風、清けれど
前回のあらすじ
王英「クソ婆ぁ、ブッ殺!」
郭静「くたばれ、チビ猿!」
燕順の合図により、一行は清風山を目指して移動を再開する。
「柳蝉…柳蝉…お前も来ておくれ。この通りだから。天寿…天寿よ。いいか、必ず柳蝉を連れて来いよ。天寿……」
鄭延恵の乗る轎と共に、洩れ聞こえる哀願も徐々に遠ざかる。
「鄭郎、大伯さまが呼んでるわ。行ってあげたら?後で怒られるわよ?」
「ん…」
そう返事をしながら、鄭天寿にその場を離れる素振りは微塵もない。
『李柳蝉を救い出せなければ、村に戻る必要なし』
鄭延恵から半ば絶縁を言い渡されて清風鎮へ乗り込んだ鄭天寿は、見事本懐を遂げて李柳蝉を救い出した。
襲撃に加わった者達は誰一人欠ける事なく、何よりも凱旋する一団の中に李柳蝉の姿を認めた鄭延恵は大層喜び、笑顔で迎え入れた。
何もかもが当初の予定通り、いやそれ以上の結果を迎えたのだから、誰も彼もが意気揚々と凱旋し、興奮冷めやらぬ様子で成果を誇るものと思っていた鄭延恵は、すぐに異変を感じ取る。
皆が皆「戦勝」の余韻など欠片もない。
とりわけ王英と鄭天寿は周囲が憚るほど酷く憔悴し切っており、声を掛ける者もない。
清風鎮で調達したものか、馬を操る鄭天寿の背に李柳蝉は身体を預けていた。
茫然自失といった様子であらぬ方を見、屋敷の前で鄭天寿の手を借りて馬を下りると、笑顔で語り掛ける鄭延恵には軽く会釈を返すのみで言葉もない。迎えに出ていた郭静に歩み寄り、耳元で何事かを呟くと、驚いた様子の郭静に導かれ、そのまま屋敷に消えた。
明らかに男物と分かる衣服を身に纏って。
鄭延恵は全てを察し、その場に膝から崩れ落ちた。
【柳蝉に何事もなければ、伯父さんもあそこまで塞ぎ込む事はなかったろうに…】
そんな事を思いながら、鄭天寿は清風山へと向かう轎を眺める。
一行を見送る三人に声を掛ける者はない。
それも致し方ないところだ。
一行には今、苛立ちが満ち満ちている。
この先の暮らしに対する不安。
いつ追手が迫ってくるかも分からぬ焦燥。
捕らえられれば、命を落とし兼ねない恐怖。
精神的に不安定な状態で長い距離を歩けば、肉体的な疲労もより溜まる。清風山に入ったところで暮らしと生命が保証される訳ではないが、辿り着きさえすれば、差し当たって身体は休められる。
誰もが不安と恐怖を押し殺し、疲れた身体に鞭を打ち、一刻も早くこの逃避行を終えようと気力を振り絞っているのだ。
そんな想いとは裏腹に、そしてその苦労を嘲笑うかのように、道が分かれれば李柳蝉らは一行を抜けると駄々を捏ね、鄭天寿らに説得されてはまた同道する。その度に歩みは止まり、そんな事をもう何度となく繰り返してきた。
まして直接、李柳蝉の救出に関わった者からすれば、胸クソ悪い事この上ない。
長年の誼から「愛し合う二人のために」と命の危険も顧みずに清風鎮へ乗り込んだというのに、ようやく二人が結ばれるかと思いきや、李柳蝉は頑なに説得を拒んで鄭天寿の下を去ると言う。
馬鹿馬鹿しいにもほどがある。
駄々を捏ねる方も捏ねる方なら、わざわざ周りの足を止めてまで説得する方も説得する方で、そんなに去りたいのなら、いつまでもついて来ないでとっとと去ればいい、どうあっても去りたいと言うのだから、いい加減好きにさせればいい、毎度毎度付き合わされるこっちの身にもなってみろ、という話だ。
鄭天寿にはまだ同情を示す向きもある。
