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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第一回  鄭郎君 元宵節に夢幻を伽し 王矮虎 小路に想錯を詰らるること
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白面郎君

「鄭郎君」

日本で男性の呼び掛けに用いられる「◯◯君(◯◯さん、この場合は鄭郎さん)」という意味ではなく、本文の登場人物の姓と、その綽名(あだな)を組み合わせた造語。


「王矮虎」

登場人物の姓と綽名(あだな)を組み合わせた言葉。こちらは造語ではなく『水滸伝』で使用されている言葉です。


「想錯」

勘違い、思い違い。


 厳冬の気配がようやく朧気になり始め、まるで新春を言祝(ことほ)いでいるようだ。


 宋・徽宗(きそう)(※1)期、1109(大観三)年1月。


「三寒四温」という言葉が示す通り、吐く息が白い日も未だあれど、ここ青州(せいしゅう)(※2)にも確実に春の兆しが芽吹いている。


 その青州の片田舎、清風鎮(せいふうちん)の外れにある鄭家村(ていかそん)に、一人の少年が伯父と共に暮らしている。


 姓を(てい)、名は天寿(てんじゅ)

 緑なす黒髪、透き通るような白い肌、絶佳の容貌を持ったあの少年だ。


 あの夢を観てから、かれこれ3年は経つだろうか。


 あれ以来、鄭天寿は夢を観なくなった。

 いや、正確に言えば観るには観るのだが、以前のように奇想天外なものは、ほとんど観なくなった。


 夢の記憶も曖昧だ。

 あれ以前に観た夢は今でも割と覚えているのに、あれより以降に観た夢は、目覚めた時には覚えていても、時間が経てば忘れてしまうようになった。

 詰まるところ、観るのは誰しもが観るありきたりな夢ばかり、というところだ。


 そして、あの夢は、あの夢の続きは、あれ以来一度も観ていない。


 鄭天寿が以前のような夢を観なくなった理由は、無論、彼自身には分からない。


 トラウマか、彼自身が大人になったからか。


『神童も大人になればただの人』とは言い得て妙だが、幼少時に特殊な能力、感性を持っていても、成長するにつれてそれを失った、という話は巷間に満ち溢れている。


 幼い頃は他の子供ができない事も、成長の度合いによっては平然とこなせたりするものだ。そうなれば自然、世間の耳目を集めたりもするだろうが、大人になれば幼少時に目立った多少の出来不出来など誤差の範囲、本物の神童などそうそうお目に掛かれるものではない。


 むしろ多少の出来不出来で子供を神童に仕立て上げる周囲の、とりわけ親の贔屓目の方がよほど罪深いだろう。そんな過度な期待を戒める言葉なのかもしれない。


 鄭天寿の場合、周囲の贔屓目とは全く関係ない話だが、彼もきっとそんな「神童」の一人だったのだろう。

 だとすれば、その失った瞬間をはっきりと自覚している、それはそれで稀有な存在と言えなくもないが。


 では、奇想天外な夢を観なくなり、新たな会話のネタを仕入れられなくなり、鄭天寿の艶福(えんぷく)(※3)が減衰したかというと、そんな事は全くない。むしろその人気は上がる一方だ。

 道観(どうかん)での露店の真似事も盛況で、店を開けば相も変わらず、女性客とキャッキャウフフな会話に花を咲かせている。


 幼かった面立ちには精悍さが加わり、背丈も180cmほどにまで伸びた。

 最近では鎗棒(そうぼう)も習い始め、手先の器用さも相俟ってかメキメキと腕を上げ、達人とまでは言わずとも、相手が二、三人なら引けを取る事はないほどだ。


 今の彼を称するに「美少年」は些か不釣り合いだろう。もはや立派な「美青年」である。

 その容貌は噂が噂を呼び、今や清風鎮はおろか、州をも飛び越え、山東(さんとう)(※4)全域にまで広まりつつある。


 そんな彼に、いつしか付けられた綽名(あだな)(※5)は「白面郎君(はくめんろうくん)」。


「郎君」は若い男性に対する呼称、敬称のようなものだ。

 つまり「白面郎君」とは「色白の若旦那」「美白王子」くらいの意味合いなのだが、そう呼ばれている張本人も、実は結構気に入っている。


 ただ一つ、そこに「美しい」という要素が入っていない点を除いては。


 だが、子供の頃から彼を知っている者達が、そんな小洒落た綽名(あだな)を使う事は滅多にない。


 周囲もそれを認めないではない。

 ただ、本人も自覚し、それを売りにして女の子達の人気を一身に集めているというのに、その彼を「色白の若旦那」と呼んで、さも当たり前のように「ええ、色白の若旦那ですが何か?」みたいな顔で、いけしゃあしゃあと返答されるのが単純にムカつくのだ。


