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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第六回  李柳蝉 蒼翠の麓に泪を揮い 小将軍 鄆城に義兄を訪うこと
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ヒマみ

 県城の城門を潜った花栄の表情は未だ不愉快そのもの、といったところである。

 馬を曳きながら花栄は思い返す。


 あのまま老道士を斬り捨ててしまえば良かったのではないか、と。


 しかし結論から言えば、斬らなかったのが花栄にとって幸いだった、と言わざるを得ない。


 老道士の言葉は紛う事なく謀叛の教唆である。理想を言えば捕らえて県の役人に引き渡し、子細を追及した上で法の下に裁かれるべきであろうが、花栄の立場ならあの場で斬ってしまっても何ら問題はなかった。


 その場にそれを証す者がいたならば。


 老道士の言葉を聞いた者は花栄の他に存在しない。

 いかに花栄が官に仕える身とはいえ、それは青州での事である。そして、ここは青州ではない。

 顔見知りの少ない旅先で、どれだけ「コイツは悪人だったのだ」と主張したところで所詮は死人に口なし、斬り捨てた張本人の言葉だけではしょうがない。というか、それではもはや辻斬りの下手な言い逃れも同然で、疑われない方がどうかしている。


 仮にそんな事態になったとして、花栄にも味方がいないではない。

 では、その味方が頼りにならないのかと言えば、決してそんな訳でもない。むしろ大いに頼りになる男だ。

 その男こそ、ここ鄆城県で押司を務め、今、将に花栄が訪ねようとしている花栄の「兄」である。


「兄」の()()()(すこぶ)る良い。

 鄆城県下は元より、今やその名が済州だけに止まらず山東(さんとう)全域、いや、いっそ宋全土にさえ知れ渡ろうかといった按排だ。


 曰く──

「性格は義に篤く、孝に厚く、礼を弁え、仁を備え、物腰は柔らかく、尊大さなど欠片もない。金を持たせれば自分のためには(ろく)に使わず、他人のためには湯水の如く惜しまず使う」


 が、いかに評判は良くとも、そもそも花栄が窮地に陥った時にその手の事情に疎い、或いはいっそ知り得ないというのではお話にならない。それでは頼りになる、ならない以前の問題だ。


 その点、押司というのは衙門(がもん)(役所)で事件の手配を回したり、住民からの訴えを取り次いだりと、事務全般に携わる職であるから、玉石問わず県下のネタには耳が早く、少なくとも「花栄が窮地に陥った事すら知らぬまま時が過ぎ、気付いた時には後の祭りだった」などという心配はない。


 ただでさえ自分の事には頓着なく、他人の窮地を救う事に生きがいを見出しているようなその「兄」が、一度(ひとたび)花栄の窮地を知ったなら、それはもう何を差し置いても、ひたすら「弟」のために奔走するに決まっている。


 惜しむらくは直接罪人の裁きに関わる職でないため、己の裁量で罪状や量刑を決定したり、知県に進言するといった事はできないが、それでも生まれついての資産家とは言えないながらも、手持ちの金は洗いざらいにバラまいて、関わる官吏に片っ端から花栄への温情を懇願すれば、元より知県を初めとする官吏達の信頼も厚い男であるから、大抵の便宜は図ってもらえるはずである。


 襲われた賊を返り討ちにした訳でもなし、さすがに確たる理由も証もないまま人を斬って無罪放免とはいくまいが、或いはその「兄」が尽力すれば「確たる理由」があった事になり、影も形もない「確たる証」によって、起こり得ない事が起こる可能性すらある。

 頼りにならないどころの話ではない。


 が──


 それも普段であれば、だ。

 残念ながら今回ばかりは、そう単純な話ではない。


 真偽はともかく、相手の身なりは見るからに道士そのものだった。

 破落戸(ごろつき)風情を斬り捨てるのとは訳が違い、相手が道士となれば、事は単に道教に携わる者を斬ったというだけに止まらない。


 今上陛下が道教に傾倒しておられるのは周知の事実である。そして、陛下が何かに入れ上げれば、陛下に(おもね)る朝廷の高官達が先を競ってそれに倣い、朝廷の高官が倣えば、それに阿る地方の高官達も後に続くのがこの国のお約束である。