それはそうだ。李柳蝉と添い遂げんがためだけに清風鎮へ乗り込んだのだから。ここで諸手を挙げて李柳蝉を送り出すくらいなら、それこそ何のために清風鎮を襲ったのかという話になる。
対して李柳蝉と郭静に向けられる視線は甚だ厳しい。
元々、奔放な物言いで、許婚である鄭天寿を立てようともしない李柳蝉に対しては、それを温かい目で見る村人もいるにはいたが、むしろそちらは少数派で、保正である鄭延恵の手前、顔には出さずとも、内心苦々しく思っていた者も多く、中にはあからさまに眉を顰める者までいたくらいである。
それが数日前までの、穏やかな日常の中での話ならまだ許せもしよう。だが、この期に及んで尚、我を貫こうとする李柳蝉に理解を示す者はいない。
李柳蝉が鄭天寿との別れを決意した理由は、彼女の琴線に深く関わっている。別の言い方をすれば生き様とも言えるし、気取った言い方をすれば、それが彼女の美学とも言える。そして、李柳蝉はその理由を一人、郭静にしか伝えていない。
鄭天寿とは何度か話し合ったが、核心に触れる部分は伏せたままで、燕順や王英は元より、長年世話になった鄭延恵にさえ、取って付けたような理由を告げて済ませている。
だからこそ鄭天寿も、鄭延恵も、二人の兄達も納得がいかないと李柳蝉の決断に反対している訳だが、親しい者達ですらそんな按排であって、他の村人達に至っては、その「取って付けた理由」さえ聞かされていない。となれば、そんな村人達に李柳蝉の行動を理解する余地がないのも必然である。
そもそも李柳蝉が真に別れを決断した理由は、清風鎮で自らの身に降り掛かった忌まわしい出来事を話すところから始めなければ、どうしても説明がつかない。そして、言うまでもなく「それ」は誰彼構わず話すような内容ではない。
周囲の理解を得るだけのためにそんな事をするくらいなら、周りから白い眼で見られてでも、適当な理由を告げてお茶を濁そうという李柳蝉の判断は至極当然であろう。
いや、襲撃に加わらなかった村人達にだって分かっている。
普通の判断力と、ちょっとした想像力があれば、男が女を攫ったという事実が何を意味するかなど、わざわざ説明されるまでもない話だ。それを殊更に本人の口から語らせようとするのなら、あとはもう聞く者の悪意と愉悦に満ちた嫌がらせでしかない。
まして相手はあの悪名高い清風鎮の正知寨である。そこに李柳蝉の図抜けた美貌が加われば、たとえ本人が否定しようとも、仮に真実は何事もなかったとしても、それを信じてもらう方が難しい。
李柳蝉を不憫に思う声はある。むしろ不憫に思わない方が、人としてどうかしている。勘の良い者なら、李柳蝉の決断が清風鎮での出来事に関係している事も薄々勘付いている。
それでも尚、李柳蝉の行動に理解を示す者はいない。
不憫に思う事と行動を理解する事には、全く関係がないからだ。
李柳蝉が父母を亡くし、鄭延恵の世話になっていた事は誰もが知る。
そして今、李柳蝉は親も同然である鄭延恵の意に背いてまで一行を離れると言う。あまつさえ、それを知った鄭延恵が、起き上がるのもままならないほど体調を崩してしまったにも拘らず、だ。
李柳蝉が鄭天寿と婚約している事もまた誰もが知る。
そして今、李柳蝉は夫も同然である鄭天寿の説得にまるで耳を貸さず、その下を去ると言う。清風鎮でどれほど辛い目に遭ったのかは、結局のところ本人と、それを直接見聞きした者にしか分からないが、何があったにせよ、鄭天寿がそれを受け入れた上で側にいて欲しいと願っているにも拘らず、だ。
