ドライヤーガン戦士シリーズ③タカラ前編
開始日21.09.11.
カクヨムから角川つばさに
野いちごから野いちごジュニアにも
エントリーします。
今作から、代筆屋さんと私への著作権譲渡の合作をしてる為、カッコよくなってます。イメージは伝えきれなかったのですが(苦笑)
終了日22.02.17.
001
ある日。現代日本のとある所に、魔法のgunがありました。それはドライヤーの形をしてました。そのgunの目的は、人の心に住む悪者——『妄執』を退治することでした。ドライヤーガンは『妄執』という悪者を最大、気化する能力があるため、扱い手は慎重に闘わなくてはなりません。また、ドライヤーガンはコードレスで充電式であるため、決着はなるべく早くつけなければなりませんでした。しかし、そのドライヤーガンは数年前の戦いにより、ボロボロに壊れてしまいました。ドライヤーガンの使い手であった紀眞キヨラ(おのれいま
きよら)は、壊れてしまったgunを手にしばらく落ち込んでいましたが、大切な人を守れたことに悔いはありませんでした。
——そしてこれは、キヨラが戦士として戦うのを止めてしまった数年後の世界。キヨラの弟としてこの世に生を受けた紀眞タカラ(おのれいま
たから)の葛藤と、決意のお話です。
002
「ただいまー」「おかえり、タカラ」ガチャリと扉が開き、玄関へと足を踏み入れる。温かい言葉と一緒に迎えてくれたのは、自身の姉——キヨラだった。少し前に大学から帰って来たのだろう。お気に入りのかばんを持ったままの彼女は、こちらを一瞥すると自分の部屋へと帰って行った。大学に入って垢ぬけた様子の姉はあまり見慣れないが、元々の夢だったらしいモデルとの両立が出来て楽しそうだ。
自分の部屋に入り、ランドセルを放り投げる。宿題などは帰りの会のうちに既にやり終えてしまった。——暇だ。ベッドに寝転がってぼんやりと天井を見つめていれば、コンコンと控えめなノック音が聞こえて来た。自信なさげなその音に顔を顰めつつ、「入れよ」と声を掛ける。開いた扉の向こうから見えたのは、染めていない黒髪を揺らした女性——匕背トオルだった。
「何?」「今日は家庭教師の日でしょ」不貞腐れた顔でそういうトオルに、タカラは苛立ちを感じつつ、緩慢に起き上がった。机に教材を放り投げるように置き、椅子にドカリと座る。「さっさとしてよ」「あんたが遅れたんでしょ」「うっせーな、ババア!」「ババアじゃないって言ってるでしょ、クソガキ!」「あぁ!?」長いストレートの黒髪を引っ張ろうと手を伸ばして、その手を叩かれる。そのことに「チッ」と舌打ちをしながら、再び飛び掛かろうとすれば甲高い声が聞こえた。「ちょっと!
うるさいわよ、タカラ!」「ちっ!」母の声だ。なんとタイミングの悪い。けれど、これ以上騒いだら鬼の形相で階段を駆け上がって来るので、タカラはゆっくりと椅子に座り直した。
003
「もう……これだから嫌だって言ったのに」が、聞こえたトオルの文句にタカラは大声を上げ、直ぐに駆け上がって来た母に怒られることになった。
「……」「……」母の怒号が終わり、沈黙が落ちる。もう勉強どころの話ではなかった。タカラはガリガリと算数のドリルを解きながら、ちらりとトオルを盗み見る。……姉のキヨラを意識しているのか、彼女に似合っていない。姉とお揃いだとかいう髪飾りも、背伸びしたメイクも似合っていない。それが余計イラつく。タカラは自分のイライラを抑えるように大きくため息を吐くと、頬杖を付いた。——タカラは、匕背トオルが苦手だった。何が苦手なのかも、どこが気に食わないのかもわからない。ただ彼女を見ているとイライラが止まらなくなってしまう。顔を見るだけでもそれが起きるのだから、生まれる前から合わないのかもしれない。自分の方がよっぽど年下だけれど。
「……こんなやつが許嫁だなんて、ほんとクソ」「同感」問題文を片手に、悪態吐く。即座に返された言葉に更に苛立ちを感じ、タカラは鉛筆に力を込めた。バキッと音がして芯が折れる。本当に、こんな年上のババアと許嫁なんて、周りの大人たちはどうかしている。
トオルの家——匕背家とは、昔ながらの関係であるらしい。まだ小学生である自分にはよくわからないが、姉と両親が頻繁に言ってくるのだから、きっとそうなのだろう。話によれば悪者退治の力を持つ紀眞家をサポートしているのだとか言うけど、その力を持つのは女児だけ。つまり、男である自分には全く関係ないのだ。そのはずなのに。「なんで許嫁なんか決められなきゃなんねーんだよ」憎たらし気に呟いたって、この家じゃ誰にも聞いてもらえないのはもうわかっていることだった。だって許嫁であることは、当然の事なのだから。はあ、とため息を吐いて、タカラは腰を上げた。そろそろ夕食に呼ばれる頃だろう。「ぜってぇ結婚なんかしてやんねぇッ!」
紀眞タカラは、生まれながら“耳”がよかった。通常の人が聞き取れない音を聞き取る事が出来る耳の良さは、紀眞家の遺伝的な能力である。それを生かし、悪者である『妄執』を退治することを生業としているのだが——しかし、良すぎるというのは同時に、自分たちにとって毒にもなり得ることでもあった。耳がいい故に聞き取らなくてもいい言葉や音を聞き取ってしまったり、それが彼女たちの体調に害するものである場合、戦うどころの話ではない。それを補佐する為に紀眞家と手を組んでいるのが、匕背家だった。とはいえ、彼等も普通ではない。
004
生まれつき視力が悪く、紀眞家とは支え支えられの生活を余儀なくされているのだ。……なんて言っても、自分には支えてくれる年の近い子なんていないのだけれど。少子高齢化の影響は、由緒正しい伝統の家でも例外ではなかったらしい。
「タカラー、ご飯よー!」その声に、読んでいた文庫本を伏せて机に置く。家庭教師のない日は自由にできるから楽だ。タカラは階段を下がり、ダイニングへと向かう。開いた扉の先には既に姉のキヨラが座っており、行儀悪く携帯を弄っていた。「珍しいじゃん。キヨラ姉がいるなんて」「んー、そう?」「モデルの仕事、忙しいんでしょ」「うん、まあ。でも今日はお休みだから」「へぇ」休みなんてあるんだ。母さんからご飯を注いだ茶碗を受け取りつつ、そう思う。人気モデルらしい事は、同級生の噂話で嫌というほど知っている。「それはそうと、アンタは勉強頑張ってるの?
トオルちゃんが教えてくれてるんでしょ?」「知らねーよ、あんなババア」「こら」「あたたたっ!」突然キヨラに耳を引っ張られ、痛みに声が上がる。何すんだよ!「本当に口が減らないんだから!
トオルちゃんを傷つけたら怒るからね!」「それ、もう何回も聞いた!」「あれ?
そうだっけ?」首を傾げるキヨラに必死に頷けば、やっと解放される。あたた、と耳を摩っていれば、「ごめんごめん。でも、次あんな口利いたら……わかってるわよね?」と脅された。顔が整っているのが余計恐ろしい。……なんで俺がアイツなんかを気に掛けなきゃいけないんだか。タカラは不貞腐れながら揃った食事に手を合わせた。どいつもこいつも、大人っていうのはわからず屋だ。
翌日。タカラは学校を終え、目の前に広がる光景に思わずため息を吐いた。「貴様らさえいなければ!」「数年前の恨み、晴らしてやる!」……はて。どうしてこうなったのか。目を血走らせて活気づく彼等に、タカラは肩を落とした。数年間もずっと恨みを持ち続けているなんて、つまらなくないのだろうか。「何か言ったらどうだ!
ガキの癖に澄ました顔しやがって!」「年上の人間にはちゃんと敬意を払えって習わなかったのかぁ!?」……うるさいなぁ。片眉を上げて煽って来る男の顔を見て、タカラは視線を逸らした。一瞬耳を塞ぎたくなったが、流石に失礼かと思って我慢することにした自分は褒められてもいいだろう。……それもついさっき不要な事だとわかったが。
005
「ねぇ。アンタら、その“ガキ”に対してマジになってんの、ダサいと思わないわけ?」「あ゛ぁ!?」「このクソガキッ!
何言ってやがんだ!」「だからさ……はあ……。もういいや」きっと何を言っても無理なのだろう。そんな事を感じつつ、タカラは足を進めようとした。しかし行く先を塞ぐ彼等に、タカラは足を止めざるを得なかった。嫌々顔を上げれば、青筋を立てた男たちの顔。……どうせ彼等も今まで来た人間と同じ、『そらうみ』と『もっともすみ』の残党なのだろう。よくもまあ、長い間……。呆れに声を掛けるのも面倒に思っていれば、男たちはいろいろと喚き散らすと共に一気に襲い掛かって来た。慌てて身を翻せば、顔の横を拳が通り過ぎる。心臓が恐怖に震えた。いきなり殴って来るなんて、危ないじゃないか。大人の癖にズルいな。
「チッ! 生意気な目で見てんじゃねーよ!」「それはジイシキカジョーってやつじゃ……」「うるせぇ!
やっちまえ!」バタバタと音を立てて襲い掛かってくる敵たちに、タカラはもう言葉だけであしらう事は無理だろうと悟った。ランドセルを下ろし、中からドライヤーガンを取り出す。ボロボロのgunは見た目はよくないものの、弱々しくも常人には見えない力を纏っていた。「これは使いたくなかったんだけど……」壊れかけで少し硬いスイッチを入れ、タカラはgunを高く掲げた。——刹那、光り輝くgunに襲い掛かっていた男たちはあまりの眩しさに目を覆った。悲鳴や困惑する声が聞こえる中、タカラは自身を包み込む浮遊感に目を閉じていた。
タカラの体を瞬く間に覆った光は、彼の体を一気に変えていく。細く無骨だった四肢はしなやかなものに変わり、髪はゆったりと柔らかいものに変わっていく。まるで変身でもしているかのような光景は——否、確実にタカラの体を変えていた。光が弾け、タカラの体が徐々に見えてくる。その姿はまさに“美少女戦士”と言っても過言ではなかった。
「なっ……!」「確かこいつは男だろ?!」「そうだったはず!」「あいつら、騙していたのか……!?」騒ぎ出す敵たちに、タカラは呆れた顔を向けた。……それもそうだろう。自分でもどうなっているのかはわからないのだから。だがしかし、ドライヤーガンは自分を“戦う素質がある”と判断したらしい。タカラの体に前回の持ち主——キヨラの魂を入れることで体を女体にし、“戦士”として適用するようになるのだ。どういう仕組みなのかは自分たちにはまだわからない。けれど、姉と一つになっているこの感覚は未だ慣れない。
006
「ごめん、姉さん」『それは大丈夫だけど、タカラは大丈夫?』「うん。ちゃんと避けられた」『そっか。流石私の弟!』魂だけ入り込んできたキヨラが、自身の中でニコニコと笑っているのがわかる。自分の体なのに別物に感じてしまうのは、仕方がないだろう。『それで、敵は?』「なんか、いっぱい」『いつものね』キヨラの言葉に頷く。『全く。キリがないわ』と呆れ声を出す姉にタカラは心の底から同意しつつ、半身を引いた。既に壊れかけているのだ。ドライヤーガンでの戦闘は出来ない。それをわかっているのは、自分だけではない。「くそっ!
