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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第八回  晁保正 東渓村に天王と成りて 宋時雨 行客の老叟に魅入らるること
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東の保正

行客(こうかく)

道行く人。旅人。


老叟(ろうそう)

老齢の男性。

四涜(しとく)


 およそ人類の始祖達が移住もやむなしの狩猟生活を捨て、定住を前提とした農耕生活を容れるにあたり、最も重視した居住地の条件は「水」である。


 大地の平坦なるも大事であったろう。

 天敵のない事も重要ではあったろう。


 想像をすれば推論はいくらでも導き出せるし、それらはそれらで重要な要素ではあったのだろうが、結局のところ、往時の事はその時代を生きた人でなければ分からない。推論はどこまでいっても推論である。


 しかし、人間が生物である以上、そして生きる糧を農耕によって得る以上、定住の条件として水が外れる道理はない。


「涜」とは溝の事であり、大地に刻まれた溝があれば、そこに水が流れ川になる。

 太古から今に至るまで四涜──「江、河、淮、済」(※1)は人々に糧を(もたら)し、時に全てを押し流す破壊者として畏れられ、故にまた信仰の対象として、五岳と共に崇められてきた。


 大野澤(だいやたく)梁山泊(りょうざんぱく)と名を変えて、かれこれ160年ほど経つ。


 大自然の営みにとっては、ほんの束の間の話であろうが、人間にとってはそれなりの時間である160年もの間、梁山泊が梁山泊として在り続けている──いや、何も梁山泊と呼ばれるようになってからの話だけではなく、それ以前から大野澤が大野澤として在り続けていたのには歴とした理由がある。


 大野澤は、そして現在の位置に腰を据えて名を変えた梁山泊は、黄河の氾濫によって押し寄せた水が、ただ低地に留まったために形作られた、単なる水溜まりではない。それではただ干上がるのを待つばかりだ。


 再び黄河が溢れて濁流が押し寄せれば、その度に僅かな期間だけ湖沼として姿を現す事もあろうが、時折現れてはすぐにその生を全うする湖沼に、そもそも名など付けられるはずもない。

 四涜が一、済水(さいすい)が華北平原を東に下り、遥々山東(さんとう)の低地にまで流れを届けてい()からこそ、大野澤は大野澤たり得ていた。


 が、それは遥か昔の話である。

 済水なくして大野澤が形成されなかったのは紛れもない事実だが、少なくともここ数百年の間、大野澤を大野澤たり得させていたのは、そして梁山泊を梁山泊たらしめていたのは済水ではない。より正確に言えば、済水の果たしている役割は極めて小さい。


 四涜の内、長江と淮水は位置的に孤立しており、長い歴史の中で数え切れぬほど氾濫を繰り返しはしたけれど、それが他の四涜の流れに影響を与えるような事はなかった。

 しかし、済水と黄河は違う。


 済水の水源は黄河の中流域に近く、黄河がその流域で氾濫を起こす度に、済水は多大な影響を受け続ける事となった。


 大地に刻まれた溝があり、水が押し寄せればそこを流れる。そして、地を流れる水は同時に砂泥も齎す。


 史上、幾度となく溢れた黄河は──溢れた水とその流れが齎した砂泥は、その度に済水に襲い掛かり、猛烈な流れが流路を削って新たな流れを生み、押し寄せた大量の砂礫が流路を埋め、そうして済水は時に元の位置から懸け離れた流れとなって名を変えた事もあれば、時に南北二筋の流れとなって大野澤に注いだ事もあった。


 そして、今──


 往時の済水の姿は見る影もない。


 梁山の北から再び大地に流れ出た梁山泊の湖水は、吾山(ござん)に当たってその向きを北東に変え、青州(せいしゅう)の北辺を経て渤海(ぼっかい)に注ぎ込む。

 今、済水はこの区間──つまり梁山泊よりも下流域と、後は水源から始まる、ほんの僅かな距離の流れに名を残すのみとなった。


 済水に限った話ではないが、河川のある一部分だけが土砂で堰き止められたというのならともかく、広範を埋め尽くされてしまった流路に元の流れを取り戻すとなると、これはもう尋常ならざる労力が求められる。そして、その甚大な労力と費用と時間を掛けてまでそれを為すか否かは、所謂(いわゆる)それらに見合った利益を得られるか否かのコスパが絡み、元の流路が埋め立てられた事によって生み出された新たな流れの利便性や、その流域の利益が絡んでくる事となる。


