丸見えだからこそ落とし穴には頭から行け!
東寨が「賊徒」の侵入による喧騒に包まれてからほどなく、西寨の居住区に通ずる門前には、衛士と押し問答を繰り広げる男の姿があった。
「おのれら、俺を誰だと思ってるっ!!つべこべ言わずに今すぐ通さんかっ!!」
「ですからっ!!今、武知寨閣下(花毅)に取り次いでおりますから、暫くお待ち下さいっ!!」
興奮気味に捲し立てる男は、放っておけば今にも門衛を斬り捨ててしまいそうな剣幕である。
「お待たせしました、張提轄」
そこへ、門内から顔を出したのは樊虞候だった。
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「樊っ!!西寨の兵達は揃いも揃って何を考えてる!口を極めて火急の用向きだと伝えておきながら、何故これほど待たされねばならんっ!?」
「失礼ながら…提轄は今から武知寨閣下とお会いになられるのですから、私などより、閣下に直接お尋ねになられれば宜しいのではありませんか?」
「ぅぬ…」
執務室へと案内しながら、涼しい顔でそう言い放つ樊虞候の後ろで、張提轄は苦虫を噛み潰すように顔を顰める。
東寨に勤めるようになって以降、張提轄は未だ西寨に立ち入った事がない。
張提轄が元々花毅の部下であった事、そして花毅から無能の烙印を押され、武官の地位を剥奪された事は、少し長く清風鎮に勤める者なら誰でも知っている。となれば、その花毅が主を務めるこの西寨に、彼がこれまで足を踏み入れなかったのも無理からぬ話ではある。
大体、東寨においてすら、彼が掌握する僅かな兵以外の冷ややかな視線に常日頃から晒され続け、鬱憤を溜め込んでいるのだ。その上、わざわざ西寨に顔を出したところで、彼の溜飲が下がる事などあるはずもない。
案の定、こうして西寨に来てみれば、樊虞候はおろか、たかが一兵卒にまで見くびられているという現実を、まざまざと見せつけられる始末で、正に「憤懣やる方ない事この上なし」といったところだ。
だが、そうと分かっていながら張提轄が西寨へ足を向けたのは、それだけ事態が切迫している、という事でもある。
すでに東寨は戦闘状態にある。それを受け、張提轄はすぐに応戦を配下の都頭に任せ、忌々しくも救援を求めるためにこの西寨へと向かった。
この清風鎮で「武」と言えば、やはり花毅と花栄の父子なのだ。
張提轄は自身の武芸が二人に遠く及ばない事を自覚している。そして樊虞候がそれを知る事も知っている。
樊虞候の余裕はそれ故であろう、と張提轄はその心中を推察する。
よくもまあ、臆面もなくこの西寨に足を踏み入れたものだ。
少しくらい居丈高な態度を取ったところで、どうせこの男は武知寨や小将軍(花栄)に泣きつくしかないのだ。
──と。
全くもってその通りである。だからこそ鬱憤も恥辱も堪え、大人しく樊虞候の案内を受けているのだ。
それに張提轄自身、正知寨の威を笠に着て、散々に威張り散らしてきたクチである。
こうしてぞんざいな扱いを受けたとて、鏡に映した自分自身を見るようなもので、気分は頗る悪くとも、理解できない訳でもない。
今はそれを云々している場合ではないのだ。
それについては後で思う存分問い糺してやればいい。
今に見ておれ、吠え面をかかせてやるわ、と張提轄は先を行く樊虞候の背を憎々しげに見つめる。
が──
樊虞候の余裕の根源が「そこ」ではない事を、彼は未だ知らない。
「お連れ致しました」
執務室に入った二人は、椅子に腰掛けた花毅と、その側に屹立する花栄に迎えられた。
張提轄が見遣れば、両者とも兜こそ身に着けていないものの、鎧の上に戦袍を纏い、今にも戦場に赴こうかという装いである。
「…御無沙汰致しております」
「ああ。久しぶりだな」
