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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第八回  晁保正 東渓村に天王と成りて 宋時雨 行客の老叟に魅入らるること
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力業

 そもそもの話をすれば、西渓村に馬を回す必要など、そもそもない。

 いかに崖の登り下りが大変だと言っても、薮の中の道なき道を掻き分けて西渓村を目指すくらいなら、一旦、渓谷を渡って東岸に戻り、馬で西渓村に向かった方が遥かに楽だし時間も早い。


 しかし石塔の事と、あとはもう晁蓋を再び沢に下ろしたくない一心で、そんな簡単な事にすら思い至れなかった朱仝は、晁蓋に勧められるがまま林を出た。


「おーい!」

「あ…はーい」

「俺達はこのまま西渓村へ向かうから、お前達は西渓村まで馬を連れて来てくれないかー?」

「了解し…えっ!?!?」


 明らかに返答の途中で言葉に詰まった従卒に対し、朱仝は「いや、絶対聞こえてただろ…」と怪訝な顔を浮かべつつ、もう一度呼び掛ける。


「だから、西渓村へ馬を──」

「いえ、それは聞こえました!そうではなくて朱都頭、後ろ!あ、いえ、横を…!」


 朱仝もガサガサと下草を踏む分けて近付く、何者かの気配を察してはいた。しかし、この状況であればその主は晁蓋に決まっている。

 何を慌てる必要があるのかと足音の方へ視線を向ければ、そこへ案の定、林の中から晁蓋が姿を現したのだが、


「哥兒!?何をしてるんですか!!!?」


 朱仝は死ぬほど驚いた。


 晁蓋の右肩には背中側に黒い1mほどの長さを持った塊、腹側には同じく1mほどの青い塊が。

 無論、二人がつい先ほどまで見ていた石塔だ。


「ん?何って…見れば分かるだろ?」

「分かりませんけど!?!?」


 晁蓋に勝る体格の持ち主であるから、その気になれば朱仝にだって担いで担げない事はなかろう。が、朱仝には(はな)からそんな気が全くなかった。


 一応、朱都頭の名誉のために言っておくと、そうは言っても担ぐ自信がなかったとか、担ぐのがメンドかったとか、そういう事ではない。

 ないったらない。


 その石塔を担いだところで、どこへ持っていこうというのか。

 精々、持って運べるのはこの川岸まで、そのまま藪の中を進んで西渓村へ向かう訳にもいかなければ、渓谷を渡る選択肢などもっとない。


 仮にその石塔が今の事態を招いているとすれば、僅かでも元の位置から動かす事によって、事態が改善される可能性は十分にあるが、事態を悪化させる可能性だって十分すぎるほどある。


 更に言えば「事故の原因=石塔」が前提であるのなら、この石塔に「呪詛返し」のような仕掛けが施されていたとしても全く不思議はない。道術や法術などとは縁も所縁もない人生を送ってきた朱仝だって、巷に満ち溢れるそんな話はいくらでも聞いた事がある。


「この石塔にそんな仕掛けが施されている」と断言する知識も根拠も朱仝にはない。ないからこそ「この石塔にはそんな仕掛けが施されていない」とも断言できない。そしてそれは晁蓋だって同じだ。

 そんな状況で石塔に触れたり動かすのは、どう考えたってリスクしかない。


「道術や法術の痕跡を見つけたらどうするのか」と問われ「何もしない」と答えたのは、朱仝なりに「何もするな」と伝えたつもりだったのだが、文字通りそれはただの「つもり」で、残念ながら晁蓋にはまるで伝わっていなかったようだ。


「哥兒、何て事を…」

「んー、確かに担ぐにはちょっと重たいな」

「そういう事を言ってるんじゃありませんよ!と、とにかく、一旦それを置いて!」


 担いだ石塔を胸で抱えるように縦にして、晁蓋は石塔を置いた。


 いや、違う。

 晁蓋が身体から石塔を下ろした先には地がない。

 つまり、晁蓋は石塔を渓谷に落とした。


「哥兒!」

「心配すんなって。さっきのは冗談だ。あの程度の石塔を担ぐくらい、何て事はないよ」

「だから!そういう事を言ってるんじゃありませんよっ!!」

「朱都頭」


 晁蓋はあえて朱仝を「都頭」と呼ぶ。無論、朱仝が屋敷で晁蓋を「保正」と呼んだのと同じ理由だ。

 晁蓋にも保正として引けない想いがある。


「お前の言いたい事は分かる。しかし、俺だってこんな物を見つけて、おめおめと帰る訳にはいかないんだよ」

「だからそれは知県閣下に上奏して、然るべき道侶の助言を仰いでから──」

「それは一体いつになるんだよ?助言を得られるまでの間だって、俺らは沢に水を求めなきゃ生きてけないんだし、それでもし誰かが命を落としでもしたら、それこそ取り返しがつかないだろ」

