矛先の向けるべきは
一部、不快を感じる可能性のある内容が含まれています。
また、極めて不快と思われる行為を想起させる内容が含まれています。それに伴い、一部の語句についてはあえてルビや「後書き」での注釈を付けていません。
当該語句の意味が分からなくても、全体の文脈は把握いただけるよう心掛けたつもりなので、語句の意味をググるのはお勧めしませんが、仮にググるにしても必ず自己責任という事でお願いします。
予め御了承下さい。
「…ぁんのクソ野郎がぁっ!!ブッッ殺してやるっ!!!!」
鄭天寿の言葉を咀嚼するが早いか、王英は怒りに任せて吠えた。
『怒髪、天を衝く』(※1)とは正にこの事、王英は見る間に髪を逆立て、血涙を流さんばかりに目を血走らせると、周囲が止める間もなく鄭天寿に背を向けて走り出す。
「殺すなっ!!」
鄭天寿が声を発した時、王英の姿はすでに階下へと消えていた。遅れて王英の後を追おうとしていた燕順は、足を止めて鄭天寿に詰め寄る。
「鄭郎、どういう意味だ?まさかこのまま知寨を捨て置いて、おめおめと村へ帰ろうってんじゃねえだろうな!?事と次第によっちゃあ──」
「俺が怒ってない、とでも!?」
掴み掛かろうとする燕順の手を払い、逆に鄭天寿の方から燕順の服を掴んでその身体を引き寄せると、両者は鼻が触れるほどの距離で睨み合った。
燕順の目にも怒りの炎が渦巻いている。それを、王英のように表に出していないだけだ。
「だったら──」
「アイツは俺が殺る」
しかし、今の鄭天寿と比すれば二人の怒りなど、それこそたかが知れている。
室を気遣ってか声こそ押さえているものの、鄭天寿の全身から迸る凄まじいまでの憤激、憎悪の念は、これまで幾多の修羅場を潜り抜けてきたと自負する燕順も、未だ目にした事がない。
「今は柳蝉の事があるから、すぐにはここを離れられません。でも、アイツは…知寨だけは、絶対に俺がこの手で殺す。だから、俺の居ない所で勝手に殺してもらっちゃ困るんだ。それと──」
離れ際、殊更に声を潜めて耳元で告げられた言葉に、燕順は驚愕と怪訝に満ちた視線を送るが、鄭天寿はそれを正面から受け止める。
鄭天寿の表情には偽悪的な虚勢も、厭世的な自棄もない。あるのはただ「自らの言を為す」という決意だけだ。
その決意を悟った燕順は「分かった」と一言呟いて王英の後を追う。
「二哥(王英)にも、そう伝えて下さい」
背後から投げ掛けられた鄭天寿の言葉に、燕順は軽く右手を挙げて応えると、そのまま階下に消えていった。
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「何かあったら声を掛けてくれ」と村人達へ言い含め、鄭天寿は再び室に戻って戸を閉める。
室の奥には寝台がある。
その寝台に、足を戸側に向けて横たわる一人の少女。
やや離れた机上に在って揺らぐ燭台の灯は、一糸纏わぬその肢体を暖かくも酷薄に照らし出している。
灯を嫌うよう、壁に向けて顔を背けた少女の表情は窺えない。
その姿が直視に堪えず、鄭天寿は思わず苦悶の表情を浮かべて目を逸らす。と同時に、ふと微かな違和感が脳裏をよぎり、躊躇いがちに再び寝台へと視線を向けた。
諸手を挙げるように腕を頭の左右に伸ばし、顔だけを背けた仰向けの上半身に対し、腰から下は壁に向かって左に捩り、腿と脹ら脛が付くほどに膝を曲げている。
思えば先ほど鄭天寿が室に入って初めて目にした時から、少女の姿勢はほとんど変わっていない。
そこでようやく何かに気付いた鄭天寿は、己の迂闊さに腹を立てながら、腰の剣を引き抜いて寝台に歩み寄る。
冷静に見れば、その不自然さは一目瞭然だった。その一目瞭然にすら、今の今まで鄭天寿が気付かなかったのは激しい動揺の裏返し、と言えば聞こえは良い。
だが、直視に堪えぬと現実から目を背けていたのは、他ならぬ鄭天寿自身である。
何の事はない「気付けなかった」のではなく、ただ「気付こうとしていなかった」だけなのだ。で、あるのに「気付けなかった」と腹立ちを覚える鄭天寿の姿は罪深くもあり、いっそ滑稽ですらある。
少女はただ膝を曲げていたのではない。腿の付け根に引き寄せた両の踵で、せめて裸出した秘部だけは鄭天寿に見られまいと、懸命に隠していたのだ。