よくわからねぇけど、行くぞ!」「おう!
ぶっ潰してやんよ!」体制を立て直したらしい彼等は、再び構えると武器を手に襲い掛かって来る。それを見て、タカラはゆっくりと深呼吸をすると足に力を込めた。
ビュンッと振られたバットのような得物を頭を下げることで避け、タカラは正拳突きをかました。拳に確かな感触が伝わる。ほっと息を吐く前に脚を踏みしめ、後ろから襲い掛かってきていた人間を蹴り上げた。ガッと骨の感触がし、上手く顎下に当たったのだと悟る。腹部を殴られ気絶した敵を投げるように振り払い、別の敵へと叩きつけた。殴っては蹴って、蹴っては投げを繰り返していく。幼少の頃から刷り込まれてきた体術は、ドライヤーガン戦士の体になった事でその真価を発揮するのだ。タカラはドライヤーガンを使う前に、瞬く間に残党たちを伸してしまった。山のように積み上がった彼等にドライヤーガンを打ち、妄執となった彼等を浄化する。その様子を見送って、タカラは変身を解いた。キヨラの魂がゆっくりと抜けていくのを感じつつ、どっと降りかかってくる疲労にタカラはしゃがみ込んだ。「……疲れた」だからあの変身はやりたくないのだ。……とはいっても、やらないと妄執を退くことが出来ないのだから、仕方がない。
少しだけ休憩しよう、と壁にもたれかかる。空が青い。ぼうっとしていれば、不意に人がこちらへ来るのを感じた。地べたに座り込んでいるなんて変な事を言われそうだと思いつつも、顔を上げるのも億劫だ。しかも、立ち上がるための足に力は入らない。……仕方がない。とりあえず転んだという事にでもしようかと思っていれば、その人は自分の姿を見ると「ゲッ」と声を上げた。
「……タカラくん」「……なんでいんだよ」目の前まで歩いてきたのは、大学帰りらしいトオルだった。顔を嫌そうに歪める彼女は、どこか焦っているようにも見えて。
007
「キヨラちゃんがバイト先で急に倒れたって聞いたから、私の家に運ばれていると思って」「……そうかよ」——俺の心配じゃねーのか。不意に込み上げてくる感情に、舌打ちを零す。ああくそっ。何もかもが腹立つ。どんどんと沈んでいく意識の中でそう呟きつつ、タカラは気を失うように眠りに入った。
すぅ、と小さな寝息が聞こえる。その声に振り返れば、ぼんやりとした視界の中で気持ちよさそうに寝ている男児の顔がみえた。その顔に思わずため息を吐く。「なんで私がこんな事……」
——きっかけは突然だった。目の前で忌々しい少年と会話していたのに、急に倒れ込む様に寝てしまったのだ。反射的に体が動いたのは言うまでもない。本当ならば放置していきたかったのだが、流石にキヨラの弟ともなれば放っておくわけにもいかず。悩みに悩んだ結果、ここまで背負ってきてしまったのだ。……早く下ろして「トオルちゃん!」「あ、キヨラちゃんっ」パタパタと走ってこちらへと向かってくる人影に呼びかけられ、顔を上げる。そこには撮影で忙しいはずのキヨラが、こちらに向かって走って来ていた。どうやらタカラが心配で慌てて来たらしい。家族思いなところも流石キヨラである。私には絶対にわからないけれど。
「タカラは?」「大丈夫。寝てるだけだよ」「そっか。よかった……」背中で寝ているタカラを見せれば、ホッと安堵したように肩を落とすキヨラ。そのまま差し出される手に首を傾げれば、困ったように微笑まれた。「危ないでしょ?
代わるわよ」「えっ、でもキヨラちゃん、仕事終わりで疲れてるでしょ?」「ううん。今日はそんなに疲れてないから。ね?」「……それじゃあ、お願いしようかな」このまま自分が運んで、転んでしまっても困るし。タカラをキヨラへと渡しつつ、トオルは二人の荷物を持った。ランドセルなんて何時ぶりだろうか。何だか懐かしい。
「ふふっ」「どうしたの?」「ううん。こうやって二人で帰るの、久々だなあって思って」「そういえば、そうかも」上機嫌に微笑むキヨラの姿に、顔が熱くなる。……確かに、高校生からモデルとして活動している彼女は、年を増すごとにどんどん忙しくなっていった。そう考えると、こうして帰るのはかなり久しぶりかもしれない。
ドキドキとうるさい心臓を抑えつつ、笑みを浮かべる。……何年経っても、彼女の微笑みは慣れないなぁ。「あの時はトオルちゃんも髪短かったよね」「……うん」その時はまだ、キヨラの許嫁になれなかった事に引け目を感じていたから。
008
男でない事に抗っていたかったから。トオルは視線を下げて、自身の髪を見る。伸びた黒い髪は、男になれない事を悟った自分が、性懲りもなくどんどん大人っぽくなっていくキヨラに憧れて伸ばしたものだ。……まあ髪が伸びたところで、印象はそう変わるものでもなかったのだけれど。寄り添いつつ、二人で歩きながら家へと向かう。
「でも、もし二人が本当に結婚したら、私たち姉妹になるんだよね」「えっ」急な話題変換に、トオルは驚きに声を上げる。心臓がきゅっと締め付けられたのは、気のせいではないだろう。「トオルちゃんが取られるのはちょっと寂しいけど、姉妹になれるのは嬉しいなぁ」えへへと、どこか恥ずかしそうに笑うキヨラに、トオルもは顔を俯けた。羞恥と嫉妬が綯い交ぜになって彼女の心を締め付ける。横目で彼女の背に乗る少年を盗み見れば、キヨラに似た顔をした少年は大人しく寝入っていた。整った顔つきをしているのを見るに、きっとキヨラと同じく学校の人気者なんだろうなぁ……なんて。「……この子も、早く素直になればいいのに」「キヨラちゃん?」「ううん。なんでも」ふるりと頭を振るキヨラにトオルは首を傾げる。……どうかしたのだろうか。更に問いかけようとして、キヨラが足を止める。慌てて同じように立ち止まって振り返れば、夕日が彼女を惜しげもなく照らしていた。「でもやっぱり、トオルちゃんには沢山幸せになって欲しいなぁ」「……えっ」「だって私の一番の友達だもん」——夕日の下。心底嬉しそうにはにかむ彼女に、トオルは頬が赤くなる。次いで込み上げてくる感情に、トオルは笑みを浮かべた。……その感情が一種の『寂しさ』であることを、トオルは既に知っていたから。
どこからか聞こえる子供たちの声を背景に、二人は夕暮れの街中を再び歩き出した。
——タカラは驚くほどよく眠る子だった。それは一族全員が心底驚くほど。これは遺伝ではなかった。しかし、その原因と言えば、“疲労”が常であり。タカラは寝ることで自身の回復を補っているのだと、医者は言っていた。匕背家の支えがない彼は、人一倍気を張っている事が多いのだろう。仕方ないといえば、仕方ないのだけれど、周囲の人間はやはり心配になってしまう。そんな心配も裏腹に、起きたタカラはすっきりとした様子で起き上がっては、いつもの日常へと戻っていくのだった。
——目が覚めたら家だった。……なんて小説の冒頭になりそうな現実を目の前に、タカラはため息を吐いた。
009
やらかした。完全にやらかした。あの状況で寝入ってしまうだなんて。予想だにしない羞恥に、タカラは布団を頭まで被った。きっと、自分をここまで運んでくれたのは、許嫁である彼女なんだろう。それがわからない程、馬鹿じゃない。「クッソ……」女性に背負われるなんて、男としてどうかと思う。子供だなんて思われていたら、最悪だ。一生の不覚、と頭を掻き毟り、布団を弾き上げる。窓の外を見れば既に暗くなっており、時間は二十一時を指している。その瞬間、ぐうと腹が鳴った。……こんな時でも腹は空くんだな。
「……ご飯、残ってるかな」ベッドから出て、部屋の電気をつける。眩しくなる部屋に思わず目を細めた。体に寝る前の倦怠感はなく、ふわふわとした空気が体を包み込んでいる。簡単に伸びをして、タカラは部屋を出た。ふと目を向けたキヨラの部屋から電気が漏れているのを見るに、姉のキヨラも帰って来ているようだ。……トオル以外に見られてなければいいけれど。
階段を下りてダイニングへと向かおうとすれば、途中でキッチンの明かりが見えてくる。母がいるのだろう。扉を開ければ、直ぐに視線が合った。「あら、タカラ起きたのね」「おはよう、母さん。……ご飯、ある?」「ええ。今温めるから、そこ座ってなさい」優しい母の言葉に頷き、テーブルにつく。すぐに用意される夕食に礼を言い、直ぐに食した。母さんの手作りであるから揚げはとても美味しくて、次々に箸が進んでしまう。食事をしつつも思い出すのは、襲われた夕方の事だった。
『そらうみ』。『もっともすみ』。その二つの組織は、妄執を操って世界を自分たちの思うがままにすることを目的としている……らしい。小学生である自分には、未だよくわからないのだが。それでもこうして襲われるという事はそれが嘘ではなく、事実であることを知らしめており。『タカラも、これから頑張ってね』とキヨラからドライヤーガンを渡された時には、逃げられない事を幼心に悟ったものだ。とはいえ、それに納得しているかと言われれば——否である。そもそも、ドライヤーガン戦士は“女子”の役目なのだ。姉も母も女。自分は男。……対象にはならないはずなのだが。『ごめんね。キヨラには許嫁がいないから』その言葉を聞いてしまえば、家の伝統を知るタカラは何も言えなくなってしまう。受け取ったドライヤーガンの冷たさを、今でも覚えている。タカラは“諦め肝心”の言葉を胸に、gunを持ち歩くようになったわけなのだが。
010
タカラは夕食をすませると、二階に戻って自分の部屋へと戻って来た。時間は二十二時ちょっと過ぎ。読者モデルをしている姉は、美しさを保つために既に床に入っている頃だろう。さっきまで見えていた明かりがもう見えない。本来ならば自分も眠くなる時間なのだが、夕方からぐっすりと寝てしまったからか、眠気はまだ来ていなかった。宿題でもやるかとランドセルを開けば、そこには小さな紙。うさぎのイラストが描かれたそれは、どう見ても自分の物ではないし、自分の友人も持っているところを見たことはない。姉か、それともクラスメイトの女子の誰かか。そんな疑問を持ちつつひっくり返せば、そこには見覚えのある字が並んでいた。『明日の家庭教師はお休みになります。ちゃんと休んで、キヨラちゃんを心配させない様に』この字は知っている。——トオルの字だ。恐らく気を使われたのだろう。——くそっ、変な気を回しやがって。「……全っ然平気だっつーの」タカラはそう吐き捨てると、乱暴に机の上に紙を投げた。可愛らしいうさぎは、今はどこか憎たらしく思えて。タカラは再び悪態を吐くと、ベッドに横になった。宿題をやる気なんてもうない。どうせすぐに終わるようなものなのだから、明日学校でやってもどうにかなるだろう。タカラは大雑把にそう考えると、スマートフォンへと手を伸ばした。小学生である自分に制限は掛けられているが、特に不便のないそれは時間を潰すには丁度いいものだった。
——翌日。珍しく遅くまで家にいるキヨラと並んで食事を摂っていれば、簡素な言葉と共に二枚の紙を差し出された。「はい、これ」「なんだよ、急に」不意に肩越しに渡されたそれを反射的に受け取る。そこには、虹色で彩られた“スペシャルランド”の文字が踊っており、タカラは思わず驚きに落としてしまいそうになった。「こ、これっ!」「貰ったのよ。本当は昨日渡す予定だったんだけど、アンタずっと寝てたから」「そうじゃなくって!」声を荒げて言いかけた言葉は、最後まで言わずともキヨラには伝わったようで。ああ、と頷いた彼女は髪を縛りながらタカラをちらりと横目に見た。「アンタ、どうせ休日暇なんでしょ?
