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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第九回  小将軍 神臂もて妖邪を排し 宋保義 宿魔の性を萌芽せしこと
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小李広

 一歩、また一歩と、宋江は退行しながら(くぬぎ)に近付いていく。


 弓を構えた相手に対し、盾で対抗しようと思うのが人情なら、その盾よりも遥かに堅固な物が側にあれば、それに持ち替えたいと思うのもまた人情というものだ。どうやらその辺りは男も普通の人間も、そうは変わらないらしい。

 何となれば、男は今、将に眼前の新たな盾に手を伸ばしているのだから。


 人智を超えた神秘を為す者の噂は花栄も聞く。

 ある者は雲を起こし、龍に乗るとも言われるし、またある者は金色の神人を顕現させ、敵する者に鉄槌を下すとも聞く。


 まあ、知らぬが仏と言うか何と言うか、どこぞの押司さんがせっせと宣伝した甲斐もあり、その噂を聞く御本人様の弓術も、とある村では立派な「人智を超えた神秘」の一つとして数えられている訳だがww


 とはいえ、いくら花栄の弓術が人後に落ちぬといっても、所詮は努力と鍛錬によって得られた「人の技」である。目の前の男に「いや、人一人を相手に、それはいくら何でもオーバーキルが過ぎんだろ…」的な秘術を用いられては、さすがの花栄とて為す術がなかった。


 裏を返せば──


 人の常識が通用する相手に対してなら、花栄の弓はとことん容赦がない。


 更に都合のいい事に、男には武の嗜みがない。

 単に「そう見える」というのではなく、花栄ははっきりとそう断言できる。


 世に噂されるようなスペクタクルみに溢れた秘術とまでは言わずとも、男が怪しげな術を使いこなす事に疑いの余地はないが、それをもって「武の鍛錬に時間を費やしているはずがない」というのではない。

 現に「入雲龍(にゅううんりゅう)」と称されて江湖に名高い男は、周囲からそんなスペクタクル感満載な綽名(あだな)で呼ばれるほどには、突出した道士としての才能に恵まれていながら、同時に鎗棒(そうぼう)を好み、武の腕前も相当なものと語られている。


 花毅にしろ、花栄にしろ、武に携わる者には独特の匂いというか気配がある。あの張提轄ですら、どんな身なりをしていようと、花栄が見れば一目で武官と分かる。

 むしろ、その気配を見せびらかすように垂れ流していた張提轄など、武人としては半人前もいいところで、それを自在に隠せてこそ、そして隠している事を見抜けるようになってこそ、初めて一人前と呼んでもいい。


 男の所作には全くその匂いがない。無論、隠しているという事もない。


 敵と相対している最中に盾を持ち替える──なかなか珍しい状況ではあるのだが、それでも最も安全で、かつ確実という方法があるにはある。


『まず新たな盾を先に構え、その陰に入ってから古い盾を捨てる』


 武人として戦場に立ち、命を懸けた経験がある者にとっては言わずもがなの話だ。

 しかし、人は気が急くと往々にしてその「当たり前」を忘れる。それが分かっていて尚、新たな盾を手にした途端、構えてもいない内から古い盾を手放してしまう。


 それとて新たな盾をすぐに構えるのであるから、見せる隙はほんの一瞬であって、前者も後者も一見すると違いなどないように見える。が、その一瞬の隙に注意を払えるか否かもまた、一流と二流の違いと言えよう。

 一流の武芸者と相対している最中(さなか)に見せる隙など、一瞬()あれば十分に命を落とせるのだから。


 今、男は武人ですら滅多に遭遇しない、極めて珍しい状況に追い込まれている。

 その状況下で、武人でさえ時に失念してしまうその行動を、武の知識に暗い男は果たして取り得るか。


 花栄には確信がある。

 新たな盾に手の届く距離まで近付いた男は、必ず古い盾を飛び出して新たな盾に移る、と。


 そしてまた、花栄には確信がある。

 男はその一瞬、必ず宋江の首筋から刃を離し、質を解放する刹那の間を作る、と。


 自分が先に椚の陰に飛び込んで、後から宋江を引きずり込もうというのだ。宋江の首に刃を当てたまま、武の心得もない者にそんな芸当ができるはずがない。

 無理を押して今の態勢のまま宋江の身体と共に飛び込むにしても、力加減を間違えれば宋江は命がない。

 自分一人が命を拾えばそれで良し、というのならそれもいいだろう。しかし、万が一失敗すれば、男のこれまでの苦労が全て水泡に帰す。


 男に気取られぬよう、すり足で僅かに身体の位置をずらした花栄は、慎重に狙いを定めた。


 ふと、鄆城(ここ)への道々に抱いた思いが脳裏をよぎる。



【俺の確信は本当に盲信する価値のあるものか?

