覚えながら、この時間が終わるのを待っていた。——この時にはもうすでに、トモから連絡が来るはずだった時間は過ぎていた。
063
——戦いの後。家にまで送られたタカラは、一日しっかりと寝た頭で考える。
あの時、トモが最後に言っていた“あの子”というのが誰なのか。タカラ、キヨラの他に、彼等の手に掛かるような人間がいるのだろうか。「……もしかして」不意にタカラの頭を過ったのは、最近急に状況が変わった人間——トオルだった。そういえば、トモがいたのは彼女が入って行った出版社だった。あそこが本拠地だったとしても、不思議ではない。ということは——「アモイ愛は囮か……!」タカラはそう気づくと、ドライヤーガンを手にして部屋を飛び出して行った。トオルを助ける為じゃない。自分の“妄執”を全て退治して『許嫁』を解消してもらうためだ。「ちょっと、タカラどこに行くの!」「遊びに行ってくる!」後ろから飛んでくる母の声に、タカラは声高く答えると、駅の方へと走り出した。——向かう先は、出版社だ。
電車を乗り継いで、辿り着いた出版社に勢いよく向かったタカラは、その勢いを殺すことなく社内へと駆け込んだ。「ちょっと君!」受付の女性の声を躱し、タカラは階段を駆け上がる。勢いのまま二階、三階を飛び超えたタカラは、そのまま四階に向かった。「動くな!」「な、何!?」「何の騒ぎですか」gunを突き付け刑事のように声を荒げた彼に、そこにいた人物たちは動きを止めた。タカラは二人を睨みつける。背の高いひょろ長の男性と、男にも女にも見える長髪の人物。その二人の後ろに見える黒い靄に、タカラは自分の勘が外れていなかった事を悟る。「お前ら二人とも、排除する!」「はあ?」髪の長い人物が眉を下げ、地の底から響くような声でタカラに応えた。しかし、その反応にもタカラは身を引くことなく睨みつける視線を緩める事はしない。「なにこのクソガキ。やっちゃっていい?」「まあまあ、ユキさん。元気なのはいい事じゃないですか」「妄執は俺が絶対に対峙してやる!」「……こんなこと言ってても?」「ええ」ユキと呼ばれた人物はタカラを睨みつけ、タカラを指す。しかし、それを制したのはもう一人の男性だった。ニコニコと人のいい表情を浮かべる男に、タカラは嫌な気配を感じる。「この子こそが、七妹様の言っていた紀眞の戦士なのだから」淡々と口にする彼に、タカラは背中に冷や汗が流れるのを感じる。……なんだ、この男は。にこやかにしているというのに、得体の知れない恐怖を感じる。「ここは先に私が参りましょう」「アンタ、どうにかできるんでしょうね?」
064
「もちろん。こんな事、赤子の手を捻るようなものです」男は上品にも上着を脱ぐと、ネクタイを緩めた。大人の男の雰囲気をここぞとばかりに発揮する彼に、タカラはどこか負けたような気分になった。しかし相手は妄執。気を抜くのは許されない。「それでは、お手合せをお願いします」「子供だからって油断すんなよ?」「とんでもない。正々堂々、やらせてもらいますよ?」上品に微笑む男──ヨシに、タカラは足を半歩引いた。
真っ直ぐ立つヨシに、タカラは地面を蹴り上げる。ヨシとの容赦のない攻防が繰り広げられる中、それを見ていた女──ユキは足を組んで座って観戦に徹していた。「ちょっと、ヨシぃ。早くしてよねぇ」ぐっと握りしめた拳が、ヨシに防がれる。繰り出された蹴りを飛ぶことで避ければ、上から肘鉄が落ちてきた。その追撃を交わし、タカラはヨシの腹部へ深く切り込んだ。しかし、それも防がれてしまう。「ちっ、!」「ふふっ、攻撃が単調ですよ」「うる、さい!」ビシバシと乾いた打撃音が響く。タカラは次から次へと攻撃を繰り出しては、当たらない事への苛立ちを募らせていた。しかし、苛立てば苛立つほど攻撃は単調になり、攻撃を防ぐヨシには少しずつ余裕が出てきていた。「やはり子供は子供ですねぇ」「っ、くそ!」タカラは心を落ち着けるために一度大きく距離をとると、息を整えた。自分の体術が通じない。まさか相手がこんなに強いとは。「中々動けるようだが、自分より格上と戦う経験はなかったのだな。可哀想に」「っ、誰が誰より格上だって?」「それはもちろん、私が、君よりだよ」息一つ切らさずに笑うヨシに、タカラは悔しげに歯軋りをした。──こんな展開になるとは、考えていなかった。タカラはヨシと睨み合う。「攻撃は終わりかい?
