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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第五回  北辺の道士 宿魔の士を憂い 黒衣の仙女 恣意もて此を扶くこと
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仙女さまはウンザリ

前回のあらすじ

仙女「(ざま)を見よww」

道士「……」

「…ちょっと昔話していいか?」

「だが、断るっ!!」

「即答すんな!てか『だが』って何だ!?何も言ってねえじゃねーか!」

「何を言っておる、断る時の常套句みたいなモンじゃろうが。そんな事も知らんのか、全く…修行ばかりしとるからじゃぞ!」

「…え、マジで!?」


 マジじゃないんで、気にしなくて大丈夫っすww


「大体、(なんじ)の話は長いんじゃ。ちゃんと掻い摘んで要点だけを話すのなら、聞いてやらん事もない」

「…そんなに(なげ)えかな?」

「自覚ナシか…(なんじ)、俗に言うところの『ヤベー奴』じゃの。気を付けんと、いつか力任せに斧で叩き斬られるぞ?」

「怖え事言わねえでくれ!大体、何で『斧』限定なんだよ!?」

「何となくかの?ま、物の例えじゃ。他意はない」

「てか、聞いてきたのは娘娘(にゃんにゃん)の方じゃねえか」

「誰が昔話をせよと言ったか!?今から(いにしえ)の神々が誕生遊ばされた時の話などしたら、話が終わる前に(なんじ)の寿命が尽きてしまうぞ?」

「それ、神話じゃねーか!神話を昔話とは言わねーよ!?俺にとっちゃ龍虎山の話は昔話なんだよ」

「むぅ…簡潔に、な」

「分かったよ」

「簡潔にじゃぞ!」

「分かったっつーの!」


 道士は軽く咳払いをし、居住まいを正して語り始めた。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 道士が修行のため龍虎山に籠ったのは、もう60年以上前の話だ。


 当時は仁宗(じんそう)陛下(※1)の御世であったが、その先帝・真宗(しんそう)陛下(※2)が道教に傾倒された事もあり、道教は朝廷内は元より、大衆にまで広く浸透していた。


 宗教が、それもある日突然、権力者の気分によって厚遇を受け始めると、(ろく)な事が起こらない。


 国のトップである皇帝が道教に傾けば、まず皇帝に(おもね)る朝廷の高官が追随し、朝廷の命で派遣される地方の長達も、朝廷の歓心を買うためにそれに続く。

 そうして国全体が道教を信奉するようになると、碌に修行に励んだ事もないような者が、いや、むしろそんな者ほどが、更に言えば、そもそも道教とは縁も所縁もない者までもが、朝廷や府州の高官の歓心を買うために「道士」を名乗り、権力に取り入って富と名声を求めるようになっていく。


 道教そのものが堕落した、という話では決してない。勤勉に修行に励む者がほとんどであったし、そうした風潮を嫌い、権力と距離を取る者も多くいた。

 無論、道士もそんな有象無象などとは比ぶべくもなく、各地で修行を重ね、その一環として龍虎山を訪れたのだ。


 龍虎山は道教の聖地であるから、厳しい修行の末にその道を極めようと門を叩く者も多い。

 もっとも、そんな御時世であるから「修行のため」など口先だけで、真っ当な動機を持たぬ者も多かったのだが。


 道士が龍虎山で修行を始め、しばらくしてからの事。

 そうして龍虎山を訪れた者の中に一際、道士の目を惹く者がいた。


 道士は率直に「惜しい」と思った。


 歳は道士とあまり変わらず、僅かに道士の方が年長か、といった風体でありながら、それでいてその若者が道士の目を惹き付けた理由は、有り余る「道士」としての才能と、それ以上に、隠そうともしない剥き出しの野心であった。


 単に権力に取り入り、栄耀栄華を極めよう、というのではない。

 いや、結果的にはそこに行き着くのかもしれないが、少なくとも道士には、ただ権力にすり寄りたいがためだけに、修行とも呼べぬような鍛練を軽くこなし、取りあえず「道士」と名乗れる体裁だけは整えておく、といった陳腐な志ではなかったように見えた。


 それは言うなれば「道士」として未だ誰も辿り着いた事のない境地へ至るという壮大な野望、自分ならばそれを成し遂げられるという自信、そして自分こそがその先駆者として相応しいという自負。


 更にその先、その若者が「道士」としての道を極めた暁に何を為そうとしていたのか、今となっては道士に知る由もない。まさか得られた道術の秘技を駆使して帝室を滅ぼし、自らが新帝となって果ては世界征服、などという事はなかっただろう。

