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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第六回  李柳蝉 蒼翠の麓に泪を揮い 小将軍 鄆城に義兄を訪うこと
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酔客

「大郎(花栄)、具合はどうだ?」


 水を張り、手拭いを浸した桶を手に、燭台の灯が点る室へ入ったのは宋忠。


「これ、は、義父上。御迷惑を、お掛け──」

「ああ、待て待て。無理をするでない」


 宋忠は慌てて桶を置き、身体を起こそうとする花栄を制して手を貸した。すでに花栄は丸三日寝込んでいる。


 最初に花栄の異変に気付いたのは宋清だった。


 二日前の事。

 宋江や宋清と共に東渓村を訪ねる予定であったのに、花栄は朝になっても一向に客間から出てこない。それを心配し、様子を見に来た宋清が声を掛けても、室の内からは返事すらない。

 不審に思って宋清が室に入れば、花栄が息も絶え絶えに顔を歪めて(うな)されていた、という訳だ。


 宋清がすぐに宋忠や宋江に伝えると、多少の動揺は見せながらも、総じて落ち着いた様子で湯や滋養食の支度を指示した宋忠とは対照的に、宋江の狼狽は尋常ではなかった。

 宋忠の制止を聞く間もあればこそ、すぐに県城に使いを走らせて医者の手配をするや、屋敷の中を()けつ(まろ)びつ花栄の枕元に駆け付け、手を取って花栄に語り掛けてはみたものの、やはり花栄は(うな)されるばかりで返事もままならない。

 おろおろと動転し、ぼろぼろと涙を流し、いよいよは「賢弟(花栄)が死んだら自分も生きてはいられない」などと言い出す有り様で、呆れた様子で追い掛けてきた宋忠からは、


「何を枕元で縁起でもない事を口走っとるか。昨日まであれほど元気だったものを、そう簡単に命を落とす訳がなかろうが」

「しかし、父上…」

「大方、溜まってた疲れが一気に出たのだろう。ゆっくり休めばすぐに良くなるわ。しっかりせんか!」


 と、叱責を受けたりもしたのだが、宋江の狼狽は益々酷くなるばかり。

 しばらくして医者が到着したかと思えば、まだ診てもいない内から「何が原因か」やら「何を食べさせればいいか」やら「金に糸目は付けないから何とか助けてくれ」やらと医者に纏わり付き、室に入ってからも花栄の側を離れないものだから、挙げ句の果てには診療の邪魔になると宋忠や宋清に引き剝がされて室を追い出される始末で、周囲はほとほと手を焼かされた。


 医者の見立てでもはっきりとした原因は分からず、結局は宋忠の言う通り、疲れが出たのだろうという結論に落ち着いて、医者は数日分の薬を置いて一旦引き上げていった。


 それから二日間の花栄は、身体を起こすどころか意識も混濁したままで、食事を用意しても当然喉を通らず、宋江が手ずから水差しで水を飲ませては身体を拭いて、と付きっ切りで看病していたのだが、ようやく意識を取り戻したのが今朝の事である。


「すまんなぁ。三郎(宋江)が側で、あーでもないこーでもないと…騒がしくてゆっくり休んでられんかったろう」

「いえ、こちらこそ、御心配をお掛けして…」

「何、調子の悪い時は誰にでもある。気にせず、体調が戻るまでしっかりと養生する事だ」

「はい」


 今朝方、花栄が目を覚ました時の、宋江の喜びようといったらない。

 涙で顔をクシャクシャにし、声にならない歓声と共に、まだ満足に身体を動かす事もできない花栄に抱きついて喜んだその様は、まるで随分前に亡くした故人にでも出会ったかのようで、あまりの声に驚いた宋忠や宋清が「何事か」と室に駆け付けたほどだ。


「突然、寝込んで迷惑を掛けた」と恐れ入る花栄を皆で慰め、丸二日間、水以外を口にしていない花栄に、柔らかく煮込んだ饂飩や粥を与えて再び休ませると、青白かった顔にも昼にはいくらか血色が戻ってきた。