 往時の事はその時代を生きた人でなければ分からず、故にどれだけ推論を立てようと所詮、推論は推論の域を出はしないが、結果的に済水は水源から梁山泊までの大部分が放棄される事となった。その区間で今も尚、流れを湛えているのは、済水が南北に分かれていた時期の南流路のそのまた一部、東京(とうけい)開封府(かいほうふ)から梁山泊に至る部分のみである。


 名を広済河(こうさいが)。無論、元の呼称である済水に因んだ名だ。


 だから今、梁山泊を梁山泊たらしめているのは、湖水の排出を担っている済水ではなく、湖水を供給している広済河である、などという形式論をしているのではない。名が変わっていようが元の済水のままであろうが、そんな事ははっきり言って関係ない。


 大地を下る流れが窪地に揺蕩(たゆた)ったとして、それが再び大地を流れ下らなければ、それは沼となり、池となり、湖となって無限に膨張を続け、遂には大地の全てが湖底に飲み込まれてしまう。

 言わずもがなの話であるが、梁山泊が梁山泊としてそこに在り続けるために、済水が担っている役割は、揺蕩った流れを大海まで送り届けるという、ただそれだけしかない。そして、これまた正確に言えば、済水が揺蕩った流れを大海まで送り届けているのではなく、梁山泊を出てから大海に注ぐまでの流れを今も済水と呼んでいる、という事になる。


 前者と後者の何が違うのか。それは流れだ。

 速さや量、或いは流路という意味ではなく、流れている水そのものである。


 そもそも済水の下流部は、そして梁山泊も、そこへ流れ込む広済河も、すでに最上流部に僅かに残る済水の流れを引いていない。

 今、広済河を下り、梁山泊を満たし、そして済水と呼ばれる流れを作って渤海へと注ぎ込んでいるのは、全て黄河の水だ。


 いや「全て」と言い切ってしまうと、ちょっと語弊がある。


 元々、済水の南流路は水量がそれほど多くなく、済水が南北に分かれていた当時、まだ中原の一都市だった開封の西で、たまたま黄河から引かれた流れと近接する場所があった事から、その流れに接続されて水を得る事となった。


 その後、開封府城は拡張され、二筋のいずれもが城内を貫く形になった現在、広済河は府城の(ほり)を介しても黄河の水を得ている訳だが、城内にはその二筋以外にも流れが引かれていて、故に厳密に言えば広済河が黄河の水()()を引いているという事はない。そして広済河から渤海に至るまでの流路には、黄河を源としない流れも注ぎ込んでいる。

 だから、済水として渤海に注ぐ流れの「全てが黄河によって生み出されている」と言うのは言い過ぎにしても、その「大部分が黄河によって生み出されている」となれば、それは過言でも何でもない。


 つまり、梁山泊へと至る流れも、梁山泊を満たしている湖水も、その大部分は黄河に依存しているのであって、確かに梁山泊から下流域は済水と呼ばれ、湖水の排出を担ってはいるけれど、その済水の流れですら黄河から引かれた水によって大部分が生み出されているのだから、梁山泊形成の直接の要因であるばかりでなく、その梁山泊を今も梁山泊たらしめるために、極めて重要な役目を担っているのは、実は黄河なのだ。極めて重要な要素が他にあるのだから、済水の果たす役割が極めて小さくなってしまうのは致し方ない。


 梁山泊という湖沼にとっては、ただ黄河から至る湖水を排出するためだけの存在と成り果ててしまった済水は、しかし、流域に住まう者達から見れば、命を繋ぐ恵みを地に齎す、極めて貴重な存在だ。それは太古の昔から今に至るまで何ら変わりはない。

 流れの有無は死活問題にもなろうが、流れているのであれば、どこから流れを引こうが、その源が何であろうが、そんな事は大した問題ではない。


 ただ、始祖達が根差した頃と比べ、遥かに高度な文明を築いたこの宋代において、済水は直接的な大地の恵みだけでなく、また別の重要な役割を担う事となった。


 水運である。


 今、この国の経済、とりわけ物流において重きを成す「漕運四河(そううんしが)」(※2)。

 或いはまた「漕運四()」と呼ばれる事からも分かるように、その四本は全て人の手で整備された運河であるが、その中に広済河は含まれている。

 そして、梁山泊を通じてその広済河と繋がる済水は、山東と開封府を繋ぐ一大水運路となった。


 済水南流路の一部が放棄されなかった理由は正にそこだ。


 (ずい)(※3)の煬帝(ようてい)が華北と華南を結ぶために建設した運河がある。


 その名を通済渠(つうさいきょ)