「鄭郎」


 年が明け、作男(さくおとこ)(※6)達が慌ただしく働く最中(さなか)に、鄭天寿はといえば屋敷を抜け出し、包みを肩に村外れへと向かっていた。

 その道すがら、背後からの呼び掛けに振り返る。


「郎」はもちろん男性に対する呼称であるから、「鄭郎」とは相手の立場や歳に応じて「鄭の旦那」とか「鄭の坊っちゃん」「鄭くん」くらいの意味だ。


「何だ、柳蝉(りゅうせん)か」


 声を掛けたのは若い女性。畑仕事をしていたのだろう、頬にうっすらと土を付け、両手で抱えた籠には搨菜(タアサイ)(※7)が山と積まれている。


「『何だ』って何よ、『何だ』って」


「柳蝉」と呼ばれた少女は、ちょっと拗ねたように喰って掛かる。

 ()姓の彼女はこの鄭家村に数少ない、鄭姓以外の住人の一人だ。


「いや、別に大した意味は無いけど…」


 鄭天寿は苦笑いで返す。


「それより、いつも言ってるだろ?俺を呼ぶなら一文字足りないって」

「あー、はい、はい、はい…」

「次からはちゃんと『三國』の周公瑾(周瑜)サマに倣って『美鄭郎』って呼べよ?」

「うん、気持ち悪い」


 李柳蝉は鄭天寿の本気とも冗談ともつかない指摘を、可憐な面差しにこれ以上ないほどの、爽やかで清々しい笑みを浮かべながら、それはもう真っ向からバッサリと叩き斬った。


「面と向かって『気持ち悪い』とか言うんじゃないっ!!傷付いちゃうだろうが!」

「よく言うわよ。人から何か言われたって三歩も歩けば忘れちゃうクセに。この程度で傷付くなら、お好きなだけどーぞ」


 はぁ、と一つ溜め息を零し、鄭天寿は軽く項垂れる。


「お前さぁ、もうそろそろいい大人なんだしさぁ、もうちょっと年上を立てるとか敬うとか──」

「あー、ゴメン、ちょっと何言ってるか分かんない」

「何で何言ってるか分かんないんだよ!…いや、分かるよ!最後まで聞かないから、俺の言ってる事が分かんないんだよ!」


 一人ムキになる鄭天寿を、冷めた表情で眺める李柳蝉。


「はぁ…『(てい)()()(鄭お兄ちゃん)、鄭阿哥』って、俺にくっついて歩き回ってた可愛らしいお前は何処に行っちゃったんだよ。何なら今からでも、また呼んでいいんだぞ?」

「ぅげぇー、マジムリ、ウっザい、キモい」

「だから!『気持ち悪い』は止めろって言ったばっかだろ!?『阿哥』の話、ちゃんと聞いてくれてる!?」

「は?だからちゃんと『キモい』に変えたでしょ?」

「同じだよ!?てか、ちょっと前まで普通に呼んでくれてたじゃん!」

「…キオクニゴザイマセン」

「何でカタコト!?」


 ただ今、絶賛通常運転中につき、今しばらくお待ち下さい。


「そうだ!正式に許嫁になった事だし、いっそもう『旦那さま♡』でも──」

「MU・RI・DE・SU」

「ドコ人っ!?!?」


 鄭天寿と李柳蝉が正式に結婚の約束を交わしたのは数ヶ月前。

 だが、あまりにも「兄妹」のような関係が長かったため、許嫁になった途端に態度や口調を変えるのは照れ臭いと、互いに通常運転を続けている。

 要するに良く言えば微笑ましい、非リアが見れば羨ましいを通り越して恨めしい、どころか胸クソが悪くなるようなアレだ。


「大体さぁ、鄭郎の何処に敬う要素とかある訳?あっちでもこっちでも女の人を(たぶら)かして、取っ替え引っ替えしながら遊び呆けてるだけじゃない」

「また『誑かす』なんて人聞きの悪い事を…アレは社会勉強の一環なんですぅ。将来、どんな人とでもお近づきになれるよう、今の内から色んな性格の()達と知り合って、会話のコツを身に付けてるんですぅ」