「四郎(宋清)から聞いたがの…」


 今は早、日暮れ時。

 宋忠は花栄の身体を拭こうと手拭いを絞るが、幾分身体も動くようになってきた花栄はそれを遠慮し、手拭いを受け取る。


一昨々日(さきおととい)から体調が思わしくなかったそうではないか」

「…はい」

(わし)らも気付いてやれんで申し訳なかったが、大郎もそれならそうと言ってくれれば良かったものを」

「いえ、『申し訳なかった』なんて、そんな…」

「言ったろう?ここを自分の家と思えば良い、と。我らの気持ちを受けるにせよ断るにせよ、遠慮なぞ無用だ」

「はい。申し訳あり、ません」

「あー、いやいや、別に大郎を責めるつもりはなくてな。寧ろ詫びなければならないのはこちらの方だ。特に三郎の振る舞いを、の」


 恥じ入るような表情で、宋忠は花栄を眺めた。


 花栄が倒れた日。

 医者が帰った後で「そういえば…」と前日の花栄の様子を語った宋清は、宋江から「何でそれをもっと早く言わなかったのか」と、烈火の如き勢いで(なじ)られた。

 さすがにムッときた宋清が「言っても無駄だし、そもそも誰の所為で──」と言い返そうとしたところで、代わって雷を落としたのが宋忠である。


「全く、三郎(アレ)ときたら…自分の考えを押し通そうとするばかりで、相手の都合などまるでお構いなしだ。毎日毎晩、浮かれ捲って、浴びるような量の酒を大郎に強いてからに。挙げ句、そんな己は棚に上げ、いけしゃあしゃあと四郎に責任を(なす)るような事まで()かしおったでな。堪らず叱り飛ばしてやったわ」

「いえ、宋哥は──」

「何、分かっとるよ。三郎(アレ)三郎(アレ)なりに大郎をもてなそうとしていた事はな。しかし、現にこうして大郎は調子を崩してしまったろう?自分は親切のつもりでも、相手の事を考えとらんからこういう事になる。(あまつさ)えそれを他人(ひと)の所為にするなど、身勝手にもほどがあるわ」

「四郎にも、言いましたが、宋哥の気持ちを、断るに忍びないと受け入れたのは、私です。それに、身体の不調が、酒の所為と、決まった訳でもありませんし…あまり宋哥を、お責め下さいますな」

「さすが、武に生きる大郎は慎み深いの。それを得る為だけに三郎(アレ)を武の道に進ませようとは思わんが、とはいえ爪の垢でも煎じて飲ませてやりたいくらいだ。しかしまあ、親切の押し売りなど、身体を壊してまで買うものでもあるまい。これでもし大郎に万が一の事でもあれば、儂らは校尉(花毅)に何と詫びれば良かったものか」


 なかなかに難しいところだ。いずれの言い分にも一理ある。

 いや、一連の責任を宋清一人に負わせようとする、言い掛かりにも似た宋江の言動はさすがに行き過ぎであろうが、それはさておき、善意とは真心から発するものだから、花栄をもてなしたいという宋江の気持ちは誰しもが理解できる。


 そして、好意を持つ相手から向けられた好意を拒絶するというのも、確かに花栄の言う通り忍びない。

 相手によっては善意を無下にしたために争いの火種が生まれる事もあるだろうし、場合によってはそれで関係が断絶してしまう可能性だってある。宋江の言う「もてなしを受けなければ金輪際、弟とは思わない」というのは単なる冗談みたいなものだが、花栄とてそんな事は微塵も望んでいないのだから、たとえ冗談でもそう言われれば、無理を押してでもその気持ちに応えようと思うのが人情というものだ。


 しかし、やはり年の功とでも言うべきか、最も的を射ているのは宋忠の言葉であろう。


『過ぎたるは()お及ばざるが如し』(※1)と古人の言葉にある通り、善意を他者に向けるのは確かに素晴らしいが、相手の意に沿わないほど度が過ぎた善意は、向けられた側にとって負担でしかなく、ともすれば迷惑にもなり得る。向けられた側だって、それでもまだ最初の内は、無理を押してでも応えようとするのだろうが、無理を押し続けていれば、いずれ適わなくなるのは自明の理だ。

 そうなれば、強いる側と応える側の関係が深ければ深いほど、対等でなければないほど大きな軋轢を生み、元の関係がどれだけ親密であろうと、いつか破綻をきたしてしまう。


 或いは『人の歓を尽くさず、以て交わりを全うす』(※2)と古人の言葉にある通り、いくら他人の好意が自分に向いているからといって、我が物顔で無尽蔵の善意を相手に求め、搾れるだけ搾り尽くしてやろうというのでは、もはや友情でも何でもなく、ただの寄生虫も同然だ。