李柳蝉が燕順・王英と兄妹の契りを結んでいた事もまた誰もが知る。
そして今、李柳蝉は兄二人の制止を振り切って旅に出ると言う。それまでの生活を捨て、山賊に身を窶してまで、囚われた李柳蝉を救うために尽力してくれた事を、他ならぬ李柳蝉が誰よりも知っているにも拘らず、だ。
理由を知らされていない村人達に、李柳蝉の胸に秘められた決意を知る由はないが、それはこの際関係ない。
詳しい経緯を聞かされていなかった村人達が、口論の中でうっかり口を滑らせた郭静と王英によって、もしくは鄭天寿に対する郭静の態度を見て、李柳蝉の一件は王英に、或いは鄭天寿にも一因があったのかと知る事となったが、今となっては過ぎた事であって、それもこの際関係ない。
どんな理由があろうと、李柳蝉がどれだけ不憫であろうと、大恩ある鄭延恵や燕順らの意に逆らう理由には、絶対になり得ないのだ。
いや、大恩があるか否かすら関係がない。
今の時代、この国では、ほぼ全ての人が「女性とは男性に従う存在であり、また従うべき存在である」という価値観を持っている。それも、骨の髄まで沁み込んでいると言っていいほどに、だ。
それからすれば王英など、よほどの変わり者と呼んで一片の差し障りもないが、それはさておきとして、そんな固定観念に骨の髄までどっぷり浸かった者達が、自分の意思で男性の意見を退け、自分の意思で進むべき道を決めようとする李柳蝉に、理解など示す訳がない。
三人の横を通り過ぎる一行の中には、李柳蝉の姿を一瞥し、あからさまに舌打ちをする者までいる。
「誰が」ではない。女性が意志を貫くとは「傍から」見ればそういう事なのだ。
「おい、鄭郎!婆ぁはどうでもいいから、必ず小蝉(李柳蝉)を連れて来いよ!」
「二哥(王英)。いいから黙って行って下さい」
殿の王英が喚きながら通り過ぎ、丁字路には三人だけが残った。
鄭天寿は李柳蝉を、じっと見つめる。
袖の細い衫の上に鞣し革の坎肩、袷の褲子に紅色の脚絆と、足には鞣した革の靴。
手には身長よりも長い梢棒(※1)を杖代わりに、髪を後ろで一つに束ねている。
王英と棒の鍛練をする時と同じ姿だ。
それはつまり、今から将に女二人で旅路を乗り越えようという、李柳蝉の決意の表れでもある。
「柳蝉。もう一度話そう」
「…もう何度も話し合ったでしょ?」
「俺が悪かったのは謝る。今だけじゃない。一緒に来てくれれば、これから先も柳蝉が許してくれるまでずっと謝るから──」
「そういう事じゃないの。だから、これ以上困らせないで。ね?」
李柳蝉は責める事も、怒る事もしない。むしろ噛んで含めるように穏やかに語り掛ける。
それはまるで、別れを惜しんで今にも泣き出しそうな弟をあやす姉のようだ。
「公子(鄭天寿)、いい加減にして下さいよ。貴方に付き合っていたら日が暮れてしまう。私達に野宿でもしろと言う気ですか?」
「お祖母ちゃん、止めて…少しだけ鄭郎と二人で話をさせて」
「柳蝉、何を今になって…お前、まさか──」
「大丈夫だから」
鄭天寿に絆され、気が変わるのではないかと案ずる郭静を、李柳蝉は真っ直ぐ見つめた。
「大丈夫だから」と、もう一度念を押す李柳蝉の瞳に固い決意を見た郭静は、小さく一つ溜め息を零すと、少し離れた木立の下に行き、涼を取りながら二人を見守る。
「柳蝉、考え直してくれよ。いくら謝っても謝り切れないのは俺だって分かってる。だから、せめてこれから償わせてくれ。俺はまだ何一つ柳蝉に償ってないんだから」
