噂
桶に満タンの水を両手に持って立ち去る林明智を見送り、宋江と雷横の二人は心の底から安堵の溜め息を零す。
「哥兒(宋江)、すまねえな…」
「いや、何、気にするな」
軽く右手を挙げて精一杯の笑みで応える宋江であったが、その顔には疲労の色がありありと浮かんでいる。
「しかし…小哥(雷横)がうっかり昨夜の事を喋っちまった時は、ホントに冷や汗が出たぞ?」
「いや、何かもう売り言葉に買い言葉っつーか…」
「とにかく、もう博打には手を出さない事だ。これでもし、また入れ揚げてる事がバレでもしたら、次はいよいよ頭の形を変えられちまうぞ?」
「怖ぇ事言わねーでくれよ!冗談に聞こえねえって」
大仰に顔を背ける雷横に苦笑を洩らした宋江であったが、思い出したように懐をまさぐると──
「ほら」
「哥兒!?いや、有り難えけど…いいのかよ!?!?」
「お袋さんはああ言ってたが…ああ、いや、お袋さんの言ってる事は尤もだぞ?小哥はもう少し、自分の失敗を少しくらい周りに冷やかされたからって、笑って聞き流すぐらいの堪え性を持った方がいい。いいんだが…まあ、勤めの初日に無一文というのも、な」
「…悪ぃ。恩に着るよ」
「別に着なくていい。それより絶・対・に、お袋さんには言うなよ?」
「あ、ああ、勿論だ」
「うっかり口を滑らすなよ!?」
「ああ、分かってるって。これ以上、哥兒に迷惑掛けらんねえからな」
林明智から突き返された銀子を渡した。
……
宋押司…いや、もうこんな奴は「コイツ」で十分か。肩書なんてシャレたモンを付けるのもアホらしい。
DA・I・NA・SHIッッ!!
DA・I・NA・SHIだよコイツ、マジでぇぇーー!!!!
林明智が天下の往来で恥を晒してまで、口を極めて雷横に罵声を浴びせたのも、恥の上塗りを承知の上で、恥を忍んで宋江を諌めたのも、全ては我が子の将来を思っての事だ。
人格や性格なんてものは、よほどの強烈な体験をするか、そうでもなければ、当人が意識して変えようとでも思わない限り、そうそうコロコロ変わるもんじゃない。
ようやくその、そうそう変わるもんじゃない性格を変える機会が訪れ、不承不承ではありながら、雷横も母の気持ちに応えて、その機会に向き合おうとしていたところだったのに…
宋江だって口では「林明智の言ってる事は正しい」と言っていながら!
雷横の見栄っ張りで、周囲に言わせれば偏屈な性格は「変えた方がいい」と言っていながら!
「フフン、金に困ってても言い出せない知り合いに、そっと自分から手を差し伸べる俺…ヤバくね?マジ、カッケーじゃん♪」的なノリで、いとも簡単に全部ブチ壊しやがって!
……
…うん、もう止そう。宋江の性格をとやかく言うのは。
こういう奴なんだ、宋江は。
所詮、他人の気持ちも都合も考えず、自己チューな善意を振り撒く事に酔ってるだけの男なんだ。
宋忠から諌められても、林明智から罵られても、所詮、本人がそれを改めようと思わない限り、人の性格なんてそうそう変わるもんじゃないんだ。
そして、当の本人はそんな性格を改めようなんて、コレっぽっちも思っちゃいないんだ。
誰が何と言おうと、宋江の評判は「義に篤く、孝に厚く、礼を弁え、仁を備え、物腰は柔らかく、尊大さなど欠片もない男」。
いいや、もうそれで。
林明智の願いも虚しく、せっかくの機会を誰かさんの自己チューな善意のせいで…いやいや、素晴らしい仁愛の精神のおかげでフイにした雷都頭。
まるで今日の事を見通していたかのように、古人はこんな言葉を遺している。
『妄りに物を与うるは、溝壑に遺棄するに如かず』(※1)
理由もなく、無闇やたらと他人に物を与えるくらいなら、壑なり溝なりに捨てた方が余程マシである──
ここ鄆城県において、この僅か10年にも満たない後。
古人に「ドブに捨てた方がマシ」とまで言わしめた行為をまともに喰らった雷都頭は、その「ドブに捨てた方がマシな行為」によって、矯正の機会が奪われた堪え性のない性格から「ああ、やっぱりあの時ドブに捨てといた方がマシだったなぁ」と痛感せずにはいられないような、とてつもない事件を引き起こす事になるのだが、それはまた別のお話である。