ならば次はこちらから仕掛けさせてもらいますよ」ヨシの淡々とした声を合図に、彼の猛攻が始まった。
タカラが戦いに身を投じているその時。トオルはいつもよりも過激な辱めを受けていた。「っ!」バシンっと背中に鞭が打たれる。その鞭を持っているのは、上機嫌な智子だった。「あっはははは!
ぶさまねぇ、無様ねぇ!」「うっ、くっ、!」「もう降参するぅ~? やめちゃう~?
だぁ~めぇ~!」「あぐっ、!」高らかに嘲笑する声が響く。トオルの背中に鞭が打たれ、赤い線が刻み込まれる。──痛い、痛いよ。涙が衝撃で床に散らばる。それすらも、後ろで楽しそうに鞭を振るう智子には響かなかった。
065
ヒリヒリとした痛みが背中を覆い尽くしていく。「あまりいじめすぎるなよ。壊れたらつまらん」「わかってますってぇ~!」智子の言葉に、トオルは遠のいてしまいそうな意識を必死に手繰り寄せた。──もうつらい。つらくてたまらない。トオルは流れる涙を止めることが出来なかった。
結局、あれだけ頑張った仕事も数日前から連絡が取れなくなったし、体には火傷や殴られた痕が日に日に増えていく。背中に感じる衝撃に、トオルはぐっとはを噛み締める。─……誰か。誰か来て欲しい。誰でもいい。この異常な状態から早く解放して欲しい。今日でもう何度そう願っただろう。トオルは思考を回すことで、鋭い痛みから意識を遠ざけようとする。が、それを阻止するかのように七妹がトオルの元へとやってきた。「よそ見をするとはいい度胸じゃないか。なぁ?」「そ、ういう訳じゃ…!」「口答えはいい。何度言ってもわからない馬鹿には仕置が必要だ」七妹の言葉に、トオルは顔を真っ青にする。これ以上、何をしようと言うのか。ビクビクと震えるトオルに、七妹はその美しい相貌で笑みを浮かべるとトオルの豊満な胸に紅茶を注ぎ入れた。予想外の出来事にトオルは驚きに目を見開く。あまりの熱さに体が無条件に跳ね上がった。「っ──!!」痛い痛い痛い!
熱い熱い熱い! 頭の奥が痛みと熱さに締め付けられていく。そんなトオルをせせら笑った七妹は、谷間に残る紅茶を指さした。「それを零したら、どうなるか分かっているよな?」「う、うそ……」「嘘かどうかは、自分で試してみたらどうだ?」どこまでも晴れやかな声に、トオルは心底絶望を感じる。血の気が一気に引いていき、紅茶の熱さとは反対に彼女の指先はどんどんと冷たくなっていく。——嗚呼、もう……だめだ。トオルはゆっくりと俯き、涙を流す。「……死にたい」小さく呟いた声は、何の引っ掛かりも泣く自然と地へ落ちていく。
自分はどこで間違えたのだろう。頑張ろうとしたのがいけなかったのだろうか。自分はやっぱり一人で生きていくことは出来ないのだろうか。……そんな事が頭を占める。しかし、その言葉たちに返ってくる声は一切聞こえなくて。どこまでも孤独な状況に、トオルは息をするのすら億劫に思えてきた。もし、このまま舌を噛んでしまえば。自分は楽になるのだろうか。そんな事が頭を過る。軽く噛んだ舌は、どこか分厚いようにも感じて、『噛むのは大変そうだなぁ』とぼんやりと思う。それくらい、トオルの精神は限界だった。
066
「何してんだよ、ババア!」——トオルの犬歯が舌を撫ぜた、その時だった。勢いよく開かれた扉に、トオルは行動を止める。どこか聞き覚えのある声に顔を上げれば、そこには驚いた顔をしたタカラが満身創痍の状態で立っていた。「た、からくん、ど、して……」「はあん⁉
何よこのガキ! 私たちのお城に無断で入って来るなんて!
許さないんだから!」小さく呟いた声は、智子の怒号にかき消された。「七妹さまぁ~、わたしコイツきらぁい。ねえねえ、やっちゃっていい?
いいよね? 悪くてもやっちゃうけどぉ!」「聞くなら最後まで聞いていけよ」智子はかなり頭にキているのだろう。七妹の言葉を待つことなく、タカラへと襲い掛かった。その手にはいつの間にかギラギラにデコレーションされた斧が光っていて。どこから出したかもわからない凶器に、トオルは息を飲む。「待、って……!」——死んじゃう!