 たとえ元は善意を向ける側と向けられた側に友情があって、その友情を壊さないために、意にそぐわぬ善意を我慢して受け続けるのだとしても、結果的に相手の善意を搾り尽くすまで我慢を続けてしまえば、結局はその友情を壊す事になる。


 だからこそ、他人との友誼の内には思慮深さと節度が必要なのだ。自らの好意を相手が喜んでいるか否か、相手の好意を受け入れるべきか否か、それを判断できなければ関係は築けない。


 惜しみなく好意を与える姿は、傍から見れば時に美しく見える事もあるだろうが、好意を押し付けるだけ、受け入れるだけの関係など、(いびつ)以外の何物でもない。

 好意を向ける時は向け、控えるべき時は控え、向けられた好意に応える時は応え、断るべき時は断る間柄であってこそ、初めて爾汝(じじょ)の交わり(※3)と言える。


「まあ、何はともあれ、こうして身体を起こせるまでに回復してホッとしたわぃ。とにかく今はゆっくりと養生する事だな。三郎にも、あまり大郎に無理をさせるなと言っておくでの」

「はい。ところで今、宋哥は…?」

「漸く身体を起こせるようになったばかりというに、三郎(アレ)が側に居ては気が休まらんだろう。大郎を落ち着いて休ませる為にも、今日はもう客間(ここ)に入るなと言っておいた」

「そう、ですか…では、宋哥にお伝えいただきたい事が、あるんですが」

「ん?」


 身体を拭き終えた花栄は、手拭いを宋忠に返して居住まいを正す。


「私の、事を気に掛けていただくのは、大変有り難いんですが、もう随分と、勤めを休まれてますから、明日からでも、勤めに戻って下さい、と」

「ああ、言われてみれば。しかし、相変わらず真面目だのぅ、大郎は」


 白いものが目立つ豊かな(ひげ)(顎ひげ)を左手で弄りながら、宋忠は温かい視線を花栄に向けるが、


「まあ、伝えるのは構わんのだがな…三郎がそれを納得するかのぅ」

「私が、こちらで世話になる事で、県の方に御迷惑を、お掛けするのは、忍びありません。どうでも、私が居る内は、勤めに戻らぬ、と言うのであれば、私は体調が戻り次第、青州に戻りますと、お伝えいただければ…」

「はは、なるほどの。それなら効果覿面(てきめん)だろう」

「幸い、宋哥は県から馬を、借りてるようですから、朝早くに出れば、衙門の点呼には、間に合う筈です。体調が戻れば、私も下宿の方に伺いますし、宋哥に黙って、青州に戻るような、真似はしませんから、と──」

