「看板に偽りなし」か否かは後に知る
一行が東渓村へと戻ると、晁蓋は再び作男に従卒をもてなすよう命じ、朱仝と雷横の二人を奥の間に招いた。
…あ、雷都頭が西岸にうっちゃってきたお馬さんは、晁蓋が作男を向かわせて無事、回収いたしました。
「では、そういう事で宜しいですね?」
「んー、まあ宜しいか宜しくないかで言ったら全く宜しくはないんだが、現実問題として他にいい案も浮かばんしなぁ」
行方を晦ませた男達の方は、今は諦めるしかない。行方を晦ませているのだから。
しかし、そちらは仕方がないとしても、せめて行方の知れた西渓村の保正からは、村人達に対して謝罪なり見舞いがあってもいいではないか。いや、そうでなければ腹の虫が収まらない。何なら、西渓村の保正の首根っこを引っ掴まえて、村人一人一人に頭の一つも下げて回らせてやりたいくらいだが。
…というのが晁蓋の正直な気持ちだが、とはいえ同じ保正として、村人を思う気持ちは晁蓋にも痛いほど分かるし、そうやって相手を吊し上げるような真似をしたところで、現状の何が変わる訳でもない。
何より、西渓村の保正の言葉を真実とするのなら、怒りの矛先を向けるべき相手は消えた男達の方であって、そんな中で吊し上げのような事を行ってしまったら、向けるべき相手を見失った矛先の全てが彼に向かってしまう。
それで村人達の怒りが解消したとしても、それはつまり消えた男達へ向けるべき怒りが失われてしまうという事に他ならない訳で、それで誰が得をするのかといえば、そんなものは消えた男達に決まっているのだから、全くもって不本意極まりない話だ。
西渓村の保正にも負うべき責任は無論あろうが、そもそも朱仝の言う通り、全ての責任を彼に背負わせるのは土台、無理な話なのだから、スケープゴートに仕立てるような真似をしたところでしょうがないし、仕立て上げるべきでもない。
そして、落ち着いて考えれば、晁蓋にだってそれくらいの事は分かる。
となれば、不承不承だろうが何だろうが、結局は朱仝の提案を容れて様子を見るのが一番現実的と言う他ない。
「知県閣下が道士相手に喧嘩を吹っ掛けるとも思えねえがな」
「それもそうだが、何はなくとも重要なのは、とにかくこの村での事故を鎮める事だ。一刻も早く有能な道侶の力を借りて、助言を仰がなければならん」
「まあ、保正(晁蓋)の事となりゃあ、宋哥兒(宋江)は人が変わるからな。そんくれえは、あっという間に話を纏めんだろ」
「すまんな、二人共。ウチの村の為に手を尽くしてもらって。恩に着るよ」
「止めて下さいよ、保正。長い付き合いじゃないっすか。こんな事ぁどうって事ないっすよ」
「翅虎(雷横)の言う通りです。この程度、恩に着てもらうような事じゃありません」
義気に溢れた二人の言葉に、晁蓋は込み上げるもの隠すように酒を呷る。
丁度その時、作男が再び酒と肴を室に運び入れてきた。
今後の算段も立ち、まずまず気分の軽くなった三人が、心置きなく飲んで食って世間話に花を咲かせていると、気付けばいつしか日も傾き、室内に灯が点される頃合いとなっている。
「いや、久しぶりに二人の顔を見たって事もあるが、話が弾むと時間が経つのは早いな。二人共どうする?泊まってくなら俺は全然構わんぞ?」
「そっすか?じゃ、有り難くお言葉に甘えさせてもらいましょうかね」
「いえ、お気持ちは有り難いんですが、明日の朝一番に上奏を提出したいので、私はここで──」
──バチーーンっ!!