「『()達』って…女の人限定じゃない。やだ、マジキモい」

「おい、止めろ。泣いちゃうだろうが、俺が」


 鄭天寿の言う「アレ」とは、もちろん道観での「アレ」だ。


 冷めていた李柳蝉の視線が、汚物を見るような蔑みを帯びていく。


「おまけに、もう、その…許嫁になったっていうのに、今更『阿哥』とか呼ばせようなんて──」

「チッ、チッ…分かってないな、柳蝉は」


「許嫁」という関係がやはり照れ臭いのか、少し恥じらう李柳蝉のクレームを途中で遮り、鄭天寿は得意気に右手の人差し指を立て、顔の前で左右に振る。


「あのな、柳蝉。これは夢なの。お分かり?」

「…は?」

「だから…血の繋がらない年下の女の子に『阿哥』って呼ばれて甘えられるなんてさ…ん~っ、もう想像しただけで御飯大盛りで三杯はイケるね」

「あっそう…じゃ、あたしが知らないだけで、鄭郎はちょっと前まで、毎日毎食、大盛りで御飯三杯食べてたのね?」

「そっ。お陰さまでこんなに成長出来ました」


 李柳蝉が心底どうでもいいという表情で、明後日の方を向きながら不承不承入れたツッコミに、鄭天寿は飛び切りの笑顔で応えた。


「ウザ…」

「柳蝉が『阿哥』って呼んでくれなくなって、どれだけ俺が淋しかった事か…」

「ヘェー、ソレハタイヘンデスネー」

「と・に・か・く、男なら一度は憧れる夢なの!世界中の男は老いも若きも、貴きも卑しきも、みーんな大好物なのっ!!」

「んな訳あるかっ!!」


 搨菜が一束飛んだ。


「フ、フ、フ、当たりませんなぁ。てか、ダメじゃないか。食べ物を粗末にしちゃあ」

「うっさい、アホっ!!」


 今度は李柳蝉が溜め息を一つ零し、搨菜を投げつけた右手で顔を覆う。


「んーで?それは何処に持ってくの?」

「え?あぁ、お裾分けよ、大伯(おじ)(※8)さまに。沢山、採れたから」

「いや、大伯(おじ)さまって…俺ん()じゃん。別に『俺に』で良くね?」

()()・さ・ま・に、お裾分けするの!今日だって保正(ほせい)(村の顔役、村長)さんとして、お世話になってるんだし」


 元々この鄭家村は鄭天寿の大伯父が保正を務めていた。大伯父には男子がなく、鄭天寿の伯父・(てい)延恵(えんけい)が養子に入ってその後を継ぎ、鄭天寿の一家はその伯父を頼って蘇州(そしゅう)からやって来た。


「てか、伯父さんを『大伯(おじ)さま』って呼んでんだから、俺を『阿哥』って呼ぶのなんて楽勝だろ?ホラ、言ってみな?」


 話が一周した。

 深い溜め息と共に、李柳蝉からは「すんっ」と表情が消え、蝋で塗り固めたように鄭天寿を見つめ…ているようで、その視線は何も捉えていない。


 だが、鄭天寿はそんな事など気にもしていない。


「いや、ほら、俺の口見てみ、口。なっ、ほら…こう、口は最初こんな感じに開いてさ。大丈夫、柳蝉はやれば出来る子だから!ほら、ゆっくり動かすから真似してみ?いい?いくよ──」