 しかし、道士には全く興味がなく、ために理解の及ばぬ事ながら、皇帝とは言わずとも宗教家として信仰を集め、信者のため、()いては民のために国家の(まつりごと)に携わる──という目的であったなら、或いは長く厳しい修行の末に、いつか成し遂げてしまうのではないかと思わせるほど、その若者は才能に満ち溢れていた。


 ある才能さえ持っていれば。


 道士は知っている。

 その若者の野心を、自信を、自負を打ち砕いたのが自身である事を。


 その若者は「道士」としての才能に満ちていた。だが僅かに、しかし確実に道士には及ばなかった。


 持って生まれた、ほんの僅かな才能の差。


 道士にしてみれば、修行の身でありながら他人と己の力量を比べるなど無意味極まりない話であるが、もし若者が未だ修行の身である道士よりも、より長く、より厳しい修行を積んでいたら、今、二人の力量がどうなっていたかは分からない。


 だが道士と若者の、最も決定的といえる違いこそが「修練の才」、平たく言えば「努力する才能」にあった。


 人はよく「努力は誰にでもできる」と口にする。

 確かに努力は誰にでもできる。

 しかし、その努力が実を結ぶ者と、実を結ばずに終わる者に分かれる。


 なぜか。


 言うまでもない。努力が実を結ばない者は、実を結ぶまで努力を続けられないからだ。


「努力は裏切らない」と皆が口を揃えて言う。皆、頭では理解してもいる。理解していながら、大概の者は結果として現れるまで努力を続ける事ができない。

 では、努力を続けられる者と続けられない者の、何が違うのか。


「努力する才能」だ。

 努力は才能の有無に関わりなく誰にでもできるが、その努力を続け、結実させるためには才能を必要とする。


 それが道士の持論である。


 若者は才能に満ちていた。満ちていただけに、道士は率直に「惜しい」と思った。

「道士」としての才能に満ち溢れていながら、いや、満ち溢れていたからこそかもしれないが、若者の「修練の才」は道士に大きく劣っていたのだ。


 道士はその若者の生い立ちを聞いていないが、そもそも「修練の才」など、彼の人生に必要なかったであろう事は容易に推察できた。

 大した修練など行わなくても、大抵の事はできるのだから。


 生まれ持った才能に勝り、修練の才に恵まれた道士と、僅かに才能で劣り、修練の才に恵まれなかった若者。

 若者の成長も目覚ましかったが、道士は常にその一歩も二歩も先を行き、そしてその差は日を追うごとに広がっていく。


「…のう」


 …元より──


「のう!」


 …どうされました、仙女サマ?


(われ)は今、何を聞かされておるのじゃ?腐れ道士の自慢話か?」


 えーっ、と。


「大体、(われ)がさっき何と言ったか覚えてるか?これ以上ないほど、はっきりと『簡・潔・に』と言った筈じゃぞ?」


 …そうですね。確かに仰いました。


「我慢して聞いておれば、自慢か自惚れかも分からんような話を延々と──」

「うるせえな!人が一生懸命喋ってるっつーのに!」


 えっと、道士さんもああ言ってる事ですし…


「はぁ…いつになったら終わるんじゃ、この話は」


 もう少しなんじゃないですか、ね?


 えー…ゲフン。


 元より、風を呼び、雲を集め、嵐を起こすといった、およそ人智を超えた神秘の数々を「人」として為す道術が、厳しい修練を経る事もなく身に付くはずがない。


 顔を合わせれば道士に対して敵愾心を剥き出しにし、若者は若者なりに修練に励んだのであろうが、やはり一向に差が縮まらないどころか、じわりじわりと実力は開いていく。


 そしてある日、若者はそれを悟った。

 客観的に物事を観察し、事実を捉え、そこから事態の結末を予測する事など、才能に満ちた若者にとっては造作もなかったはずだ。


 無論、道士は直接聞いていない。しかし自分の推測はそれほど間違っていないだろう、と半ば確信している。

 前人未到の領域を目指し、誰にも届かぬ高みを目指す若者の前に、どうしても乗り越えられない壁として現れた自分こそが、その若者を挫折させ、絶望させたのだ、と。


 人の上に立とうと思うのなら──特に道術などという、凡百の人間から見れば、異能とも呼べる力をもって民を統べようと思うのなら、或いは民を統べる者に助言を与えようと思うのなら、それは絶対に譲れない、そして譲ってはいけない部分だ。


