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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第六回  李柳蝉 蒼翠の麓に泪を揮い 小将軍 鄆城に義兄を訪うこと
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清風山を臨む

 鄭家村が廃村となってから3日目。

 燕順率いる一行は、昼前にとある丁字路に差し掛かった。


 李柳蝉を救うという目的のためだけに清風鎮へ押し入り、その目的を果たすためだけに武知寨に傍観を請い、見事その目的は果たされ、それも今は武知寨の知るところである。

 つまり、今となっては武知寨が燕順らの逃亡を傍観する理由はどこにもなく、武知寨の職責としても、また名誉のためにも、当然追跡の手が及ぶものだと燕順らは覚悟していた。


 特に燕、王、鄭の兄弟は、一度(ひとたび)追手の気配を察すれば、望まぬ旅路となった者を(のが)し、命を惜しむ者を逃がし、行動を共にしたいと願う者は説き伏せて諦めさせ、それでも望む者達だけを従え、それでたとえ兄弟三人だけが残ったとしても、追手の前に立ち塞がっては命の限り屠り、ために命を落とそうとも何ら悔いなく、力及ばず捕らえられれば、村人達に害を及ばさぬよう、全ての責を引き受けるつもりでいた。

 正に長坂(ちょうはん)に臨んだ燕人(えんひと)・張益徳(※1)も斯くやあらん、といった按排である。


 であるのに、だ。


 鄭家村を出てからというもの、いくら後背を気に掛けたところで、風に乗って馬の嘶きが聞こえる事もなければ、遠くに砂塵が舞う事も絶えてなかった。


 何とも拍子抜けしたような、狐に(つま)まれたような気分での逃避行であったが、どれだけ覚悟を決めたところで、所詮追手が来ないなら来ないに越した事はなく、後背を気に掛け、足弱な者に気を配りながら、何とかこの丁字路まで辿り着いた、というところである。


 突き当たりに立って右手を臨めば、正面に(そび)える清風山もかなり近付いてきた。


 そして今、その丁字路を左に進もうとする者が二人いる。


 その二人を引き止めるため、燕順は暫しの小休止とした。

 一行の中央にいた鄭天寿が(かち)で、そして殿(しんがり)を務める王英も馬を駆って先頭に集う。


 何もここだけに限った話ではない。

 道中、分かれ道に差し掛かる度に、二人は一行と別の道を行こうとし、燕順らが「もう一度よく考えてくれ」「次の分かれ道までは」と宥めすかしては、どうにか連れ立ってきた。


 しかし、ここから目指す清風山までは後どれほどもない。壮健な者だけなら今日の内、一行の歩みでも明日、日が高くなるまでには清風山に入れる距離だ。

 言ってみれば、ここが清風山への最後の分かれ道と言える。


「燕哥(燕順)、本当にもうここで…」

「む。いや、しかし、な…」


 渋い顔を浮かべる燕順とは対照的に、吹っ切れたような、その中に寂しさも織り交ぜたような笑みを浮かべ、諭すように語り掛けたのは李柳蝉。


「皆さんお疲れですから。私達の事は心配要りませんから、今は一刻も早く清風山に入って、身を落ち着けて下さい」

「小蝉(李柳蝉)、やはり考え直せ。一度清風山に入り、落ち着いてから結論を出しても遅くはないだろう?それでどうしてもと言うなら、改めて俺なり鄭郎(鄭天寿)なりが送るから」