 一から全てを造った訳ではなく、既存の運河で利用できそうな物は流路に組み入れるなどして、最終的に一筋の流れとしたものだが、そのおかげと言うべきか、偶然にもと言うべきか、南は洪澤湖(こうたくこ)の西で淮水と接続し、そこから北西に向かって延伸した通済渠は、今の開封府近傍を通り、今の広済河に程近い場所を通って黄河に接続される事となった。


 つまり、南流路が放棄されなかったのは、単に開封を通過していたからとか、宋の首都たる開封の発展を支えるためとか、そういった理由ではない。それでは順番が逆だ。

 たまたま開封に通済渠が通っていたからこそ、そしてその通済渠と接続する事で、運河としての利用価値を見出されたからこそ、南流路は多大な労力と資金と時間を投じてまで整備される事となった。


 通済渠はその後、汴河(べんが)と名を変え、南流路も白沟(はくこう)を経て広済河、或いはその川幅から五丈河などと呼ばれるようになったが、名称がどれだけ変わろうと、その重要度には些かの変化もない。何しろ山東と、そして江南(長江の南)とがそれぞれ一本の河道で通じた事によって、開封は物資の集積地となり、この宋に至って遂に首都が置かれるまでに繁栄を極める事になるのだから。


 今、広済河は他の水運路と共に開封府の、()いては宋の繁栄を支えるという、あまりにも重い使命を負っている。そして、梁山泊はその広済河と済水を繋ぐ。

 その梁山泊が「単なる水溜まり」などであるはずがない。仮に干上がりでもすれば、一体この国の経済にどれほどのダメージを与えるのか想像もし得ないほど、この国にとって無くてはならない極めて重要な存在となっている。


 東渓村(とうけいそん)西渓村(せいけいそん)を隔てている渓谷の流れは、広済河から分かれた支流にあたる。

 無論、船が行き交うような水量も水深もない、穏やかでささやかな流れであるが、渓谷を抜けたその流れは梁山泊に行き着いて湖水の維持をささやかに支え、ささやかに宋の経済をも支えている。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 従卒二人と共に西渓村を出た朱仝は、東渓村に背を向けて渓谷沿いの道なき道を進む。

 いや、正確に言えば朱仝達が背を向けているのは東渓村ではない。


 鄆城(うんじょう)県城と東渓村、西渓村を繋ぐ街道は、俯瞰して見るとおよそ「丁」の字のようになっている。


 渓谷があるという事は、つまり丘の上に村があるという事なのだから、どこでも好きなところに居を構えられる平地と違い、居住地の制約を受けるのは仕方のないところだ。


 人は水を得なければ生きてはいけない。

 渓谷といってもそれほど深い訳ではなく、5mも下りれば谷底に辿り着けはする。しかし、それを嫌って井戸を掘るとなると、確実に平地と比べて5m分は余計に時間と労力が掛かる訳だし、そちらを嫌ったからこそ両村の住人は谷底の流れに水を求めているのだろうが、下りる時はまだしも、登る時の苦労はそれこそ平地とは比ぶべくもない訳で、だからこそ僅かでも下り易く、登り易い場所を求めて村の位置が定まったのであろう。


 いくら流れがあるといっても、その流れを得るために苦労するのは目に見えていながら、一体全体、何でまた丘の上などに居を構える事にしたのか──なんていう根本的な疑問は残るものの、それを今、云々してみたところで話は始まらない。

 推論はどこまでいっても推論であって、往時の事はその時代を生きた人でなければ分からないのだから。


 とにもかくにも、結果的に鄆城県から伸びる街道は渓谷の橋を渡って東渓村に繋がり、その街道から外れた位置に建てられた西渓村のために、橋の西側で街道を分岐させ「丁」の字になった訳だが、朱仝達は渓谷に沿って()()から先に向かっているのであって、故に厳密に言えば背を向けているのは東渓村ではなく街道であり、その街道が突き当たっている西渓村である。