トオルは叫んだ。喉が痛みを発したが、そんな事どうでもいい。ぐっと体を揺らせば、零れ落ちる紅茶の波。「零すなって言っただろうが、メス豚が」「ぁ、っ」——瞬間。低い声と共に頭に衝撃を受けた。重たく、鋭い衝撃は、まるで頭を強く打ったかのようで。倒れ伏した目の前で下ろされた七妹の足に、自分は頭を蹴られたのだと認識した。「ぁ、い……た……」「チッ。頭悪いくせに面倒なことしてんじゃねぇよ、愚図」「っ……」ぐわんぐわんと頭の中が揺れる。視界が酩酊し、暗くなったり明るくなったりと何一つ情報が定まらない。トオルは瞬きを何度も繰り返した。彼女の胸のうちは、タカラの心配に全振りされていたのだ。——タカラくん。あれだけ嫌っていたのに、心底弱ったトオルの心では彼の登場すらも嬉しかったのだ。知っている人がいるのといないのでは、話が違う。「き、をつけ……て」トオルは届くかもわからない声で、タカラに告げる。彼がこっちを見ているのかどうかも、今のトオルには全く判別がつかなかった。
倒れ伏すトオルを見て、タカラは心臓が細く千切られるような思いをした。倒れる寸前に見たのは、自分への心配の色。——あんな顔、初めて見た。「よそ見してていいのかしらぁ⁉」ブオンッと宙を斬る斧に、タカラは間一髪でしゃがみ込む。髪の毛の先が少しばかり切れたが、避けていなかったら首から上はすっぱりと行かれていただろう。危ない危ない。「つーか何で大学に斧なんかあるんだよ!」「なんで?
そんなの、わたしの可愛い可愛いベイビーちゃんだからよぉ~!」女とは思えない力で振り回される斧。それを避けては躱し、躱しては避けてを繰り返す。その度、タカラは体に響く痛みに、顔を顰めた。
067
数時間前。妄執退治にトオルの通っていたであろう出版社に向かったタカラは、ヨシの猛攻に苦戦していた。自身の攻撃は当たらず、減っていく空気のない相手の体力に疲弊していた。ヨシの攻撃を二度、三度と防ぎ切ったタカラは、不意に観戦している彼女の存在を目に入れた。その手には糸のようなものがあり、それは辿って行けばヨシに繋がっていた。——もしかして。そう思った彼の予想は、結果を言えば当たっていた。ヨシの攻撃を避けつつ、糸の持ち主であるユキに近づいたタカラは、ドライヤーガンをユキへと向けた。慌てるヨシと、突然の事に驚いたユキの隙をついて、タカラはgunの引き金を引いた。「なんでわかったのよぉおおおおおおおお——っ!」絶叫に震える室内。その声を聞いたヨシが、目に見えて狼狽える。……やはりそうだ。ユキの持っていた糸で、ヨシは操られていたのだ。しかも最強のスペックを付与されて。タカラは煙を吐くgunを投げ出し、ヨシの懐に入り込むと、彼の胸元を捕えた。「ちょっ!
ま、待つんだ少年っ! まっ——!」そのまま足払いを掛け、ヨシを一本背負いしたタカラは、無事勝利を収める事に成功した。その後、縛り上げたヨシから作戦の全容を聞かされ、慌ててこの大学まで来たわけなのだが。
「っ!」……まさかまた命の危険を感じる事になるとは。予想の範疇を大きく超える状況に、タカラはため息を吐きたくなった。しかも、トオルを見た瞬間、タカラの中に入っているキヨラの魂が無意識に彼女を助ける事を拒んだのだ。「チッ。こんな状況になってもまだ——」相手の事を考えすぎるのもどうかと思う、なんて吐き捨てつつ、タカラは振り下ろされる斧を裁いていく。「あははは!
たのしいねぇ! たのしいねぇ!」「っ、完全にイってんじゃん……!」「あそぼうよぉ~!
あそぼうよぉ~!」型も何もない、ただ無我夢中で振り被られる斧を間一髪で避けては、反撃の機会を伺う。しかし、その隙が見えてもすぐに次の攻撃が降ってくるのだから、反撃に出るのはかなりリスキーな状況になっていた。『トオルちゃん!』ふと、視界の端でトオルの存在が見える。地に伏した彼女は、こちらからでは背を向けていて表情も何も見えない。だが、ピクリとも動かない肩に、死んだのではないかと嫌な予想が頭を過る。『トオルちゃん、トオルちゃん!』「ああもう!