無論、その行為自体に鄭天寿が違和感を抱いた訳では決してない。気持ちは痛いほどに分かる。それが女性であれば尚更の事だ。
だが、両腕を無造作に投げ出し、白皙(※2)が稜線を成す、豊かな双丘をあられもなく曝け出してまで、それを足で行う必要がどこにあるというのか。
少なくとも鄭天寿が室に入った時には、すでにこの室の主は逃げ去っていた。外に出るには躊躇いもあろうが、身体を隠すのなら敷布にでも包まっていれば十分に事足りる話だ。
にも拘らず、今も尚、窮屈な体勢で寝台に横たわっているという事は、そうせざるを得ない理由があるからに決まっている。
体勢は変わらなくて当然だったのだ。
少女の両腕は、天蓋を支える左右の柱から伸びた麻縄で拘束されているのだから。
李柳蝉を見紛うはずがない。
この世の誰よりも鄭天寿自身が確信し、そしてまた、その確信は鄭天寿にとっての誇りでもある。
その誇り、確信を、鄭天寿は今ほど単なる思い上がり、思い過ごしであって欲しいと願った事はない。
目に映る光景を受け入れろと理性は執拗に迫る。しかし、心が頑なにそれを拒み、鄭天寿の脳裏では二者が激しくせめぎ合う。
すでに王英達には李柳蝉の生存を告げていながら、一方で壁に向けて顔を背け、室に入ってから一度も視線の合わないこの少女は、やはり李柳蝉ではないのではないかという、希望とも呼べぬ代物に縋ってもいた。
その結果、鄭天寿は恋い焦がれ、捜し求めていた少女の名を、未だ口にできずにいる。
しかし、残酷な現実は、そんな鄭天寿の葛藤など歯牙にも掛けず嘲笑う。
あられもなく寝台に横たわる少女の姿があまりにも見るに忍びなく、鄭天寿は伏し目がちに寝台の側まで歩み寄った。
乱雑に引き裂かれ、床に打ち捨てられた衣服に苦々しさを覚えながら、少女の拘束を解くために鄭天寿が寝台へと視線を向けた時、それは訪れた。
臓腑を握られ、身体の内から全てが絞り出されるような錯覚。
目の前が暗転し、視界がグルグルと回り出すような幻覚。
現実は、有りのままを事実として突きつける。
少女の胸から腹へと撒き散らされ、粘り着いた男の精が、鼻を突く下卑た臭気となって辺りを覆う。
それだけに留まらない。
拘束の痕も痛々しい少女の足首の側には、敷布にありありと鮮血が残る。それは少女が壁に向けて捻った腰を戻せば、今も必死に踵で隠す、両腿の付け根が重なる位置だ。
思考が擾れ(※3)、呼吸が乱れ、今、自分が為すべき事も定まらない。
必死に膝から崩れ落ちそうになる身体を支え、何とかその場に腰を下ろした鄭天寿は、すぐに諸肌を脱いで、少女の身体に上衣を掛けた。
それは一見、少女に対する思いやりに溢れた行動のようにも見える。
しかし、そうではない。そもそも、始めからそれを為すために寝台に近付いた訳ではない。そんな事は、鄭天寿の右手に光る剣を見れば分かる。
強いて言えば鄭天寿自身のため、という事になるであろうが、当の本人にすらそんな感覚はない。
次々と押し寄せる苛烈な現実を受け入れられず、せめて視界から除こうと身体が衝動的に反応した。ただそれだけの事である。
そうして再び現実から目を逸らし、鄭天寿の心の表層を一時的に支配していた「狼狽」という名の殻が薄まれば、その内に覆われ、抑えられていた感情が、まるで羽化する雛の如くに殻を突き破って深層から顔を出す。
即ち、烈火の如く燃え滾る怒り、だ。
殻の隙間から首を擡げた雛は、憤怒の形相で鄭天寿に問う。
『この怒りを誰に向けるべきか』
考えるまでもない。この屋敷の主だ。
正知寨を討たないという選択肢だけはない。絶対にあり得ない。
今日、この寨を出る前に討てればそれで良し、今日は討てなくとも、必ずこの世からその生を滅する。
これだけの騒ぎを起こした以上、明日からは官憲に追われる身だが、落草(※4)し、いつか捕らえられて命を散らすとも、それまでには必ず為し遂げる。
鄭天寿のその決意は揺るぎない。
だが、足りない。
鄭天寿の心中に巣食った雛は、正知寨一人を贄として差し出されたくらいで到底満たされはしない。
差し出すべき贄は、まだ他にもいる。
昨日、些細な事で愛しい「妹」を怒らせた男だ。
兄から助言を受けていながら今朝、その「妹」を一人にした男だ。