トオルちゃん誘って行ってきなさいよ」「はあ?」「許嫁なんだし、たまにはいいじゃない」悪戯っ子のように微笑むキヨラに、一瞬息を詰める。──どうして俺が。チケットを握り締めると、タカラはそれをキヨラへと突き返した。「行かねーよ!」「そんな事言わずに」「嫌だって言ってんの!
つーか、姉ちゃんが一緒に行ってあげればいいだろ!」
011
「私はモデルの方で忙しいもん。たまにはトオルちゃんを楽しませてあげてよ。未来の夫なんでしょ?」「だからちげーって言って、」「……最近、全然楽しい事させてあげられてないの。だから、ね?
お願い」両手を合わせてしおらしく笑うキヨラに、トオルは何も言い返せなかった。……何だかんだお騒がせな姉だが、こうして誰かに“お願い”をしてくることは珍しい。しかも弟である自分には、特に。タカラは差し出した手をゆっくりと下げる。「……わかったよ。行ってればいいんだろ、行ってくれば」「ふふっ、タカラならそう言ってくれると思ってたわ」心底嬉しそうに笑うキヨラは、女優のような笑みを浮かべていて、少しばかりむず痒くなってしまう。……自分よりも仲のいい二人で行ってくればいいのに。そう思うものの、キヨラの言っていることもわかるので言い返すことは出来なかった。
それからすぐにトオルも起きてキヨラが事情を話せば、嫌そうな顔をしつつも頷いた。来週末に行くことを約束したタカラは、その後流れる空気の気まずさにタカラは早々に部屋を飛び出した。
週末は意外と直ぐにやってきた。
「アンタ、ちゃんとオシャレしていきなさいよ」と一言残して朝早く出て行ったキヨラを見送ったタカラは、朝ご飯を掻き込むと待ち合わせの駅へと向かっていた。「……はあ」……驚くほど、気が重い。まさかこんなデート紛いの事をするなんて。今日何度目になるかわからないため息を吐いて、駅前の時計を見上げた。時間は九時四十五分。待ち合わせは十時ちょうどだ。
タカラは手持無沙汰になり、スマートフォンを手に取った。最近ハマっている小説を開いて読んでいれば、カツリと甲高い音が聞こえて影が差した。「……お待たせ」不意にかけられる声に視線を上げる。目の前にいた女性——トオルの姿に、タカラは一瞬戸惑った。
いつも見ている姿とは打って変わって、まるでキヨラと同じ——否、それよりも大人びた容姿をしている彼女。編んだ髪には花のコサージュが刺さり、ふんわりとしたワンピースが彼女の体を覆っている。タカラは込み上げてくる熱を感じ、さっと視線を逸らした。「何よ。言いたいことあるなら言えば?」「……別に。なんでもねーよ」
「何でもない訳ないでしょ。そんな顔して」「うっせー、ババア!」「ババアじゃないってば!」売り言葉に買い言葉。右といえば左。互いへの罵倒が飛び交う。どんどんと大きくなる二人の声に行き来う人が何事かと振り返るが、そんなもの言い合いに夢中の二人には関係がなかった。
012
「だから行きたくないって言っただろ!」「仕方ないでしょ!
キヨラちゃんの頼みだったんだから!」「そ、りゃあそうだけどさ、断れただろ!」「そんなに言うなら、そっちが断ればよかったじゃない」「うっ……」ふんっと鼻を鳴らして言うトオルに、タカラは悔しさに歯を食いしばった。結局言い返すことは出来ず、諦めて改札を潜った。
「……」「……」電車の音だけが響く。揺られる二人の中に、もちろん会話はなかった。気まずさに押されて、タカラは窓の外を見つめる。隣に人がいるのにスマートフォンを見る気にはなれないし、しかし掛ける話題もない。どうするかと悩んで盗み見れば、トオルと視線があった。「……何?」「……別に」「あっそう」「……」「……」大して膨らまない話に、タカラは気まずさが更に大きくなる。一瞬、にこやかにした方がいいのかとも思ったが、そんな必要は無いと思い直す。静かな空間に再び電車の音だけが響き始める。我慢が出来なくなったのは、トオルの方だった。
「……スペシャルランド、行ったことあるの?」「は?
なんでそんなこと」「何となくよ」ぶっきらぼうなトオルの問い掛けに、タカラは首を傾げる。「……行ったことねぇよ」「ふうん」「アンタこそ、行ったことあんのかよ?」「……私も初めて」「……へぇ」視線を下げて少し寂しそうに話すトオルに、タカラは目を見開く。……キヨラが何で今日の事をお願いをしてきたのか、何となくわかったような気がしたからだ。やっぱり、自分じゃない方が良かったのではないだろうか。そう思った瞬間、差し出されるスマートフォン。そこの画面にはスペシャルランドのマップが広がっていた。「なんだよ、これ」「見て分からないの?
マップよ」「バカにしてんのかよ」トオルの言葉にむっとして声を荒げれば、「しー」と指を顔の前に立てて怒られた。「電車の中なんだから気をつけなさいよね」呆れた様子で肩を落とす彼女は、まるで仕方ないとでも言いたげで。「ともかく。……キヨラちゃんから貰ったんだし、せっかくだから色々回ろうと思って、探してきたの」「……あっそ」頬を染めて、どこか嬉しそうな顔をするトオルに、タカラは視線を逸らして窓の外を見た。隣で、ああでもないこうでもないと頭を捻る通るの声を聞きながら、タカラは目を閉じた。少しばかりの抵抗も到着のアナウンスをする駅員の声に遮られ、目的地は徐々に近づいてきていた。
「次はアレに乗ろう!」「あ、ちょっ、!」到着してからすぐ。
013
初めての状況にテンションが上がっているのか、トオルはタカラの腕を引っ張ってあちこちへと連れ回し出した。──せっかくの遊園地をババアと回されるなんて、最悪だ。というか何故腕を掴まれているのか。離せと喚いても全く話す様子のない彼女に、どうしたら逃げられるかと考えていれば、前を歩いていたトオルの体がぐらりと傾いた。「わわ、!」「っ、バカ!」慌てて腕を引くが、小学生の腕力なたかが知れている。一緒になって傾いた体を全力で踏ん張れば、勢いが僅かに弱まった。「いってぇ……」「ご、ごめん」慌てて起き上がるトオルに、タカラは目付き悪く睨みつけると「目悪いんだから気をつけろよな!」と声を荒らげた。トオルは膝を打ちつけたのか、膝が赤くなっているものの、怪我をしている様子はなかった。その様子に手を貸さなくてもいいかと起き上がる彼女の様子を見ていれば、不意に後ろから声が聞こえてきた。「あらぁ、仲の良さそうな姉弟ねぇ」「!」「姉弟で遊園地なんて、羨ましいわぁ」微笑ましい声に、なんとも言えない気持ちが込み上げてくる。──姉弟じゃねーし!
「本当に。私も『拾イケ』みたいに、彼ピと一緒に来たかったなぁ~」ふと少し先で掛けられた声に、トオルとタカラは顔を上げる。左右で揺れる派手な金髪。派手な爪。派手な服装をした女性は、丸い大きな眼鏡を指で上げつつ、ニヤリと笑みを浮かべた。細すぎる体躯も相俟って、その笑みの気色悪さに、思わずぞっとしたのはタカラだけではなかった。「下がって」トオルの前に腕を出し、制止の声を掛ける。だが、彼女の様子がおかしい事に気づき、タカラは違和感を覚えた。どうかしたのか。視線だけで振り返ればトオルは驚いたように——否、どこか視線を輝かせた様子で女性の方を見ていた。「『拾イケ』って……もしかしてトモ先生のですか……⁉」「あら、知っているの?」「もちろんですよ!」さっきまでとは打って変わって、違う表情で目を輝かせたトオルは、タカラの制止も聞かずに一歩を踏み出した。知り合いなのかと思えば、女性の反応を見るに、そうではなさそうだ。「『拾った少年が成長したらイケメンになりました』——通称『拾イケ』!
今SNSで話題になってる恋愛小説ですよね!」「え、ええ。あなた、詳しいのね」「はい!
発売当初から全巻欠かさず揃えているので!」意気揚々と話すトオルに、タカラは記憶を探っていく。『拾った少年が成長したらイケメンになりました』
014
……確か、朝のニュースで聞き覚えがある。今、若い人の中で絶賛人気中の小説だとか。「書籍化した本は全部ヒット作!
この前出た『ラブ♡アクション』なんて、小説から漫画になったけど、発売初日で売り切れ続出。重版に重なる重版で、出版社が天手古舞になるほどの売れ行きだとか!」息荒くまくし立てるトオルの勢いに、タカラは顔が引き攣るのを感じる。少しばかり距離を取ったのは、当然の行動だろう。「お、思ったより知っているみたいね」「はい!
拾った男の子がかっこよくなっていくのが、本当に素敵で……!
トキメキが止まらないです!」「フンッ。わかってるじゃない」——おっと。嬉しそうに鼻を鳴らした女性に、タカラは複雑な心境を受ける。……何やらオタク談義に入りそうな雰囲気だ。タカラはゆっくりと二人から距離を取ると、他人のふりをするべくそっぽを向いた。その間にも、話題は広がっていく。「でも、どうせ漫画から入ったんでしょ?
それでファン何て言えるわけ……」「いえ、小説からです!
寧ろあの作品は小説でこそ、はかなくも美しい描写が表現されている……いえ、漫画の方も素敵なんですけどね。でもやっぱり男の子がヒロインへの想いを自覚した時の表現なんて、もういじらしくて……!」「あ、アナタ、結構やるじゃない」腕を組み、満足げに微笑む彼女に、タカラはもう警戒の必要がない事を悟った。いつの間にか、女性に最初に会った時のような刺々しい空気はない。それどころか、恐らく同志を見つけたとでも思っているのだろう。そわそわした雰囲気さえ感じ取れる。好きなものの話というのは、恐ろしく強いらしい。飛び交う二人の言葉を聞き流しつつ、タカラは静かにドライヤーガンを手に持った。……が、果たしてこいつの出番はあるのだろうか。揺れ動く妄執の影を見つつ、タカラは静かに思った。
「それであの場面が……」「あの設定なんか先生しか考えられませんよ!」「わかる!
