一片の悔いなしっ!!
「どうせ博打で大負けしたんだろ?」
呆れたように投げ掛けられた宋江の視線に、雷横は居心地悪げに馬上で口籠る。
「あー、いや、まあそうなんだが…」
「はぁ…しょうがないな、小哥(雷横)は。挙げ句、一人で浴びるほどにヤケ酒か?…いや、逆か。仲間内で散々に飲んでる内に気が大きくなって、有り金叩くまでハマっちまったってトコか」
「いや、あー…」
「まあどっちにしろ、だ。今日がお役目の初日だってのに、何をやってんだか…」
「今日が初日だからこそだろ!?」
宋江の小言に、雷横は力を込めて言い返す。
「んん?」
「俺ぁ元々、巡捕都頭なんぞになる気はなかったがよ、それでも役目に就いた以上はちゃんと務める気でいるぜ?だが、役目に励んでたら思う存分、博打を打つ機会もそうそうねえだろ?だから思い残す事がねえよう、昨日の内に楽しんどいたんだよ」
「まあ、悪人を取り締まる側が、博打であちこち貸しを作って身動き取れなくなってるようじゃ話にならんが、だからといって『いっそその前に』か?理屈は分からんでもないが、その最後の一回でスッテンテンにされたんじゃ世話はないだろ」
「いいんだよ、別に!勝っても負けても、最後に気が済むまで打つのが目的だったんだから。悔いはねえっ!!」
まるでこれから昇天でもするかのような、清々しい顔で力説する雷横であったが、その横顔を宋江は白い眼で見つめた。
雷横の母の勝気な性格は、鄆城県では有名であって、宋江も母親にこっ酷くやり込められて萎れる雷横の様を何度も見ているが、当の雷横の博打好きは一向に改まっていない。
それに、博打などイカサマでもしない限りは勝ち続けるはずがなく、実際、雷横もこれまでに幾度も大負けしている。その度に「これで気が済んだ」と宣言し、足を洗う機会はいくらでもあったのに、しばらくすると我慢できなくなってはまた手を出して、を繰り返していた。
そんな雷横であるから、いかにお上の勤めとはいえ、職に就いたくらいで博打からすっぱり足を洗うとは宋江には思えないし、雷横の言葉を全く信じてもいない。
まあ、自分の金を何に使おうが、それによって困ろうが苦しもうが個人の自由だし、人の趣味など10人集まれば十種類が挙がっても不思議はないのだから、別に宋江も雷横の趣味自体を否定しようというのではないのだが、残念ながら雷横の博打はもう、自分の懐具合に応じて楽しむという「趣味」の域からは外れてしまっているのだ。
勝てば豪勢に飲み食いできるのは当たり前として、ではその勝った日の食事で、今日のようにスッテンテンになるまで負ける日のために食い溜めができる訳でもなし、といって「金が手に入るまで水で我慢するか」ともいかない訳で、となれば当然、どこかに食い繋ぐ宛てを求める事になる。
要するに──
「それなら別に『一人で飲んでた』なんて言い訳する必要もなかったろう。父上の前でもはっきりそう言えば良かったじゃないか」
「いや、それはホラ、さ…」
「何だよ?」
「だから、ホラ…別に自慢するような事でもねえし、太公(宋忠)の前で話す事でもねえかなと思って、さ」
「なるほど?で、俺なら話してもいい訳だ」
「別に俺から話を振った訳じゃねえだろ?」
「そうか、それは悪かったな。じゃあ何も聞かなかった事にするわ」
「えっ!?いや、あー…それはだ、な…」
はぁ、と宋江は溜め息を零し、ゴソゴソと懐をまさぐって10両(※1)ほどの銀子を取り出すと、
「ほら」
「あー…いや、すまねえ。助かる」
「小哥が自分の金を何に使おうと、渡したからにはその金をどう使おうと勝手だがな。あんまりお袋さんには心配掛けるなよ?」
宋江が雷横に金を渡すのはこれが初めてではない。そしてこれまでに渡したのも一度や二度ではない。