正知寨に怒りの矛先を向けるのは容易いし、分かり易い。
周囲も同調するであろうし、現に今も助力を得られている。
だが、正知寨を討ったとして、残ったもう一人の相手に対し、鄭天寿はこれからどう向き合って生きていけば良いのか。
誰に慰められ、庇われ、励まされ、たとえ傷付いた「妹」から許されようとも、正知寨を許せぬのと同様に、鄭天寿は生涯「その男」を許せそうもない。
「ん…んん…」
寝台の上で未だ背けた顔の先から洩れた呻きに、鄭天寿は我に返る。
寝台の側に歩み寄ってからどれほど放心していたのか、鄭天寿にも定かでない。ごく僅かな時間にも、或いは夜を明かしてしまうほどの時間にも感じ得た。
いずれにせよ、辛酸に耐え、救出を待ちわびる少女に対し、更なる忍耐を強いてしまった事に違いはない。
鄭天寿は縛られた少女の右手の先に、肌を傷付けないよう慎重に剣を宛てがう。
どれほど抵抗したものか、力なく投げ出された手首の周りは赤黒く変色し、うっすらと血も滲んでいる。
右手が頸木から解き放たれると、少女は鄭天寿と視線を交わす事もなく、却って背を向けて身体を丸めた。
「ぅぐ…あ…っ…えふっ…えふっ」
「え?あ…」
苦しげな様子に鄭天寿が少女の背中越しに視線を送ると、少女は解放されたばかりの右手で、口に詰められた布を引き出していた。口を塞がれ、呼吸もままならぬ苦しみに、ずっと耐えていたのだ。
現実から目を背け続ける鄭天寿は、そんな事にすら気付いていなかった。
償わなければならない。
残る左手を拘束する縄に剣を当てながら、鄭天寿は強く誓う。
許されるか否かではない。
たとえどれだけ周囲から「お前の所為じゃない」と擁護され、弁護を受けようと、たとえこの先、傷付いた張本人から許しを得られなかろうと、生涯を懸けて償わなければならない。
その贖罪こそが鄭天寿の心に巣食った雛の贄となる。
今も少女の身体に残る男の精と敷布の鮮血は、破瓜の苦痛と嗜虐の蹂躙にひたすら堪え忍んだ恥辱の刻を容易に想起させる。
容易に、だ。
もし鄭天寿が、縁も所縁もない者の事として似たような話を聞けば、下世話にも王英あたりとこんな結末を予想していたに違いない。
分かっていたのだ。こんな結末を迎える可能性がある事は。
分かっていて、その可能性から目を背け続けた。
実に下らない。
自分で種を蒔いておきながら「絶対、無事に助ける」と偽善的な決意を抱き、室に入れば「別人であって欲しい」と独善的な葛藤に思い悩む。
何の事はない、そんな物は単なる身勝手で幼稚極まる鄭天寿のエゴだ。
そんな下らない現実逃避を続けたところで、この室で少女の身体が受けた苦痛を無かった事に出来はしない。
少女が負った筆舌に尽くし難い恐怖の記憶は、些かも薄れたりはしない。
取り返しのつかない自らの行いをどれほど悔いていようと、自らの行いが招いた、逃避せずにはいられない現実にどれほど打ちひしがれていようと、本当に救いを求めているのは、そして傷付いた心を癒されるべきは、決して鄭天寿などではない。
心に負った傷は根が深い。完全に癒えるという事は、おそらくないであろう。この先長い時間──最悪、生涯に亘って少女を苦しめる事になる。
それは仮に少女がその手で正知寨を、そして残るもう一人をも討ち滅ぼしたとしても変わらない。
だからこそ、鄭天寿はその生涯を懸けて償わなければならない。
そしてそのために今、目の前の現実を受け入れなければならない。
「…ごめん」
少女の左手を拘束する麻縄も断ち切って、鄭天寿は力なく呟いた。
少女は変わらず鄭天寿に背を向けたまま、堪え切れぬ嗚咽を洩らす。
「ごめんな、柳蝉…」
鄭天寿は遂にその名を口にして、自らの葛藤に終止符を打った。
事実は事実として目の前にあるのだから。
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村人達と共に階を下り、そろそろ庭に出ようかという辺りで、鄭天寿は何事かを喚き散らす甲高い男の声を聞いた。
その背には李柳蝉の姿がある。
李柳蝉を救い出した鄭天寿は、すぐに村人に湯を用意させ、李柳蝉は身体を拭き、衣服を整えて、鄭天寿の背に身を委ねた。