苦い記憶を胸に隠し、花毅の面前に進み出て拝礼する張提轄に対し、花毅は緊迫感のない声で鷹揚に応じた。
「既にお聞き及びの事とは存じますが…事態は一刻を争います。未だ賊の規模は判然と致しませんが、閣下と小将軍(花栄)におかれましては、すぐにも東寨への救援と賊徒鎮圧の指揮をお執りいただき──」
「いや、西寨の兵は出さん」
「…は?」
事もなげに発せられた花毅の言葉に、張提轄の思考が止まる。
「今、何と…!?」
「だから…西寨の兵は出さん、と言った」
「どういう事ですっ!!!?」
「見え見えの陽動だろうが。まず内で騒ぎを起こし、俺達がおびき寄せられるのを待って、西寨の外に伏せた賊が呼応する腹積もりなんだよ。わざわざ寨を危険に晒してまで、そんな見え透いた謀に乗ってやる必要が何処にある」
「そんな!東寨は今、将に賊の襲撃を受けているのですよ!?閣下は起きてもいない奇襲に恐れをなし、必死の思いで防戦に努める兵達を、指を咥えて見捨てる──!」
一瞬、花毅に詰め寄ろうとした張提轄は、ふと花毅の言葉に違和感を覚えた。
「西寨にはまだ賊の影も形も無いというのに…閣下はその『賊の腹積もり』とやらを、何処でどのようにして知られたので?」
「情報の軽重を決めるのは確度であって出所じゃない。確度が高いのは間違いないんだから、出所なんか別に何処でもいいんだよ」
花毅は外に伏せられた賊の存在を確定的に語る。
しかし、東寨へ賊が現れたのは、つい今しがたの事であって、捕らえた賊から聞き出したという事はあり得ない。
「そういえば、今日は寨に詰めてる兵が妙に多かった。中には居住区の警護にあたってる筈の者までいたが、理由を聞いても口を濁すばかりで…閣下の下知ですか?」
「そうだが?」
それはつまり──
「まさか…今日、賊が押し寄せると──それも先に襲われるのが東寨であると、予め知っていたのではありますまいな!?」
「さあ、どうだろうな」
花毅はやはり事もなげに言い放つ。
「『さあ』とはどういう事ですかっ!!苟も鎮の防衛を司る身でありながら、そんな大事を西寨の中だけに留め置くとは、何を考えておられるのかっ!!!?」
「いや、知らせたぞ?なあ、樊」
「ええ。手前が直接、東寨に赴きましたから」
「それを誰に伝えたっ!?」
「はて…あれは誰だったか…?」
「貴様…!!」
「伝えた事は間違いないんだ。それがお前の耳に届いてないなら、何処か途中で伝達が途絶えただけだろ?まあ、普段からそういった事を疎かにしてた、お前の怠慢だな」
「何を馬鹿な…手前が責任を負う筋合いなどござらんっ!!ともかく、事態が収束した暁には『閣下が賊に鎮を売り飛ばした』と州へ報告を──」
「人聞きの悪い事を言うな、張提轄!」
気色ばむ張提轄の言葉を遮った花栄が、形の良い眉を吊り上げ、つかつかと張提轄に歩み寄る。
だが、張提轄に気圧される様子はない。
職責は等しくとも、張提轄は優に10歳は花栄よりも年長にあたる。
そして何よりも、いかに「神臂将軍」「神箭将軍」などと誉めそやされていようと、それは父であり武知寨である花毅の威光があっての事、詰まるところ「この若僧も所詮は自分と同じ穴の狢なのだ」という、花栄に対する彼の嘲りにも似た感情に起因している。
「張」
チラと花栄を見遣って眼光鋭く二の句を制する張提轄であるが、更にその張提轄の機先を制したのは花毅。
「…は」
「それはそうとな…お前、こんなトコで何をしてるんだ?」
「…は!?」
張提轄は質問の意図が見えずに困惑の声を上げる。
「『何を』とはどういう意味ですか!?先ほどから東寨の現状を伝え、救援を求めて──」
「防戦の指揮を捨て置いてか?」
「いや、それは…配下の都頭達が…」
清風鎮に駐留する兵はおよそ1,000。が、常時その全てが寨に詰めている訳でない。
