第三話
翌日はさらに、十数分は早くに駅へやってきた。
今回は家を出た時から、日差しが強い。踏切の近くまできたとき、線路のあちらこちらにかげろうが立ち昇っていたくらいだ。レールそのものが、まさにカンカンに火照っているように感じたよ。
汗を拭いながら、改札を抜ける。もちろん彼女がやってくる側だ。
先客たちは、影となるベンチで休んでいるのが大半。ホームに立っている人はほとんどいない。
僕はまた、例の階段下に待機。また高まる胸の動悸を感じながら、彼女を待ち受ける。
肝心の一声が成功したら、彼女がいつも読んでいる本を話題にしよう。そこから電車が来るまで、話をつなげるんだ。
連絡先まで聞くのは、がっつき過ぎだろう。せめて次に会う時間を決める。そこで何度か顔を合わせて、距離を着実に詰めるんだ。
当面の目標は、駅以外で会う機会を決められる仲になること。
だが、彼女が来ない。
腕時計は何度も確認している。駅構内の時計と合わせても、ずれはない。そしてその針は、もうあと二分で、電車がこの駅に入ってくることを示している。
なのに、まだ現れない。初めて見た時から、こんなことなかったのに。
――ケガ、事故、病気エトセトラ、エトセトラ。今日が見納めになっちまうきっかけなんて、腐るほどあるんだ。
友達の言葉が、にわかに脳内でよみがえる。ほどなく踏切が音を立て始めた。
――まさか、昨日がその見納めだっていうのか? 僕がためらって動けず、それでも彼女とあの子を見て、何度も頭の中で温めなおすばかりだった笑顔。
あれが見られる、最後の機会だったっていうのか……?
そんなわけがない!
気づいたら僕は、階段の影から飛び出して改札を見やっていた。彼女が息せき切って、ここへ向かってくるんじゃないかと、そう思ったんだ。
コツン、と僕の靴に触ってくるものがあった。目を落として、思わず声を上げてしまう。
ピンクのリボンをあしらった麦わら帽子。昨日の今日で忘れるはずがない。
あの子の帽子だ。彼女にうり二つだった、あの。
さっと手を伸ばした。けど帽子は昨日のように、止まってはくれない。僕の指先がつかみ損ねたスキに、客が待つべき白線よりも向こう。線路側へと落ち込んでしまったんだ。
すかさず、駆け込んでくるのは列車。橙色の車両が速度を落とし気味とはいえ、完全に帽子が落ち込んだところを踏み越え、ホーム内に停車してしまう。
――助けられなかった。
僕は出てくる乗客にちらちら見られながらも、帽子が転がってきた方へ顔を向ける。
車両にして二台分ほど向こう。電車に乗ろうとせず、さりとて改札へ向かうでもなく、あのワンピースの少女が、僕と向き合う形でじっとたたずんでいた。
手を腰の後ろに回しながら怒りも、近づいてくる様子もなく、ただ僕を見つめているんだ。その目元、口元は昨日と同じ。僕に届けてきた微笑みを浮かべている。
わからない。僕が取り損ねて、おそらくは電車に轢かれてしまったであろう、あの麦わら帽子。彼女のものではないのだろうか。
最後に触ったのは僕。責められこそすれ、微笑まれる要素なんて、どこにもないはず。
なのに、どうして?
「電車が発進します。危ないので下がってください!」
車掌さんの声。僕は帽子を取ろうとした位置そのまま、白線上のすれすれに立っていたんだ。
急いで下がり、顔を戻したときにはもう、少女の姿はどこにも見えなくなっていた。そして電車が去った後の線路の上にも、あの麦わら帽子は破片一つ残ってはいなかったんだ。
その日、学校へ着いた僕は、あの昼休みでした男子たちを中心に、彼女のことを知っている人がいないか、尋ねまわった。彼女が無事なのかどうか、なんとかして確認できたらと思ったんだ。
名前もわからない。容姿だけを説明してひとりの女の子を探すのは、空振りに終わる方が自然だろう。実際、同学年から得られたヒントは、彼女の着ていた制服についてだ。
市外にある女子高。ここよりレベルの高いお嬢様学校らしく、学年によってスカーフの色が違うらしい。
彼女のセーラー服のスカーフは赤色。僕よりもひとつ上の学年だという。今度は部活の先輩たちを中心に、彼女と同学年の人をあたってみる。
そうしてようやく、つかんだ。部活の休憩時間に聞いたひとりの先輩が、「ひょっとして」と前置きして、ケータイをいじり始める。
やがて開いた、一枚の写真の中。友達同士で自撮りしたものらしくて、写っている人の右から二番目の人を見て、彼女だと分かったよ。
反射的に、手で自分の口元を隠してしまう。頬が赤くなっていくのを悟られたくなかったからだ。けれども、続く先輩の言葉は耳を疑うものだった。
「君がどこで彼女を知ったかは聞かないけど、彼女、まだ入院しているらしいの」
「入院? 本当ですか? 理由とか知ってます?」
「新年度に入って間もなくって話よ。なんでも電車との接触事故だったとか」
「穏やかじゃないですね。チャリや車と違って、電車はレールの上しか走れない。それに触れるなんて、よっぽど……」
「ここだけの話だけどね……一部の人は自殺未遂じゃないかって噂している。彼女、中学校の頃からよく『男に生まれたかった』『女の身体がうらめしい』なんて、話してたから」
先輩の話す彼女の言い分は、女は制限が多いとのことだった。
彼女は前々から、子だくさんの家庭にあこがれていたらしい。けれども、女の身にはそれはとてもつらいこと。
ひとり子供を産むに、かかる時間は十月十日。一年に若干足りないほどの期間、好きに生きることができない。そして生まれてからも親として、主婦として、こなさなきゃいけない時間に縛られる。
子供をたくさん求めれば求めるほど、それは限りある自分の人生を削られてしまうのと一緒。
「『男はいいなあ。身も蓋もないこといえば、いっぺんに大勢の子を仕込めるんでしょう? それも十月十日の制限なしで、好き勝手に』なんて、漏らすこともあったっけ。
彼女、子供は欲しいけど、それに拘束されたくないって、いつも話してたわ」