ついでに鄭天寿の上衣も、どこからか調達した新しい物になっている。
「貴様ら、儂を誰だと思っとる!儂はすぐにも位人臣を極める身だぞ!?その儂にこんな真似をして…ただで済むと思うなっ!!分かったら今すぐ離せ!離さんかっ!!」
そんな世迷い言を発しながら、庭の中ほどで縄を打たれて跪くのは言わずもがな、この屋敷の主・周知寨。
両脇には燕順と王英が屹立し、逃がさぬように目を光らせている。
李柳蝉を背に言葉もなく、悄然とした様子の鄭天寿であったが、周知寨の姿を視界に認めるや、忽ち怒りの炎が胸中に再燃し、見る間に天をも焦がさんばかりの火勢となって三千丈(※5)まで立ち上った。
怒りに我を忘れそうになりつつも、一旦心を鎮めた鄭天寿は、まず村人達に椅子を用意させ、李柳蝉を座らせた。そして、視線を庭に戻すと、力の限り周知寨を睨み付ける。
その視線を感じてか否かはともかく、周知寨も鄭天寿達に気付いた。だが、鄭天寿の視線に応える事はしない。
「…女!?そうか貴様ら、その女の縁者か!?張提轄!何をしている、早くこいつらを引っ捕らえろっ!!武知寨!武知寨は何処だ、まだ来んのかっ!?今すぐ寨の全兵力を率いて彼奴らの村に攻め入り、村に纏わる人間を三族皆殺しにしてこいっ!!!!」
恐怖による錯乱もあってか、周知寨はもはや自分の身に何が起きているのかも把握できていない。
「柳蝉、すぐに戻るから。ちょっと待ってて」
一度振り返り、優しく声を掛けた鄭天寿は、再び周知寨を見据え、その表情をみるみると険しくしていく。
「何をしておるか、女ぁ!今すぐ室に戻れっ!!お前はもう儂の物だっ!!ひ、ひひっ…忘れたのか!?儂に組み敷かれてあんなに、ぐぼぁっ…!!」
李柳蝉の傷を抉る言葉を発しようとした気配を察し、燕順が朴刀の柄で周知寨の口を思い切り殴りつけ、強引に黙らせた。
周知寨は意味を成さない叫び声を上げながら、李柳蝉の目に触れない場所へと引き立てられていき、鄭天寿が怒気も露にそれを追う。
その様子を、李柳蝉はあまり感情を動かす事もなく、ただ眺めていた。
鄭天寿が庭へと向かう際、燕順と共にいた村人が歩み寄り、声を潜めて「頼まれた通り、炭を用意して火を起こしておいた」と告げたのも微かに、しかし、確かに聞いた。それでも表情に特段の変化はない。
どうでもいいのだ。
それは、紛れもない憎悪、揺るぎない殺意。
察するに、磔剮の真似事でもするのであろう。周知寨を庭の隅へ連れて行ったのも、おそらくは「せめて李柳蝉の目に触れぬ場所で」という兄達の配慮だ。
それくらいは李柳蝉にも分かる。
だが、今さらだ。
鄭天寿らが今、何を為そうが、今朝に戻って今日をやり直す事など出来はしないのだから。
無論、李柳蝉も周知寨は憎い。
だから「何も命までは取らなくても」などと言うつもりは更々ない。
鄭天寿らはこれから山野に潜み、日の当たらぬ人生を共に生きていくのだろう。
それは今、周知寨を生かそうが殺そうが関係ない。だから、鄭天寿らの好きにすればいい。
詰まるところ──
李柳蝉にとっては、どうでもいいのだ。
右肩を壁に預け、右手で左腕を抱きながら、李柳蝉はぼんやりと鄭天寿が戻るのを待っている。視界の外で響く、この世の物とも思えぬ叫喚も、意識の隅で右から左へと聞き流し、何の感慨もない。
その右手をそっと下腹部に当て、李柳蝉は父母の事を思う。
病に冒されて尚、自分に無償の愛を注ぎ続けてくれた両親は、李柳蝉の拠り所であり、また、自分もそうありたいと願う憧れでもある。
自分はなれるだろうか。
自分はその姿を愛する人に見せられるだろうか。
愛する人はそんな自分を受け入れてくれるだろうか。
何よりも、その姿を愛する人に見せる自分を、自分自身が許せるだろうか。
何度も自問を繰り返し、鄭天寿の背に揺られながら導き出した決意を胸に、李柳蝉は断末魔の絶叫が途切れるのを聞いた。
※1「怒髪、天を衝く」
『史記(藺相如伝)』。激おこ。第一回「村外の攻防」後書き参照。
※2「白皙」
肌が白い事。色白な肌。
※3「擾れる」
入り乱れる。掻き乱れる。
※4「落草」
山賊や盗賊に落ちぶれる事。
※5「三千丈」
「丈」は長さの単位で約3m。要するに9kmの事だが、単なる物の例え。『水滸伝』ではお馴染みの表現。