うるさいなぁ!」変身して戦っている時、キヨラに自我はないはずなのだが、自分の中で騒ぎ立てる彼女に頭が痛くなってくる。
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そもそも耳の良いタカラにとって体の中から音が聞こえる音が増えるのは、意識を散乱させ、更に情報量を増やされるとして苦しいものでしかないのだ。ただでさえ、自分の心音だとか、骨の音が常日頃から聞こえるというのに。「なぁに一人で騒いでるのぉ?
楽しい? たのしいの? わたしもまぜてぇ!」「っ、そういうもんじゃないから!」「いいじゃんいいじゃん!
みんなでたのしいこと、いっぱいしようよぉ!」避けきれなかった攻撃を、咄嗟に引っ掴んだ椅子の足でガードする。重い攻撃に力が分散する椅子は弾き飛ばされるが、それを智子に向かって投げれば、彼女の顔面に落ちていく。慌てた様子で顔をガードする相手に、タカラはgunを突き付けると、引き金を引いた。「あああああ!」最初よりもかなり小さくなった光が、相手の霧を削っていく。どんどんと小さくなっていく姿に——しかし、タカラは盛大に舌打ちを零した。——威力が、足りないのだ。壊れかけ、しかも既に一回使用してしまっているgunは、力を溜めるにはもう少し時間が足りなかったようだ。だが、目の前で小さくなっていく相手は少しずつ小さくなると、両手で受け止められる程の大きさになった。もちろん長かった手足はなくなり、肉塊になった姿は非常に気色が悪い。「らんらのよこへぇ‼」「うわっ、気持ち悪っ」聞き取れない程回っていない呂律で叫ぶ肉塊に、タカラはつい本音を滑らせてしまった。だが口もひしゃげているそれは、やがて呻き声しか出すことが出来なくなっていった。
「無様だな、智子」その様子を見ていたのであろう。男の声が響く。視線を向ければ、男はトオルの頭を足蹴に、ガンガンと何度も頭を蹴っていた。『トオルちゃん!』再びうるさくなる姉を宥めつつ、タカラは男を睨みつける。「その足を放せ」「どうしてだい?
君はこの娘を疎ましく思っていたのだろう?」男がほくそ笑む。その言葉にタカラは一瞬驚きに目を見開いたが、一呼吸をし、平静を装って男を睨みつけた。「何が目的だ。お前らもっともすみも、そらうみも。もう滅んだんだろ⁉」タカラの言葉に、男は浮かべていた笑みを静かに消した。空気がひりつく。「……ああ、そうだ。我らそらうみも、同志もっともすみも、お前ら偽善者の群れに殺された。ああ、忌々しい。忌々しい!」男は叫ぶ。「どうしてだ!
どうして⁉ 我らはただ自分の欲に忠実に生きていただけだ! カコマレタイ、アイサレタイ、ただそれだけだったはずだ!
それなのに、貴様らは何故邪魔をする⁉ 何故、我らの欲をすり潰し、嘲り笑う⁉」「それはっ!」
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「正義ならなんだって許されるのか⁉
誰かのためだと言えば、それは正義なのか⁉」男の慟哭に、タカラは口をはさむことが出来なかった。自分の事は自分でする。それがモットーであるタカラにとって、男の言っている事も、やっている事も、気持ちもすべてが理解できないものだったからだ。囲まれたい?
知るか。アイサレタイ? もっと知るか。そんなもの、「自分の力で手に入れてこそじゃないのか」「……あ゛?」タカラの言葉に、男——七妹は眉を顰める。タカラは続けた。「そういうものは、自分の手で掴んでこそだろ!」「は?
何を言って」「他人から奪ったのがそんなに嬉しいのか?
他人を痛めつけて得られるものは痛みと悲しみと絶望だけだ。それをあんたはわかってやっているのか?」タカラはトオルを見る。痛々しいほど赤く腫れあがった背中。全身の至る所が赤く染まり、火傷の痕となって黒く染まり始めている。——こんな姿を、見たかったわけじゃなかった。そう思ったのは、タカラの中に入っているキヨラか、それともタカラ自身か。わからないが頭に込み上げる怒りは、本物だ。タカラはgunを七妹へ向けると、引き金に手を掛けた。「アンタに、愛を語る資格はない!
愛は……自己犠牲でも、強要でも成り立たない。互いが互いに尊敬し合ってこそ生まれるものだ!」「っ、ガキの癖に知った口ききやがって……!」七妹の額に青筋が浮かぶ。しかし、タカラは靡かなかった。それどころか勝ち誇ったように笑みを浮かべる。「ばーか。そのガキはもう許嫁がいるんだよ!