「ぃ痛っっったっ…!!」
何を思ったのか、立ち上がろうと卓に手を付いた朱仝の頭を、隣から雷横がフルで引っ叩いた。
「何するんだ、翅虎っ!!!?」
「『何すんだ』じゃねーわ!朝から何なんだ、テメエは!」
「…何ぃ!?」
熱り立つ朱仝を余所に平然と酒を呷る雷横は、しかし、正に不機嫌そのものといった表情で、
「人が勧めてんだから、素直にその気持ちを『有り難うございます』と受け取る事ぁ出来ねえのかっつってんだよ!」
「だから、ちゃんと『お気持ちは有り難く』と断っただろうがっ!!」
「断んじゃねえよ、受け取れっ!!」
「『断る』の意味が違うわ!」
「違わねえわ、断ってんじゃねーかっ!!」
「まあまあ、二人共。ちょっと落ち着け」
と、一応は仲裁する素振りを見せた晁蓋であったが、席を立つでもなく、間に割って入ろうというのでもない。
雷横もだいぶ酔いが回っているようだし、先ほどまでと違って、結論を急がなければならない話題がある訳でもなし、こうなってしまっては互いに言いたい事を言い合った方が、結果的に場が早く収まる事を、長い付き合いの晁蓋は知っている。
「そもそも、朝イチで上奏を出すから何だってんだ!?んーなもん、ここに泊まったから出来なくなるモンでもねえだろうが!」
「その為には朝早くここを発たなきゃならんだろうが!こちらの都合で晁哥兒(晁蓋)や屋敷の方々に迷惑を掛ける訳にはいかん!」
「保正がいいっつってんだから、いいに決まってんだろうが!バカか、テメエは!?」
「馬鹿とは何だ、馬鹿とは!」
「こちとら今朝は宋家村から通って、きっちり点呼に間に合ってんだよ!こっから県城までの距離なんざ、その半分くれえしかねえじゃねえか!」
「それで宋哥兒まで御母堂の説教に巻き込んでたら世話はない!」
「うるせーわっ!!ありゃあ、たまたま井戸んトコでお袋に会っただけだ!って、関係ねえだろうが、今その話はっ!!」
「明日も会うかもな?」
「うぇ!?…じ、上等じゃねーか!べ、別に会ったから何だってんだよ!?」
う~ん…雷都頭が優勢だったのに、いつの間にか朱都頭が盛り返してますなぁ。
ドロー、という事でよろしいですか?
「雷小哥(雷横)」
頃合いを見計らって晁蓋が再び声を掛ける。
「言いたい事は分かるし、俺を気遣ってくれるのも有り難いんだが、何もいきなり手を出さんでもいいだろう?」
「あ、あー、いや…」
「朱小哥(朱仝)もな。この村の為に骨を折ってくれるんだから、無理にでも引き留めようなんてつもりはないが…雷小哥の言う通り、今晩ここに泊まったところで、上奏は出せるだろ?」
「それはそうですが…」
「上奏だって別に、朝一番じゃなきゃ受け付けてもらえないって事でもないんだろう?久しぶりに会えたんだし、今回の事で忙しくなるようだと、次にこうしてゆっくり話せるのもいつになるか分からんから、今日くらいはどうかと思ったんだがな」
「…御迷惑じゃありませんか?」
「雷小哥がさっき言ったじゃないか。俺が勧めてるんだ。迷惑な訳があるか」
一度「帰る」と言ったものを「やはり気が変わったから」と居座るのは、なかなかにバツが悪い。しかし、ここまで言われて、それでも「帰る」と言い張るのは、いくら何でも無粋であって、いっそ失礼である。晁蓋と朱仝の親しい付き合いを考えれば尚更の事だ。
「…分かりました。お言葉に甘えて今晩お世話になります」
「ああ。今日は三人で思う存分飲もう」
「ケッ、最初っから素直にそう言えってんだよ」
「まあまあ、もういいじゃないか。これも雷小哥が俺の気持ちを酌んでくれたお陰だよ」
話が纏まったところで朱仝は従卒達の元へ行き、事情を説明して先に帰らせる事とした。また、戻って宋江がまだ帰宅していないようなら「東渓村の事故は他所者が絡んでいる可能性が高い。明日、内々に相談したい事がある」と伝えるよう頼んだ。