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「宋押司。雷都頭」
掛けられた声に二人が辺りを見回せば、嵐が去るのを待ち構えていた茶店の給仕が呼んでいる。
二人が茶店の方に向かうと、
「朝から大変でしたね…」
「何を他人事みてえな顔して言ってやがる。元はと言えばお前が声を掛けるから──」
「止めろ、小哥。しょうがないだろ?五郎(給仕)は事情を知らなかったんだから」
無論、雷横だってそんな事は分かっている。怒るというよりは単なる愚痴といったところだ。
そんな二人に給仕は申し訳なさそうな苦笑を零し、
「いや、まあ、何と申しましょうか…そんなお二方の為に茶を煎じておきましたから、お勤めの前に召し上がっていって下さい。手前の奢りですから」
「ああ、それは助かる。もう口の中がカラカラだ」
「俺はどっちかっつったら酒の方が良かったんだがなぁ…」
「雷都頭までそんな事を仰るんですか?ウチは茶店ですよ?」
「五郎、察してやれ。見てたんだろ?勤めがなければ、俺だって一杯やりたいくらいだ」
三人がそんなやり取りをしていると、丁度、衙門からこの県のもう一人の巡捕都頭が、徒の配下を二人引き連れて姿を現した。
「おや、あれは朱都頭。何処かにお出ましでしょうかね?」
給仕が声を上げると同時に、巡捕都頭も馬上から茶店の中に10日ぶりの顔を見つけ、乗騎を操って配下と共に茶店の前までやってくると、下馬するなり宋…メンドくさい、宋江に向かって恭しく拝礼した。
「宋哥兒、お久しぶりです。体調は如何ですか?」
「いや、長らく休んでしまったが、別に大した事はないんだ。ついでに家の事やら何やらを色々と片付けててな」
宋江が礼を返すと、その巡捕都頭は「従卒の分も」と給仕に三杯の茶を頼んだ。
巡捕都頭の姓を朱、名は仝。
ここ鄆城県の生まれで、宋江よりも歳は一つ下ながら付き合いは深く長く、雷横とは同い年の幼馴染みである。
というと、雷横は決まって面白くない顔をする。そして、決まって「別に幼馴染みじゃねえ。小せえ頃からの腐れ縁が切れねえだけだ」と嘯くのだが…
雷都頭。世の中ではそれを「幼馴染み」と言うのです。
「しかし…朝から災難でしたね」
朱仝は苦笑と共に宋江へ視線を投げ掛ける。
「ん?ああ、聞こえてたのか…」
「そりゃあ聞こえますよ、あんな至近距離であれだけ特大の雷を落とされればね。丁度、巡察に出ようと思ってたところで、建屋の外に居たという事もありますが」
朱仝はそのまま、ふいと雷横に視線を移すと、
「いい加減、博打からは足を洗ったらどうだ、翅虎(羽根虎。雷横)」
「うるせえ、髯面」
互いに、互いの綽名をもじった「翅虎」「髯面」と気安く呼び合う二人であるが、だからといって別に雷横の顔に鬚(顎ひげ)の無い訳ではない。それでいて雷横が朱仝を「髯面」と呼ぶのは、一も二もなくその量の違いからである。
何と言っても朱仝の方は、身体的な特徴を10人に聞けば10人が、100人に聞けば100人が、判を押したようにまずその髯(頬ひげ)を挙げるほどで、豊かに蓄えられた髯の長さは優に40cmを超え、腹の辺りまで垂れ下がっている。
故に周囲からは『三國』の英雄・関雲長に準えて「美髯公」と綽名されたものだが、それがまた面白くない雷横は「美髯」と呼ぶのも癇に障るし「髯公(ひげ殿)」と呼ぶのも癪に障る、という事で、めでたく「髯面」に落ち着いたという訳だ。
「全く、お前は…いつもいつも気に掛けてくれる御母堂に心配を掛けて──」
「だから、うるせえって。お前にとやかく言われる筋合いはねえ」
「お前なぁ…」
「まあまあ、朱小哥(朱仝)。雷小哥だってあれだけ言われたんだから、ちゃんと分かってるよ。それより、こんな頃合いから巡察に出るのも珍しいな。何か事件でもあったのか?」
雷横と朱仝の会話はいつもこんな調子だ。取り立てて仲が悪いという訳でもないのだが、何かと突っ掛からずにはいられない雷横を朱仝が寛大に受け止め、程良いところで宋江が間に入って両者を宥める、といった按排である。