 要するに今、道教は宋という国家によって庇護されている状態なのだ。


 仮にあの道士を斬り捨てていたら、今頃花栄の立場は相当に悪くなっていたはずだが、その上「老道士が謀叛を企てていたから斬り捨てた」などと声高に訴えようものなら、州や県など物の数でもなくすっ飛ばし、道教を率先して庇護する朝廷や帝室の体面までをもズタボロにしてしまう。

 そしてまた、それを平然とやってのけるのが花栄という男だ。


 そこにシビれて憧れるか否かは人それぞれとして──


 花栄は公務で鄆城県を訪れた訳ではない。軍装でもなければ、公の書簡なども持ち合わせていない。

 当然、調べを受ければ花栄だって身分を明かす。しかし、それを加味した上でも、花栄に対する客観的な心証は、精々「禁軍提轄を騙って道士を斬り捨て、帝室の威光を損ねた旅人」といったところであろうか。

 この御時世にそんな者の言い分がまかり通る訳がない。


 となれば話は早い。取り調べる側にしてみれば、面倒事を持ち込んだ厄介な他所者(よそもの)など、とっとと始末を付けてしまうに限る。


 最も手っ取り早いのは、花栄の言い分をガン無視して獄死()()()()()()事だが、適当な罪状をでっち上げた調書を添えて「どうぞ処罰は御随意に」と京師(都、転じて朝廷)に送り付けるのも捨て難い。どうせ結末が同じなら、後者の方が朝廷なり帝室なりに媚びと名を売れる分だけ、よりお得である。


 青州への配慮も全く必要ない。

 そもそも花栄が身分不詳であるから処遇を決め易いのだから、わざわざ確認する必要もなければ、知らせてやる必要もない。

 あえてというなら、慕容知州に使いの一つも出せば済む。


『おたくの提轄が帝室に対して不敬を働きましたが…』と。


 今上陛下の側室である慕容貴妃の威光に(すが)って、それはつまり帝室の威光に縋って知青州の座に居座る男が、その帝室の威光を傷つけたという麾下の一提轄を庇う訳がない。

 どうせ知らせたところで「好きなように処分してくれれば結構」と言われるのだから、わざわざ知らせずとも、好きなように処分すればいいだけの話である。


「兄」の尽力も宛てにはならない。

 頼りにならないのではない。人望や金の問題ではないのだ。


 いくら周囲の人望厚く、信頼を集めていようとも、所詮片田舎の一押司である。

 どれだけ「兄」が花栄のために奔走し、尽力したとしても、決を下す知県以下、上下の役人達が、帝室と押司のどちらの顔を立てるかなど考えるまでもない。


 花栄が斬り損ねた相手といい、斬った事により面子を傷つける相手といい、今回は二重の意味で相手が悪すぎる。


 詰まるところ──


 斬らなかったのが花栄にとって幸いだったのだ。


 しかし、それを知ってか知らずか、花栄は尚、不機嫌そうな顔を浮かべ、


「せめて捕らえて衙門に突き出すくらいは…」


 などと、ぶつくさ零しながら馬を曳いている。


 まあまあ、小将軍。済んだ事をいつまでも引きずりなさんな。


 パカパカと小気味の良い蹄の音を聞きながら、一人と一騎は気付けば早、衙門の前へと辿り着いた。


「直接、訪ねてもいいんだが…」と思案しながら花栄が辺りを見渡せば、丁度いい事に正門前の道を挟んだ向かいには茶店がある。

 何と言っても訪ねる相手は役人であるから、約束もなく訪ねて仕事の手を止めるのは迷惑が掛かる。そろそろ昼時であろうし、この茶店からなら食事を摂りに衙門を出る人が良く見えるか、と花栄は暖簾を潜った。