 李柳蝉は尚も穏やかな笑みを浮かべたまま、ゆっくりと頭を振る。


「燕哥。短い間でしたが、本当にお世話になりました」

「小蝉、そんな今生の別れみたいな言い方をするな。たとえ離れていても俺達は兄妹だろ?」

「いやいや、哥哥(あにき)こそ何言ってんだ!?何で二人が離れんのを認める流れになってんだよ。そうじゃねえだろ?」


 馬を下りて話に割り込んだのは王英。


「小蝉、まだ鄭保正の体調も思わしかねえんだ。せめて体調が戻るまで側にいてやれよ」

「燕哥や王哥(王英)、それに鄭郎も側にいてくれるじゃありませんか。大伯(おじ)さまの事、宜しくお願いしますね」


 常の慇懃で見下したような口調ではなく、あくまで穏やかに李柳蝉は語り掛ける。


「王哥とは喧嘩ばかりでしたけど…私は結構楽しかったですよ?」

「小蝉、そう言うくらいなら一緒に来りゃあいいじゃねえか」

「でも、あまり手当たり次第に女性へ声を掛けるのは、やっぱりお勧め出来ませんけどね」

「おい、聞けって。それにお前が去ったと知ったら、保正も益々心を痛めるぞ?」

「フン…『心を痛める』なんて、どの口がほざいてんだか。はした金欲しさに柳蝉を見捨てた男が、よくぞ言えたもんだね」


 少し離れた場所で兄妹の別れを眺めていた、もう一人の離脱者である郭静は、苦々しげにそう吐き捨てた。

 無論、独り言を装いはしているものの、今日を限りに二度と顔を会わせるつもりのない王英に向けて、聞こえよがしにはっきりと、だ。


「あぁ!?おい、義祖母(ばあ)さまよ。今、何つった。もう一回言ってみろ」

「お祖母(ばあ)ちゃん、止めて。何でそんな事言うの!」

「ハッ、図星を指されて頭にきたかね?勝手なもんだ、自分の事しか考えられない業突(ごうつ)く(※2)は」


 元々、二人がここまで同道してきたのは、兄妹の情に(ほだ)された李柳蝉の意向によるところが大きい。

 しかし、いよいよ袂を分かつとなった今、鬱憤を溜め込んでいた郭静の(たが)は外れた。


 つかつかと歩み寄る郭静の尋常ならざる気配を察し、李柳蝉は慌ててその前に立って制止する。そして、少しでも王英に向いた敵意を逸らせて落ち着かせようと、身体で郭静の視界を遮り、腰を屈め、視線を合わせて懸命に宥めすかす。

 だが、一旦火の点いた感情がそうそう容易に鎮まるはずもなく、郭静は肩に置かれた手を払い、視界を塞ぐ身体を押し退けるように顔を覗かせて、王英を睨み付けた。


 それは正に鬼の形相と言っていい。

 しかし、単純な怒りだけがそこに表れているという訳ではない。

 金のために李柳蝉が蔑ろにされたという悔しさ。それでいて「鄭延恵を見捨てる薄情者」と李柳蝉を非難するような身勝手な理屈に対する憤り。

 そういった複雑な感情が入り交じり、堰を切って面に溢れ出していた。


「言っとくが今のアンタの怒りなんざ、私の怒りに比べれば屁でもないんだよっ!!金に汚いチビ猿が!」

「んだと、婆ぁ!俺だってあの日の事ぁ死ぬほど後悔してんだよっ!!ナメた事()かしてんじゃねぇっ!!」

「止めろ、王弟!言い方はともかく、お前に非があったのはお前だって分かってるだろ!」

「離してくれ、哥哥(あにき)!あんな言い方されて黙ってられるかっ!!」


 腰の朴刀に手を掛け、今にも斬り掛からんとする王英を燕順が羽交い締めにし、鄭天寿と二人で必死に郭静から引き離す。

 片や李柳蝉に制止される郭静にも、怒りの治まる気配はない。


「『後悔』!?『死ぬほどの後悔』だって!?!?ハッ、笑わせてくれる!ナメてんのはどっちだい!?そんなもんでこの()の受けた仕打ちを無かった事に出来んのかい?ええっ!?心の傷が癒されるってのかいっ!!!?ふざけるんじゃないよっ!!」

「ぅぐ…」

義祖母(ばあ)さま!アンタの気持ちも分かるが、もうその辺にしろっ!!」

「燕小哥(燕順)。あの下衆からこのを救い出す為に、色々と骨を折って下さった貴方には本当に感謝してます。でも、このチビ猿は違う。いくら小哥と一緒に鎮(清風鎮)へ乗り込んだからって、そもそもこの男の蒔いた種じゃありませんか。『怨みには仇がいて、借金には貸し手がいる』(※3)ってのは、正にコイツの為にある言葉ですよ!」

「だとしても、もう少し言葉を選べ!誰が何と言おうとコイツは俺の弟だ。目の前でそこまでボロクソに貶されりゃあ、俺だっていつまでも大人しく聞いちゃいねぇぞ!」

「こんな奴の為に言葉を選べですって!?冗談じゃない!」


 と、郭静は燕順の顔に向けていた視線をやや落とし、その胸元で羽交い締めにされる王英へ向けると、


「大体、何が『死ぬほどの後悔』だ、涼しい面で自分だけが苦しんでるような物言いをしやがって!本当に苦しんでるのはこの()なんだよっ!!」

「んな事ぁテメエに言われなくたって分かってんだよっ!!」

「だから『死ぬほど後悔』してるってのかい!?ハッ、そんなに死にたきゃ、今、この場で首でも(くく)ってみせな!アンタ如きが命を捨てたところで何ほどの価値も無いが、それでも多少は気が晴れるってもんだよっ!!」