朱仝は出された茶に口を付け、僅かに苛立った心を落ち着かせると、
「いえ、別に事件という訳じゃないんですが…哥兒は最近、東渓村の噂を聞いてませんか?」
「あー、勤めを休んでる間はずっと実家に籠っててなぁ。何か良くない噂でもあるのか?」
「あまり喜ばしい噂でないのは確かなんですが…」
難しい顔を浮かべた朱仝は、豊かな髯をサラリと一つしごく。
東渓村の保正は、宋江と義兄弟の契りを結んだ晁蓋が務めている。せっかく10日ぶりに姿を現し、しかももう衙門の目と鼻の先にいるというのに、義弟にあたる宋江にその噂を伝えれば、付き合いの長い朱仝でなくとも、どうなるかは目に見えている。
「んーだよ、どうせ言うんだろ?勿体付けてねえで、さっさと言えよ」
「うるさいぞ、翅虎」
「まあまあ二人共。朱小哥、それで?」
「ええ。東渓村の側に西渓村との境となってる渓谷があるでしょう?」
「ああ、あるな」
「どうも最近、その渓谷で度々事故が起こるようになったそうでしてね。その上、怪我をするのは何故か決まって東渓村の住人なんだそうで」
「本当か!?もしや晁哥(晁蓋)の身に──」
「あー、いえいえ、晁保正の身に何かあったという訳じゃありませんよ」
「そうか、それならいいが…しかし、心配だな。よし!朱小哥、俺も一緒に様子を見に行こう」
こうなる訳だ。
「よし!」じゃねえわ…
「哥兒…勤めに出て来たんでしょう?」
「勿論そうだ。しかし、そんな噂があると聞いたら、晁哥の事が気掛かりで仕事なんか手に付かないよ。ほら、早く行こう」
「行きませんよ…あ、いや、私は行きますけど、哥兒は勤めに出て下さい」
「朱小哥、今日はまた何でそんな薄情な事を言うんだ。俺と晁哥の付き合いの深さは、小哥だってよく知ってるだろ?」
知ってるに決まっている。
知ってるからこそ、こうなる事が分かっていて、言うのを躊躇っていたのだから。
「哥兒、ちょっと落ち着いて。その噂が本当かどうかもまだ分かってないんですから。人の噂なんてものは宛てになりませんし、ほんの小さな出来事に尾鰭が付いて大袈裟に伝わったりするものです」
「しかし、仮に本当だったとしたら、いつ晁哥が災難に見舞われるかも分からんだろう?」
「それを今から私が確かめに行くんです。勤めを休ませてまで哥兒を連れて行き、話を聞いてみたら何て事もなかったとなったら、私は皆の笑い者ですよ」
「う…」
朱仝が知っているのはそれだけではない。
東渓村までは県城からどれほどの距離もない。徒でも往復で半日もあれば事足りる。馬の足なら尚、早い。
しかし、今から向かって東渓・西渓両村の住人から話を聞けば、それなりの時間にはなる。
朱仝も晁蓋とは付き合いが長く、義気に溢れる好漢だと知っているが、そんな晁蓋と宋江が顔を合わせれば、挨拶程度の会話で終わる訳がない。その会話がそれなりの時間から始まれば、帰りは一体いつになる事か。
朱仝自身は調査の報告もあるし、明日の勤めだって休む気はないから、今日の内に戻るつもりではいる。晁蓋だってそう言えば無理に引き留めはしない。しかし、宋江は違う。
宋江が朱仝を引き留める、というのではない。宋江が仕事を休む事など屁とも思っていない、という事だ。そもそも10日近くも勤めを休み、ようやく勤めに復帰するつもりで衙門の目と鼻の先まで来ていながら、今になって勤めを休もうとしているくらいなのだから。
帰りが遅くなれば今日は泊まり、今日泊まれば「既に何日も休んでるから、それが一日延びたところで…」と明日も休み、それで勤めを辞めてしまうような事にまでは至らなかろうが、さりとて勤めに戻るのがいつになるかは分かったもんじゃない。
無論、そこで浴びる批判も負う責任も、宋江に帰して然るべきではあるのだが、切っ掛けを作ったのは連れ立つまでもない宋江を連れ立った朱仝であり、下手をすれば付き合わなくてもいい我儘に付き合った晁蓋にまで責任が及ぶ事になる。
単なる想像と言うなかれ、朱仝は自信を持って「ほぼ確実にそうなる」と断言できる。それくらい宋江の性格は分かっているつもりだ。