 朱仝は馬上から、従卒達は地上から、怪しい痕跡がないかと周囲に目を凝らしながら進む。

 しかし、道がないという事は、道がなくても困らないという事であり、ではなぜ困らないのかといえば、それはその先に向かう者がいないからに他ならない。


 西渓村の住人が立ち入るにしても精々、薪や柴を得るくらいのものであろうし、それにしたって運ぶ手間を考えれば村に近い方がいいに決まっているのだから、三人が進めば進むほど下草は伸び放題となり、背の低い木々が現れ、そこに絡み付く野茨の蔓によって、普通に歩くのも難渋してしまうほど藪が深まっていくのも、当然と言えば当然である。


 それを踏み分けて更に目を凝らす三人であったが、いよいよ崖のすれすれまで大木が立ち並び始め、騎乗したまま先に進む事が難しくなったところで、朱仝は取りあえず藪──てか、もはや林の手近な範囲だけ従卒に探索を命じた。


「手近な場所だけで宜しいので?」

「この後の予定もあるしな。それに、そもそも有るかどうかも分からん痕跡の為に、いつまでも(かかずら)ってる訳にはいかんだろ」

「は、畏まりました」


 案の定と言おうか、戻った従卒達から「それらしい痕跡は何も無かった」と報告を受け、コレといった収穫もないままに朱仝は馬首を返す。


 街道まで引き返し、朱仝達はほどなく橋を渡る。その途中、朱仝は暫し立ち止まり、眼下を見下ろした。

 何て事のない、長閑(のどか)な流れがそこにはある。


 広済河はこの国の水運の要であり、同じく要である梁山泊から済水へと流出していく湖水を補う役目も担うが、同時にまた、黄河から溢れた濁流を山東へ招き寄せる導火線にもなる。特に汴口(べんこう)(※4)付近や、より上流部での氾濫時にはそれが顕著で、梁山泊と呼ばれるようになって以降に限っただけでも、何度となくそんな事があったと朱仝は伝え聞いている。


 いや、何もそんな100年200年などという、大自然の営みにとっては()()の束の間の話に限らずとも、黄河の歴史は遥かに古く、そしてまた済水の歴史も遥かに古く、そんな事は太古の昔から幾度となく繰り返されてきているのだ。


 してみれば、梁山泊が梁山泊と名を変えた切っ掛けもまた、広済河によって齎されたと考える事もできる。

 無論、それまではただ湖畔に在っただけの梁山が、湖面の只中に取り残されるまでに地形が変わり、黄河から山東に至る幾多の府州を水浸しにしたと伝わるくらいなのだから、たかが運河の一筋に収まるような水量でなかったのは到底明らかであるし、結果的には広済河が有ろうと無かろうと、現状に変わりはなかったのかもしれないが。


 人智の及ばぬ自然の営みはともかくとして、いずれにせよ実際にそういう事があったと伝わっているのは確かであって、一度(ひとたび)襲い来た流れは当然、広済河から繋がるこの渓谷にも届き、自然が剥いた牙と突き立てた爪の凄まじさを物語る証はいくらでも残っている。


 橋から目が届く範囲だけでも、ある場所では崖が抉られ、ある場所には不自然に砂礫が積もり、元々は地の中に埋もれていたものか、或いは上流から押し流されてきたものか、およそ長閑な流れに似つかわしくない巨岩、巨石が谷底に鎮座する姿も散見できる。


 なればこそ、東西両村を建てた者達は水を崖下に求めてまで高台に居住地を定めた、という可能性も十分に考えられるが、渓谷を見渡す朱仝にとってみれば、そんな事ははっきり言ってどうでもいい。



【足場の悪い所もあるにはある。しかし、この程度の流れしか持たないこの渓谷で立て続けに事故が起こるのは、どう考えても不自然極まりない。それも子供ならいざ知らず、西渓村で事故に遭っていたのは殆どが大人だ。


 何かしらの力が働いているとしか考えられん…】



「…朱都頭、如何なされました?」

「いや、すまん。行こう」


 従卒に促され、朱仝は橋を渡る。


 乗騎を操って、どれほどの間もなく東渓村の家々が見えてきた。

 丁度、昼時に差し掛かっていたためか、表に村人の姿は少なく、家々からは炊煙が上がっている。


 朱仝が下りた馬を従卒に預け、腹の虫がくすぐられる匂いの中を、三人と一騎で村の中心を目指せば、その少ない村人達からは揃って挨拶の声が掛かる。それを一つ一つ丁寧に応えながら、一際立派な屋敷に着いたところで朱仝は門を叩いた。