「この石塔に関わる事で、どんな災いがあるかも分からないというのに…これでもし、貴方に災いが降り掛かったらどうするんですか!?」

「そん時はそん時だろ?どうせ誰かしらが保正として村を纏めなきゃなんないんだから、俺が倒れれば放っといたって代わりはすぐ決まるよ」

「誰が後釜の話をしてるんですか!私は貴方の身を案じてるんだ!私だけじゃない。東渓村の住人だって、翅虎(雷横)だって宋哥兒(宋江)だって…貴方の身に何かあったら、一体どれだけの人間が悲しむと思ってるんですか!?」

「分かった分かった。そう言ってくれるのは有り難いが…つって、もう手遅れだろ?ここまで運んできちまったんだし。今更、触らなかった事には出来ないよ」

「それは…」


 感情も露に声を荒げる朱仝とは対照的に、晁蓋は至って冷静だ。


 朱仝と晁蓋の考えには、違うところが二つある。


 一つは守ろうとしているものの違い。

 朱仝は巡捕都頭として県下の住人の安全と、とりわけ友人として晁蓋の命を守ろうとしている。


 対して、晁蓋は保正として東渓村の住人の命を守ろうと考えてはいるものの、そこには自分の命が入っていない。

 あえて命を粗末にしようというのではない。人の上に立つ以上、時と場合によっては命を捨てるのもやむなし、という事だ。


 それは朱仝だって分かっている。

 朱仝とて巡捕都頭として民の上に立ち、賊を取り締まる身だ。それが命を惜しんで賊の好きにさせているようでは、治安の維持など望むべくもない。


 だから、朱仝と晁蓋の考えで決定的な違いは次の一点にある。


 今がその「時と場合」であるか否か、だ。



【今更、言っても詮ない話だが、こんな事になるなら宋哥兒(宋江)にも来てもらえば良かったか。宋哥兒がここに居れば、こんな無茶は絶対させなかったろうに。


 俺なりに気を遣ったつもりが、結果的に裏目となってしまったか…】



「と、とにかく、石塔はもうその状態のまま──あっ!!」


 晁蓋は再び朱仝の言葉を最後まで待つ事なく、滑るように崖を下りると、さも当然のように石塔に歩み寄って両手を掛ける。慌てて朱仝が崖下へ飛び下りた時には、すでに石塔はその右肩に担がれてしまっていた。


「哥兒。差し当たって場所を動かしたんだから、もう十分でしょう?このままここに置いて、暫く様子を見ましょう」

「大丈夫だよ。俺が身体を鍛えてるのは知ってるだろ?呪いだ何だなんてモンは効きはしないって」

「大体、石塔(それ)を何処に持ってくつもりなんですか?」

「ん?そんなもん決まってるじゃないか」


 晁蓋は、ふいと視線を東岸へ促す。


 西渓村で続いた事故を鎮めるために石塔が置かれたのだとすれば、東渓村で続く事故を鎮めるためには、という事だ。


 それはつまり──


「それは認められません」

「別に認めてくれんでもいい」

「貴方が保正として東渓村の住人を守ると言うなら、私には巡捕都頭として県下の住人を守る責務がある。西渓村の住人に再び犠牲を強いる可能性がある行為を、みすみす見逃す事は出来ない」

「そうか。じゃあ、西渓村でまた事故が起こるようなら、俺を下手人としてお上に突き出しな」

「そんな事…出来る訳ないでしょう!?」

「じゃあ、俺をブン殴ってでも止めるか?」


 残念ながら朱仝と晁蓋の意見は交わらない。

 それも守るものが違う故の事だ。


 交わらないものを交わらせようというのだから、どちらかが折れるしか手はないが、片割れである晁蓋に折れる様子がないのなら、残るもう一人の片割れが折れるしかない、という事になる。