朱仝だって別に義を軽んじるような男ではないから、宋江が危地に陥れば、或いは宋江でなくとも、晁蓋であっても雷横であっても、相手が進退窮まるような事態に陥れば、自分が身代わりになってでも救いの手を差し伸べるのは吝かでない。が、少なくとも今はまだ、そんな大仰な事を言うような段階ではない。
単なる噂話を鵜呑みにして、聞かなくてもいい我儘を聞き、負わなくてもいい責任まで自ら負いにいくようでは、馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
相手の願いを聞き入れるべき時か、断るべき時か、的確に判断できるのが朱仝という男だ。どこぞの自己チューな押司に、是非ともその分別を仕込んでやってもらいたいものである。
「別に一緒に行きゃあいいじゃねえか。相変わらず融通の効かねえ奴だ」
「うるさい。お前にとやかく言われる筋合いはない」
「この野郎…」
「待て待て。全くお前達は仲が良いのか悪いのか…」
「別に良かぁねえよ」
「別に良くはありませんよ」
「あー、分かった分かった。まあ、朱小哥の言う事も尤もだし、今日のところは任せるとしよう。だが──」
弟達の口喧嘩を見守る兄のように、困ったような表情で二人を宥めていた宋江は、スッと表情を改め朱仝を見据えた。
「何かあったらすぐに知らせてくれよ?」
「ええ。それはもう真っ先に」
「だから…そう言うくらいなら一緒に行けってんだよ」
「雷小哥、纏まった端から話を蒸し返すんじゃない」
朱仝と宋江は顔を見合わせ、溜め息と共に苦笑を交わす。
飲み止しの茶を呷って椀を空けた朱仝が、出立のために店を出ると、
「朱小哥、城外まで送ろう」
「哥兒、何も戦に出ようというんじゃないんですから…ここで結構ですよ。それに点呼の刻限も迫ってきてますし。遅れてしまいますよ?」
「お前もまた、つまんねえ事を言いやがんな。折角、哥兒が見送ってやるっつってんだから、素直に見送られりゃあいいじゃねえか」
「それで点呼に遅れて叱責を受けるのは哥兒だ。お前こそ軽々に無責任な事を言うな」
「あー、悪かった悪かった。確かに朱小哥の言う通りだな。ここで見送らせてもらおう。道中、気を付けてな」
どちらの言い分も分からないではないが、それをまた互いに遠慮なくぶつけ合うもんだから、間に入る宋江はなかなかに大変である。
うん、いい気味だww
従卒と共に通りを行く朱仝を見送った二人は、茶店の表に繋いだ馬の轡を取ると、
「さて、じゃあ小哥。俺らもそろそろ行くか」
「あいよ」
と、衙門に向かって通りを渡る。
「…ん?」
ふと、雷横が足を止め、左手の方を見た。遅れて宋江が立ち止まる。
「…?どうした、小哥?」
「んん、見掛けねえ顔だなと思ってさ」
「ん?何処に?」
「いや、もうそこの角を曲がっちまったが…」
「小哥…」
いくら鄆城県がそれほど大きな県ではないとはいえ、全ての住人の顔を覚える事など、さすがに不可能だ。
それに城外の者が用事で来ている事もあるだろうし、旅の者が城内にいたところで何の不思議もない。
という事は──
「ここまで来て駄々を捏ねんでもいいだろう」
「だっ!?誰が駄々を捏ねたってんだよ!ホントにいたんだって!」
「分かった分かった。まあ、何事も初めての時は、誰だって緊張するもんさ」
「ざけんなっ!!大体、家を出る前から、散々あーでもねえこーでもねえと駄々を捏ね捲ってた男が何を言ってやがる!」
「はいはい、分かった分かった。まあ、衙門の中にも小哥の顔見知りは多いだろうが…何なら俺が一人一人紹介してやろうか?」
「うるせえ!すんな!放っとけ!」
二人は片や不貞腐れながらブツブツと愚痴を零し、片やそれを笑みと共に宥めつつ、長い長い「通勤」の道のりを終えた。
※1「妄りに物を与うるは、溝壑に遺棄するに如かず」
『説苑(立節)』。原文は『妄與、不如遺棄物於溝壑』(「與」は「与」の旧字)。訓読は『妄りに與うるは、物を溝壑に遺棄するに如かず』。意味は本文の通りですが、なぜ「ドブに捨てた方がマシ」なのかというと、理由もなく他人に物を与えてばかりいると、与えた相手を一丁前のダメ人間にしてしまうので、それならまだ「ドブに捨てた方がマシ」という事のようです。