「ああ、それは期待せん方がいいな」


 苦笑を返した宋忠は「身体に障るから」と促し、手を貸して花栄を横にさせる。


「何故です?」

三郎(アレ)が大郎を置いて下宿に戻ると思うか?馬でなら通って通えない事もないと分かれば、意地でも屋敷(ここ)から通おうとするに決まっておる」

「それは、まあ…しかし、さすがに大変じゃ、ありませんか?」

「まあ、朝は早いし帰りも遅くはなるだろうが、本人がそれを承知でそう望むのなら、そのくらいは認めてやってくれ」

「はい」

「父さん、入っても平気?」


 室の外から声を掛けたのは宋清。宋忠が招き入れると、盆に夕餉(ゆうげ)の粥と果物を乗せていた。


「さて、少し話し込んでしまったな。食事を摂ったら、またゆっくり休むといい。儂は三郎と話があるでな。四郎、食事の世話は任せたぞ」

「うん」


 そう言い残し、宋忠は室を後にした。


「さて、大郎どうする?」

「…?何が?」

「身体を起こすのが辛いなら、横になったまま食べる?何なら俺が一旦口に含んで、柔らかくしてから食べさせてやっても──」

「冗談言うな。起きれるよ」


 身体を起こす花栄に手を貸しながら、宋清はクスクスと含み笑いを零している。


「よし、じゃあ俺が『あーん』してあげるよ。それか、熱いの苦手なら『ふーふー』してあげようか?」

「要るか。何だ、急に。気色悪い」

「『気色悪い』はちょっと酷いんじゃない?調子が悪い時くらい、人の親切は素直に受けるもんだよ?」

「調子が悪いのが、分かってるなら、つまらん冗談は止めろよ」

「あら、バレた?」

「全く…それに生憎と今の今、義父上から、望まぬ親切なら、遠慮なく断ればいいと、言われたばかりだ」

「ああ、そう。何だ、つまんない」


 宋清は寝台の縁に腰を掛けた花栄の前に卓を運び、盆を置く。と、二人の耳に、室の外で言い争う宋忠と宋江の声が届いた。


「えっ、何事!?」

「あぁ、勤めに戻るよう、義父上から宋哥に伝えて、もらったんだ」

「あー、そりゃあ兄さんは不服だろうなぁ」

「そうは言っても、休み始めてからもう、かれこれ10日近く経つぞ?いくらこっちの、知県閣下から許可を、貰ってるからって『さすがに』だろ」

「まあねぇ」

「宋哥は承知するよ」


 粥を口に運びながら、花栄はうっすらと笑みを浮かべる。


「ん?何で?」

「勤めに戻らないなら、俺は青州に帰る、と義父上に言伝を頼んだ」

「え、マジで!?」

「『方便も時と場合』だろ?」

「あぁ、そういう事か。それなら確かに兄さんも承知すると思うけど…後で方便だとバレたら怒られるだろうねぇ?」

「黙ってろよ、義父上には、言ってないんだから。お前が話さなきゃ、バレないよ。バレたらお前も、巻き添えにするからな」

「うへぇ、そりゃあ黙ってるしかないな」


 大仰に顔を(しか)める宋清の姿に花栄は静かに笑みを零し、それに応えて宋清も笑みを返す。


 その後も二人は花栄の食事が終わるまで他愛のない会話を交わす。そして食事が済むと、宋清は空いた盆を受け取り、花栄が横になるのに手を貸して、ゆっくり休むよう言い残して室を出て行った。


 目を閉じ、未だ続く宋忠と宋江のやり合う声を頭の片隅に聞きながら、どれほどの時間が経つ間もなく宋清の声がそこに加わった辺りで、花栄は意識を手放した。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 翌日。


 結局、父と弟の二人掛かりで言い(くる)められた宋江は、朝から膨れっ面である。


「もう…兄さん、いつまで拗ねてんのさ」

「当たり前だろ?寝込んでる賢弟を置いて城へ行かなきゃなんないんだから」

「大郎の事は父さんと俺でちゃんと世話をするから」

「当たり前だ。それより、本当に賢弟が勤めに戻れと言ったんだろうな?父上やお前が俺を勤めに行かせる為に──」

「あー、もう!昨日からずっと言ってるでしょ!?ホントに大郎がそう言ってたんだってば!」

「はぁ…せめて賢弟の様子だけでも見てから行くか」

「まだ日の出前だよ?寝てるって…」


 と、その時──


 ダンッ!ダンッ!ダンッ!


「おーい、哥兒(かじ)(※4)!こっちに居るんだろー、宋哥兒ぃ!」


 門を叩くけたたましい音と共に、大音量でがなり立てる声が屋敷の中にまで響き渡った。


 突然の事に二人は顔を見合わせるが、とにもかくにもと慌てて駆け付けて門を開けると、そこには一人の男が馬を従え、上機嫌で立っている。


「おおぅ…早速、宋哥兒のお出ましときやがった。随分と…うっぷ…御無沙汰だな。何処に雲隠れしてんのかと思ったら、やっぱりここに居やがったかぁ。もっと早く来りゃ良かったぜ…おん?そこに居んのは四郎じゃねえか!?兄弟揃ってお出迎えたぁ嬉しいね。久しぶりだな、四郎!」


 ベロベロだった。

※1「過ぎたるは()お及ばざるが如し」

『論語(先進)』。原文は『過猶不及』。訓読は本文の通り。「何事につけ(行き届かないのが問題である事は言うまでもないが)、行き過ぎるのは行き届かないのと同じ(ように問題)である」の意。何事もほどほどに。

※2「人の歓を尽くさず、以て交わりを全うす」

『礼記(曲禮上)』。原文は『不盡人之歓、不竭人之忠、以全交也』(「盡」は「尽」の旧字)。訓読は『(ひと)(かん)()くさず、(ひと)(ちゅう)()くさず、(もっ)(まじ)わりを(まっと)うす』。「(自分に向けられる)他者の好意も忠義も、それが尽きてしまうまで受けるべきではなく、(時に遠慮するくらいの)その姿勢が人との交流を長続きさせる」の意。何事もほどほどに。

※3「爾汝の交わり」

互いに軽口や言いたい事を言い合える間柄。

※4「哥兒」

兄弟のように親しい年上の男性に対する呼称。アニキ。


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