 父上のように、成功を確信して尚、その確信を疑って掛かるべきではないのか?


 俺はこの窮地を切り抜ける事が出来るのか?

 あの名も知らぬ賊のように、奴を討ち果たし、質に取られた宋哥(宋江)を無事に救えるのか?】



 それは花栄の胸に未だ突き刺さる、小さな二本の(いら)



【馬鹿か!この期に及んで何を迷ってるんだ、俺は。


 確かに俺はまだ父上にも、あの賊にも及ばんのかもしれん。学ぶべきは学び、盗むべきは盗む必要もあるだろう。しかし、それは到底、一朝一夕に成る事じゃない。

 (いたずら)に他人を羨み、真似る実力もないのに他人の長所を真似たところで、そんなものは正に『(ひそ)みに倣う』(※1)に似たりというものだ。


 今は俺の感性を信じるしかない。そして、何よりも俺の腕を。


 必ず上手くいく。必ず宋哥は救える。

 この距離なら俺は絶対に外さん。必ず奴を仕留めてやる!】



 胸に疼く(いら)の痛みを黙殺し、花栄は静かに右手の弦を弾いた。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「ぅぐうっ…うぅ…っ!?!?」


 男には何が起きたのか分かるまい。


 宋江の背に隠れ、宋江の身体を椚に触れ合うまでに寄せ、その背から飛び出したのだ。それが──


 突然の激痛に、理由も分からないまま椚の陰に倒れ込んだ。


 そこで男は理由を悟る。

 板塀に寄り掛かり、激痛の源を見遣(みや)れば、投げ出した自らの右足、丁度、脛の辺りを横から射抜かれていた。


 持っていた盾が綺麗な長方形をしていたのであれば、男の行動もあながち間違いではない。しかしその盾には「腕」があった。


 盾の身体を、いや、腕を椚に寄せ、完全に花栄からの射線を塞いだつもりになった男は、安心して新たな盾に乗り換えた。その腕の下には、足と椚を隔てる10cmほどの隙間があるというのに。

 正に花栄は、男が宋江と共に椚の陰へ潜もうとしていると察した時から、その()を狙っていたのだ。


 確実に花栄からの一射を防ごうというのなら、男は宋江の身体が椚を越えるまで後ろに下がるべきだった。そして、宋江を盾にしたまま椚の陰に隠れるべきだったのだ。


 しかし、花栄には確信が()()()

 男はその隙に気付けない、或いは気付きはしても気に留める事はない、と。


 案の定、武に疎い男は古い盾と新たな盾の間に隙がある事など気付きもせず、ノコノコと古い盾から飛び出した、という訳である。


 片や花栄にとっての懸念は「盾に潜んだ獲物の姿が全く見えない」という事くらいしかなかった。

 普通に考えれば、それもなかなかハードルが高い。いや、高いどころか、獲物が見えてもいないのに、その獲物が物陰から飛び出した瞬間を射るなど、常人にはとても真似できる事ではない。


 だが、花栄には「宋江が椚と並んだところで獲物が飛び出してくる」と確信があった。

 それがあったとて、並の者が獲物に矢を命中させるのは至難の業であろうが、そこは「雁行の中から狙った一羽を射止める」とまで讃えられた花栄の腕である。獲物が飛び出すタイミングさえ分かっていれば、矢を当てる事など造作もない。

 おまけに、距離はといえば僅か十歩ほどである。隙間が10cm()あれば、そこに矢を通す事など尚、造作もない。


 正に「小李広」と綽名(あだな)される花栄の面目躍如といったところだ。その腕前は十分にスペクタクルな存在として羨望を集めるに値する。


「宋哥、大丈夫ですか!?しっかりして下さい!」

「う…ううぅ…」

「宋哥!」


 男が射られた直後、糸が切れたように倒れ込んだ宋江の元に花栄は駆け寄り、肩を貸す。そして、宋江の身体を引きずるように男から距離を取った。

 男の手にはまだ短刀がある。直接、斬り掛かってくるならどうという事もないが、超至近距離から投げつけられては、さすがの花栄も分が悪い。


 それを確実に躱せる位置まで距離を取ったところで、チラと男を見遣れば、男はまるで観念したかのように身動き一つせず、息も荒々しく板塀に寄り掛かり、ただ険しい視線だけを二人に向けていた。その足には未だ貫いたままの矢が残る。