朱仝が二人の待つ室に戻ると宴は更に盛り上がり、三人は大いに飲んで大いに笑い、時に軽口を叩き合ったかと思えば、突如始まる朱仝と雷横の口喧嘩を晁蓋が宥めと、その様はまるで血を分けた兄弟も斯くや、といった按排である。
と、晁蓋が──
「こうして二人とゆっくり飲む事になるんだったら、勤めの帰りに少しでも顔を出すよう、宋弟(宋江)にも声を掛けとけば良かったな」
「いやぁ、どうっすかねぇ。勤めを休むか抜け出すかならともかく、勤め帰りにゃ来ねえと思いますよ?」
「ん?そうなのか?」
「いや、あー、まだ保正のお誘いならどうか分かんねっすけど…今、宋哥兒を訪ねて、青州から『小李広』殿が来てるみたいなんすよ」
「青州の『小李広』?確か宋弟の義兄弟で…何と言ったかな、あの任地は…?」
「清風鎮じゃありませんか?」
「おっ、そうそう。その清風鎮で禁軍提轄を務める花栄殿か?」
「そっすね。で、太公(宋忠)や四郎(宋清)にも会わせようと宋家村に招いたらしいんすけど、かれこれ10日はぶっ通しでもてなしてたみたいで…漸く今日から勤めに戻りましたが」
「ほら、言った通りでしょう?」とばかりに朱仝が晁蓋に苦笑を投げ掛ければ、晁蓋は晁蓋で「ああ、言った通りだったな…」とばかりに苦笑を返す。
「保正は会った事あるんすか?」
「いや、まだ直接会った事はないんだが、話だけなら宋弟からうんざりするほど聞いてるよ」
「百歩も離れた位置から兜の房を射抜き、群れて飛ぶ鳥の中から狙った獲物を仕留める、ですか?」
「はは、朱小哥もか。まあ『小李広』と綽名されるぐらいだから、弓の腕は確かなんだろうが、さすがになぁ…」
どこぞの押司さんを見るまでもなく、世に語られる噂など鵜呑みにするものではない。その噂がどれほど世間に知れ渡っていようと、結局のところ、真実は直接見てみない事には分からないのだから、殊に人物の噂などは、最初から話半分くらいに聞いておくくらいが丁度いい。
『名を聞くは面を見るに如かず』(※1)とはよく言ったものである。
…えっ?オレサマ、オマエ、マルワカリ??
そんな事を言われましても…御本人さまの名誉のために、あえて名前を伏せてみたんですけどねー。
ま、あくまでも一般論ですよ、一般論。
やだな、もー。
それはさておき…
この三人も花栄の話はどこぞの押…ゲフン、宋江から何度も聞かされている。その度に「それは凄い」と相槌を打ってもいる。
しかし、実は眉に唾を付けながら、話半分どころか話1/10ほどにしか聞いていない。
『いくら何でも、さすがにソレはない』
宋江から花栄の話を聞く度に抱く、三人の感想は全く同じだ。
三人が疑り深いというのではない。
いずれ劣らぬ武を誇る三人をもってしても、宋江の語る花栄の技量は、およそ想像の及ばぬレベルであって、そんな事を体現できる者がこの世に存在するはずがない、と断言してもいいくらいであって、もし本当にそれを為し得るのなら、もはや人の域を遥かに超越してしまっている、と言ってやりたいくらいであって、つまりはあまりに現実離れし過ぎていて、お伽噺の世界の住人か何かの話を聞かされているような感覚なのだ。
例えば、世に語られる古の養由基(※2) や、それこそ李広などの武勇伝であれば、ただ聞いて楽しむ分には、三人だって十分に楽しめよう。しかし、純真無垢な子供じゃあるまいし、それをそっくりそのまま信じるかどうかは全く別の話だ。
三人にとっては宋江の語る花栄のエピソードも似たようなもので、そんな話を嬉々として語られたところで、そもそも信じるもへったくれもない。信じる、信じない以前の問題なのだ。
「翅虎。お前、今朝、宋哥兒を訪ねて宋家村に行ったんだろ?花栄殿には会えたのか?」
「いや、何かここ何日か調子を崩してるって話だったぜ?あ、そうそう、それでまた宋哥兒もあんな性格なもんだから『賢弟が心配だー』ってんで、暫く宋家村から勤めに通うなんて言い張っててよ」
「宋家村から!?通って通えない事はないだろうが…しかし、太公も四郎も側に付いてるんだろ?何でまた宋哥兒もそんな事を…」