「お祖母(ばあ)ちゃん、いい加減にしてっ!!」

「こ、の…クソ婆ぁあっ!!離せ哥哥(あにき)、ブッ殺してやるっ!!!!」


 いよいよ堪忍袋の緒が切れた王英を、燕順と鄭天寿は必死に押さえ付ける。

 一方の郭静は李柳蝉から叱責され、散々に罵倒し尽くしたせいもあってか、肩で息をしながらも、僅かに落ち着きを取り戻していた。


 その時──


「柳蝉…柳蝉…行くんじゃない。頼むから(わし)の側にいてくれ。この老いぼれを見捨てんでくれ…」


 騒ぎを聞きつけ、(かご)の中から弱々しい声を掛けたのは鄭延恵。

 元から体調を崩していた鄭延恵は、李柳蝉の勾引(かどわ)かしに始まり、慣れ親しんだ村を捨て、住み慣れた家を焼き、そして我が子のように可愛がる李柳蝉から別れを告げられると、積み重なった心労も相俟って、遂には起き上がる事もままならなくなってしまっていた。


「大哥(燕順)。二哥(王英)。伯父さんの事もある。二人は皆と先に清風山に向かって下さい」

「はあ!?テメエも何言ってんだ、鄭郎!婆ぁはともかく、小蝉を置いてけるか!ふざけんじゃねえっ!!」

「公子(鄭天寿)、貴方もですよ」


 横合いから投げ掛けられた言葉に、鄭天寿は何も言わず、ただ視線だけを送る。


「お身内には何ともお優しい事で。そんなに保正の事が気掛かりなら、どうぞ血の繋がらない許嫁の事など捨て置いて、貴方もさっさと行って下さい」

「おいっ!!テメエいい加減にしろよ、クソ婆ぁっ!!」

「二哥!言いたくないけど、興奮してる二哥がいたんじゃ、纏まる話も纏まらないんですよ!」


 村を出てからというもの、折に触れ郭静から浴びせられる皮肉に、鄭天寿は何も応えない。


 今の言葉にしてもそうだ。


『許嫁を見捨てたアンタの顔など見たくもない。とっとと目の前から消え失せろ』


 暗にそう罵られて尚、鄭天寿は郭静の言葉を黙って受け止める。


 いや、今の言葉だけではない。

 先ほどの罵詈雑言にしても、あれは一人王英だけでなく、鄭天寿に向けて発せられた叫びでもある。

 その叫びにも鄭天寿は一切の反論をしない。


 所詮、郭静から見れば、鄭天寿も王英も同じ穴の(むじな)だ。昔から知っている貉か、他所(よそ)から流れてきた貉か、違いなどその程度であって、どちらも忌むべく、恨むべき存在である事に何ら変わりはない。


 あの日、法事の差配を優先した鄭天寿はそれを深く後悔した。それこそ自らを恨み、呪うほどに。


 郭静もそれを知る。

 当然だ。あれ以来、常に恨みがましい視線で無遠慮にその姿を刺し貫いてきたのだ。知らぬ訳がない。


『反吐が出る』


 周囲が心配するほど憔悴し切った鄭天寿の姿も、郭静の目にはそう映る。


 悔いていようと、開き直っていようと、そこを論ずる価値など無に等しい。

 李柳蝉の身に何かあれば後で後悔する、と他ならぬ鄭天寿自身が誰よりも分かっていたはずなのだ。それなのになぜあの時、その「何か」を防ごうとしてくれなかったのか。

「何事も起きはしない」と(たか)を括ってその労を惜しみながら、今になって(やつ)れるほど後悔するなど、愚かしいにもほどがある。


 法事のためであろうが、金のためであろうが、守ってもらえなかった者からすれば、そんな事は知った事ではない。「守ってもらえなかった」という事実こそが全てなのだ。

 後になって守らなかった者が何を為そうが、何を思おうが、未来永劫その事実だけは決して消えはしないのだから。


 鄭天寿にはそれが痛いほど分かる。

 何となれば、あの日、直接李柳蝉を救い出し、傷付いた姿を目の当たりにし、自らの愚かしい行いを誰よりも呪い、恨んでいるのは、他ならぬ鄭天寿である。


 郭静の辛辣な言葉は、そのまま鄭天寿自身の心の叫びだ。出来うる事なら、鄭天寿自身が己を散々に罵倒してやりたいくらいである。それがただ郭静の口を通して聞かされたというだけの話であるのに、憤る理由も、打ち(ひし)がれる理由も、まして反論の余地などもあるはずがない。