 それを表に出すか否かは人それぞれとしても、人の上に立つ以上、内には「自分が誰よりも優れている」という信念を持っていて然るべきであるし、周囲の者もその信念があってこそ、上に立つ者に従う。

 ましてそこに道術という、目に見える奇跡が関わってくるなら尚更である。


 どれほどの奇跡を見せたとしても、それを上回る奇跡を見せる者が現れれば、民は容易くそちらに(なび)き、どれほどの予言を授けようと、それを上回る正確な予言を口にする者が現れれば、権力者の信頼は一瞬で移ろう。


 聡明で才能豊かな若者はそれを知り、知っているからこそ頂を目指し、立ちはだかる壁を越えられない事を悟り、そして挫折した。

 道士は今もそう思っている。


 そして、やはり道士の推測は正しかったのだろう。

 若者は人知れず龍虎山を去った。


 道士にはその気持ちが理解できない事もない。


 だから未来など知るべきではないのだ。


 いつかその壁を乗り越えられると思えばこそ、乗り越えるための修練に励める。


 しかし、どれほど修練に励んだところで、未来永劫その壁を乗り越えられないとしたら──

「どれほど修練に励んでもその壁は乗り越えられなかった」という未来が待ち受けている事を知ってしまったら──


 乗り越えられないと分かっている壁を乗り越えるために続ける努力など、あまりにも無意味だ。修練の才に恵まれなかった若者には、誰にも増してそう映った事だろう。


 しかしまた、道士には全く理解できない。

 人智を超えた力を持つ者が民を導こうとする事が、ではない。

 いや、それももちろんあるのだが、道士にとってそんな事はそもそも論じるまでもない事で、若者に対して抱いた疑問はそこではない。


 なぜ修練を諦め、龍虎山を去る必要があったのか、という事だ。


 人の上に立とうが立つまいが、道士のようにただひたすら修行に明け暮れようが、修行とは自己の能力の成長を目指して行うものだ。

 自らと向き合っている段階で自他の比較に走るなど、愚かしいにもほどがある。


 いや、民を率いるにせよ、たとえ新たな国を興すにせよ、人の心が容易に移ろうのであれば、他の誰よりも優れた力は持っていて然るべきだ。

 しかし、そこに至る前に、何よりもまず自分が自分に納得できなければ始まらない。他人と自分を比較するのはその後の話だろう。


 確かに若者が修行を続けても、道士は超えられなかったかもしれない。しかし、自分に納得できるか否かは、他人を超える超えない以前の話だ。才能溢れる若者がそこに気付けなかったとは、道士には思えない。


 とするならば、若者は自分の事などまるで眼中になく、最初から他人を見ていたという事になるが、それでは巷で幅を利かせる「エセ道士」達と、本質的には何も変わらない。しかし、道士の目には全くそう映っていなかった。

 だからこそ、有り余る才能を持ちながら修行を投げ出してしまった若者が理解できなかったのだ。


 結局のところ、価値観の問題だったのだろう。

 若者は「何かに取り組むのなら一番にならなければ意味がない」と思う性質だったのかもしれないし、敵愾心も露に対しているのに、自分の内面しか見ていない道士から相手にされず、それを見下されたと感じて嫌気が差した可能性だってある。


 道士の言う「力量差よりも、まずは自分に納得するか否か」という理屈も、若者にとっては、誰にも勝る力量を身に付けられないままでは自分に納得ができない、という事なのかもしれない。


 道士には理解できなくとも、事実として若者は、ほんの数ヶ月足らずで龍虎山を去った。

 はっきりしているのは、それだけである。


 そして、その若者が妖魔の解放に大きく関わっている、と道士は思っている。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 道士がようやく切りの良いところまで語って一息ついた頃、仙女は遠い目をしていた。