「その話ももうしたでしょ?鄭郎がちゃんと謝ってくれて、一生を懸けて償うからって言ってくれて、それだけで私、随分心が軽くなったのよ?」
「だったら──」
「でも、もう決めた事なの」
李柳蝉が村へ戻ったのは、夜もとうに更けた頃だ。そして、夜が明ければ村を捨てる。
郭静に導かれるがまま屋敷の室に戻った李柳蝉は、世話を焼かれるがままに身体を拭いて衣服を替え、出立までに少しでも、と促されるまま寝台に上り、郭静の手を取りながら目を閉じた。
しかし、目を瞑れば瞼の裏には忌まわしい記憶が鮮明に蘇り、とても寝られたものではない。
鄭天寿が室を訪れたのはそんな時だ。
郭静と鄭天寿は、すぐに室の戸を挟んで「入れてくれ」「無神経が過ぎる」と応酬を始めたが、李柳蝉は寝台からそれを制し、鄭天寿を迎え入れた。
鄭天寿はひたすら詫びた。
李柳蝉はそれだけで良かった。
勾引かされて以降の鄭天寿に、李柳蝉は感謝している。いや、いっそ感謝しかない。
命を惜しまず李柳蝉を救い出し、李柳蝉に代わって恨みを雪いでくれたのは他ならぬ鄭天寿だ。
その鄭天寿に、李柳蝉が清風鎮で味わった恐怖と苦痛の責まで問うても仕方がない。筋が違う。鄭天寿が与り知らぬ事なのだから、恨むべきはすでにこの世に亡い、あの男だ。
だからその時、李柳蝉が鄭天寿に対して抱いていた思いは、ただ一つ。
『何故、父母の墓まで一緒に来てくれなかったのか』
今さらそれを鄭天寿にぶつけたところで、何が変わる訳でもない。
鄭天寿が側に在っても、結局は李柳蝉を守れなかったかもしれない。
しかし、今さらであろうと、結末が変わらなかろうと、それでもやはり「あの時、側に居てくれれば…」という未練がましい思いだけは、どうしても消せずに残っていた。
男が正しく、女が間違っている世の中だ。
「俺の言う事を聞かないから、こんな事になったんだ」と言う事もできた。
「助けてやったんだから感謝しろ」と言う事もできた。
しかし、鄭天寿にはそんな素振りも言葉も一切なく、ただひたすらに詫び、償いたい、償わせてくれと繰り返す。
鄭天寿がそこでどんな言葉を吐いていようと、放った言葉なりの別れの形が待っていただけで、別れを迎える結末に変わりはない。李柳蝉が心に固い離別の決意を抱いたのは、それよりも前の話である。
それでも、懇々と頭を垂れる鄭天寿の姿に、李柳蝉の心は救われた。
郭静も、鄭延恵も、燕順までもが「お前の所為だ」と鄭天寿を詰る。しかし、それは祖母であり、育ての親であり、許婚の義兄であって、つまり身内である。身内だから、末の「妹」を守れなかった不甲斐ない「兄」を詰っているのだ。
傍から見れば、鄭天寿にも非はあったろう。しかし、鄭天寿はたった一言、こう言えば済む。
俺の言う事を聞かなかったコイツが悪いんだ──と。
男は常に正しく、間違っているのは女であり、そして言うまでもなく鄭天寿は男である。
鄭天寿はそれをしない。
「兄」が「妹」に対してでもなく、夫が妻に対してでもなく、男が女に対してでもなく、ただ一人の人間として、愛する者に一生消えない心の傷を負わせてしまった贖罪を背負って生きていくと言う。
我儘を言い、嫌味を放ち、一人で家を飛び出して連れ去られ、赤の他人に身体を穢されて尚、鄭天寿に見捨てられていないと分かったから──
愛する男性に愛されていると、深く深く思えたから──
それだけで李柳蝉の心は救われた。
だからこそ──
「もし…もし、子供を身籠ったとしても、俺は気にしない」
「……」