「チッ、るっせえな…分かったよ!落ち着いて話しゃいいんだろうがっ!!」

「大哥、お願いします」

「おい!聞けよ、テメエこの野郎!」


 未だ興奮冷めやらぬ王英は相手にせず、鄭天寿は真っ直ぐに燕順を見つめる。

 対して燕順は王英を抱えながらも、鄭天寿の視線を正面から受け止める。


哥哥(あにき)、止めろって!小蝉の気が変わるまで、皆で説得すりゃあいいじゃねえか!」

「うるせえ、ちょっと黙れ」

「放っときゃ鄭郎だって一緒に行っちまうぞ!?」

「黙れっつってんだろ!」


 燕順は鄭天寿から視線を逸らさず、じっと考える。



【確かに王弟の言う通りだ。


 鄭郎の小蝉に対する想いは、俺らとは比べものにならん。そして、小蝉に対する贖罪の意識も相当に強い。ここに鄭郎を一人残せば、俺らと袂を分かち、小蝉と共に生きる道を選ぶ可能性は十分にある。

 それを小蝉や婆さんが認めるかはともかく、鄭郎がそうと決めれば、二人の意思には関係なく小蝉を追い、小蝉の側で生きてく事だろう。


 今は小蝉も鄭郎と離れる事を望んでるが、つい数日前までは互いを強く想い合ってた二人だ。折に触れ鄭郎を目にし、償いたいと願う鄭郎の心を知った小蝉が、果たしてどれだけ鄭郎が側に在る事を拒み続けられるものか…


 しかし、それは茨の道だ。

 鄭郎は鄭家村での暮らしが長い。清風鎮にも顔見知りが多くいる。となれば、先の襲撃を誰に見られていたかも分からん。いずれ手配が全土に回れば、どれほど世を忍んで暮らそうが、些細な切っ掛けで身元が割れ、官憲の手に落ちる事もある。


 その時、小蝉は堪えられるか。

 鄭郎と共に生き、鄭郎の贖罪を受ける日々を過ごせば、時間は掛かっても小蝉だって徐々に絆され、心の傷も少しずつは癒されてく事だろう。

 そうして、これまで以上に互いを想い合う二人に、突然の別れが訪れたとしたら──】



「…必ず来いよ?」

「はい」


 燕順の問いに、鄭天寿は即答した。

 鄭天寿も馬鹿ではない。自分がすでに真っ当な生活を送れる身でない事くらい、十分に承知しているし、その真っ当でない生活しか送れない自分が、普通の生活を送ろうとする李柳蝉に付き纏えば、多大な苦労と迷惑を強いる事も分かっている。

 それでも尚、鄭天寿が李柳蝉と共に在りたいと願うのならば、後はもう李柳蝉を連れて清風山に上がるしかない。


哥哥(あにき)っ!!」

「うるせえな!鄭郎が来るって言ってんだから、それを俺らが信じねえでどうすんだ!それと…」


 燕順はチラと郭静と李柳蝉を見遣(みや)る。


「連れて来いよ?」

「はい」


「誰を」と燕順は言わない。

 あれだけ悪しざまに王英を罵った郭静を、燕順はすでに見限っている。

 そこまで王英や鄭天寿が憎いのなら、どこへなりとも行けばいい、というのが本音なのだが、では「李柳蝉だけを連れてこい」と言ったところで、当の李柳蝉が「じゃあ、私だけ」と祖母を見捨てる訳がない。