「さぁな。俺もそう言ったんだが」
「はは、それじゃあ確かにここへ顔を出してる暇はないな。まあ、宋弟らしいと言えば宋弟らしいが」
「そういや、宋哥兒と四郎と三人で保正を訪ねるつもりだったらしいんすけど、それも体調の所為で『お流れ』になった、みたいな事を言ってましたね」
「そうか、それは残念だな。一度お目に掛かってみたかったが」
「んーでも、暫くは宋家村に滞在するみたいっすから、体調が戻りゃあ、その内、東渓村へ顔を出すんじゃないっすかね。あ、そん時ゃ俺も来ていいっすか?」
「ああ、勿論だ。遠慮なく来てくれればいいよ」
「俺も『小李広』殿の弓の腕前は、宋哥兒から飽きるくれえ聞いてますけど、さすがにアレは胡散臭いっつーか何つーか…一緒にお手並み拝見といこうじゃ──」
「止めておけ」
椀の酒を呷りながら、朱仝はピシャリと窘めた。
「あ?何でだよ?」
「お前、今、自分で半信半疑だと言ったじゃないか」
「お前は信じてるってのかよ?」
「信じてないからこそ止めろと言ってるんだよ」
「だぁから!実際んトコどうなのか、興味持って何が悪いんだよ!?」
椀を置いた朱仝は「あのなぁ…」と軽く一つ溜め息を零し、
「宋哥兒が語る花栄殿の逸話は、あまりにも常人離れし過ぎてる。そんな神業を花栄殿に求めてどうする?期待するだけ期待して、それに花栄殿が応えられなかったからといって、話を盛った宋哥兒が白い眼で見られるのはまだしも、巻き添えで『やはり噂ほどじゃなかったな』と見られる花栄殿の事を考えてみろ」
「あ…」
「確かに朱小哥の言う通りだな。宋弟の話はいかにも大袈裟が過ぎて、とても俄には信じられん。それを真に受けて同じ技量を花栄殿に求めたら、却って恥を掻かせる事にもなり兼ねんしな」
自分が大言壮語してハードルを上げているのなら、そのハードルを越えられずに恥を掻いたところで、それは自業自得というものだ。
しかし、雷横が花栄に「越えてみろ」と嗾けるつもりのハードルを、勝手に極限の高さまで引き上げたのは宋江である。それも、花栄の全く与り知らないところで、だ。
挙げ句、そのハードルを越えられなければ「ああ、やっぱり越えられないんですね」と失望なり落胆なりの目で見るというのだから、嗾けられる方は堪ったもんじゃない。
「まあ、宋弟がそう言ってるんだから、それでいいじゃないか。それが本当なら、間違いなく天下で右に出る者のない腕前だが、殊更に確かめるまでもなかろう」
「まあ、そう言われりゃそうなんすけども…」
雷横が渋々了承し、その後も何くれとなく話に花を咲かせている内に、いよいよ夜も深まってきた。
まだまだ三人に話の尽きる気配はないのだが、とはいえこのまま延々と飲み続ける訳にもいかない。
「さて、あまり俺の我儘に付き合わせて、明日の勤めに障りが出てもいかんしな。そろそろお開きにするか?」
「いやいや、俺ぁまだまだイケるっすよ」
「いい加減にしないか、翅虎。まだ日のある内から飲み始めたんだぞ?もう十分だろう」
「何言ってやがんだ。こんなモンはまだまだ序の口なんだよ。お前なんかと一緒にすんじゃねえ!」
「なんかとは何だ、なんかとは。全く…しょうがないな、コイツは」
いよいよクダを巻き始めた雷横に、二人は顔を見合わせて苦笑を交わす。
「雷小哥。『一緒にするな』と言ったって、明日はどうせ衙門まで一緒に行くんだろう?」
「えぇ~っ、何で俺がコイツと一緒に…」
「当たり前だろう。別々に出たら、飯の支度も別々にしてもらう事になるじゃないか。手間を掛けさせるんじゃないよ」
「まあ、偶にはそれもいいじゃないか。今朝は宋弟と一緒に御母堂の有り難い説法を聞いたんだろ?明日は朱小哥にも聞かせてやるといい」
「止めて下さいよ!?もしそんな事になったら、私は一人で逃げます」
「んだとぉ!?この薄情モンが!ちったぁ宋哥兒を見習えよ…ん?」
「まあ、衙門には顔馴染みもいるんだろうが、お勤めもまだ二日目だし、今日の内に会えなかった者もいるだろ?折角、連れ立って行くんだから、ちゃんと朱小哥に引き合わせてもらえよ?」