 再び宙を舞う搨菜。今回は見事、鄭天寿の顔面にヒット。


「…っぷぁっ!何すんだよっ!!」

「あ、お裾分けが欲しいのかと思って。てへっ☆」


 ペロッと舌を出し、破壊力抜群の笑顔。見慣れた鄭天寿でさえ、この笑顔には勝てない。初めて見る男ならイチコロだろう。本人に自覚があるかはともかく、この笑顔は反則だ。


 縁も所縁もないが、皇帝の後宮にさえ、こんな愛らしい笑顔を作れる女性はいないのではないか、と鄭天寿は本気で思っている。

 コレであとはもうちょっとお淑やかになってくれたらなぁ、とは鄭天寿の贅沢極まりない願望だ。


「はぁ…もういいよ。俺ちょっと出掛けるから」


 鄭天寿が足元に落ちた搨菜を拾って李柳蝉に渡す。


「…えっ!?出掛けるの?」

「ん?あぁ、ちょっとね。伯父さんに薪拾い頼まれちゃってさ」


 頼まれてなどいない。鄭天寿が村を出る時の常套句だ。


「ふーん…まさか道観に行くんじゃないでしょうね?」


 そして長い付き合いの李柳蝉は、とっくにお見通しである。


「えっ!?いや、(ちげ)えって。何でお前はそう俺を疑う訳?」

「…寧ろ何処に信じる要素があるの?」

「ひでぇ!」

「そもそも薪を拾いに行くのに、背負(しょ)い籠も持ってないじゃない」

「いやいや、肩の包み見えない?」

「じゃあその包み、開けて中を見せられる?」

「ぐ…」


 李柳蝉が再び深い溜め息を一つ。


「ねぇ、もしかして今日の約束──」

「ん?ああ、勿論覚えてるって。忘れる訳ないだろ?」

「覚えてるの!?忘れてて出掛けるならまだしも──」

「(ヤバっ)いやいやっ、だからちょっと頼まれて出てくるだけだから」


 鄭天寿が二択の返答を間違えたおかげで、二人の間には険悪な空気が漂い始める。が──


「いや、ほら、ちゃんと約束は覚えてるから…なっ?機嫌直せよ」

「…じゃあ今日、鄭郎が銀細工売ったお金で好きな物買ってもいい?」


 李柳蝉が少し拗ねたような上目遣いで、甘えるようにお願いして…


 うん、こんなもん反則に決まってる。

 果たしてこの世に、この手のお願いを断れる男はいるのか?

 いや、いるはずがない。少なくとも鄭天寿には無理だ。瞬殺である。


 てかコレ、分かってやがんな。自分が一番可愛く見える仕草を。

 分かった上で狙ってやがる。


 でもって、その狙いに気付かないマヌケが一人…


「分かった分かった。コレ売れたら柳蝉の欲しいモン、何でも買ってやるから」

「ほら!やっぱり道観に行くんじゃないっ!!」

「汚ねぇっ!!」


 フィッシュ、オン!


 マヌケが物の見事に釣り上げられたおかげで、いよいよ収拾が付かなくなった。


 これはもうダメだな。とりまこの場は話を打ち切って、ちょっと時間を空けた方が李柳蝉の機嫌も直るだろう、と鄭天寿は諦めた。

 軽口を叩き合う内に、本格的な口喧嘩に発展してしまう事など、この二人にとっては日常茶飯事だ。


 鄭天寿は意を決する。


「柳蝉」


 あくまで玲瓏な声音で、あくまで真摯な面差しで。

 まっすぐと李柳蝉を見つめる鄭天寿に、先ほどまでの動揺は微塵もない。


「…な、何よ?」


 鄭天寿が一歩二歩と李柳蝉に歩み寄り、その双肩に両手を置く。


「え、えっ!?ちょっ…」


 ビクっと反応し、李柳蝉は一瞬にして身体を強張らせた。

 鄭天寿との距離が縮まるほどに籠を抱えた両手には力が入り、鼓動の高鳴りは早鐘の如く、ありありとした狼狽を面に浮かべつつ、李柳蝉は目前に迫る相手と躊躇いがちに視線を交錯させる。そして──


「ん、やっぱ柳蝉は土に(まみ)れてるのがよく似合──」


 山東の「白面郎君」は一瞬にして「搨菜王子」へと変貌を遂げたww

 鄭天寿の首から上へ、籠もろともブチまけられた搨菜がボトボトと地面に落ちる。


「うぇっ、ぺっ、ぺっ。何て事すんだよっ!!」

「死ねっ!!!!」

「『死ね』とか簡単に言うもんじゃありませんっ!!大体コレ、お裾分けなんだろ!?どーすんだよ!?!?」

「知らないわよっ!!食べるなり捨てるなり、鄭郎の好きにすれば!?欲しかったんでしょっ!?」


 怒気も露に(きびす)を返した李柳蝉は少し歩き、ふと思い出したように足を止め、躊躇いがちに振り返ると、


「ホント、約束すっぽかしたらタダじゃ置かないからねっ!!」


 そう言い残し、立ち去っていった。


「全く…」


 溜め息と共にポツリと零した鄭天寿は、道に散乱する搨菜を籠に拾い集めていく。


 喧嘩を治めるのはいつもこの手だ。

 わざと怒らせてその場は別れ、時間を置いてから鄭天寿が折れて李柳蝉が機嫌を直す。


 大概、鄭天寿が酷い目に遭うので気乗りはしないのだが、場を治めるためには仕方がない。

 そして、大概は喧嘩の非が鄭天寿にある事を、彼自身が重々自覚しているので、甘んじてそれを受け入れている。


 本当はあそこで有無を言わさず唇を奪いでもすれば、よほど効果的なのかもしれないが…鄭天寿はあえて踏み止まっている。

「兄」と「妹」としての関係を、まだ終わらせたくないのだ。

 何より、これ以上自分に向けられる好意を浪費する訳にはいかない。


 李柳蝉は美しい。

 その容姿は群を抜いている。最近は(とみ)に背も伸び、胸も膨らんで、見た目では鄭天寿とどちらが年上か分からないほどに大人びてきた。都にでも行けば、あっという間に注目の的だろう。