しかもイケメンのあの表情なんて、女はみんな弱いわよねぇ」「……」目の前で盛り上がる二人に、タカラはズコーっとストローでコーラを吸い上げながら、空を見上げていた。女性はアモイ愛と名乗った。彼女曰く、“トモ先生”の一番の熱狂的ファンらしい。その名前にトオルも何かしら思い当たることがあったのか、「ああ!」と頷いていた。……女のそういうのは、小学生であるタカラにはよくわからない。立って長話もなんだからと、テラス席に座ったのが一時間前。
015
喉が渇いたからと、彼女たちの分も含めて飲み物を買いに行ったのが三十五分前。そして未だ衰えることのない会話にそろそろ暇が限界になり始めたのが、今。タカラはストローの口をガジガジと嚙みながら、この場をどうやって抜け出すかを考えていた。もうこの際、トオルを置いて行ってしまっても大丈夫だろう。そんな気分にさえなって来ていたのは、当然のはず。まだ明るかった空は夕暮れに染まり、あと二時間ほどで閉園時間を迎えるだろう。——このままでは、折角のデートがオタク談義で終わってしまう。そんな危機感を持ちつつ……けれどこの場を抜けるいい方法は思い当たらなかった。
遊園地から帰ったタカラは一人、頭を抱えていた。
例のファン——アモイ愛があの場所に来た理由がわからない今、トオルへの対応をどうにかしなければならない。トオルに限らず、自分たち以外は守らなければいけないのだ。キヨラにも相談しようかと思ったが、特に被害を受けなかったこともあっていう気にはなれない。……まあ、警戒心もなく連絡先を交換したと聞いたときには意識が飛ぶかと思ったけれど。
「……キヨラ姉の友達じゃなきゃ、絶対に放置してんだけど」心底嫌そうに呟いて、後頭部を掻く。いつの間にかトオルの通っている大学まで来てしまったが、別に彼女の安否が気になった訳では無い。決して。もうこうなったら仕方がない。トオルに気づかれないようにこっそりと──。
「何であんたがここにいるのよ」「げっ」……最悪だ。まさか一番最初に出会ってしまうとは。「何しに来たの。キヨラちゃんならもうモデルのお仕事に向かったよ」「知ってるよ、ばーか」「ばかって、アンタねっ……!」「バカはバカじゃん!」「信じらんない!」ヒートアップしていく言い合い。——そんな時だった。
「あろ。あろ」「?」……なんだ、あれ。——遥か上空。目を細めてやっと見える距離に、タカラは小さな物体を見つけた。隣にいるトオルは、目が悪いから見えていないのだろう。……飛んで、いるのだろうか。鳥?
それとも虫か? 少しずつ近づいてくるそれは、自分達の目の前にくるとバサバサとトオルの頭上を飛び回った。鳥だ。しかも結構小さい。「きゃあっ⁉
な、なに⁉」「ただの鳥だけど」「分かってるなら助けてよ!」叫ぶトオルを放置して、鳥をじっと見つめる。……それにしても、凄い色だ。カラスのような黒い艶のある体毛に、口元と目元だけに鮮やかな黄色が差している。
016
「あろっ。あろっ」「あろ?」「あーちゃん」「あーちゃん……」意味不明な言葉を何度も繰り返す鳥に、タカラは首を傾げる。飼い主の名前だろうか。「ちょ、ちょっとタカラくんっ!」「何?
今考え事してるんだけど」「私を助けてからでも良くない⁉」頭を抱え、未だ頭上で飛び回る鳥に涙目になっているトオルに、タカラは露骨に嫌そうな顔をした。……面倒くさい。「はあ……」とわかりやすくため息を吐いて、タカラは少し考えると自身の腕を掲げた。確か街中でフクロウを腕に乗せていた人がいたはず。あんな感じで上手く乗せられればいいけれど。
「ほら、えーっと……あろ?」「あろっ、あろっ!」「こっちおいで」「こーこーつうろまつ!
こーこーつうろまつ!」鳥——仮の名としてあろと名付けよう——は、トオルの頭上を二回転ほどすると、タカラの差し出した腕へと足を下ろした。あろはひょこひょこと飛び跳ねながらタカラの腕を上ると、肩に落ち着いた。タカラが指先を差し出せば、黄色い嘴がツンツンと突き刺してくる。可愛い。「お前、どこから来たのさ」「えへへへへへ」「えへへじゃないよ、まったく」意味不明な言葉を喋るあろに苦笑いを浮かべていれば、髪を整えたトオルがゆっくりと顔を上げた。
「もう、びっくりしたぁ……」「あんなのでビビるなんて、心臓弱すぎ」「仕方ないでしょ。良く見えてなかったんだから」不貞腐れるトオルに、タカラは呆れた目を向ける。どうやらやっと復活したらしい。本当に鈍臭いな。「って、その鳥……九官鳥?」「キュウカンチョウ?」「インコとかと同じ喋る鳥類の一種。私も初めて見たなぁ」にこにこと笑みを浮かべながらあろへと手を伸ばすトオル。……さっきの情けない姿はどこへやら。指先を啄まれつつも、その顔はだらしなく緩んでいる。動物が好きなのだろうか—————なんて。自分には関係がないはずなのに。ぶるぶると顔を横に振るタカラに、トオルが首を傾げる。どうかしたのかと視線が訴えるが、それに応えてやる義理はない。
「それにしても、どこから来たんだろ。九官鳥だし、飼い主がいると思うんだけど……名札とかもないし……」「名札?」「鳥の場合、飛んでっちゃった時の為に目印みたいなものを付ける人が多いんだよ。足に糸とか名札を付けているのが一般的かなのかな」「へぇ」「何、知らないの?」「うっ……」にやりと嫌な顔をして笑うトオルに、悔しげに顔を歪めるタカラ。自分よりもあろについて詳しそうな彼女に何となく悔しさを感じて、舌打ちをした。
017
嫌そうな顔をするタカラは、肩に乗るあろを見つめた。迷子の鳥なんて保護したことがない彼にとって、この先の事は未知なものだった。その分、色々と知っている彼女に聞くのが一番手っ取り早いのだろうが……非常に癪に障る。まるで自分が子供だと言われているようで。
「帰る様子はないし、警察に届けに行かないとかなぁ」「警察?」「迷子だったら飼い主が探してるかもしれないから」淡々とトオルが呟くように言う。……確かに、自分から出てきてしまったのであれば、飼い主が探しているかもしれない。タカラは警察署に向かおうと足を進め——ようとして、立ち止まる。咄嗟に振り返るが、そこにはトオル以外誰もいなかった。タカラは少し考えると、鋭い視線を緩めることなく視線を上げた。……今、誰かがこっちを見ていたような。「何してるの。早く行くわよ」「……ん」トオルのぶっきらぼうな声に、簡単に返事をして視線を戻す。きっと気のせいだろう。そう思い直すと、二人は時折言い合いをしながらも、近くの警察署へと足を進めた。「まさか話も聞いてくれないなんて……」肩を落としたトオルに、タカラは未だ肩から降りる気配のない九官鳥へと視線を向けた。警察署に行った二人は、直ぐに事の顛末を話した。しかし、警官は慌てた様子で走り回っていて、それどころではなかったのだ。適当な対応に文句のひとつでも言ってやろうかと思ったが……青ざめた様子の彼等を見れば、文句のひとつも出てこず、仕方がないと思うしか無かった。
「あろ、あろ。ふるえ、あろ」「お前も災難だったな」「サイナ?
さい?」首を傾げるあろ。何もわかっていなさそうな顔は、どこか呑気に見える。とりあえず頭を撫で、空いている手で九官鳥の餌を調べた。どうやらキャットフードのように、袋で売っているらしい。もっと手軽なものがないかと探ったが、それしかなかった。かくして、二人と一匹はギクシャクとした空気のまま、ペットショップへと向かうことになったのだ。
その後ろ姿を、二つの瞳が見ているとも気づかずに——。
『ニュースをお伝えいたします。昨日、アイドルグループ『Boy』のメンバーである猫田カケラさんが失踪。行方不明となっております』——朝のニュース。それを何とはなしに見つつ、タカラは朝食を食べていた。あろには昨日買ったばかりのフードをあげており、それをあろは大人しく啄んでいる。この一晩。あろは驚くほど大人しかった。騒ぐ事もなく、飛び回る事もなく。
018
ただただ与えられたスペースでゆったりとくつろいでいた。まるで借りて来た猫のようだと思って、あろが鳥である事を思い出した時には一人笑ってしまったのだけれど。『これで人気歌手が行方不明となるのは三人目となります。警察は三人の行方を懸命に捜索中との事です』「あらまぁ、物騒ねぇ。キヨラ、アンタも気を付けなさいよ」「大丈夫よ。狙われているのはみんな歌手なんでしょ?」「でも、猫田くんとは知り合いだったんでしょ?
次はアンタかもしれないし」「わかってるわ。気を付けるから」母と姉の会話を聞きつつ、タカラはパンを頬張る。横目であろの様子を見れば、どうやらあろは結構食べるらしい。既にあげた分は完食してしまっていた。『なお、犯行現場らしき場所には九官鳥の羽が落ちており、犯人は九官鳥を飼っているのではないかとの見解を示しております。もし怪しい九官鳥を見つけた方は、お近くの警察署までご連絡をお願いいたします』「「……九官鳥?」」二人の声が重なる。声を発したのは、母と姉のキヨラだけだった。気づいていないのは、追加の餌を上げるか否か悩んでいるタカラだけ。二人はその先にいる鳥へと視線を向けた。
——九官鳥。タカラの話によれば、どこから飛んできたのかも、飼い主もわからない。覚えている言葉は変な言葉ばかり。怪しい、九官鳥。「……まさかぁ」「そんなわけないわよねぇ……」二人は引き攣る頬を感じつつ、タカラの手元の九官鳥をじっと見つめた。愛らしい瞳がこちらを向いたのを感じ、さっと視線を逸らしてしまったのは、気のせいではないだろう。……野暮なことは言わないほうがいい。タカラが気に入っているようなのだから。母とキヨラは念のため、自分たちが気を付けておこうと顔を合わせて頷き合った。タカラはそれに気づくことなく、時計を見ると、慌ただしく家を後にした。「ごちそうさま!」やばい、遅刻だ!
「ねぇ、あなた」今日も今日とて変わらない学校生活を終え、放課後のクラブ活動も終えた帰り道。突如かけられた声に、タカラは振り返った。
「初めまして、私は歌姫涼音。って、もしかしたら知ってるかもしれないけど」白く脱色したショートカットを揺らして微笑む女性——歌姫に、タカラは驚きで声を出すことが出来なかった。……それもそうだろう。今、日本で一番人気の歌手が、テレビ越しではなく、目の前に実際に立っているのだから。「ふふっ、そんな驚かないでよ。よろしくね」「あ、は、はい」
019
差し出される手を、タカラは驚愕を抱えたまま掴——もうとし、袖口から飛び出てきたそれに阻まれた。「ふるえっ、ふるえっ」「あ、あろ!?」勢いよく出てきたのは、家に置いてきたはずのあろだった。いつの間に着いてきたのか。というか今までどこにいたんだ。あろはツンツンと彼女の手を突っついている。どこか上機嫌なような気もするし、不機嫌にも見える。「全く、相変わらず五月蠅い鳥ね。焼き鳥にしてやろうかしら」「えっ」「ああ、気にしないで。こっちの話だから」不意に聞こえた、残酷な言葉。その言葉に声を上げれば、穏やかに微笑まれた。その雰囲気に余計看過できるものではないと本能が叫んだ。あろを引っ手繰るように手に掴んで、歌姫と距離を取る。……何だか嫌な予感がする。
「……なあに、その目。姫にそんな目、向けていいと思ってんの?」「姫?」「なぁに。姫のこと、知らないの?」にやり、と笑みを浮かべる彼女に、タカラは震え上がると彼女の視線の色が身に覚えのあるものである事に気が付いて息を飲んだ。——もしかして、あの時の。「勝手に姫のペット攫ってさぁ。なぁに、いい人気取り?
姫そういうのきらぁい」「そ、ういうわけじゃ」「姫の言葉に歯向かうの?