 馬を給仕に預けて(まぐさ)を頼み、席に着いて茶を頼んだ花栄は、運ばれてきた茶を受け取りつつ、年若い男の給仕に声を掛けた。


「少し尋ねたいが」

「はい、何でしょう?」

「随分と衙門の中が静かなようだが、お役人方は休憩でもう表に出られてしまったかな?」

「んー、今日はまだお出になられてないんじゃないですかね?手前もずっと見てた訳じゃありませんから、はっきりとは分かりませんが…どなたかをお訪ねですか?」

「ああ、ちょっと知り合いをな」


「なぁんだ…」と呟いて、給仕は軽く笑みを零す。


「お知り合いなら、直接お訪ねになられれば宜しいじゃありませんか」

「いやいや、特に約束なんかをしてる訳じゃないんだ。相手はお役人だし、いくら知り合いだからって忙しい時に突然訪ねたら、さすがに迷惑だろう?」

「あはは、見掛けないお顔とお見受けしましたが、旅のお方でしたか。この辺りの事にはあまりお詳しくない御様子で」

「ん?ああ、確かに青州から来たが、別に鄆城(ここ)が初めてって訳じゃないぞ?しかしまあ、以前に訪れたのはもう何年も前で、この地の事情に疎いのは確かだな」


 昼時にはまだ少し早いせいもあってか、店内には花栄の他に客はなく、衙門から人が出てくる様子もない。

 丁度いい機会だから、と花栄は亭主に掛け合い、他の客が来るまでの間ならという事で、給仕を卓の向かいに座らせて、新たに二人分の茶を注文した。


「何か…すいませんね」

「何、気にするな。ここなら話しながらでも衙門の様子は分かるし、知り合いが出てくるまでは俺も暇だからな。で?」

「…はい?」

「まるで俺を世間知らずだとでも言いたげな物言いだったじゃないか」

「うぇえっ!?いやいや!決してそんなつもりは…」


 僅かに(いき)り立つ素振りの花栄に対し、慌てた給仕はすかさず身体の前でブルブルと両手を振るわせるが、それを見た当の花栄は、くつくつと笑いを噛み殺している。

 そんな事は他ならぬ花栄自身が、この旅の中でほとほと思い知らされたのだ。今さらそれを誰に指摘されたところで、腹を立てる筋合いはない。


 と、先の老道士にも指摘されていた事を思い出し、花栄の胸に再び苦いものが込み上げる。しかし、それを給仕に当たったところで、それこそお門違いもいいところ、花栄は努めて平静を装い、


「いや、すまんすまん。冗談だ、冗談。別に脅そうというつもりはなかったんだ」

「勘弁して下さいよ、もぉー」

「それで?ここの事情ってのは?」

「あー…えっと、何か前フリが大袈裟になっちゃって。そんな大層な事じゃないんですが…」

「何、構わないよ」

「いえ、ここはホラ、見ての通り平穏な田舎町ですからね。事件なんかもそうそう起こるもんじゃなし、訪ねたところでお役人様が忙しくて門前払いを喰らうなんて事は滅多にありませんよ、ってだけの話なんですが…」

「ははっ、それは確かに大層な話じゃないな。ついつい話に乗せられ、まんまと茶を奢ってしまった」


 呵呵と笑う花栄に釣られ、給仕も恐縮しながら笑みを零す。


「しかし、旅の途中に聞いたが、あの湖の…何と言ったか、あの山は…」

「梁山ですか?」

「そうそう、その梁山にも賊が巣食って寨を築き、日々勢いを増してきてるそうじゃないか」

「確かにそんな話も聞きますが、賊が鄆城(ここ)へ兵糧を借りに来る(※1)ような事はまずないでしょう」

「何故そう思う?」


 給仕は出された茶に「頂きます」と恐縮しながら口を付け、


「まず一つには寨主の器量でしょうか。梁山の主は科挙(かきょ)(※2)に落第した書生崩れらしいんですが、意気軒昂な手下達を満足に纏める度量もなく、むしろ今の寨勢を維持するのにも汲々としてると専らの噂です。それと…梁山を囲む湖は御覧になりました?」

「ああ、来掛けに遠目には見たが?」

「二つに、あの湖はあまりに広大で、真ん中辺りを境に北を隣の鄆州が、南をここ済州が管轄してます。梁山は鄆州の管轄になりますが、鄆城(ここ)にちょっかいを出せば、済州まで向こうに回す事になりますからね。ただでさえ寨主がそんな器量ですから──」

「わざわざ薮をつついて蛇に睨まれるような真似はしない、という事か」

「ええ。何ならこの地で法を犯した者が逃げ込むだけでも、あれやこれやと難癖を付けて、追い払おうとしてるらしいですよ?」

「よくそんな男が寨主になれたな」

「さて…噂では手下に推されたとか何とか」


 給仕はうっすら笑みを浮かべながら頷くと、更に続ける。


「更に言えば、先頃から衙門(ここ)にお勤めの馬兵巡捕都頭が、また大層な凄腕でございまして。そのお方が職に就かれてからというもの、梁山は元より、近隣で悪さを企む者達も鳴りを潜め、いよいよ事務方のお役人様はお手透きの御様子で」