鎮全体がぐるりと壕と木柵に囲われているとはいえ、当然、寨以外の場所にも見張りは必要であるし、鎮の内部で警邏にあたる者もいて、或いは休暇や傷病の者もいて、平時に詰めている兵は、東西の寨にそれぞれ400を下回らないほどだ。
その400も提轄一人が率いる事はせず、提轄の下には100人ほどを率いる都頭が、東西の寨にそれぞれ五人、配されている。
つまり張提轄は──無論、花栄も──その五人の都頭を指揮する立場にある、という事だ。
しかし、東寨の張提轄と西寨の花栄では、その「立場」に決定的な違いがある。
「都頭に指揮を任せてきたと言うなら『誰に』『どんな』『具体的な』指示を出してきた?」
「それは…いや、しかし、東寨の指揮権は周閣下が持っておられるのですから、手前が居なくとも──」
「お前の報せを樊から聞いたが、賊は居住区に押し入ったって話じゃなかったか?」
「仰る通りです」
「寨に比べれば、居住区の備えなんて微々たるモンだろうが。まだ賊の規模すら分からんのに、その微々たる兵を周閣下がやり繰りして、本当に賊を鎮圧出来ると思ってるのか!?」
「その微々たる兵まで寨に移し、居住区の備えを更に薄めたのはどなたですか!」
「当たり前だろうが!賊が西に伏せてるなら、東に伏せてない保証が何処にある!?居住区に残り、兵を率いて対処にあたるのが、提轄たるお前の務めだろうが!それが何を我先に逃げ出してるんだよ!内の騒ぎに乗じて、今、将に外からも賊が攻め寄せようとしてたらどうするんだ!」
「外に兵が伏せられている事など、手前はそもそも知らされておりません!それに手前は居住区ではなく、兵達と寨に在ったのです。賊の規模が分からぬからこそ、万全を期す為に西寨で増援を求めているのではありませんか。それを逃げ出したなどど──」
「言われる筋合いは無い、か?お前が何処に居ようと、周閣下は役宅に居るんだろ!?なら尚の事、兵を率いて真っ先に閣下の警護に駆け付けてなきゃおかしいだろうが!それを碌な指示も出さないまま、救援の要請に託つけて寨を離れたお前が、逃げ出したんじゃないなら何だと言うんだ!」
張提轄の言う通り、周知寨は東寨の──いや、実は東寨のみならず、副知寨である花毅が勤める西寨の兵に対しても「名目上は」指揮権を持っている。
しかしながら、周知寨は文官である。
禁軍仕官として武芸は元より、兵法や戦術を体得している花毅と違い、文官である周知寨に真っ当な兵の指揮など執れるはずがない。だからこそ、副知寨である花毅が西寨のみならず、東寨の大部分の兵達にまで影響力を持っているのだ。
それはつまり、それぞれの寨に一人ずつ置かれている、正副知寨の副将と呼べる提轄の立場にも、大きな違いを齎している。
こうして花毅が西寨に健在ならば、花栄の立場があくまで「花毅の副将」であるのに対し、有事に際して花毅が東寨に不在であれば、張提轄は東寨の「実質的な指揮権を持っている」のだ。
「兵の指揮」という観点で見れば、周知寨を残して張提轄が東寨を離れるのと、花毅を残して花栄が西寨を離れるのとでは、その意味合いが全く違う。
花毅の正論に張提轄は目を逸らせて押し黙り、返す言葉もない。が、不意に何かを思い立ったように花毅を見据えて拝礼し、踵を返した。
しかし、執務室の入口には樊虞候、そして歩み寄った花栄までもが加わり、張提轄の行く手を塞ぐ。
「樊、何のつもりだ?」
「それはこちらの台詞だ、張提轄。話はまだ終わってない」
「…聞いてなかったのか、小将軍。閣下が今、東寨で兵の指揮を執るのが俺の責務だ、と言ったばかりだろう。それを遮るとはどういう了見だ?」
「ハッ。大方、父上の言葉を渡りに船と西寨を出て、そのまま州へ救援を求める使者なりを装い、鎮を逃げ出すつもりでいたんだろうが…さすがは金で地位を買うような男だ、考える事が一味違う」