 男が動けない事を確認し、花栄は宋江を座らせ、男の視線から守るように自らも腰を落とす。


「宋哥、しっかりして下さい!俺が分かりますか!?」

「賢弟(花栄)…?何だ、何が起きた?ここは…(ウチ)の庭か?」

「宋哥。今朝、起きてからの事を覚えてますか?」

「今朝?起きて…いや、分からん。そもそも私は何で庭に出ているんだ…?」


 宋江は右手で頭を(さす)りながら尚も記憶を辿ろうとするが、それも覚束ない様子である。しかし、花栄は胸を撫で下ろした。

 どうやら宋江は起きてから今までの記憶がすっぽりと抜け落ちているようで、この状況を一から説明するのは、些か骨が折れそうではあるのだが、同時に花栄を見る視線には困惑がありありと浮かび、つまり宋江の中に「感情」というものが戻っているように窺えたのだ。先ほどまで満ち満ちていた邪な気配も、嘘のように消え失せている。


 理由はもちろん花栄の知るところではない。

 術が不完全な状態で男の集中が途切れたからか、或いは宋江が自力で自我を取り戻したものか。が、とにもかくにも花栄の知る、昨日までの宋江に戻ったように見える今、理由などはっきり言ってどうでもいい。


(わし)も老いたものだ。貴方様の実力を見誤るとは」

「そうか。喜べ。今日を限りにもう歳は取らん」


 背からの声に、渾身の殺意を込めて花栄は返す。


「随分と卓越した弓の技量をお持ちだ。衣服に傷一つ無いところを見ると、押司の足の間を抜いた様子も無し…どうやって手前の足を射たので?」

「それを聞いてどうする。閻王(地獄の閻魔)への土産話にでもするか?知りたければ勝手に想像しろ」

「どうでしょうな。この程度の話に閻王が興味を惹かれるとも思えませんが…」

「チッ、この期に及んでまだ戯れ言を吐くか」


 花栄は苛立ちを隠しもしない。


 花栄から男までの距離は、一の矢を放った時のおよそ半分ほど。遮る盾もない今、霞の如く男が消え失せでもしない限り、花栄の弓が外れる事はない。


 すぐに終わる。立ち上がり、振り返り、矢を射れば終わる。


 そう自分に言い聞かせながら宋江に語る。


「賢弟、何だ?誰と話している?」

「昨日、宋哥が連れて来たという老人です。それは覚えてますか?」

「老…まさか、これはあの老体の仕業か?」

「そうです。ともかく、宋哥はそのまま身体を休めてて下さい。あとは俺が…」


 花栄は立ち上がる。

 背の帯に残る矢を引き抜き、弓につがえ──


「その矢を射られますか?」

「無論だ。絶対に外さん」

「随分と無益な事を為さる」

「下らん。今になって命乞いか?貴様を射て宋哥を救うに、何が無益だ」

「押司にとって、ではございません。この国にとって、でございますよ」

「何?」

「貴方様が今、ここでその一矢を放ったところで、この国に益するところは何一つない、と申し上げている」

()かせ。貴様の屁理屈は聞き飽きた、と言った筈だ」

「賢弟…止めろ」


 今、将に振り返り、二の矢を射んとした花栄を、見上げる宋江が制止した。


「お前は、天子の股肱たる…禁軍兵馬提轄だろ…あんな得体の知れん男一人を、私情に駆られて討ち果たしたからといって…何になる。お前の武は…大義の為にこそ揮うべきだ」

「…大義と言うなら、奴こそがこの宋に仇を為さんとする妖賊です。今、ここで討たなければ、必ずや将来この国の禍根となる」

「だとしても、だ…足を射られ、あの男はもう動けん…四郎(宋清)に捕り方を…呼びに行かせれば、それで済む…お前が手を下す必要が、何処にある。衙門に引き渡し…法の下に裁きを受けさせてこそ…天の理、忠臣の道を弁えた行いというものだ」