そんな時、雷横は決まって今回のように言葉を濁す。
自分に非があるのは明白なのだから、素直に「申し訳ないんだが…」と頭を下げれば済む話だが、雷横は殊更に自分の非を他人にあげつらわれる事を嫌う。
無論、自分の失敗を他人から責められ、嗤われれば誰だって面白くはなかろうが、それでも他人事のように笑って誤魔化すなり、笑い事では済まされないのなら、ひたすら謝って取りあえずその場をやり過ごすなり、いずれにせよ大抵の人は成長し、世間を知るにつれ、自然と「場の収め方」というものを身に付けていくものだ。
雷横はそれができない。いや、さすがに「できない」は言い過ぎか。
少なくとも、深酒で迷惑を掛けた程度なら、笑って誤魔化す事くらいはできる。しかし、有り金を使い果たし、しかもそれが博打のせいでとあっては、さすがにこれは体裁が悪い。
それを直接の知り合いではない、その父親である宋忠の前で言い出し辛かったのもまだ分かるが、長年の付き合いがある宋江に対してまで、あーでもないこーでもないと言を引き延ばし、結局は宋江から話を切り出してもらうくらいには、大の苦手である事に間違いない。
それが傍からはどう見えるか。
自分に自信がなく、何をするにつけても他人の顔色を窺い、他人の意見に従ってしか行動できないのは論外としても、あまりに自信家でプライドが高く、面目や面子に拘り過ぎる性格も、本人は別に問題なかろうが、周りからすれば付き合い辛いものだろう。
無論、宋家の面々にせよ、その他の雷横の友人達にせよ、雷横の性格など百も承知の上だが、友人とも呼べぬ顔見知り程度の者達からしてみれば、せっかく侮蔑や嘲笑の意図なく行った、善意の忠告や諫言が鮸膠も無く突っ撥ねられたら、そしてそんな事が何度も続いたら、やがて善意を向けようとは思わなくなる。
代わって、そんな者達から向けられる白い視線と共に「腕も立って義に篤く、孝行者の好漢なんだが、あとはあのちょっと偏屈な性格がなければなぁ」という噂が広がっていく訳だ。
「何でそこでお袋が出てくんだよ?」
「小哥がお袋さんに、こっ酷くやり込められてるトコを、何度も見てるからだよ」
「お袋は心配性なんだよ。もっとこう哥兒みてえに、大らかな目で見てもらいてえもんだぜ」
「腹を痛めて産んだ我が子を心配して何が悪い。大体、普段からあれだけ小哥を気に掛けてるお袋さんに匙を投げられたら、いよいよ救いようがないぞ?」
「いや、あー…そらまあ、そうかも知んねえけどよ。けど、これまでだって賭場の内で借金こさえた事なんかねえんだし、別に博打の所為でお袋に迷惑掛けた事もねえよ?」
「それだけはせめてもの救いか」
「もうちょっと俺を信用して欲しいもんだな。俺にだって節度ってモンがあんだからさ」
「節度があるんなら、スッテンテンになるまでハマってんじゃないよ…」
博打打ちが賭場の中に借りを作ったら終わりである。その一線を越えてしまったら、後はもう抜き差しならない事態へまっしぐらだが、とはいえ、それをもって「節度」とは何とも片腹が痛い。
どんなに熱くなっても、どんなに負けても、決してその一線は越えないよう、自らを律せる心を持った者だけが、初めて博打に興じる資格を持つのであって、それを持ってもいないクセに、楽して博打で金を稼ごうなどとは、思うだに烏滸がましいにもほどがある。
単に博打に手を出す以上、持っていて当然のモノを持っているというだけの話だ。「節度」もへったくれもない。
むしろ「節度」という視点で見れば、宋江の方にこそ大いに問題がある。
困っている人間に手を差し伸べる、と言えば聞こえはいい。「貸す」のではなく「くれてやる」のも、それで自分が食い扶持に困るほどでもなし、気前の良さが表れていて大いに結構なのだが、それも時と場合だ。