存分な皮肉で図星を突かれた張提轄は、しかし、それを噯に出す事もなく言い放つ。
「フッ、それは妙案だな。今の今までこの命を賭して東寨を守るつもりでいたが…武を担うべき副知寨と提轄の片割れが、いるかどうかも定かでない伏兵に怯え、騒ぎが収まるまで寨に籠って震えていようというのだから、なるほど、確かに俺一人が命を賭ける筋合いも無い」
「貴様っ…」
「張」
投げ掛けた皮肉を、それに勝る皮肉で返された花栄の右手が咄嗟に腰の剣に伸び、張提轄もそれに応じる。
その一触即発の場を、凄みを利かせて放った一声で制したのは花毅。ゆるりと椅子から立ち上がり、尚も睨み合う二人に歩み寄る。
「昼間、賊が五人ほど東寨に忍び込んだらしいな」
「…は。手前が討ち取りました」
張提轄に狼狽える様子はない。
「何処の手の者だ?」
「それはまだ…」
「今、東寨を襲ってる賊との関係は?」
「…分かりません」
張提轄にしてみれば、死体の処理を命じた兵卒から、それが西寨に洩れ伝わる事など想定の内だ。となれば、こうして西寨へ赴けば、その件について問われる事もまた想定し得るのであるから、事前に答えを用意できる。
だが、続く花毅の言葉は、その張提轄をして大いに動揺させた。
「今朝方、近隣の村鎮で勾引かしがあったそうだが…お前、何か聞いてるか?」
周知寨の役宅に運び入れられた時、女はまだ気を失っていた。万が一、運んでいる途中に女が意識を取り戻しても騒がれぬよう、口を塞がれてだ。それは張提轄もその目で確認している。
そして破落戸達によれば、女が一人でいたところを襲って気を失わせ、誰にも見られていないか周囲に注意を払って、すぐに轎に押し込んだのだという。となれば、単に破落戸達が轎を運んでいる姿を見られていたところで、そしてその轎を東寨に運び入れた場面を見られていたところで問題はない。
女を勾引かした瞬間を目撃され、そのまま東寨に入るまで後を跟けられた、となれば話は別だが、先に鎮で仕損じた際の記憶も新しい張提轄は、そこにも十分気を配った。破落戸達を居住区に招き入れるために門を開けた時から周囲を見渡し、様子を窺う人影がなかった事を確認している。
破落戸の言葉が正しかろうが、勘違いであろうが、直接その場で指揮を執っていない張提轄にしてみれば、そこは信じるしかない。しかし、少なくとも張提轄の知る限り、女の失踪と正知寨や張提轄が結び付く要素は何一つない──はずだった。
張提轄の知らぬところで、西寨に「賊」からの手紙が届けられてさえいなければ。
張提轄は今回の襲撃が自分達の悪行に起因しているとは露ほども思っていない。
それはそうだ。仮に女の縁者が攫われた女を奪い返そうと思い立ったとしても、女と正知寨や張提轄との関わりを示す物が何もなければ、その足が東寨に向かう事はないのだから。
そもそも張提轄がそれを察していれば、彼は今この場にいない。
それはそうだ。いかに騒ぎを鎮圧するために花毅や花栄の力が必要であっても、義に篤い二人を戦陣に招き、その事実が知られるような事にでもなれば、身の破滅を迎えるのは正知寨や張提轄の方なのだから。
女の縁者が訴え出て、花毅達が事件そのものを知るところまでは想定の内だが、それを知られたところで「疑いの目が自分に向く事はない」と高を括っていた張提轄の驚きは想像に余りある。
「…手前は存じ上げません」
「その噂が出た途端に賊の襲来ときた。どうにも話が出来すぎだと思わないか?」
「賊が襲撃の大義を吹聴する為に流した、流言飛語の類いでしょう」
「それも十分にある。が、あの閣下の事だ。全くの事実無根、とも言い切れないところがまた、な」
「奴らが勾引かされた女を奪い返しに来た、と?」
「…まあ、その可能性もあるって話だ」