ちょーきもい」すぅ、と細められる瞳がタカラを射抜く。心臓が嫌な音を立てた瞬間、彼女の背中からぶわりと黒い霧が広がって行った。ピーピーとあろが騒ぎ立てるのをどこか遠くで聞きつつ、タカラは自身のランドセルからドライヤーガンを取り出した。キヨラが今何をしているかはわからないが、近くにマネージャーかトオルがいるのを祈って、gunの引き金を引けば眩い光がその場を爛々と照らした。私服だった服装はフリル付きの伝統戦闘服に変わり、髪は少しばかり伸びて重たくなる。けれどそれとは反対に体は雲のように軽くなり、重力なんかなかったのだと言わんばかり。タカラは目の前に出現した三体の影を睨みつけた。
『に゛ゃ、に゛ゃぁあ゛ああ゛――‼』『ト、トドケ、トドケル……と、とどけぇえええ゛ぇえ‼』『ぶーん、ぶんぶーん!』異質の中の異質。そんな光景が眼前に広がっていた。巨大な招き猫の腹に見える、少年の顔。バイクの形に無理矢理曲げられた体を引き摺る男。そして顔を引き伸ばされ、車と同じ大きさに変えられた女。その人たちの顔は全部苦痛に歪んでおり、今にも涙が零れ落ちてきそうだった。何より、全員テレビの奥で見た事のある顔をしていた。
020
——行方不明になっていたという、歌手たちだった。少年はアイドルグループの『Boy』のメンバーのはずだし、男は以前アニメの主題歌を歌っていたはず。女はどこだったかの地下アイドルだとか。元々タカラは彼らを知らなかったが、連日テレビで報道されれば記憶の片隅にくらいは残る。そんな人たちがここに揃っている……その理由がわからないほど、タカラは馬鹿ではなかった。「……アンタだったんだ、犯人」「だったらなぁに?
みーんな私よりも下手なんだから、別に構わないでしょ?」「それ、アンタ人殺しと同じだってわかってる?」「下等生物は死して当然なのよ。知らないのぉ?」悠々と話す歌姫に、タカラは思わずため息を吐いた。このご時世、まだそんなことをいう人がいるだなんて思いもしなかった。彼女はれっきとした“悪”だったのだ。「さあ、お財布ごろにゃあ。私の好きなものを沢山買ってちょうだい!
——もちろん、人間もよ」『に゛ゃああ゛あ゛ぁあ‼』“お財布ごろにゃあ”と呼ばれた少年が、招き猫の体を引き摺ってタカラへと襲い掛かって来る。振り下ろされる右手。可愛らしい肉球はどす黒く、少年の目からは涙がボロボロと落ちている。動くたびに激痛でも走っているのだろうか。自分より幾分か年上の少年に、タカラは同情せざるを得なかった。「くっ!」『おざっ、おさいぶ、じゃに゛ゃぁああ゛‼』「……」まるで悲鳴のような声に、タカラは攻撃を避けながら耳を傾ける。悲痛な声に、流石に殴ったり蹴ったりするのはかわいそうだと、タカラは思った。——どうにか。どうにか傷つけることなく少年を救い出すことは出来ないだろうか。そんな思いとは裏腹に、招き猫少年の攻撃は速度を増していく。右へ、左へと避けていれば、中々捕まらない自分にイラつき始めたであろう歌姫がギリリと綺麗な爪を噛み締めた。「ったく。つっかえないわねぇ」呆れたようにため息を吐く歌姫に、招き猫少年は縋るように呻き声を上げる。だが、彼女の耳には届かなったようで。「運送屋すまいりー。あなたの恨みも届けてあげなさい」淡々と指示した声に、無理矢理体をバイクの形に変えられた男が動き出した。『と、トド、トドケル……ハコブゥウウウウッ!』「ッ!」ブォンと急発進する彼に、間一髪で身を捻る。スレスレを通り過ぎていくその姿。こちらをひき殺そうとしている事は明白だった。『と、トドケッ、ハコブ、は、ハコハ、ハコブッ』うるさいほど言葉を紡ぐ男は、視線をあっちこっちへと彷徨わせている。
021
……何かを探しているのだろうか。そんなことを考えていれば、不意に背後から攻撃の気配を感じ取った。バックステップでその場を離れれば、振り下ろされる巨大小判。『な゛ぁああ゛あああ゛ぁぁ‼‼』「おっと」自棄になっているのか、ザクザクと何度も小判を突き立ててくる招き猫少年。その表情は既に苦痛から意識すらも曖昧になっているようだった。——早く助けないと。タカラはドライヤーガンを見つめ、決意する。……壊れませんように。そう呟いて、タカラはgunを二人に向けた。「くらえ!」
眩い光が二人を包む。招き猫に埋め込まれた少年は招き猫の腹から零れ落ち、バイク男は徐々にその体が元へと戻っていく。その様を見ていた車の女性は、ゆっくりとその光に向かって足を進めて行った。「ちょっと‼」歌姫の叫び声を無視して女性が光に先端が触れるのと同時に、女性の顔が元のサイズへと戻っていく。ほっと安堵した彼女は、そのまま自ら光の中へと足を踏み入れた。三人は無事、元通りの体へと変化した。その様子を見ていた歌姫は、驚愕を浮かべていた顔を赤く染め上げ激昂した。「な、に……してくれてるのよぉ‼」「操られていた人たちを解放しただけだけど」「こんの、クソガキィイイイイ‼‼」甲高い叫び声が響き、空気が震える。美人が怒ると怖いというのは本当の事だったらしい。まあ、自分の姉の方が贔屓目を抜いたとしても、百倍可愛いのだけれど。
「絶対に許さないわ‼」怒りに染まった彼女は、変化の衝撃で気絶している三人を蹴り始めた。「オラッ! なに呑気に寝てるのよ‼
さっさと起きなさい、このクズ共がァ‼」ガンッ、ガンッと。まるで八つ当たりでもするかのように三人を蹴っては踏みつける彼女は、テレビの奥の“歌姫”と同じとは思えなかった。「う、ぅう……」「い、た……っ」三者三様の反応をしつつ、ゆっくりと彼らは立ち上がる。まだ操られていたのかとタカラが身構えるが、三人はぼうっと周囲を見回すと自分の手を見て驚いていた。「あ、あれっ」「わ、私達、もどって……!」「よかった……!
これでまた活動が出来る……!」口々に発せられる歓喜の言葉。それを聞いたタカラは三人に対する警戒心を解いた。もう、彼らは大丈夫だろう。タカラは何となくそう思った。「何ぼーっとしてるの!
さっさっと私の言う通りにっ!」だが、唯一空気を読めなかったのだろう。歌姫がキャンキャンと吠えたてる。その声に、三人は彼女を見ると歓喜に染まっていたはずの表情を凍り付かせた。
022
男が足を踏み出す。「運送屋? ふざけるな。俺があそこにいたのは近所にダチの家があったからだ。仕事のことも忘れて休日を楽しもうとしていたのに……」「そ、それはっ」男性の威圧に狼狽える歌姫。その後ろから、少年が駆け寄った。「ボクだって!
ボクだってお財布なんかじゃない!
人間だよ!」「なっ⁉」「そりゃあ、お母さんには『アンタが稼いでいれば家は安泰』なんて言われたけど……でも、ボクだって人間なんだよ。歌が大好きな、一人の人間さ」少年の涙が零れ落ちる。少年をなだめる様に立った女性は、おっとりとした雰囲気のまま、言葉を失っている歌姫を見つめた。「貴女は確かに凄いわ。歌のテクニックも、曲も、凄いと思う。私もそんな貴女に憧れてこの世界に入ったもの」彼女の言葉に、歌姫は気を取り直したのか二歩、三歩と下がると、急に笑い出した。「は、ははっ!
やっぱり、私は凄いんだわ! さあ、そんな私にたてつく奴を……!」「でも、貴女のようにはなりたくないと、今は心底思う」「……は?」「貴女のような、心まで化け物に捧げた人にはなりたくないって言ったの」女性のハッキリとした物言いに、歌姫は面食らう。「私だって小さな劇場の歌姫だけど、それでも貴女よりは沢山の人を笑顔に出来るわ。今も。これからも」「な、なに言って、!」「私の命を道具みたいに扱った貴女を目指した私は、今日ここで死んだのよ。夢から覚ませてくれてありがとう」ふわりと微笑んだ女性。満足げに頷く男性。キッと睨み付ける少年。三人の訴えと視線に、歌姫は何もいう事が出来なかった。タカラはgunを下ろし、ゆっくりと四人の元へと近づいた。気づいた男性が身を引いて道をあけてくれる。唖然とした表情をする歌姫の色濃かった妄執の影は、既に薄く弱弱しいものに変わっていた。「アンタ、さっきこの人たちを“自分よりも下の人間”って言ってたけど、人は比べる物じゃない。みんな同じで、みんな違うんだ」「で、でも、私の方が優れてるのよ……!」「本当に、そう思う?」「ッ、……」言葉に詰まり、視線を下げた歌姫の額に、タカラはgunを突きつけた。「人気でも、人気じゃなくても、誰でも歌っていいんだよ。それがわからなくなった時点で、アンタはプロ失格だよ」「そん、な……」絶望する歌姫を見つめ、タカラは引き金を引いた。光は一回目よりも弱かったが、それでも十分だった。霧散していく歌姫に、悲しむ人間はいない。世の中を巻き込んで行われた騒動は、静かに終わりを告げた。
023
『ニュースの時間です。昨日、例の歌手連続失踪事件の被害者を発見。心身共に異常はなく、近日活動を再開するとのことです。また、その誘拐事件に同じく歌手の歌姫涼音さんが関わっているとのことで、現在真偽を捜査中との事です。次の事件です——』「解決してよかったわねぇ」「うん。猫田君もそろそろ復帰するって」「そうなの。よかったわ」ニコニコと嬉しそうに話す母と姉の声を聞きながら、タカラは餌を器にカラカラと出していた。その手元でちょんちょんと動いているのは——歌姫の飼い鳥である、九官鳥のあろだった。本来は飼い主がいなくなってしまったという事で、家族全員で話し合った結果、保護してもらおうという事になったのだが、あろがタカラの元を頑なに離れなかったのだ。結局一緒に住むことになり、それに伴って殺風景だったタカラの部屋にはお世話用品と鳥かごが設置された。ただ、飼い主の躾が何だかんだよかったのか、あろの元々の気質なのか。比較的大人しいあろは、よく鳥かごから出て来てはこうしてタカラと戯れている。その様子を見ながら、タカラの母とキヨラは“大事にならなくてよかった”と微笑んだのだ。「トオルちゃんにもそうやって優しくしてあげればいいのにねぇ」「やだ」「……そこは即答なのね」母の呟きを聞いていたタカラは、まるで一刀両断するかのように拒否を吐き捨てた。確かに遊園地での出来事を考えると少しは距離が縮まったのかと思うだろうが、そんなことはない。鈍間で鈍臭くて自分よりはるかに年上の嫁なんて。そんな思いが伝わったのであろう。母とキヨラは苦笑いをすると、何気ない朝食へと戻った。「タカラ!
コドモ! コドモ!」「うるさいよ、あろ!」
——きっかけは些細なものだったと思う。「母さんじゃないくせに、うるさいんだよ!」「そういうところが子供だって言ってるの!