 いかに「白面郎君」などと持て囃されていようと、異性を惹き付ける力に関しては、鄭天寿など物の数ではない。


 李柳蝉は明るい。

 そして裏表がない。好き嫌いがはっきりしており、それを隠そうともしない。

 鄭天寿は「もう少しお淑やかに」などと思ってはいるが、同時にあの活発で溌剌とした部分が、彼女の最大の長所である事も理解している。


 李柳蝉は優しい。

 普段の会話の中では心を抉るようなツッコミを平気で使いこなす。喧嘩もする。

 しかし、そんな表層的な部分ではなく、本質的な部分では鄭天寿を嫌う事ができず、結局は我儘を許している。


 そんな彼女を相手に一度でも一線を越えてしまえば、鄭天寿の心の(たが)など簡単に外れてしまう。後は際限なく溺れるだけだ。

 鄭天寿には今の関係を保つ自信が全くない。


 そして、優しい李柳蝉は何だかんだと愚痴を零しながらも、そんな鄭天寿を受け入れ、甘やかしてくれるだろう。


 それも一つの男女の形ではある。しかし、鄭天寿には堪えられない。


 周囲の目にどう映っているかはともかくとして、少なくとも鄭天寿自身は良き「兄」ではなかったと思っている。だから、せめて良き夫でありたいのだ。

 それが、夫婦になろうと想いを告げた男の、傍から見れば何を今さらと鼻で嗤われるような、ちっぽけな矜持だ。


 どのみち「兄」と「妹」としての時間は、もうあまり長くは残っていない。


 そう遠くない未来、二人は華燭の典を挙げる。だから変わらなければいけない。

 これまでも散々「兄」として李柳蝉に心配と迷惑を掛けていながら、結ばれて後までただ溺れ、甘やかされるだけの夫になる訳にはいかないのだから。


 だが、時に悪さをして世話を焼かせ、時に遊び呆けては心配を掛け、時に喧嘩をして怒らせては「あんな可愛い許嫁を泣かせるなんてサイテーか、コイツ」と、周りから生暖かい視線を向けられても、今ならば許される。

 たとえ許婚の間柄ではあっても、今ならまだ仲の良い「兄妹」なのだ。


 軽口を叩き、冗談を言っては互いに揶揄(からか)い、喧嘩をすれば宥め、我儘に振り回されては、笑顔に癒される。


 今の関係は鄭天寿にとって何物にも代えがたく、そして心地が好い。


 そう遠くない未来に変わってしまう、変わらなければいけないのであれば、せめてそれまではこの関係でいたい、と鄭天寿は願っている。

「兄」でありたいと願い「妹」である事を強いている。


 すでにそれを受け入れてくれる李柳蝉の優しさに十分甘えているのだ。これ以上、その好意に(すが)る訳にはいかない。


「折角、持ってきてくれたんだしな…」


 搨菜を拾い集めた鄭天寿は一旦、屋敷に戻って作男に籠を預けると、心優しい少女に甘え、再び村の外へと向かった。


「…ん?そういえば今日の約束って何だったっけな?」


 ……


「ま、その内、思い出すか」


 …サイテーか、コイツ。


※1「徽宗」

宋(北宋)の第8代皇帝。在位1100年~1126年(西暦。旧暦では~1125年)。

※2「青州」

現在の山東省濰坊市西部と同東営市南部、同濱州市南東部一帯。

※3「艶福」

異性からの人気。

※4「山東」

個別の都市名ではなく、日本で言う「関東」や「関西」のような地域を表す言葉。およそ現在の山東省一帯を指す。

※5「綽名」

一般的には「渾名」や「綽号」等と表記されるので造語と言えば造語ですが、どこで見たのか忘れましたが「綽名」と表記していた書籍もあったような…

※6「作男」

使用人や下男の意。本来は農作業のために雇われた、所謂(いわゆる)「農夫」を指す。

※7「搨菜」

アブラナ科の野菜。「塌菜」とも表記される。

※8「大伯」

親しい年上の男性、それも自分の親と近い(血縁上の伯父や叔父にいても不自然ではない)年齢の男性に対する呼称、敬称。血縁でない男性に対する「おじさん」には、会話のシチュエーションや相手との年齢差に応じて様々な呼称があるようですが、この小説では血縁上の「伯父」「叔父」と区別するために「大伯」を用いています。


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