花毅は表情を緩める事もなく、全てを知っているとでも主張するような眼差しで張提轄を見据える。
「馬鹿な!まさかそんな根も葉もない噂で賊に情けを掛け、襲撃を傍観しようというのではありますまいな!?それでよくぞ手前の怠慢を論っていただいたものだ。手前など物の数にも入らん!」
「西寨に兵を留めるのは伏兵への備えだと、さっき言ったろうが。で、昼の話に戻るんだがな。五人の賊どもは何をわざわざ好き好んで、碌に金目の物もない執務室なんぞに忍び込んだのか…おまけに、誰一人として得物を持ってなかったって話だったが」
「そんな事は手前の与り知るところではありません!」
「まあ、これは俺の勝手な推測だが…その賊どもは『誰か』に招かれて、或いは導かれて執務室に入ったんじゃないか?だからこそ油断して得物を預けた。で、丸腰のままお前に討たれたって訳だ」
「手前は周閣下の命に従って賊を討っただけの話です!」
「だが、あの虚栄心と自尊心の塊みたいな周知寨が、そんな破落戸紛いの輩と付き合いを持ってたとも思えん。となると、じゃあそいつらを執務室に招き入れたのは誰なんだ、って話になる」
「それこそ仮定の話ではありませんか!先ほどから何を仰りたいのですかっ!!!?」
「おいおい、何をそんなにムキになってる?何も、お前がその賊どもを招き入れた、なんて言ってないだろうが」
張提轄は声を荒げつつ、しかし、脳裏では今後の身の処し方を冷静に算段していた。
【理由はどうあれ、武知寨は恐らく全てを知ってる。知ってる上で、俺が認めるのを待ってやがるんだ。
とはいえ、たとえ武知寨がそれを知ったとしても、賊どもに伝わらなければこの事態には至らん。いくら何でも武知寨が意図的にそれを賊に知らせ、襲撃を唆したとも思えんし…となると、先に我らの関与を知ったのは賊の方か。
いや、或いはやはり賊どもは何も知らず、単に元から計画されてた襲撃が、たまたま今日と重なったのを利用して、武知寨がカマを掛けてきたという可能性も無くはないが…
いずれにせよ、事ここに至って賊どもに求める事はただ一つ。
あの鳥知寨をこの世から葬り去ってもらうしかない。
もはや女の生死は俺の今後に何ら影響しない。
直接、勾引かしに関わったのは破落戸どもだし、屋敷で目覚めた女が目にするのはその主だ。
いくら色に呆けた知寨があの女に執着してるからといって、さすがに賊が奪い返しに来たと悟れば、証拠を消す為、女の口を封じるだろうが、仮に生き延びたところで、その口から俺の話が出る事はない。
既に破落戸どもはこの世に亡い。あとはあの知寨さえ始末してくれれば…】
そんな張提轄の目論見は、続く花毅の一言で呆気なく水泡に帰した。
「ところでな。お前、勾引かされたのが『女』だと、何で知ってる?」
「は?何を仰っておられるのですか。先ほど閣下が──」
「俺は『勾引かしがあった』としか言ってない」
「そ、そんな筈は…」
「栄。樊。お前らも聞いてたろ?」
張提轄が視線を向ければ、行く手を塞ぐ二人は揃って肯首する。
「ぞ、賊が奪い返しに来たと言われたので、勝手に女だと思い込んだだけです!」
「奪い返しに来たと言い出したのはお前だろうが。それにお前、勾引かし自体が根も葉もない噂だと、すぐに否定したじゃないか」
「か、仮に、女と言っていたにしても、別に根拠があった訳では──」
「それにな。昼前、破落戸風情の男達が、東寨の居住区に荷を担ぎ込むのを見たって奴がいてな」
「目撃者!?」
張提轄は僅かに平静を取り戻す。
何を見られていようが、見られていたのは破落戸達なのだから、張提轄はただ白を切れば済む話だ。
おまけに、それこそ破落戸達はすでにこの世にいないのだから、どれだけ嘘を並び立て、罪を擦り付けようと、反論される心配もない。