宋江はここ鄆城県では知らぬ者がないほどの孝行者であり、またすでに父を亡くした雷横が、口では何だかんだと言いながら、結局は母に孝を尽くす男だと知っているからこそ「母に心配を掛けるなよ」と一言添えたものだが、そんな事を言うくらいなら、そもそも金など渡さなければいい。
いきなりのゼロ回答は心苦しいというのなら、今までよりも金額を少なくするとか「これで最後だぞ」と申し添えるとか、やりようはいくらでもある。
何の事はない、最初から賭場の外に金を無心する宛てがあるのだから、雷横が賭場の内に借りを作る必要など、端からないのだ。それこそ「節度」もへったくれもない。
というか、そもそも宋江は金を無心されてすらいない。
雷横には雷横の言い分があって「ただ宋江に会いたかっただけだ」という事なのだろうし、事実それもあったのだろうが、下宿を訪ねたら不在で、勤めにも出ていないとなれば、真っ先に思い付くのは宋家村の実家である。そして、その実家の場所を雷横は知っているのだから、会いたいと思ったのならいつでも訪ねればいい。
それを博打で散財し、一文無しの状態で訪ねたとなれば、雷横がどう言い繕ったところで「ただ会いたかっただけ」というのは些か無理がある。
それは確かにそうなのだが、それでもやはり頼まれてもいないのに、自ら進んで手を差し伸べるという宋江の姿勢はいただけない。
それも、やむにやまれぬ事情で切羽詰まっている相手にならともかく、理由が「博打でコテンパンにやられたから」というのだから、自業自得もいいところだ。「やむにやまれぬ」どころの話ではない。
「共依存」という言葉がある。
二人の内の片方がもう一人に依存し、依存された一人は依存された状態に依存する。健全な関係でないのは言うまでもない。
一見すると宋江と雷横の関係は「共依存」のようにも見える。
しかし、雷横は別に宋江に依存している訳ではない。雷横が依存しているとすれば、それは博打の方だ。
片や宋江の方は酷い。
しかし、それも別に依存される事に依存している訳ではない。他人に手を差し伸べる事に依存しているのだ。
県城に煎薬を売り歩く王という姓の老人がいて、ある時その老人が衙門の前で体調を崩し、たまたま衙門から出てきた宋江が気付いて介抱してやった、という事があった。
それに恩を感じた老人は以降、宋江の体調が優れない時や、二日酔いの時などにはお代も取らずに薬湯を煎じ、それに感じ入った宋江がまたその老人を目に掛け、何かれとなく世話を焼いてやるようになり、遂には先頃、口約束ではあるものの、その老人の棺桶代を出して(※2)やろうという話になった。
言うまでもなく、宋江はその老人からそんな事を頼まれてなどいない。
今、武勇の士として、或いは有徳の士として宋の全土に名を轟かせる者は多い。
いちいち名を挙げればキリがなく、当然そこには宋江の名も含まれている。そして、そうして挙げられる他の誰よりも、宋江の名は広く知れ渡っている。
それがそんな宋江の「他人に手を差し伸べなければ気が済まない」性格に起因している事は想像に難くない。
いくら宋江が鎗棒に興味があるとはいえ、所詮は禁軍に属して鍛錬を積んだ者に敵う訳はなく、宋江の名が挙げられるのは専ら有徳の士としてのみである。そもそも評価のポイントが違うのだから、宋江の名がいかに高まろうとも、武によって名を上げた者との比較にはあまり意味がないのだが、では有徳の士はどうかといえば、宋江を除いて真っ先に挙げられるのは滄州(※3)の柴進だろう。
前朝の唐崩壊後、各地に興った小国が覇を競った、所謂五代十国時代・後周(※4)の名君、柴栄の嫡流で、殿前都点検(※5)として柴栄に仕えていた趙匡胤が、後に柴栄の遺児である柴宗訓から禅譲を受けて宋を興した事もあり、柴進の家系は宋初から代々朝廷の庇護を受けている。