 朱仝は諦念の溜め息を一つ零すと、


「どうしてもと言うなら、俺も一緒に東岸まで担ぎます」

「止めろ、馬鹿」

「馬鹿!?人が心配してるのに馬鹿とは何ですか、馬鹿とは!」

「あのなぁ…」


 手を貸そうと近付く朱仝を左手でシッシッと制し、晁蓋は一歩、また一歩と東岸へ向けて歩き出す。

 さすがに「手ぶらも同然で」とはいかないまでも、とても数十kgはあろうか、いや、場合によっては100kgを超えようかという石塔を担いでいるとは思えない、しっかりとした足取りの晁蓋は、


「小哥が俺の片棒を担いでどうする。俺が勝手にやってるだけなんだから、何かあった時に小哥まで責任を負う必要はないよ。大体さっき自分で言った事、もう忘れたのか?」

「はい?」

「この石塔にどんな呪いの類いが掛かってるかも分からない、それを動かすとどんな障りがあるかも分からない、だから触れるな動かすなって言ってるんだろ?」

「そうですよ?分かってるじゃ──」

「それをわざわざ二人して運ぶ必要はないだろ。小哥に障りがあったらどうするんだよ?」

「自分の事を棚に上げて何を言ってるんですか!?」

「小哥。巡捕都頭として住人の無事を守るのも重要な務めだろうが、差し当たって今回の件で言えば、これを仕組んだ奴らを捕らえるのも小哥の役目だろ?万が一小哥が倒れたら、誰がそいつらを取っ捕まえるんだよ」

「……」

「雷小哥(雷横)が頼りにならないって訳じゃないが、今日の今日、巡捕都頭になったばかりで、仕事の要領やコツもまだ掴めてないだろうに、それで小哥と同じ働きを期待するのは酷ってもんだろ?」

「それは、そうですが…」

「これは村を預かる俺の仕事だよ。だから、小哥は小哥の仕事をしろよ。それに、俺には俺なりに考えがあるから…まあ、見てろって」


 返す言葉もなく、朱仝は晁蓋に付き従う。


 晁蓋の行動を是か非かと聞かれれば、朱仝は迷うことなく「非」とする。しかし、それはそれとして、晁蓋の言葉には大いに道理があると感じているからだ。


 仮に、この石塔に朱仝が危惧するような力が備わっているのだとすれば、そしてこの石塔が置かれた事を知県なり、更に話が大きくなって知州なりが問題とするのなら、消えた道士風情の男達を捜索し、捕縛するのは朱仝の役目である。その朱仝が倒れてしまったのではお話にならない。

 この場に来てもいない、経緯も十分に分かっていない雷横に後を託すというのも、それはそれで随分と無責任な話だ。


 そうこうする内にも晁蓋は流れを渡り、最初に東岸から渓谷へ下りた岩場に辿り着く。

 さすがに石塔を担いだまま登る事はできないものの、一番小さな岩の上に一旦石塔を置き、そこに登っては次の岩へ石塔を置いてと繰り返し、さしたる苦労もなく東岸へと石塔を運び切ってしまった。


 それを追って東岸に登った朱仝が「やれやれ、これで漸く満足したか」などと思う間もあればこそ、晁蓋は早、立てた石塔の上部から、肌を覆った札をバリバリと剥がし始めている。


「哥兒、まさかとは思いますが、さっき言ってた考えっていうのは…?」

「んん。こんだけ大層に貼っ付けてあるんだから、何かしら意味があるんだろ。こんなモンは剥がしちまうに限るよ」

「そんなフワッとした感じじゃなくて、何て言うかもっとこう、はっきりした根拠とか…ないですよね」

「あるように見えるか?」


 従卒達と視線を交わしてそれを眺める朱仝は、もはや呆れ顔を通り越して諦め顔だ。


 躊躇も遠慮もなく、晁蓋がひたすらに札が剥がしていけば、その下からは隠されていた得も言われぬ蛋青の肌が露となり、しかし、晁蓋はそれに見入る事もなく、見る間に全ての札を剥ぎ取ると、地に打ち捨てられて溜まった札の上に、辺りから枯れ草や落ち葉を拾い集めて覆い被せる。


「小哥。火打石、持ってないか?」


 持っている訳がない。


 ただ噂話の真偽を確かめるだけのために、何で火打石を持ち歩く必要があるのか、と朱仝が今日、何度目となるかも分からない溜め息と共に頭を振ると、


「そうか、じゃあ…」


 と、晁蓋は自分の袖を(まさぐ)って火打石を取り出した。


「持ってるんじゃないですか…」

「ああ、屋敷を出る時、念の為と思ってな」

「どんな念の入れようですか…というか、持ってるなら何で私に聞いたんですか?」

「いやぁ、俺、火起こしはあんまり得意じゃなくってなぁ」

「…石塔には触らせようともしなかったクセに、札を燃やすのは私にやれ、と?」

「違うわ、馬鹿」

「馬鹿とは何ですか!」

「種さえ作ってくれれば、火を移すのは俺が…おっ!」


 腰を下ろして喋りながらもカチカチと火花を飛ばしていた晁蓋が、枯れ草に一瞬移った火花を目敏く見つけ、すかさず息を吹き掛けると、みるみる煙が立ち込めて、やがて炎が立ち上がる。