「どちら様で…おや、これは朱都頭」

「こんにちは」

「巡捕都頭の官服で見えられたという事は、お役目でございますか?」

「ええ、まあ。そんなところです」

「それは御苦労様です。旦那様に御用で?」

「ええ、御在宅ですか?」

「ええ。丁度これから昼食を摂られるところです」

「あー、それは申し訳ない事を…少し間を置いて出直しましょうか?」

「はは、何を水臭い事を。旦那様と朱都頭の仲ではございませんか。少々お待ち下さい、すぐに知らせて参りますから」


 応対した作男が奥へ向かうと、ほどなく体格のいい男が現れた。


 さすがに2mに迫ろうかという朱仝には及ばないものの、どこぞの八方美人な押司など、気を付けていなければ視界にすら入らないのではないかと思わせるほど高い身長に、これまたどこぞの押司と違って健康的に日焼けした肌、そしてまた何度も比べて申し訳ない──なんて感情が微塵も湧いてこないので遠慮なく比べさせてもらうが、出張(でば)った腹の目立つどこぞの押司なぞ、むしろ比べるのも烏滸がましいほどに、諸肌脱いだ帯から上は筋骨隆々、精悍な顔立ちに整えられた(ひげ)(顎ひげ)を備えたその男は、人懐っこい笑みを浮かべながらも、凛とした佇まいで拝礼する。


「小哥、久しぶりじゃないか。務めで忙しいのは分かるが、もっとここにも顔を出せよ」

「御無沙汰しております。約束もなく突然、昼時に訪ねてしまって…申し訳ありません」


 朱仝の返礼を待って男は呵呵と笑うと、


「何を言ってる。昼でも夜でも遠慮なく訪ねてくれればいいさ」

「何か力仕事でもなさってたんですか?」

「ん?何でだ?」

「いえ、随分と汗をかかれてるようなので」

「ああ、何、手持ち無沙汰にちょっと裏庭で鎗を振り回してただけだ。ああ、すまんすまん。悩殺しちまったか?」

「しちまってません。鎗棒(そうぼう)の鍛錬も結構ですが、そろそろ伴侶を娶られたら如何です?村にだって妙齢の女性はいるでしょう?」

「こんな身体を鍛える事にしか興味がない男に、子女を嫁がせたがる父兄がいると思うか?」

「いや、いるでしょ…」

「いないから独り身なんだよ!言わせんなって」


 手拭いで首筋に光る汗を拭きながら男は苦笑を浮かべる。が、実は独り身をまるで気にしていない。

 性格は豪放磊落、過ぎ去った事をいつまでも気に掛けず、先の事を殊更に心配しない、正に竹を割ったような性格の持ち主なのだ。


「まあ、そこら辺は月老(※5)の機嫌にお任せするしかないな。気分次第で意外とすぐに相手が見つかったりするもんさ。お、そうそう。丁度、昼飯にしようと思ってたトコだ。いつまでもこんな所で立ち話してても何だし、小哥もまだ食ってないんだろ?ウチで食ってけよ」

「あー、いや、そんなつもりでこの時間に訪ねた訳じゃないんですが…」

「分かってるよ、そんな事は。供のお二方も遠慮なく食べていかれるがいい」

「有り難うございます。では、遠慮なくお相伴に与ります」


 手拭いで上半身に光る汗を拭きながら、にこやかに三人を招き入れる男は歳の頃で34、5歳。

 東渓村保正(村の顔役、村長)・晁蓋、その人である。

※1「江、河、淮、済」

長江、黄河、淮水、済水。ちなみに「五岳」は泰山、華山、衡山、恒山、崇山。

※2「漕運四河(四渠)」

広済河の他に汴河と蔡河(恵民河)と御河。御河ではなく黄河や金水河を加える説もある。ちなみに、御河は永済渠(※3参照)の宋代の呼称。

※3「隋」

中国の統一王朝。通済渠の他にも初代文帝が淮水と長江を繋ぐ邗溝(かんこう)を、2代煬帝が天津と黄河を繋ぐ永済渠と、長江と杭州を繋ぐ江南河の各運河を整備し、南北の物流を劇的に飛躍させた。ただし煬帝の事業では100万以上の民衆が苦役を強いられたために人心の離反を招き、それが隋滅亡の一因となっている。581年~618年。

※4「汴口」

()河の取水()。黄河と汴河の接合点。

※5「月老」

月下老人。男女の仲を取り持つ神。

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