少しは私の話をっ」「うっせぇ、ババア!」「ババアって言わないでってば!」売り言葉に買い言葉。ぎゃあぎゃあと騒ぐ二人は、周囲を気にすることもなく口を開けば罵倒、罵倒、罵倒の嵐。そのレパートリーは最初は少し皮肉を混ぜたようなものが多かったにも関わらず、今は小学生レベルの言い合いにまでレベルが下がっている。
三人がここにいるのは、親族の集まりがあったからだ。キヨラとタカラの家——紀眞家と、トオルの家——匕背家が今後の方針やら今までの報告をする場なのだが、それは建前上。前半にその話し合いを終えた両家は、その後夜が更けるまでどんちゃん騒ぎになる。
024
それを知っているからか、三人は別の部屋で自由に好きなことをしていた訳なのだが。——まさかこんなことになるなんて。怒りに震える二人をキヨラが見守りながら苦笑いを浮かべる。下手に止めれば不完全燃焼になってしまうだろう。「大体お前に何がわかるんだよ!
俺の事、キヨラ姉のおまけとしてしか見てねークセに!」「そんなわけないでしょ、人の事なんだと思ってるのよ!
タカラくんこそ私の事、馬鹿で間抜けとしか思ってないでしょ!」「当り前だろ!」「自信満々にいう事じゃないのよ!」タカラの言葉に、トオルが頬を引き攣らせながら言い放つ。互いが互いへ持つ印象が最悪であることが再認識され、更に互いの火に油が注がれる。「ていうか、不純すぎるでしょ。キヨラ姉の事好きなくせに」「わあああああ!!!!」怒りに任せて出たタカラの言葉に、慌ててトオルが入り込んでくる。必死にタカラの口元を抑えるトオルは、顔を真っ赤にしていた。しかし、同時に聞いていたはずのキヨラは何が起きたのかと首を傾げている。手元にスマートフォンを持っているのを思えば、きっと仕事の連絡でも見ていたのだろう。我関せずとでも言いたげな態度に、タカラは自分の中で何かが切れるような音が聞こえた。——もういい。「こうなったら母さんたちに直接文句言ってくる!」「はあっ!?
ちょ、ちょっとどこ行くの!」トオルの声を薙ぎ払うように走り出したタカラは、自分達の親が集合しているであろうリビングへと向かった。
「母さん!」スパァンと開けた障子の向こうには、既に酒盛りを始めている大人たちの姿があった。その中の一人が振り返る。「あら。タカラ、どうしたの。珍しいじゃないこっちにまで来るなんて」「もうやだ!
トオルとの許嫁解消してよ!」「えっ。急にどうしたのよ?」「だっておかしいよ!」タカラは母に縋りつくように飛び出し、訴え始めた。曰く、トオルと自分は絶対に釣り合っていないと。トオルとは馬が合わないから仲良くできないと。その訴えを聞いて、母は「そうねぇ」と呟いた。「でも、家の伝統だしねぇ」「伝統なんて古いよ!
俺、一人でどうにかできるし、戦いだって今も負けなしだもん!
ほら、要らないでしょ?」「まあ、タカラはしっかりものだからねぇ」「なら!」「でも、ダメよ」母の無慈悲な言葉に、期待に輝いたタカラの瞳が一気に冷えていく。なんで。どうして。そう言いたげな彼の頭を撫で、母は笑みを浮かべた。「そういう“しきたり”だから」
025
「だから、そんなの古いってば!」「そうねぇ。でも、今は一人で大丈夫かもしれないけれど、これから先、絶対一人じゃどうしようもなくなる日が来るから」「そんなのあるわけっ」「ふふっ」優しく笑う母に、タカラは言おうとした言葉を飲み込んだ。……これはもう、何を言っても無駄だろう。
タカラはどうしようもない気持ちを胸に、リビングを飛び出した。荒い息を深呼吸で落ち着けていれば、自分を追いかけてきたであろうトオルが壁伝いに歩いてきていた。自分の姿を見るとハッとしたように表情を変える。それがまるで自分は子供だと言われているかのように思えて。「……なんでだよ」「た、タカラくん?」「アンタが好きなのはキヨラ姉だろ!
なんで反抗しねぇんだよ!」「……」「記憶もないくせに!
おかしいだろ!」タカラが全身で叫ぶ。その声はどこか悲痛にも、抱えた激情を爆発させているようにも聞こえ、トオルは堪らず俯いた。……小学三年生の小さな叫びを遮ることは、ずっとキヨラを隣で見てきたトオルには出来るはずもなかった。「馬鹿だろ!
何年も何年も、叶わねぇ想いばっかかかえて!
つらくて苦しくて仕方ねぇくせに!」「……」「なんか言えよ!」タカラが叫び、トオルは黙り込む。そんなトオルの服を、タカラが掴み上げた。「さっさと捨てればいいのに。ガキなのはアンタじゃんか」「……知ってるよ、そんなこと」トオルの静かな声が響く。タカラはその声に驚いて掴み上げていた手から少しばかり力を抜いた。「知ってるよ、叶わない事くらい。でも、それを“叶わないから”っていうだけで諦められるほど、簡単な話じゃないの」「っ……」「タカラくんだってあるでしょ?
そういうの」どこか達観したような言葉の数々。ふつふつと込み上げてくるのは、何とも言えない悔しさと怒りにも似た感情だった。悲しそうな表情をする彼女は、自分が思っているよりも大人で、——子供である自分には訳の分からない生き物でしかなくて。タカラは大きく息を吸う。「アンタなんて、大っ嫌いだ!!」全身全霊で吐き捨てると、タカラは廊下を駆け出した。止めるような声はもう聞こえない。溢れ出す激情を胸に、タカラは家を飛び出し、走り続けた。走って走って走って——そして決意する。
いつか妄執を全滅させて、家の人間全員に『婚約なんて要らない』って言わせてやる! そうすれば、自分は自由な身になれるのだから。
——トオルには夢があった。それは小説家になること。色々な世界を言葉という武器一つで創り上げる、そんな職業に就きたいと、幼い心ながらに決意したのだ。そんな思いを抱え、大学生になったトオルは今日もペンを手に持つ。
026
「トオルちゃん」「キヨラちゃん!」「どう?
進んでる?」覗き込んでくるキヨラに、トオルは照れくさそうにしながらも頷いた。トオルは今、キヨラをモデルにしたストーリーを書こうとしているのだ。それを近々開催される賞に応募してみる予定である。まずは自分の力を知らなければ、何を頑張ればいいのかもわからない。賞に応募することは、その目的のために丁度いいシステムだった。「それにしても、トオルちゃんは本当に熱心だよね。昔も今も」「……そうかな」「うん。尊敬する」笑みを浮かべるキヨラに、トオルは視線を下げた。恥ずかしい気持ちもあったが、何より……トオルは昔の事を出されるのが心底苦手だった。理由はひとえに、幼少の頃の記憶がないから、である。始まりの記憶は知らない場所で知らない人が隣にいる状況。すぐに病院へと送り込まれ、あれこれと検査された結果、私生活に問題はないと判断されたものの、知っているはずの人の顔や名前は一致せず、辛うじて覚えていたのは自分の両親と自分の名前くらい。学校のクラスメイトも担任も、僅かに顔を覚えていたくらいだった。学習内容もクラスの人間も、何一つわからない。笑いかけてくる友達すらも恐ろしかった時の事を、今でも覚えている。何か記憶の手がかりが欲しくて自分の机を漁れば、たくさんのクロッキーや作りかけの漫画が出てきた時も、撮った覚えのない写真に囲まれた部屋も。何一つ自分の物ではなかった。——それに取り乱した時の自分を、周りはどう思っているのだろう。未だ怖くて聞けない過去の出来事に、トオルはずっと捕らわれていた。その頃から逃げるようにし活字を追い続ける日々を送ってきたが、“創る”ことからはどうやっても逃げられなかったらしい。……なんて。
「あ、ご、ごめんね。トオルちゃん、昔の事話すの苦手だったよね。ごめん」「……ううん。気にしないで」キヨラが謝罪を口にした事で、トオルはハッとした。大丈夫と笑みを浮かべるが、少し表情が硬いように感じたのは気のせいではないだろう。過去の事を考えると、どうしても気持ちの管理がうまく行かない。口を噤んでしまったトオルに、キヨラは話題を変えようと鞄から一枚のチラシを取り出した。「そういえばこれ」「えっ」突然の出来事に、トオルが目を見開く。チラシにはキラキラとしたスイーツの写真が沢山載っていた。「……クレープ屋さん?」「うん。すっごく可愛いし、一度行ってみたいなって思って」
027
「そうなんだ」「だからさ、今度の休み、一緒に行ってみない?」「えっ、いいの?」「もちろん!」強く頷く彼女に、トオルは心臓がドキリと音を立てたような気がした。きらきらとした笑顔が、心臓を締め付けるが、それよりも込み上げてくるのは歓喜の想い。けれど、いつも忙しそうにしているのに、一緒に行くのが私で……本当にいいんだろうか。「で、でも、私なんかで……」「トオルちゃんと行きたいの。ね?」僅かな気遣いも、キヨラによって不要だと押されてしまう。そうなればもう、トオルにどうこうする事は出来なかった。「……わかった。一緒に行こ」「よかった。それじゃあ決まりね。ふふっ、近々お休み貰うからその時にまた連絡するわ」嬉しそうに笑うキヨラに、トオルも微笑む。嗚呼、やはりキヨラは凄い。キヨラも頑張っているのだ。……私も頑張らなければ。トオルは再びペンを執ると、原稿用紙と向き合った。
——数日後。突如トオルのスマートフォンに連絡が入った。発信元を見れば、以前応募した出版社の名前が書いてあるではないか。驚きのあまり取り落としそうになりながらも、震える指で応答ボタンを押す。「も、もしもし」『あ、もしもし。匕背トオルさんのお電話番号でお間違いないでしょうか』「は、はいっ!」声が裏返る。それでも相手は淡々と話し続けた。『私、山村出版社の伊藤と申しますが、以前応募いただいた作品についてご連絡したい事がございまして』告げられた言葉に、トオルの心音が大きく響いた。耳元に聞こえる声がまるでラジオ放送のようで、けれど自分へと語りかけられる言葉に、それが現実であることを突き付けられる。『こちらの作品を拝見いたしまして、当社で匕背様の本を一冊出版して頂きたいと思っているのですが、いかがでしょうか?』「えっ」『詳しい点は弊社の方に赴いていただき、相談出来ればと思います。もし可能であれば、今度こちらに足を運んでいただきたく思うのですが……』まるで夢のような言葉の数々に、トオルは反射的に立ち上がった。ガタンと椅子が倒れる。「も、もちろんです!」『そうですか。お受けいただけるとの事、よかったです。では何時頃お越しになれそうですか?』相手の言葉に、トオルは慌ててスケジュール帳を開く。予定を見れば幸いにも今週は比較的空いており、予定を擦り合わしていく。『では、今週末の土曜日にお越しください』「わかりました」トオルはスケジュール帳に予定を書き殴ると、時間や持ち物などを確認し、通話を切った。
028
そのまま崩れ落ちるように膝をつく。……夢でも、見ているのだろうか。恐る恐る伸ばした手で頬を抓る。……痛い。「う、そ……」——まさか、本当に。込み上げてくる実感の色に、トオルは歓喜に心を震わせる。まさか。本当に。そんな言葉が何度も頭と心を往復していく。……こんな事になるなんて、思っていなかった。
けれど、もしこれが上手くいけばキヨラに報告が出来るのではないだろうか。「……よ、よしっ」トオルは両手で握り拳を作ると、ゆっくりと立ち上がった。未だ足が震えているが、ここが頑張り時だ。気合を入れ直して、トオルはお出かけ用の鞄に必要なものを詰めていった。この事は、キヨラには内緒にしよう。その方がきっと、聞いた時にいい反応を見ることが出来るだろうから。