「…(なんじ)、いい加減にしろよ?」

「…?何がだ?」


 真面目な顔で聞き返す道士に、仙女は半ばキレ気味で、


「何処が『簡潔』じゃっ!!(なんじ)、その歳になって『簡潔』の意味も知らんのかっ!?」

「いや、だいぶギュッと纏めたつもりだが…!?」

「ほぉ~、そうかそうか。では一度、(なんじ)の頭をカチ割って、頭の中で『簡潔』という言葉にどんな解説がついておるのか、とっくりと見てやろうかの!?」

「そこまでの事か!?大体、娘娘(にゃんにゃん)の方こそ、人が喋ってる途中に割り込んで、話の腰を折らねえでくれよ」

(われ)はあそこでもう限界を迎えたのじゃっ!!」

「早くね!?てか、誰に喋り掛けてたんだよ」

(なんじ)に決まっとろうがっ!!!!」


 仙女サマは相当フラストレーションが溜まっている御様子。

 これは早く本題に入った方が良いと思われww


「最早、最初の方の内容は思い出せんし、限界を超えてからは話が右から左で、殆ど覚えとらんわ!」

「マジかよ、とs…ゲフン…もう一回、最初から話すか?」

(なんじ)(われ)を怒り狂わせて、人の世を破滅させたいのか!?!?というか、今『歳か?』と聞き掛けたの?お?そうであろう?おお??」

「断じて聞き掛けてねえ!」


「本題」はいずこへww


「だから要するに…俺が昔、龍虎山で修行してた時、数ヶ月だけ弟弟子だった男がいて、恐らくそいつと俺の関係が妖魔の解放に関わってんだよ」

「それを『簡潔』と言うのじゃっ!!出来るではないか!ふざけるでないわ、この腐れ道士めっ!!」

「まあまあ…」


 仲がよろしいのは分かったので、戯れついでに人類を滅亡させないで下さいね、道士さん。


「ふーっ…全く、時の無駄もいいところじゃ。要するにアレか?今の話が妖魔の解放に関わりがあるというのなら、(なんじ)が龍虎山に行かなければ、妖魔が解き放たれる事はなかった、妖魔が解き放たれる事がなければ、弟子が妖魔を宿す事はなかった、じゃから(なんじ)が責任を感じとると、そういう訳か?」

「いや、実際そうだろ?」

「弟子が妖魔を宿す天命を持っておるのなら、(なんじ)が龍虎山に向かったのも、その後に弟弟子が龍虎山に向かったのも、全てが天命だったのじゃ。それで話は終わりじゃろうが」

弟子(アイツ)が妖魔を宿す天命だったんなら、俺が龍虎山に行かなくても、結局は妖魔を宿したんだろ?俺が龍虎山に行かなかったか、妖魔が解放された後で龍虎山に行ったならともかく、事実として俺は妖魔が解き放たれる前に龍虎山に行き、結果的に妖魔の解放に関わってんだから、そりゃ責任も感じるだろ」

「なぁにを言っとるんじゃ(なんじ)は。『行かなかったら』も何も、現に行っとるではないか」

「だぁから!行ったから責任を感じてるんだろうが!」

「責任も何も、(なんじ)が関わると天命で定まっておったのなら、それまでに(なんじ)がどんな選択をしようと、結局は関わる事になったんじゃから──」

「だぁーっ、もーっ!!だから嫌いなんだよ、天命だの運命だのってヤツは!」


 これまで歩んできた人生の足跡全てに「自らが迷い、自らが選んだ」という自負がある道士。

 その過去を「成るべくして成っただけ」「そういう運命だった」などと、いとも簡単に片付ける仙女。


 両者の意見は未来永劫交わらない。


 仙女の理屈を人の世では「結果論」と呼ぶ。

「そりゃ結果が出た後でなら何とでも言えるだろ」っていうアレだ。

 結果が出ている以上、必ず先に原因がある。その原因に責任を負うのが、人の世の理なのだ。


「全く、下らん話に付き合わされたもんじゃ」

「まあ、話の流れでどうせ説明すんだからさ。ぽろぽろと小出しにするよりは…」

「どんな流れで(われ)が縁も所縁もない男の説明を求めるというのじゃっ!?」

「『これから』の話になれば、娘娘(にゃんにゃん)は良い顔をしねえさ。だが、俺とそいつには、時間は(みじけ)えが確かに因縁がある。俺にはどうしてもやらなきゃなんねえ事があるんだよ…ほら、先に聞いといて良かったろ?」

「むぅ…別に『良かった』とは思ってないわ」


 仙女は力ある者が人間界に関わる事を嫌う。


 仙女や道士のように、力ある者が。


 道士の言う「仙女が良い顔をしない」とは、つまりそういう事だ。


「で?(なんじ)はこれから、その若者をどうしようというのじゃ!?」


 仙女は不機嫌そうに語った。

※1「仁宗」

宋(北宋)の第4代皇帝。楔子「追憶の地」後書き参照。

※2「真宗」

宋(北宋)の第3代皇帝。仁宗(※1)の実父。在位997年~1022年。

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