「ほお。その馬兵都頭は何と言われるお方かな?」

「そのお方は姓を(しゅ)と申されましてね。元々鄆城(ここ)の御出身なんですが、武芸の腕もさることながら、風貌がまた関公(関羽)にそっくりでいらして。なので、この辺りでは『美髯公(びぜんこう)』と綽名(あだな)され、大層慕われておりますよ」

「そういえば、青州でも『済州に美髯公あり』と噂を聞いた事があったが…そうか、こちらに勤めておいでだったか」

「ええ。それに朱都頭お一人だけでも心強いところへ、欠員となってた歩兵巡捕都頭に任ぜられたお方も、朱都頭に勝るとも劣らない豪傑でいらっしゃいます」

「ほお、そんなお方が」

「そのお方の姓は(らい)と申されますが、こちらは朴刀を操らせれば天下無双、その上、拳脚(※3)の達人でもあります」

「済州の雷…雷…もしや、その巡捕都頭は『插翅虎(そうしこ)』と綽名(あだな)されるお方ではないか?」

「そうですそうです。お聞き及びでしたか。まあ、博打に目がないところだけが何と言うか…残念?…とでも申しましょうか」


 その言葉に花栄の顔は曇った。


 戦場においての博打ならいざ知らず、花栄は金銭を賭けた博打を一切しない。まして土地屋敷を賭けた伸るか反るかの大勝負など以ての外である。

 だからといって直ちに博打そのものや、博打を打つ人間までをも否定するつもりは更々ない。単に自分がそういった類いの事に楽しみを見出だせないというだけの事だ。


 それを知ると周囲の博打好きは、(しき)りにその魅力を語って花栄を泥沼に引きずり込もうとし、それが見向きもされないとなると、途端に「博打の一つも打たぬつまらない男」と陰口を叩いたりする。


 大抵その手の輩は、自らの趣味や嗜好を他人に否定されれば「好きで何が悪い。いや、個人の自由を否定するとは、アイツは何とけしからん奴だ」と腹を立てながら、そのくせ自分が楽しみを理解できない事や、いっそそれを趣味とする者までをも平気で攻撃したりするものだ。


「自分の嗜好を否定されて頭にくるのなら、他人の嗜好に口を出すな。自分の事が理解されなければ、他者を非難して寛容を強いるクセに、何故そうして他者を非難する自分の不寛容は許されると思ってるのか。思い上がりが甚だしいにもほどがある」とは、そうした輩に対する花栄の率直な思いであるが、とはいえ何事にも節度は必要だ。そこに金が絡むのであれば尚更である。


 博打というものは結果的に胴元が儲かるようにできていて、一時は、或いは運が良ければ立て続けに客が儲かる事もあろうが、常に客が儲けていては、いずれ胴元は首を(くく)らなければならない訳で、そんな博打が成立する訳がない。


 市井の者が博打にのめり込むのならまだいい。

 いや「いい」というのはちょっと語弊がある。博打に狂って身の破滅を迎える者は多いし、全財産を注ぎ込んだ挙げ句に借金まで背負って夜逃げでもされた日には、それを肩代わりさせられる周囲の人間は堪ったもんじゃない。


 それは確かにそうなのだが、しかし権力を持った者、或いは人の上に立つ者が博打にのめり込んでしまったら、これはもう目も当てられない。

 それと比べれば遥かにマシ、という事だ。


「美髯公」の朱仝(しゅどう)と共に、遠く青州にまで噂が届くくらいなのだから「挿翅虎」の雷横(らいおう)もまた一個の豪傑なのであろうし、だからこそ賊の捕縛を司る巡捕都頭の職に任ぜられたのであろう。

 しかし、噂が宛てにならないのも世の常だ。


 義のために法を犯し、仲間を助けようというのなら、まだ花栄にも分かる。清風鎮では他ならぬ花栄自身が、仲間でもない賊のために、職を賭してでも正知寨の悪行を暴き立ててやろうとしたくらいなのだから。


 だが、賊の捕縛を担う巡捕都頭が博打にハマって困窮し、金のために法を蔑ろにして賊に手心を加えるとなれば、これほどこの地の住人にとって不幸な事はない。そして残念な事に、この国では往々にしてそんな事がまかり通っている。