「しかし…」


 未だ意識が混濁し、途切れ途切れながらも切々と訴える宋江の姿に、花栄は思わず弓を下ろす。

 と同時に、背後から何事かブツブツと呟く、無性に耳に障る呪言のようなものが届いた。花栄が振り返ると、そこには──


「…くっ!!」

「賢弟!」


 目前に迫っていた短刀を危うく横へ躱した花栄は、下ろした弓を再び構えて男へ向ける。


「貴様…!」

「ふ、惜しい…貴方様のお陰で、ここでの目論見は敢えなく潰えてしまった。それに対する相応の代償くらいは、せめて頂こうと思ったのだがな」

「『ここでの』だと?何を勘違いしてる。貴様にここ以外の『次』など無い!」

「それがどうしたっ!!!?儂に次が無いと言うのなら、民心の離反したこの国にこそ未来は無いわ!どうせ早晩、滅びの(とき)を迎えるのだ。その様を!確と我が双眸に焼き付けんとして、それの何が悪い!?遠からぬその終焉を、我が今際(いまわ)の前まで僅かに早めたからとて、それが何だと言うのだっ!!!!」


 いつの間にか男の足を貫いていた矢は羽房(はぶさ)(矢羽)の辺りで折られ、足から抜かれていた。

 いかなる覚悟を決めたものか、それまでの慇懃な態度をかなぐり捨てた男は、言葉も荒々しく板塀を背にズルズルと立ち上がる。血の気が失せて土気色となりながらも、その面には不敵な笑みを湛え、その瞳には、花栄がいつぞやに見た時とまるで遜色なく、いや、その時に勝る生気が(ほとばし)っている。


「宋哥、分かったでしょう?奴の朝廷に対する怨みは根が深い。それにあの目は(・・・・)未だ何かを秘め、奥の手を隠し持ってる者の目だ。今、ここで討つしかない」

「奴が…朝廷に恨みを抱いているのは…知っていた。昨日、出会った時に…聞いていたからな」

「…!?!?何故、それと知って屋敷に招いたんですか!?」


 それが宋江の宋江たる所以、と言ってしまえばそれまでではある。

 しかし、すぐに花栄はもう一つの可能性に思い至る。


 目を見てしまったのだ、と。


 自分の意志で男を招いたのか、視線を浴びてそう仕向けられたのか、今となっては知る由もない。が、いずれであろうと、いずれでもなかろうと、この期に及んでそれを云々したところで、もはや無意味だ。


「今更そう責めるな。しかし…奴一人が怨みを抱いたところで…たかが知れている。素性を吐かせ…他に仲間がいないかを調べてからでも──」

「無駄です。奴は何も喋りはしない。見てて下さい」


 引き絞った二の矢の狙いを男の眉間に定め、花栄は問う。


「もう一度だけ聞く。答えろ。貴様、何者だ?」

「返す返すも惜しい事をした。余程、押司などより、古の(よう)由基(ゆうき)(※2)に劣らぬ貴方様に、まず以て深く取り入るべきであったわ。年若い禁軍提轄よ。愚かしいまでに愚直な貴方様は、その一矢がこの腐り切った国を救うと、本気で思っているのであろう?ならば、放ってみるといい。そして物事の本質も見通せぬその(くら)き双眸で、この国の行く末を確と見届け──」

「そうか。もういい」

「賢弟!」


 宋江の呼び掛けに耳を貸さず、狂気にも似た男の笑みを浴びながら、花栄はその眉間へ向けて再び弦を弾いた。

※1「顰みに倣う」

『荘子(外篇 天運)』。ですが、直接的に「顰に倣う」という記述がある訳ではありません。由来となっている部分の原文は『西施病心而矉其里、其里之醜人見而美之、歸亦捧心而矉其里』。訓読は『西施(せいし)(むね)()んで()(さと)(ひん)し、()(さと)醜人(しゅうじん)(これ)()()とし、(かえ)(帰)って(また)(むね)(かか)え、()(さと)(ひん)す』。意訳は第一回「巷に満ち溢れた例のお約束のアレ」後書きにもありますが、西施というのは中国の四大美人に挙げられる一人で、要するに胸の痛みに顔を(しか)めている姿が美しく見えたのは、顔を(しか)めていたからではなく、単に元から美人だったというだけであって、それも分からずに、ただ仕草だけを猿真似すれば、自分も美しく見られると思った「醜人」を嘲っているお話です。つまり「傍目に良く見える部分には、良く見える理由があるのであって、それを理解しないまま無意味に真似ても仕方がない」という意味ですね。

※2「養由基」

春秋期の楚の将。弓の名手。第八回「『看板に偽りなし』か否かは後に知る」後書き参照。

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