ところが──
「手前が見ました」
名乗り出たのは樊虞候。
しかし、その抑揚のない声、淡々とした表情は、およそ真実を語る者のそれではない。
張提轄に対する嫌がらせか、花毅に命じられての事か。
いずれにせよ、花毅の尻馬に乗っているのは明白である。
それが張提轄を激昂させた。
「樊っ!!貴様──」
「張提轄、見苦しいぞ!潔く己の悪行を認めろ!」
「黙れ小僧っ!!お前には関係ない、すっこんでろっ!!」
樊虞候に詰め寄る張提轄を花栄が制し、その花栄の背に隠れ、樊虞候は涼しい顔を崩さない。
「樊っ!!何処でそれを見た、言ってみろっ!!」
「…?何処で見ていようと、見た事に変わりはないのですから、手前が何処で見ていたかなど、さしたる問題ではないと思うのですが。それとも、場所を挙げさせて『手前がその場には居なかった』とでも証言なさるおつもりですか?」
「ぬ…ぐ…」
出来る訳がない。
破落戸が居住区に入る場面を樊虞候が目撃し、その真贋を張提轄が論じるという事は、破落戸が居住区に入ったその場に張提轄が居たという事だ。そこで見過ごしておきながら、わざわざ五人が執務室に忍び込むのを待って討つ道理はない。
「それにな、張。その荷の中から女の声が聞こえたらしいぞ?そうだったな、樊」
「…声!?声だとっ!?!?」
「ええ。確かにその荷からは悲鳴のような、呻くような女の声が聞こえてきました」
「貴様…適当な事をほざくなっ!!」
「『適当』?何を根拠に手前の言葉が『適当』だと断じておられるのでしょうか。提轄がお望みとあらば、慕容閣下の前であろうと、秦都監(※2)の前であろうと、自信を持って証言致しますが?」
「上等だ、やってみろっ!!あの時、あの女が声を上げるなど……っ!!」
張提轄は落ちた。
「申し訳ありません閣下。証言が偽りだとバレました」
「ん、しょうがない。ま、所詮は偽りだしな…で?張よ。『あの時、あの女』が何だって?」
張提轄は自らの決定的な失言に力なく膝から崩れ落ち、ふーっと大きく一つ嘆息した花栄が、その腕を取って強引に引き起こす。
「樊、悪いが東寨の様子を探ってきてくれんか。恐らく賊は居住区から一旦、鎮に出て、南北いずれかの柵門から外に出ようとする筈だ。兵が手薬煉引いて待ち構えてる寨に、わざわざ乗り込む理由が無いしな。その賊の一団に──」
「それらしい女がいるかどうか、ですね?」
「ん、まあそうだが…話が早くて助かる」
「畏れ入ります」
「あと、南北の柵門の衛士達に、余計な手出しをして無駄に命を捨てるな、と言っとけよ?」
「はあ。して、手前は多少、余計な真似をしてでも…?」
「お前もだよ!」
「は、畏まりました」
「…違う、俺じゃない。俺は知寨に命じられただけだ。俺はっ…!」
常と変わらぬ気安さで語らう主従の側で、張提轄は臆面もなく主を売り飛ばす。
しかし、その声に応じる者はいない。
張提轄はようやく悟った。
花毅、花栄、樊虞候。
彼らは知っていたのだ。張提轄に「武官としての明日」が無い事を。
今日、どれだけ相手を苛立たせ、どれだけ怒らせようと、その相手には「明日」が無いのだから、樊虞候に余裕はあって当たり前である。
別室で聴取を受けるため、花栄に引きずられるように執務室を出る張提轄。
皮肉にも彼は自らの保身のため、そして「確かに女を勾引かすよう、張提轄に命じた」と証言してもらうため、つい先ほどまでその死を願っていた男の無事を、一心不乱に願っていた。
※1「秦都監」
「都監」は職名である「兵馬都監」の略称。『水滸伝』作中において「兵馬都監」は府州に駐留する禁軍の指揮官として描かれており、この小説においてもおおよそ同様の位置付けです。第十二回の閑話休題「禁軍(3)兵馬都監と団錬使」参照。「秦」は人物の姓。