 それが花栄に一抹の不安を抱かせた。


「…如何なさいました?」

「ああ、いやその…他所者の要らん節介かも知れんが…大丈夫なのか?」

「…?何がです?」

「巡捕都頭が博打好き、というのもどうかと思うが」

「…ああ!これは手前の言葉が足りませんでした。確かに雷都頭の博打好きは有名ですし、熱くなって有り金を(はた)いてしまう事もままあると聞く事は聞きますが、それもあくまで仲間内での遊びのようなものですよ。そこで借金までして、首が回らなくなるような賭け方はしないお方です。つい先頃まで鍛冶を生業とされてましたから、切った張ったの世界とも付き合いはあるんでしょうし、まあそういった雰囲気を楽しまれてるんじゃないですかね。それに…」


 給仕が店外を見回す。そして付近に誰もいない事を確認すると、僅かに顔を寄せて声を潜めた。


「雷都頭の面子にも関わる事ですから、あまり大きな声じゃ言えませんが…雷都頭の御母堂がまた気性の激しいお方でして。何しろ都頭が博打に(うつつ)を抜かしてると聞けば、その度に周りの目も憚らず、平然と街中で叱り飛ばすくらいですから」

「お?おぉ、それはまた…」

「手前も何度となく見た事がありますけどね。賊の10人、20人に囲まれたくらいじゃ、眉一つ動かさないほど肝が据わっておられる雷都頭も、心根は孝に厚いお方ですから、御母堂だけにはどうにも頭が上がらない御様子で…」

「ははっ、それは確かに雷都頭も面目が立たんな」

「まあ、腕っぷしの方は間違いない訳ですし、一本筋の通った気持ちのいいお方ですから、むしろこの県の者は皆、雷都頭の就任を歓迎してますよ」

「雷都頭が道を踏み外さぬよう、厳しいお目付け役が目を光らせてるお陰で、か?」


 額を離した二人は弾けたように笑い合った。

 冷めた飲み()しの茶を流し込み、花栄は新たに茶を二杯頼む。


「いやいや、そんな何杯も──」

「何、俺の暇潰しに付き合ってもらってるんだ。遠慮するな」

「そうですか?えーっと…ところで元の話は何でしたっけね?」

「ん?あー…ああ!直接、衙門を訪ねればいいだろ、って」

「ああ、そうでしたそうでした。そんな訳で今、鄆城(ここ)は大きな事件もなく平穏そのもの、お役人様方もお手透きどころか、暇を持て余してるくらいなんじゃありませんかね。それにここのお役人様は気さくな方が多いですから。心配は御無用ですよ」

「んー、そうは言ってもなぁ…」

「ここでお待ちいただくのは一向に構いませんが、もし今日お目当ての方が休みを取られてたらどうなさるんです?」


「あ…」と一声呟いて、花栄は頭を捻った。

 早く会いたいと気が急くばかりで、そんな事は全く考えていなかったようだ。


「あー…まあ、暫く待ってから衙門を訪ね、休みと分かれば家の方へ行ってみるさ」

「結局、訪ねるんじゃありませんか」

「いや、だからそれはここで様子を見て、見当たらないとなってからの話でな?」

「はは、何とも律儀なお方ですね」


 新たに運ばれてきた茶をすすりながら花栄が表を見れば、食事を摂るためか、通りを行き交う人々が目立ち始めてきた。

 店にも数人の客が入ると、給仕は応対のために「では、どうぞごゆっくり」と言い残し、席を立つ。


 衙門からもチラホラと役人が表に出始め、その顔を一人一人確かめていた花栄は、丁度椀の茶を飲み干したところで目を輝かせて立ち上がった。そして、代金を払うのも忘れて通りに飛び出し、一人の役人の面前に立つと、深々と拝礼する。


「宋哥、御無沙汰しております!」


 言うまでもなく、相手は花栄の「兄」である。


 男の姓を(そう)、名も一字で(こう)(あざな)公明(こうめい)という。



※1「兵糧を借りる」

「(兵糧に限らず)町で略奪を働く」、或いは単に「町を襲撃する」くらいの意味です。言葉通りの意味ではないので、奪ったところで返す気は更々ありませんww『水滸伝』でよく使われている表現(原文で「借糧」。初出は第2回)で、なぜ略奪行為を「借」と表現するのか謂れは不明ですが、あまりにも頻繁に登場する言葉なので、こちらでもそのまま使用しました。

※2「科挙」

官僚(正規の役人)の登用試験。

※3「拳脚」

武器を使用しない戦闘術。拳法。

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