「それに、まだ身籠ると決まった訳じゃない。だから、せめて分かるまででも一緒に──」
「それでもし身籠ってたらどうするの?大きなお腹を抱えながら旅をするの?」
「そんな事させる訳ないだろ?その時は…落ち着くまで…」
「鄭郎。もし子供が産まれたら、その子の事を愛せるの?」
「愛せるよ。俺の子じゃなくても、柳蝉が産んだ子なんだから」
「私はきっと愛せないわ」
「…え?」
李柳蝉が今は亡き父母を鑑とし、自分に惜しみない愛を注いでくれた父母のように生きたいと願う事を、鄭天寿は知っている。その李柳蝉の口から出た言葉に、鄭天寿は返す言葉を失った。
「当たり前でしょ?鄭郎の子供じゃないのよ?」
「それは…でも、俺は──」
「本当に?大きくなって、自分とは似ても似付かない顔立ちになったとしても?それに一緒に暮らして、もしその後で鄭郎との子供が産まれたら、同じように愛せるの?」
「愛…せるよ。同じように可愛がって育てる」
「そう…強いのね、鄭郎は」
李柳蝉は淋しく笑う。
それが口先だけの強がりでない事を李柳蝉は知っている。鄭天寿なら言葉通り、分け隔てなく子を育む事だろう。
「でも、私は出来そうにない」
「柳蝉が出来ないなら、俺がその分──」
「そうじゃないの、鄭郎。出来そうになくても愛したいの。お母さんが私を愛してくれたように。でも…」
言い澱む李柳蝉は、尚も穏やかな表情を崩さない。しかしその目には、いよいよ二人の関係に終止符を打とうという決意が表れている。
「柳蝉、言うな…」
「その姿を鄭郎には見られたくないの」
「言うなって…」
「自分の子供を愛せない姿を見られたくない。鄭郎以外の人との子供を愛してる姿も見られたくない。鄭郎の子供だけを愛する姿を見られたくない。私は──」
「言うなって!」
「自分の子供も満足に愛せず悩む姿も、愛してもいない人との子供を愛する姿も…愛する貴方にだけは見られたくないの」
父母のように生きたいと願う心と、鄭天寿を愛する心。
鄭天寿の側に在って、李柳蝉が譲れないその二つの心を両立させるのなら、後はもう一つの可能性に懸けるしかない。
「まだ…まだ子供が出来ると決まった訳じゃないんだ。もし出来てなかったらどうするんだよ!」
「その時は…ずっと鄭郎の事を想いながら生きてくわ」
「何でそんな事言うんだよ…何でそんな平気な顔で言えるんだよ!」
「平気じゃ…」
僅かに気色ばんだ李柳蝉は、すぐにまた穏やかな表情に戻った。
鄭天寿の気持ちは李柳蝉にも痛いほど分かる。
もし今、二人の立場が逆であったなら、恐らく李柳蝉の狼狽は鄭天寿の比ではない。発狂や錯乱と表現されてもいいような状態だったろう。
それは覚悟の差だ。
別れを告げる覚悟を持ってここに至った者と、それを受け入れる覚悟を持ち合わせずにここに至った者。
それを思えば、涙もなく別れを告げる李柳蝉の姿が、鄭天寿の目には「平然」と捉えられても仕方がない。
「平気な訳じゃないんだけどな…でも、そう見えたならゴメンね?」
「あ…俺、別にそんなつもりじゃ…」
「いいの、分かってる。もう終わりにしよ?お祖母ちゃんも待ってるし…鄭郎の気持ちはホントに嬉しいんだよ?でも、私の気持ちは変わらないから…」
「柳蝉、行くな…」
「今までありがとね。ずっと側にいてくれて、私…本当に楽しくて、本当に幸せだった」
「行くなよ!」
「あんまり色んな女の人を悲しませちゃダメよ?その内、王哥(王英)みたいに誰からも相手にしてもらえなくなっちゃうんだから。幸せになってね」