——週末を迎えるのは思っていたよりもすぐだった。大きなビルを前に、トオルは息を飲む。指定されたビルは空高く、威圧感をこれでもかと醸し出している。その前に立ったトオルの、何と矮小な事か。——なんて頭の中で小説じみた事を考えて、トオルは息を吐いた。……怖い。本当に怖い。緊張に今にも心臓が捻り潰されてしまいそうだ。トオルは何度も深呼吸を繰り返し、全身を奮い立たせるとビルの中へと足を踏み入れた。
「……うっ」高い天井。四つ並んだエレベーター。ゴールの見えない、どこまでも広がっていそうなロビー。その光景に、トオルはその場から一歩も動くことが出来なかった。……怖い。帰りたい。トオルは至る所に光が反射し永遠にも見えるその空間に、弱音を吐きそうになって咄嗟に声を飲み込んだ。声にしてしまえば、直ぐに逃げてしまいそうだったからだ。立ち竦む彼女の後ろに、一人の女性が立つ。「どうかされましたか?」「きゃっ⁉」不意に聞こえた声に、トオルが飛び上がる。慌てて誰か人が声を掛けてきたのだと気づいて、振り返って頭を下げた。「す、すみません。驚かせてしまって……」「いえいえ、こちらこそ……って、あれっ?」「えっ」困惑の声にトオルが視線を上げれば、目の前に見えたのは何時しか遊園地で出会った女性——アモイ愛だった。「名前が同じだからもしかしてって思ってたけど、やっぱり」そういう彼女は、前回会った時と同じ顔で微笑んでいた。長い髪を後ろに一括りにしている以外に、変わりはない。「えっ、えっ。な、なんでここに……?」「何でも何も。ここ、私の職場だもの」「え、ええっ⁉」——確かに、出版とか小説の良し悪しに詳しいとは思っていたけれど。
029
混乱するトオルにアモイ愛は微笑むと、緊張を解させるようにトオルの背を撫でた。「打ち合わせで来たんでしょ?」「は、はい」「なら、ここの四階に会議室があるから。今回は特別に案内してあげる」「あ、ありがとうございます!」願ってもいない彼女の申し出に、トオルは素直に頭を下げた。……よかった。どうにか打ち合わせには間に合いそうだ。知っている人で安心した、と内心呟きながら、トオルは前髪を摘まんで撫でる。……やっぱり、見えないというのは不便だ。
「匕背トオルさんですね?」「は、はいっ!」「わざわざお越しくださり、ありがとうございます。詳しいお話を進めていきますね」会議室で対面したのは、亘ヨシ(わたり
よし)と名乗った男性だった。その名前に、トオルは聞き覚えがあった。キヨラがモデルを担当した、とある雑誌に掲載されていた特集——有名デザイナーへのインタビュー。その中で見かけた名前だったのだ。……デザイナーさんがどうしてここに。表紙を担当するのだろうか、なんて考えつつ、ちらりとトオルはヨシを盗み見る。清潔感のある見た目をした彼は、にこりと人の良さそうな笑みを浮かべて手元の資料を捲ていた。同じものがトオルの手元にあるのだが、トオルには文字が細かすぎて何が何だかよくわからない。かろうじて見える部分と話を総合し、トオルは自分に求められるものを察していく。
——トオルに持って来られた企画は、簡単に言えば『コミカライズ』の原作を書いて欲しいというものだった。最初は聞いていた話と少し違うと思ったが、コミカライズを描いてくれる人の名前を見た瞬間、それは綺麗に吹っ飛んでしまった。コミカライズ化してくれるのはなんと、あの青少年漫画家で有名なユキ先生だというのだ。某少年週刊漫画でもよく表紙を飾っている、かなりの人気作家。——これは、かなり凄い企画なのではないだろうか。そんな企画にプロでもない自分がどうして……。「そんなに緊張しなくてもいい。私達プロがサポートするから」「は、はいっ!」朗らかに微笑まれるが、気を遣わせてしまった事に逆にトオルの緊張が跳ね上がってしまう。トオルは何度も深呼吸をしながら、相手の言葉を一言一句聞き逃さないように耳を傾けた。
「それで、著作権は君にはない形になるが、それでもかまわなければぜひ受けて欲しいのだが」……結果、少しばかり自分の期待した状況とは違う事に気が付いた。企画曰く、出るのはコミカライズのみで、小説自体は出版されないとの事。小説家を目指しているのに、小説が出ないなんて。
030
……でも、これも一種の経験になるのだろうか。プロに囲まれて仕事なんてチャンス、今を断ってしまったら今後経験出来なくなってしまうかもしれない。トオルは少し考えた後、おずおずと頷いた。「……わ、わかりました」「ありがとう。助かるよ」少し砕けた話し方になるヨシさんに、トオルは複雑な心境で微笑んだ。——一番最初のお仕事なのだ。自分の名前が広がらずとも、足掛かりにさえなればそれで十分だろう。差し出された契約書にサインをし、必要書類の予備と共にトオルは出版社を後にした。来た時の高揚感とは違う少し重い空気に、トオルは肩を落としながらゆっくりと帰路へとついた。
何だかなぁ、と少し落ち込んだ気分を胸に慣れた帰り道を歩いていれば、曲がり角で突然人が割り込んでくるのが見えた。慌てて身を引けば、辛うじてぶつかるのは回避できたらしい。「げっ!」「!」だが、聞こえた失礼な声に意識は一気に引っ張られた。ハッとして顔を上げれば、そこにはキヨラの弟——タカラが立っていた。遊びにでも行っていたのだろう。心底嫌そうな顔をした彼は、こちらを強く睨みつけている。「……何でここに居んだよ」「あんたこそ」「アンタには関係ないだろ」フイッと視線を外す彼に、じくじくとしていた心が喚きたてる。……どうしてこのタイミングで会ってしまうのか。ここまでくると神様が自分とこの少年で遊んでいるかのように思えてしまう。「で、オバサンはなんでこんなとこにいんのさ」「……別に。ちょっと大学に用事があっただけだよ」「そんなくっらい顔して?」「……」——どうして。どうしてこの少年には、そんなことがわかってしまうのだろう。弱った自分の心がぐらりと揺れるのを感じ、トオルは咄嗟に相手は小学三年生だぞと叱咤する。そそくさと背を向けて早歩きで歩き出すタカラの背を見て、ため息を吐いたトオルは再びゆっくりと歩き出す。
「……」「……」……なんで振り返るの。ちらりと視線を上げれば、寄り道をするふりをしてこちらを伺っているタカラの姿に、トオルは疑問符を浮かべる。何がしたいのだろうか。目の悪いトオルには夕焼けと暗闇に飲まれては姿を現すタカラの不思議な行動に、意味があるようには思えず首を傾げてしまう。結局その変な行動は家に着くまで続き、居候しているタカラとほぼ一緒に玄関を潜ることになった。タカラが廊下を駆け、割り当てた場所へと走り去っていくのを見つつ、トオルは「ただいま」と声を掛ける。返事はなかったが、どこからか物音がしたり気配が漏れるのを感じるに、誰かしらは家にいるらしい。
031
「おかえり、トオルちゃん」「キヨラちゃん!?」その中でも予想外の人物に声を掛けられ、トオルは目を見開く。仕事に行っていたのではないのか。「き、キヨラちゃん、お仕事は?」「ふふっ、何それ。もうとっくに終わってるわよ」「えっ」「時間、見てないの?」キヨラの言葉に腕時計を見れば、時計の針はいつの間にか八を指していて。電車を降りたのが五時過ぎだったはずなのに、もうそんなに時間が経っていたのかと驚いた。「まーた考え事しながら歩いてたんでしょ?
危ないわよ」「そ、そうかも。えへへ……」キヨラの叱咤に笑いながら返す。——そうか。だからあんなに暗かったんだ。「ほら、早く上がって。一緒にご飯食べよ」おばさん、もう作って用意してくれてるって。そう続けるキヨラに、放心状態だったトオルは慌てて靴を脱いだ。みんなを待たせてしまうのは申し訳ない。そう思いつつ、トオルは今日あった事は自分だけの秘密にしようと決めた。……自分がしっかりやって、頑張ればいい話なのだ。わざわざ相談して心配をかける必要はないだろう。重い心を叱咤し、トオルはいつも通りの笑みを浮かべた。
——まさかこの時の選択が、あんなに大きくなって帰ってくるとは思ってもいなかったけれど。
「ボツよ、ボツ! 何度も言ってるじゃない!」「す、すみませんっ」「すみませんじゃなくてさぁ!」会議室に怒号が飛ぶ。バシバシと叩かれる紙面は、自分が創った物語が綴られている。……これでもう、何作目だろうか。「ふざけてるなら帰ってちょうだい!
こっちは忙しんだから!」「すみません……で、でもっ、これなら作品のコンセプトにはあっていると」「うるっさいわねぇ!
アンタの意見なんか聞いてないのよ!
人権が欲しいならもっとマトモなもの持ってきてくれる⁉」「っ」バサッと投げられた数枚の紙。それは会議室の床と机に散らばり、順番も何もわかったものじゃない。ぐしゃりとユキのヒールを履いた足が紙を踏みつける音が響く。咄嗟に伸ばしかけた手は、虚しく宙を掻いた。どす、と勢いよくユキが椅子に腰かけ、響いた舌打ちにトオルはびくりと肩を揺らした。その隣で大きく息を吐いたヨシは、原稿用紙を徐ろに伏せた。「これじゃあ世に出すのは難しいな」「そ、そんな!」「何被害者みたいなツラしてんのよ!
アンタのせいなんだからね、アンタの!」バシバシとユキの手で強く机が叩かれ、振動がこっちにまで伝わって来る。ユキの長く伸びた爪が、ひどく恐ろしく見えた。
032
……どうしてこんなことになったのか。きっかけははっきりとはわからないけれど、それでも自分がよくはない位置にいることは確かだった。
「君の作品は素晴らしい。妻も溺愛しているくらいだ。世の中に出して更なる地位を手に入れようじゃないか。いやなに、心配しなくていい。俺達夫婦が、周りに布教してやる」……電話越しでの打ち合わせの際にそう言ってくれたヨシは、今や心底呆れたような顔をしている。二度目の打ち合わせで初めて顔を合わせたユキは、鋭い釣り目でこちらを睨んでいる。その視線を受けながら、トオルは俯いた。……一作目は少しコンセプトとずれているとの事で没になり、二作品目は逆に意識しすぎて囚われていると没になった。その後も三作、四作と繰り返され、気が付けばもう数える事すら億劫になってしまうほどの作品数を提出している。トオルの目下にはクマが出来始め、ペンを持つ手にはペンダコが何度も潰れ、紫色に変色していた。それでもなお、未だに『オーケー』はもらえておらず、何度も何度も目の前で作品を無残に扱われる始末。果てにはプロットの時点でわかるはずの展開すら否定され、書いた時間事態が無駄になっている事が多くなっていた。「まったく。この私達が手を貸してやってるってのに、くだらない作品ばっかり持ってきて!」「も、申し訳ございません……」「身体張りなさいよね、身体!
綺麗事ばっかでどうしようっていうのよ。プロは綺麗事ばっかりじゃ生きていけないの!
わかる⁉」「は、はい……」すみませんでした、と頭を下げれば、その様子を見ていた、レディースコミック作家のトモがわかりやすくため息を吐いた。彼女はアドバイザーとしてここに来てくれたらしい。尊敬する彼女のため息に、ビクリと肩を震わせる。呆れられてしまったのだろうか。トオルはびくびくと怯えながら、彼女の続きの言葉を待った。「二日後。新しい作品持ってきなさい」と口にした。その言葉にトオルはハッとする。二日後——それはキヨラと遊びに行く日だった。「ま、待ってください、その日だけは……っ!」「うるさいわよアンタ!