当の柴進も宋江と同様、天下の好漢と交わるのを好む上、自分を頼って来た者は、たとえそれが罪人であろうと何人でも、また何年でも屋敷に住まわせてやる器量の持ち主で、屋敷には常に40~50人の食客を置いているという大人物だ。
そんな家柄と人格の持ち主である柴進の名声に、一介の押司である宋江の名声が肩を並べ、或いはすでに超えているという者までいる。
それが悪いとは言わない。しかし、どう考えても異常である。
誤解のないように言えば、宋江は別に誰かより勝ろうとして、或いは名を売ろうとして博愛精神を撒き散らしている訳ではない。
それでいて尚、そんな按排になっているのだから、宋江の施しがいかに見境なく、手当たり次第であるかを示す、恰好の証と言えるだろう。
「それが宋江の人徳であり、それこそが宋江の宋江たる所以である」と言われればそれまでだが、人の心は弱く、そうして見境なく施しを振り撒く宋江のような存在が身近にいると、ついつい甘えてしまいたくなるものだ。宋江の綽名には、そんな人の性が克明に表れている。
宋江は周囲から「及時雨」と綽名されている。
「及時」とは「丁度いい時に」「タイムリーな」の意であって、その「雨」であるから、つまりは「恵みの雨」という事だ。
誰が宋江を「及時雨」と呼び始めたのかは分からない。
おそらくは金がなく食い詰めていた者か、或いは病に苦しんでいながら薬を買う金もなかった者か、ともかく宋江から施しを受けて助かった者がそう呼んだのであろう。そして、その綽名は宋江の名と共に、瞬く間に広まった。
実際に助けられた者がそう呼ぶのは分かる。宋江とは直接の関わりのない者が、宋江の名と「及時雨」をセットで噂に伝え聞いてそう呼ぶのも分かる。
しかし、中には心の内で舌を出しながら、殊更に憐憫を誘う表情で助けを乞う、卑しい性根の持ち主もいて、そうした者達がまた、殊更に宋江を「及時雨」と綽名して持ち上げる。
そしてまたそういった者達ほど、自らの置かれた苦境を声高に主張するものだが、一体その中でどれほどの者が、そこまで進退に窮まっているのかといえば、何の事はない、自分の努力でどうにでも抜け出せる程度の境遇なのに、ただその労を惜しんで「及時雨」という綽名に惹かれ、群がっているだけなのだ。
平たく言えば「自分で努力するのはメンドいので、どうか私にもお恵みを」という事である。
人に自然の営みを推し量る事など到底できるはずもなく、旱魃によって川が涸れ、地が割れ、いよいよ飢えと渇きに堪えかねるというところまで至ったとしても、人には所詮、天に祈るくらいしか為す術がない。そうして進退窮まり、後は死を待つのみとなったところへ、天の気紛れか、或いは単なる自然の摂理か、漸う齎される天の恵み、それが「及時雨」だ。
その恵みがいつ齎されるかなど誰にも分からない。そもそも齎されるという保証すらない。だからこそ、人は自然を畏怖し、また感謝もする。
宋江の施しには見境がない。にも拘らず、宋江は人々から「及時雨」と称されている。
本当に苦しい時に手を差し伸べられた者は、当然差し伸べた者に感謝するだろう。しかし、まるで千手観音の如くに、のべつ幕無くその手を出していては感謝も何もない。
手を差し伸べられる事が当たり前になってしまうからだ。
だが、それを期待して宋江の周りに群がり、宋江を持ち上げる者達ほど、苦境を主張すると同時に、差し伸べられて当たり前としか思っていない宋江の手に感謝を表し、礼を述べる。
当然である。自助が面倒だからと宋江の手に縋ろうというのに、その手を払い除ければ、あとは自らが努力するしかないのだから。それに比べれば、感じてもいない謝意を表すくらい、何ほどの事もない。