「そんな事言うなよ…お前がいなきゃ、俺が幸せに、なんて…」
「じゃあ…行くね」
「柳蝉!」
想いが届かぬ不安と、愛する者を翻意させられぬ不甲斐なさ、その愛する者が今にも去ろうとする悲しみ、それを招いた自らの愚かしさに対する苛立ち。
込み上げるそれらに、いつしか両の瞳から止め処ない涙を溢れさせていた鄭天寿は、振り返って立ち去ろうとする李柳蝉を、感情の任せるがままに抱き締めた。
このまま行かせる訳にはいかない。
李柳蝉を失う訳にはいかない。
その感情が鄭天寿の身体を突き動かし、そして──
鄭天寿は李柳蝉の唇を奪った。
郭静が見ている事も忘れ、愛しい者を愛しいと思う心のままに李柳蝉の唇を求め続ける。
李柳蝉はそれに抗う事をしない。
持っていた杖を放し、両手を鄭天寿の背に回し、髪を抱いて、愛しい者を受け入れる。
どれほど時間が経った事か。
李柳蝉は鄭天寿の頬に両手を当て、優しくその顔を引き剥がす。
そして、ゆっくりと開いた瞳に溢れんばかりの涙を湛え、濡れた鄭天寿の頬を両の親指でそっと拭うと、慈愛に満ちた笑みと共に、思慕の念を込めた眼差しで、愛を語らうように呟いた。
「元気でね。大好きな阿哥(お兄ちゃん)」
その一言が鄭天寿の身体を硬直させた。
この期に及んで李柳蝉がなぜ「阿哥」と呼び掛けたのか、鄭天寿には知る由もない。
長年「兄」として側にいてくれた事に対する感謝の意か、鄭天寿がそう呼んでほしいとせがんでいた事を思い出したからか、或いは単なる思い付きか。
しかし、鄭天寿にはこう聞こえた。
『貴方はもう許婚でも何でもないんだから、これ以上は引き止めないでね』
落ちた棒を拾い、堪え切れずに溢れた涙を袖で拭い、李柳蝉は踵を返して郭静の下へ向かう。
そして、ただの一度も顧みる事なく、京師・開封へ向けて歩みを進めるその姿を、鄭天寿は為す術もなく、ただ悄然と見送る。
やがて力なく地に膝を落とし、視界を歪める涙を拭っては李柳蝉の背を探し、その背を見つけてはすぐにまた涙で見失い、そんな事を幾度か繰り返す内、いつしか涙を拭った世界から最愛の女性が消え失せて尚、鄭天寿はその場に蹲り、地を掻き毟り、嗚咽を漏らし続けた。
最愛の女性を想い、滂沱の涙を流すその様は、正に古人が『君を憶いて落つる涙は流れの如く』(※2)と詠んだままであろうか。
或いは「妹」の優しさに甘えて災いを招き、在りし日の幸福な日常を崩壊せしめた己を呪う心の内は、古人に曰く『禍は細微より出でて、福門より来たる』(※3)の訓戒に唾吐き、軽んじた者の末路の如くであろうか。
背後の峰から吹き下ろす風はあくまで清けれど、その風に運ばれる鄭天寿の慟哭は、やはり二人の事が気に掛かると馬を返した王英が駆け付けるまで止む事はなかった。
※1「梢棒」
旅人などが杖代わりや護身用に持つ棒。
※2「君を憶いて落つる涙は流れの如く」
『唐詩選(李頎、題盧五舊居)』。原文は『憶君涙落東流水』。訓読は『君憶い涙落つるは東流の水』。「東流」は固有の川を指す言葉ではなく単に「川」の意で、溢れ出た涙を川に準えているのだと思われます。
※3「禍は細微より出でて、福門より来たる」
『説苑(敬慎)(談叢)』。「敬慎」の『禍起于細微(禍は細微より起こる)』と「談叢」の『福者禍之門也(福は禍の門也)』を一つに纏めたもの。前者は「禍はちょっとした油断によって起きる」、後者は「幸福は禍を招く門である=幸福な者には禍がやって来る」の意。