 李柳蝉を翻意させるのであれば「二人共々」迎え入れるしかないが、とはいえそれは言い難い。しかし、李柳蝉が来るというのなら、郭静と揃って来るのもやむなし。

 そんな燕順の葛藤が表れていた。


「ほれ、王弟。話は纏まったんだ。ここは鄭郎に任せて、お前はお前の仕事をしろ!」

「チッ…痛ぁっ!!」


 拘束を解かれると同時に、王英は燕順に頭を引っ(ぱた)かれた。


「ぃ()って…いきなり何すんだ、哥哥(あにき)!」

「テメエこそ誰に向かって舌打ちしてんだ、この野郎!いつまでも駄々捏ねてねぇで、さっさと殿(しんがり)に戻れ!」

「…だぁーっ、クソッ!!分かったよ、戻りゃいいんだろうが、戻りゃあ!」


 下りるのはともかく、背の低い王英は馬に乗るのも一苦労である。

 ヨタヨタとどうにか騎上の人となった王英は、頭を掻きながら殿(しんがり)へと馬首を向ける。


「フン…無駄ですよ、公子。貴方が何を言ったところで、私も柳蝉も気は変わりません」

「お祖母(ばあ)ちゃん、もう止めて」


 李柳蝉に宥められながらも、鄭天寿を見下す郭静の表情は変わらない。


「余計な事言ってんじゃねぇ、クソ婆ぁ!んなモンは小蝉が決めるこったろうが!そんなに俺らと来んのが嫌なら、テメエ一人で何処へでも好きな地へ行きやがれっ!!」

「二哥、いいから早く行って下さい!」

「王弟、テメエこそ余計な事言ってんじゃねえっ!!さっさと戻れ!」


 戻りしなに毒を吐いた王英は、尚もブツブツと愚痴を零しながら、一行の最後尾へと向かう。

 その姿を眺めながら、自らのなけなしの配慮を台無しにされた燕順は右手で顔を覆うが、その手が下りる頃には幾分すっきりとした表情に変わっており、大きく一つ溜め息を零すと李柳蝉へ視線を向けた。


「じゃあ小蝉。俺らは先に行くからな。お前は鄭郎と一緒に来い」

「燕小哥、お戯れを…いい加減に──」

「止めて、お祖母(ばあ)ちゃん。私が言うから。燕哥、私達は行──」

「止めろ、言うな。俺は来ると信じてるんだ。それに一度言ってしまえば、たとえ後で気が変わっても、口に出した手前、言い出し難くなる事もある」

「燕哥…」


 李柳蝉の決意は固い。しかし、それを告げたところで、もはや燕順が受け入れる事はないだろう。


 そう悟り、別れを告げる事を諦めた李柳蝉は、深々と頭を垂れる。


大伯(おじ)さまの事、宜しくお願い致します」

「ああ、任せろ。だが、清風山に入るまでだ」


 燕順の面倒見の良さは鄭家村の誰もが知るところだ。その上、李柳蝉は燕順と鄭延恵の親しい付き合いを間近で見てもいる。

 その燕順から出た鄭延恵を突き放すような物言いに、李柳蝉は驚きに満ちた表情と共に顔を上げた。


「王弟の言う通りだよ。心配なんだろ?山に入ってからは、お前が側にいてやれよ」


 そう穏やかに語り掛ける燕順の表情は慈愛に満ち、まるで父親が愛娘を見るかのようである。


 父母を亡くし、血を分けた兄弟を持たない李柳蝉にとって、血の繋がりを超越した想いを向けられる燕順の存在は、何物にも代え難いほどにありがたくもあり、しかしまた、自らの決意が固いからこそ、その穏やかな笑顔は心苦しくもある。


 李柳蝉は何も言えず、再び頭を垂れた。

※1「燕人・張益徳」

言わずと知れた『三國』の張飛。一般的には「翼徳」という(あざな)が知られますが、正史での(あざな)は「益徳」。「燕人」は「(つばめ)のような人」ではなく「(えん)の人」。なので「燕人(えんじん)」ではなく「燕人(えんひと)」と読むのが一般的です。「燕」は現在の河北省北部一帯を指す言葉で、つまり日本で言うところの「江戸っ子」や「薩摩隼人」のような、出身を表す言葉ですね。張飛の出身は現在の河北省涿州市にあたる幽州涿郡と言われています。『三國』ファンにとって「燕人」とくれば、続く言葉は「張益徳(翼徳)」と決まっていて、平たく言えば枕詞のようなものです。

※2「業突く」

強欲。業突く張り。

※3「怨みには仇がいて、借金には貸し手がいる」

中国の諺、成語。『水滸伝』でも頻繁に使われています(初出は第26回)。『水滸伝』作中では、専ら怨みを抱く相手に対して向けられる言葉ですが、意訳としては「何かを為した責任は、為した当人が負うべき」といった感じのようで、因果応報とか自業自得に類する言葉でしょうか。『水滸伝』での表記は『冤各有頭、債各有主』ですが、一般的には「冤有頭、債有主」と書くそうです。

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