 メラメラと燃える枯れ草の上から、更に落ち葉や枯れ枝を被せると、いよいよ盛んとなった火勢は敷き詰められた札にも燃え移り、朱仝は不安気に、そして晁蓋は満足気にそれを眺めた。


「ああ、そうだ。札は全て燃やし尽くさないで、何枚かは残しといて下さいよ?」

「…何で?記念にでもするのか?」

「そんな訳ないでしょう…後でそれなりの方に意見を聞かなきゃならないんですから、現物がなきゃしょうがないじゃありませんか」

「何で火を点けてから言うんだよ…ん!?もしかして、俺にこの火の中から取り出せって言ってんのか?」

「ええ。私は障りがあると困りますので」

「コイツ…っていうか、衙門まで持って帰るんだろ?小哥だってどうせ触るじゃないか」


「御心配なく」と朱仝は懐から手拭いを取り出し、広げて見せる。

 朱仝の言わんとしている事を察した晁蓋は、諦観の溜め息を一つ零して立ち上がると、近くから長めの枝を拾ってきて、まだ火の回っていない端の方から札を二、三、引っ張り出し、朱仝に渡した。


 朱仝はそれを手拭いで幾重に包んで懐にしまうと、


「全く…ここまでする必要もないでしょうに」

「何言ってる。こっちは何人も怪我人が出てるんだ。これくらいじゃ全然、腹の虫が治まらんよ。何ならこの後、砂になるまで石塔(こいつ)を粉々に打ち砕いてやりたいくらいだ」

「いい加減にして下さいよ、もう。大体、この話を宋哥兒が聞いたらどう思うか…」

「『聞いたら』も何も…小哥が黙ってれば済む話じゃないか」

「宋哥兒から『何かあったらすぐに教えろ』と、キツく釘を刺されて衙門を出ましたんでね!『何かあった』どころじゃないでしょう、コレは」

「それはまあ、そうだが…宋弟(宋江)に伝わると大騒ぎしそうだしなぁ」

「それが分かってるなら、そもそも心配を掛けるような真似をしなきゃいいでしょうに。その内、居ても立ってもいられなくなった宋哥兒が、様子を見に押し掛けてくるでしょうから、向こうの気が済むまで、搾られるだけこってり搾られて下さいよ」

「何て言うか…俺に対して随分と過保護なんだよな、宋弟(アイツ)は。上手く伝えといてくれよ」

「心配してるんですよ、宋哥兒だって。何ですか、その()(ぐさ)は。私は今日あった事をそのまま伝えますから、あとは御自分でどうにかなさって下さい」


 悪戯っ子を窘めるような物言いの朱仝に苦笑で応えた晁蓋は、再び燃え盛る札に視線を落とす。

 尚も横合いからチクチクと投げ掛けられる小言を適当に(あしら)いつつ、粗方札が燃え尽きたところで、晁蓋は残り火がないよう足で踏み、土を掛けて朱仝を振り返った。


「よし、今日はこのくらいで勘弁しといてやるか」

「『今日は』!?」

「言葉の綾だよ。いちいちツッコまんでいい。さて、取りあえず屋敷に戻って、酒でも()りながら今後の話をするか。さすがにちょっと疲れたわ」

「そりゃあ、あの石塔を担いでこの谷を渡れば、疲れもするでしょ…」

「おい、髯面ぁ!…と、一緒に居んのは晁保正か?」


 声を掛けられた朱仝は、すぐにその声の主が分かった。と同時に、その声が掛かる不自然さにも気付く。


 正体に思い当たったのは、その声に聞き覚えがあったのは無論の事、そもそも朱仝にはこの世で「髯面」と呼んでくる男の心当たりなど一人しかなかったからだが、だとすればその男は今、衙門にいるはずで、こんな場所で声を掛けられる訳がないのだ。


 晁蓋と共に朱仝が声のした方に視線を向けると、そこには果たして朱仝の思い描いていた男がいる。

 が、なぜかその声の主──雷横の姿は西岸に在った。

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