「…あ!」
「まあ、それくらいは構いませんが…どうした、翅虎?」
未練たらしく椀に残った酒をチビチビと飲っていたはずの雷横は、いつの間にか腕を組み、何かを思い出そうとするかのように首を捻っていたのだが、
「あ、いや、大したこっちゃねえ」
「ん?何か気になる事でもあるのか、雷小哥?」
「あー、いや、なぁんか昼間っから思い出せそうで思い出せねえ事があったんすよね。んで、今朝方、保正と似たような事を宋哥兒からも言われたんすけど、そういや丁度そん時の事だったなぁ、と」
「はは、そうか。胸の痞が取れて良かったじゃないか。で?」
「いや、何、たまたま衙門の近くで見掛けねえ面を見掛けたなぁってだけの話で」
「…何!?」
途端に色めき立ったのは朱仝。
「翅虎、お前まさか…この期に及んで『そいつが道衣を羽織ってた』なんて言うつもりじゃあるまいな!?」
「んーなモン着てりゃあ、とっくに思い出してるわ!見た目は何て事ねえ農民風情の爺さんだったよ。ただまあ爺さんの割にゃあ、やたらと目付きだけは鋭い…っつーか、悪かったような気もするが」
「何故それをもっと早く言わんっ!!」
苛立ちに紛れて卓へ叩き付けられた朱仝の右手の周りで、皿や椀が軽く踊る。
「はあ!?」
「もっと早くにその話をしてれば、やれる事もあったろうが。こんな夜が更けてから言い出されても、何も出来んじゃないか!」
「思い出せなかったモンはしょうがねえだろうが!俺も衙門に入るトコだったし、そいつもすぐ小路に入っちまったから、見掛けたのは一瞬だけなんだよ!」
「朱小哥、落ち着け。どうした、急に?」
晁蓋に宥められても、朱仝の胸を襲う漠然とした不安が鎮まる気配はない。
無論、朱仝にだって根拠などがある訳ではない。しかし、根拠もなく起こるからこそ「悪い予感」なのであって、得てしてそういった予感は当たるものだ。
「確かに西渓村に現れたのは老叟だったかもしれんが、それだけじゃ何ほどの事も分からんだろ?雷小哥だって、何も県下の住人、全ての顔を見知ってる訳じゃないんだから、それだけで疑ってたらキリがないぞ?」
「それはそうですが…」
「大体、見るからに道士みてえな格好だったって話は何処いったんだよ?」
「衣服なんて着替えれば済む話だろう。宛てにはならん」
「もう、かれこれソイツらが現れてから10日は経ってんだろ?未だにこの辺りを彷徨いてるとも思えねえがな。それとも、何か根拠でもあんのかよ?」
「…ない」
すっかり酔いの醒めた雷横は、晁蓋と視線を交わして鬚(顎ひげ)を撫す。
「とにかく明日、点呼の後にやるべき事を済ませたら、手が空いたところでその男を捜そう。翅虎、手伝え」
「そいつを捜し出してどうすんだよ?碌に根拠もねえんじゃ、白を切られて終いだぞ?」
「その時は西渓村へ連れて行く」
「…面通しさせるのか」
「ええ。怪しい術か何かの所為で、西渓村の保正も記憶が曖昧だと言ってましたから、顔を確かめさせたところで徒労に終わるかもしれませんが…」
「はぁ…」
溜め息を一つ零した雷横は「しょうがねえ、付き合ってやるか」と、飲み止しの椀を呷る。
つい先ほどまで室を満たしていたはずの、和やかで心地のいい気配はすでにない。
代わって立ち込めた重苦しい空気を残し、三人は室を後にした。
※1「名を聞くは面を見るに如かず」
『北史(列伝七十九 烈女伝 房愛親妻 崔氏)』。原文は『聞名不如見面』。訓読は本文の通り。「人の性格や器量を知ろうと思うのなら、所詮どれだけその人の名(を冠した噂)を聞いたところで、直接会うに勝るものはない」の意。『水滸伝』の第3回などでも引用されている。
※2「養由基」
春秋期の楚の将。弓の名手で、百歩離れた柳を射て、狙った葉に百発百中だったという逸話が伝わる。『水滸伝』でも初登場(第33回)以降、花栄の弓の腕を称える際に、度々養由基が引き合いに出されている。