お荷物の自覚ないんじゃないの⁉」「あ、す、すみませっ、」「謝る前に、さっさと読める作品持ってきてくれるかしら?」ふんっ、と鼻を鳴らしてコーヒーを飲み干す彼女に、トオルは言いかけた言葉をゆっくりと飲み込むしかなかった。「それじゃあ」と終わりを告げられた打ち合わせは、トオル一人だけを残して終了した。トオルは独りで原稿を一枚ずつ拾い上げると、大事そうに紙面を撫で、鞄に仕舞う。「……あと、二日……」……間に合わせなきゃ。
033
「トオルちゃん!」「あ、キヨラちゃん……」ふと、声を掛けられ、顔を上げる。そこには暗い中でどこか心配そうにこちらを覗き込むキヨラの顔があって。「どうしたの?」「どうしたのって……もうお夕飯だよ?」「あ、もうそんな時間……」気が付かなかった、という言葉は、声にすることが出来たのかすらもわからなかった。ぐっと伸びをして、再びペンを握る。今どきアナログなんてやっているから、なんて。誰かに言われたような、言われていないような。カリカリと再び聞こえ出した音に、耳を塞ぎたくなるのを気のせいだと思いつつ、文字を連ねていく。「……ご飯、食べないの?」「……うん。お腹空いてない」「そっ、か……」キヨラの声に、トオルは無意識下で応える。少ししてパッと明るくなった視界に、驚いて目を閉じた。「ちょっと!」「あ、ご、ごめんね。もう暗いから見えないと思って」恐る恐る言われる言葉に唸りを上げつつ、目を擦ってゆっくりと目を開ける。……よかった。見える。手放してしまったペンを持ち、少し前の文章に目を通す。続きを書くのにペンを滑らせれば、散らされた集中力がキヨラの気配を感知する。いつもは嬉しいはずのそれも、今は鬱陶しくて堪らなくて。「……キヨラちゃん、私の事はいいから」「で、でも……」「大丈夫、明日の約束は守るから」——だから、出てって。そう静かに口にした言葉は、意外と大きく室内に響いた。再び集中力をかき集めて、無理矢理集中力を高めていく。不思議と頭の奥には煙がかかっているようで、再度没頭するのにそう時間はかからなかった。——全てはキヨラとの約束を守るために。
「トオルちゃんがおかしい」「……」「トオルちゃんがおかしい」同じことを二度も言う姉キヨラに、タカラはあからさまにため息を吐いた。「……なんでそれを俺に言うのさ。関係ねーだろ」どうでもいいし、と心底興味なさげに口にすれば、キヨラはタカラの後ろから顎を抱えるように持つと、上にグイッと持ち上げた。本を読んでいた視界がぐるんと回転し、キヨラの綺麗な顔と視線が合う。嫌味かよ、とでも言いたげに目を細めれば、キヨラがふふんと鼻を鳴らした。「それはわからないわよ。あの子は昔から“引き寄せる”体質だから」「余計関係ないじゃん」「何言ってるのよ。未来の夫でしょ。気にしなくちゃ」当然でしょ、と笑うキヨラに、タカラはむっとする。なんだよ、許嫁許嫁って。「俺、それに納得した事なんかねーよ」「でも、周りの人間はそう見てるわ」「知るかよ!
離せ!」パシリとキヨラの手を叩いて、顎を解放したタカラは再び文庫本を手に取ると、活字に目を向けた。
034
しかし、隣で「トオルちゃん、大丈夫かなぁ」「心配だなぁ」「お仕事休んで、ちょっと様子見ようかなぁ」と口にするキヨラによって、それは阻止された。「ああもう!
わかったよ、監視しておけばいいんだろ監視しておけば!」「こら。言い方」「いっ!」キヨラの手刀が、タカラの頭を直撃する。鈍い震動が響き、低い呻き声が漏れた。……地味に痛いんだけど。「トオルちゃんへの態度もそうだけど、ちょっとは可愛げある言い方しなさいよね」「……なんだよそれ」男なんだから可愛げなんてなくてもいいだろ、と言いかけた声を飲み込んで、タカラは口を尖らせる。大人の言う事は本当によくわからない。「でも、トオルちゃんの事、頼んだわよ」「えっ」「男に二言はない、でしょ?」ウインクをして去って行くキヨラの言葉に、タカラは苦虫を嚙み潰したような顔をするしかなかった。本当にこの姉は、一枚岩じゃいかない。タカラはすっかり読む気を失った文庫本に栞を差し込むと、宿題を取り出した。……そういえば、あんなに頻繁に家庭教師に来ていたくせに、最近は見ていないような……。「嗚呼くそ!
やめやめ!」考えるだけ、馬鹿になる! タカラはそう内心で吐き捨てると、宿題を開いた。一人の勉強は、いつもよりどこか殺風景に思えた。
「何度言ったらわかるのよ、この木偶の坊!」「も、申し訳ございません……!」ぐしゃりと聞こえた音に、トオルは何度目になるかもわからない謝罪を口にした。「こんなの書くなんて時間の無駄よ!
無駄!」「っ」「読む気にもならないわ!」そう言って、ユキは手にした紙を破き始める。まだ目を通し始めて一分も経っていないのに、この仕打ちだ。——トオルはもう、何がよくて何が悪いのかわからなくなっていた。「ユキさんユキさん、ちょっと落ち着いて」「何言ってるのよ。アンタがこんなのを選定したのがそもそもおかしいんでしょ!
アンタのせいでもあるのよ!」「俺も、まさか彼女がこんなボンクラだったなんて知らなかったんだ。勘弁してくれ」「知らないわよ、そんなこと」目の前で言い合いを始める二人に、トオルは自責の念に駆られる。——自分が書くのが下手だから。自分のせいで、企画が進まないから。トオルは破られた原稿を見て、視線を下げる。……もう嫌だ。契約書にはこんなこと書いてなかったし、確かに憧れの人にキャラクターをデザインしてもらったり、自身の作品の原案をコミカライズにされたいと思っていたけれど。
035
「何よ。泣けば済む話じゃないのよ。商売なの! しょ・う・ば・い!
アンタみたいな小娘でも、少しは役に立つと思ってたのに……とんだ間違いだったわ!」トオルはガツンと頭を殴られたような衝動を感じる。間違いだった。そういわれたことのショックは、思った以上に大きかったらしい。「まあまあ」「ヨシだってそう思ってるんでしょ」「そりゃあ、否定はしないけれど」「ならいいじゃない。それより、アンタも言いたいこと言ってやればいいじゃない」「俺はそんなことはしないよ。ただ、今後は一緒に仕事をするのは、お断りさせていただくけれど」言葉のナイフが、トオルを何度も傷つけていく。トオルは自分の心がどこにあるのかすらよくわからないまま、ぼんやりと宙を見つめていた。「はあ、もういいわ。こうなったらアタシがマンツーマンで教えてあげる」「えっ」「おや。人気作家のユキさんが教えてくれるなんて、なんという贅沢なんでしょう。ね、トモさん」「ええ、そうですね」「でしょう?
アタシ、優しいから」胸を張って嬉しそうに笑うユキに、周りの人間がコクコクと頷く。トオルはふつふつと込み上げてくる嫌な予感に、席を立ちあがりかけた。しかし、トオルの声が響くよりも先に、ユキの声が高らかに響き渡る。「アンタ、この後どうせ暇でしょ。目の前で書いて、今日中に仕上げて行きなさい」投下された言葉に、トオルは血の気が引いていく感覚を覚えた。——今日、この後はキヨラと例のクレープ屋に行く予定なのだ。「え、っと……あの、今日は」「何?
なんか文句でもあるの?」キッと鋭い目がトオルを貫く。その視線にトオルは言葉を飲みかけ……けれど、なけなしの勇気を振り絞って口を開いた。「きょ、今日は、難しいですっ!」「……はあ?」「そのっ、今日はこの後……大切な、予定があって……」尻すぼみになっていく言葉。しかし、ちゃんと言う事は言った。大丈夫、大丈——「……アンタ、そんな言い訳がまかり通ると思っているの?」「……えっ」ぐっと胸倉を捕まれ、強く引き寄せられる。ユキの開ききった瞳孔が、トオルの目を射貫く。——まるで、肉食動物のような視線に、トオルは本能で震え上がった。「くっだらないアンタの予定なんて、クッソ程どうでもいいのよ」「ぁ……」「アンタは、書いて書いて書いて書いて書いて書いて書き続けていれば、それでいいのよ」おわかり?
と首を傾げるユキ。静かな怒気が、畏怖と恐怖を伴ってトオルの足元に絡みついていく。トオルはそれ以上、言葉を発する事は出来なかった。結局、連絡を取ることすらもさせてもらえないまま、無理矢理執筆をさせられる事になったトオルは、深夜を大きく回るまで解放される事はなかった。
036
「……もっと、もっと頑張らなきゃ……」そう呟いたトオルは、書く媒体を紙とペンからスマートフォンへと変えていた。ポチポチと慣れない手つきで打ち込み、叩きこまれた技法を順守して書いていく。もう物語を書く楽しさなんて二の次で、ただただ書き続ける事だけに集中していた。「……トオルちゃん」「何?」「……ううん。何でもない」そんなトオルを見てキヨラが心配そうに声を掛けるが、振り返ることすらもしない彼女に何も言えず口を噤む。——トオルがおかしい。そう感じた時にはもう、遅かったのだ。
あの日、トオルが待ち合わせ場所に来なかった日。キヨラは嫌な予感がし、トオルに何度も電話を掛けた。しかし、何度かけても繋がらない上、家族の人に聞いても彼女の行方を誰も知らなかったのだ。いよいよまずいという話になり、トオルの部屋で待つ事十時間以上。深夜二時を回ってやっと帰ってきた彼女は何度も転んだのか、いくつもの怪我をしており、更にはひどく疲れ切った顔をしていて。キヨラが部屋にいる事に気づかないまま、倒れ込むように寝入ってしまったのだ。翌日、切羽詰まったような顔で謝罪をされたが、キヨラにとって約束を破られたことなど些細な出来事でしかない。泣きそうな顔をするトオルにどうかしたのかと問いかけたのだが……彼女は笑って「大丈夫だよ」と笑うだけだった。「……私じゃあ、ダメなのかな」小さな頃からずっと一緒にやってきたのに。自分達の絆など、こんなものだったのかと泣きそうになって来る。「……トオルちゃん、名前呼んでくれなかったな」振り返った時。目が合った時。いつでも笑って名前を呼んでくれたのに。込み上げる寂しさと違和感に、キヨラはむず痒い気持ちでいっぱいだった。助けてあげたいのに、本人が助けを求めていないのが更に不安感を煽る。しかも、自分はもう彼女を助けるための力を持ち合わせていないのだ。キヨラは血眼になって慣れないスマートフォンを打つ彼女の邪魔にならないよう、部屋を出る。最後の最後まで、トオルが振り返ってくれる様子はなかった。「……どうしよう」どうしたら、トオルを助けられるのだろう。頑張り屋で、全て自分で背負ってしまう大切な友人を、どうすれば。キヨラは助けられない自分への怒りを抑えるように、静かにその場に蹲った。背中に感じる冷たい扉の感触は、まるであの日——トオルに初めて拒否された時と同じで。キヨラは崩れそうになる自分を支えるように、交差した腕を強く掴んだ。