お前はガキである俺に負けてんだ!」「な、なんだと⁉」七妹の驚愕を浮かべる声に、タカラは躊躇なくドライヤーガンの引き金を引いた。「死ね、妄執‼」ギュィイイイ――ン、と嫌な音を立てるソレに、タカラは全身全力を込めた。「うおおおおおお!」糸のように細かった光はどんどん太さを増し、引き金が引かれるのと同時に勢いを増していく。「う、ぐっ……お、おのれぇぇえええ!」七妹の絶叫が聞こえる。僅かに七妹の拳が振り上げられているのが見えたが、それはすぐに光に覆い尽くされてしまった。全身のエネルギーが切れていくのを感じる。タカラはホワイトアウトしていく意識に、抗うことなく目を閉じた。
「……みたかよ」——これで、俺に許嫁は必要ない事が証明出来ただろ。小さく呟いた声は、音になったのか否か。それも気を失ってしまったタカラにはわからなかった。
070
「なんでだよ!」日曜日の昼。紀眞家に響いた絶叫は、何時しかと同じ言葉を響かせていた。「何でってアンタ、しきたりだもの。仕方ないわ」「だから古いんだってばそういうの!
もっともすみも、そらうみも、もうみんな倒したんだから別にいいだろ!」「何言ってるのよ、許嫁の女の子一人無傷で救えないで、勝った気にならないの」ぺしり、と頭を叩かれ、タカラは痛みに呻く。——くっそぉお……!
こうなったのも、トオルとキヨラの変な約束のせいだ。タカラは少し前の戦いを思い出して、大きく舌を打った。
――大学での戦いの後。丸三日寝込んだタカラは、数週間の安静を終えると共にキヨラに引き摺られる状態で病院へと向かっていた。自分も何度かお世話になっている病院には、あの後保護されたトオルがいるのだとか。キヨラはそのお見舞いに来たのだ。「本当にいいの?」「べっつに。俺が行っても意味ないだろ」病室の外でやっとの思いでキヨラの手を振り切ったタカラは、ぶっきらぼうに彼女にそう告げると、置いてあった近くの椅子に腰かけた。その様子を見たキヨラが仕方なさそうに微笑むのを感じつつ、タカラは二人の面会が終わるのを待った。保護されたトオルは、それはもうひどい怪我だったらしい。タカラも知っている傷の他にも、踏まれた時に切れたのか、頭部の出血もひどく、何より彼女の精神面がひどい有様だったのだとか。……まともに聞いていないから、知らないけれど。数か月は入院生活を余儀なくされたトオルは、廃人一歩手前だったのだという。それを心配したキヨラはこうして時間をわざわざ作っては、彼女の見舞いに来ているらしい。
静かな病院に響く、二人の話し声が僅かに聞こえる。耳がいいというのも考え物だなと思いつつ、手持無沙汰に足を揺らしていれば、「そういえばタカラくんの事なんだけど」と自分の名前が聞こえ、驚きに肩を揺らした。しかもそれがキヨラの声ではなく、トオルの声だったのだから、余計だ。「タカラがどうしたの?」キヨラが話を拾う。どうせまた悪口だろうと眉を顰めれば、トオルがどこか口籠るのを聞き取った。「……あの時、助けに来てくれたの、タカラくんだったんだよね」「うん。そうだね」「……お礼、言っておいて」「どうして?
自分で言えばいいのに」「それはそうなんだけど……ほら、あの子私の言葉なんて聞かないでしょ。それに……凄く情けない姿を見せちゃったし、どんな顔して会えばいいか、わからないから」
071
トオルの沈み込む様な声が、鼓膜を小さく叩く。その言葉を聞いて、タカラは思う。——そんなもの、いつも通りの顔で言いにくればいいのに。喧嘩腰でも、売り言葉に買い言葉でもいい。騒いで、いつも通りうるさく言えばいいだろ。「……変な奴」トオルの言葉に、タカラはため息混じりにそう吐き捨てると、ゆっくりと椅子から立ち上がった。やっぱり、盗み聞きなんてするんじゃなかった。タカラは小さく舌打ちをすると、病院の出入り口へと向かった。——もう、自分が居る意味はないだろう。あとはキヨラに任せて、自分は友達とでも遊んでこよう。そう考えたタカラは、病院を出るなりスマートフォンで手当たり次第に友達数人にメッセージを送りつけた。快く受けてくれた友達に感謝しながら、タカラは待ち合わせ場所へと向かった。
その後ろ姿を、白い病室から温かい目で見る人物がいるとは気づかずに。「——助けてくれて、ありがとう」
願わくば、今度顔を合わせた時には、いつも通りの二人でありますように。
了