それに、いかに宋江が手当たり次第に手を差し伸べるといっても、一度差し伸べた手を払い除けた者に、再び手を差し伸べる保証はない。それではこれまで何のために宋江を持ち上げていたのか分からない。
宋江の博愛、仁愛の精神は大変素晴らしい。それは疑いようがない。
しかし、その精神を向けるべき時、向けるべき相手を見極める目を持たなければ、砂糖に群がる蟻のように、蜜に群がる蝶のように、縁も所縁もない不埒な輩を身の回りに引き寄せる。
雷横がそうだと言うのではない。雷横はそもそも宋江と縁も所縁もある。
何度ヤられても博打から足を洗えないその気質はいかがなものか、というところだが、ただそれが責められるなら、時と場合を弁えず、そこで気前よく金を渡してしまう宋江もまた、責められて然るべきであろう。
綽名というのは「こう呼ばれたい、こう呼んで欲しい」と自称する者も時にいるが、大抵は周囲がその人の人柄なり特徴なりを評して名付けるものだ。そして宋江は紛れもなく後者である。
一介の押司である宋江に付けられた、天の恵みを表す「及時雨」という綽名。
その綽名には宋江の人柄を称賛する人々の偽らざる尊崇の念と共に、人の醜さ、卑しさが見え隠れする。
問題は宋江がその綽名を受け入れてしまっている事だ。
それにより人々は更に宋江を信奉し、そうして慕う者達に宋江は誰かれ構わず手を差し伸べる。しかし、慕われる事と救いの手を差し伸べるか否かは別の話であって、差し伸べなくてもいい相手にまで手を差し伸べていれば、いつかその中に紛れた有象無象達のせいで、要らぬトラブルまで自らの手で引き寄せる事になる。
そしてまた、宋江の周りにはそれを諌める者がほぼいない。
雷横のように、博打にのめり込んでいるというなら非は鳴らし易い。宋江の行いがあまりに度が過ぎるとなれば、宋忠や花栄のように「加減を弁えろ」と真っ当な忠告をする者もいるにはいる。だが、そんな意見は圧倒的に少数派で、そもそも社会通念上「博愛、仁愛の精神は大変素晴らしい」とされているのだから、そんな忠告に宋江が耳を貸す余地もなければ、自らの行動を省みる事もない。
結果、宋忠や花栄のように真っ当な見識を持つ者の心配を余所に、宋江の行いがどれほど度が過ぎて見えようと、加減を知らないように見えようと、周囲の者達は口を揃えてこう評すのだ。
「それが宋江の人徳であり、それこそが宋江の宋江たる所以である」と。
大事な事なので二回言いました。
※1「10両」
「両」は重さの単位で1両は約37g。第七回の閑話休題「銭や、銭ぃ~」参照。
※2「棺桶代を出す」
当時、老齢の人が生前からお棺や死装束を用意しておく(或いは他人が用意してあげる)風習があり、特に縁起が悪いという事でもなかったようです。現代の日本で言う「終活」のようなものでしょうか。『水滸伝』の作中にも、女性が隣家の老婆のために死装束を繕ってあげる場面が描かれています。まあ、結末はアレでしたがww
※3「滄州」
現在の天津直轄市南部と河北省滄州市中東部一帯。
※4「後周」
五代最後の王朝ですが、統一王朝ではありません。正式な国号は「周」ですが、本文では一般的に古代王朝の「周」と区別するために用いられている「後周」としました。951年~960年。
※5「殿前都点検」
後周(※4)禁軍の最高指揮官。また、後周から禅譲を受けた宋にも引き継がれた──というよりは、宋の太祖・趙匡胤が都点検在任中に禅譲を受け、その後、廃止されなかったため、宋禁軍においても最高指揮官に位置づけられる。ただし、太祖の即位によって空位となった直後に、一時的に後任が任命された事はあったものの、即位時に太祖が着任していた事に憚ったものか、太祖の即位(宋建国)翌年には再び空位となり、以降、官職自体は残りつつ、着任した者はいない。




