先に立たぬもの
「お詫び」
「活動報告」でもお知らせ致しましたが、清風鎮の人口に関して、原作『水滸伝』に直接的な記述はないものの、その内容から想起される数字とはかなりの相違がありましたので、2021.9.12の修正で大きく変更しています。修正前は「4,000~5,000人」でしたが、現在は『水滸伝』に即した形で「15,000人ほど」としています。修正前にお読みいただいた方には大変申し訳ありませんが、謹んでお詫び申し上げます。
まだ日の出前だというのに、清風鎮西寨の外で一人の男が開門を待っていた。
王英である。
昨日の鄭天寿と李柳蝉の口論がどうにも気になり、少しでも早く仕事をこなして鄭家村に顔を出そうと、こうして開門を待っているのだ。
開門と共に鎮に入った王英は、一目散に荷主の商家へ向かうと門を叩いて家人を呼び出し、強引に荷を受け取るや、気力を漲らせて車を牽き、再び西寨の門から目的地を目指した。
道中、悪路とまでは言えないが、真っ平の一直線という訳でも無論なく、段差もあれば勾配もある。
おまけに、こういう時に限って報酬が良い分、荷も多く、普通に日が出てから荷を受け取ってボチボチと運べば半日以上、途中で休憩や食事を摂る事も考えれば、一日掛かりと言ってもいいような仕事だった。
王英は細心の注意を払って、力の限りひたすらに荷を牽く。
段差も勾配も、道がまっすぐだろうが曲がっていようが、その程度ならどうという事もないのだが、泥濘や深い轍に嵌まるのはまずい。
どうにも荷車を動かせないとなれば、王英は躊躇なく放置して清風鎮に向かうつもりでいるが、それでは今、将にこうして荷を牽いている労力の全てが無駄になる。
労力だけではない。途中で荷を捨てるという事は、それまでに費やした時間も捨てる事になる。
この仕事があるからと、自分が鄭家村を訪うまでの時間を鄭天寿に託したというのに、その時間を無駄に捨てるくらいなら、最初から仕事など断って鄭家村に向かっていろ、という話だ。
李柳蝉からは全く宛てにされていなかったが、強引に付き添うなり、離れたところから見守るなり、できる事はいくらでもある。少なくとも、こうして不安を抱えながら荷車を牽いているよりは、よほどマシだろう。
ただでさえ足が短く、他人よりも歩の進みが遅い王英であったが、無事に、そして驚異的な速さで宿場まで荷を運び終え、荷受けの証文を掻っ攫うように受け取ると、すぐに家に戻って荷車を置き、再び清風鎮へと取って返した。
往復で一日掛かったとしても何ら非難を浴びる謂れのない仕事をこなし、王英が再び清風鎮に入ったのは昼時までまだ間がある頃だ。
しかし、王英は荷主の商家に寄って報酬を受け取る事もなく、西寨から大通りへ抜けると、脇目も振らず南の柵門から鄭家村を目指した。
【金なんぞ夜の閉門までに戻って受け取りゃいい。いや、既に荷は届けてあんだから、最悪、報酬の受け取りは明日になっても問題ねえ。
今はとにかく鄭家村に行って、二人の様子を確認する方が先だ】
そんな事を思いながら街道をひた走り、王英が鄭家村に辿り着いたのは昼時まであと僅か、という頃合いだろうか。
全力で走り切り、息も絶え絶えの王英であったが、腰を下ろして休む事もなく、息を整えながら保正の屋敷に向かってその門前に立てば、屋敷の中からは読経が聴こえてくる。
不安を胸に王英が門を押し開けて中に入ると、広間に祭壇が設えられ、未だ法要が執り行われていた。
広間の入り口から居並ぶ人々の中に目的の顔を探す。
右から左へと一瞥し、そんなはずはない、疲れてるから見落としただけだ、と左から右へと目を凝らす。
【…小蝉(李柳蝉)が居ねぇ!?】
何度見渡しても、そこに李柳蝉の姿はなかった。
視界の隅に王英を認めた鄭天寿が中座し、王英を広間から少し離れた場所まで誘う。
「どういう事だ!?」
声を潜めた王英の問いが何を意味するのか、鄭天寿は即座に悟る。
「分かりません。朝食の時は確かに居たし、その後、伯父さんの世話をしたところまでは分かってるんですが…」
「法要が始まった時は!?」
「…居ませんでした」
王英が怒気を孕んだように顔を顰める。
「何で目を離したんだ!」
「昨日も言ったじゃないですか。気には掛けてましたけど、ずっと見てる訳にはいかなかったんですよ!作男達にも頼んではいたんですが…柳蝉が家を出るところを誰も見てません。今、外で作男達に捜させているところです」
「…クソッ!!」
王英が苛立ち紛れに左の掌で右の拳を受け止めた時、若い作男が戻ってきた。
「公子(坊ちゃん。鄭天寿)…あっ、王の旦那も」
「見つかったか!?」
「いえ、それが…」
「何だ!?」
言い澱む作男の様子に、鄭天寿と王英の不安と苛立ちが増していく。
「村外れの墓に行った事は行ったみたいなんですが、ちょっと様子がおかしいんです」
「どんな風に!?」
「火は既に消えてましたが香が焚かれてたり、酒や花が供えられたりしてて、墓参に行った事は間違いないと思うんですが、香炉や手桶、巾着なんかがそのまま残ってて…」
「何だと!?!?」
「今、他の作男達が周囲を捜してるんですが、とにかく一度お知らせした方が良いと思って」
事態が最悪の方向に進んでいる。
鄭天寿も王英も、それを否定する根拠がどこにも見出だせない。
「二哥(王英)。コイツに案内させますから、一緒に行って様子を見てきてもらえませんか?もうすぐ午前の法要が終わるんで、和尚さん達の世話をしたら、すぐに俺も行きますから」
「何でテメエも一緒に行かねえんだ!」と、思い切りブン殴ってやりたい気持ちを必死に堪え、ふーっと一つ大きく息を吐いて王英が瞑目した。
鄭天寿の立場が王英に分からないではない。が──
【立場云々の前に、鄭郎にとって小蝉はその程度の存在なのかよ!
俺にだって死者を弔い、敬う気持ちが無え訳じゃねえが、仮に俺が鄭郎の立場なら、少なくとも今は一も二もなく法要なんぞ打ち捨てて、屋敷を飛び出してんぞ!?
だが、んーな事をココでうだうだと言い争ってたところで、状況は何も変わりゃあしねえ。何より揉めてる時間が惜しい。ホントなら今この場で、山東の「白面郎君」を二目と見れねえ顔にしてやりてえところだが…んな事ぁ後でいくらでも出来る】
「…分かった」
「お願いします」
「じゃあ、王の旦那。こっちです」
鄭天寿が広間に戻り、王英は作男に付いて屋敷を後にした。
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王英が鄭家の作男に付いて丘を登っていくと、両脇の林の中では数人の男達が李柳蝉を捜していた。
「どうか無事に見つかってくれ」と、僅かな希望を胸に抱きながら歩を進めていくと、ほどなく開けた場所に出た。
中央に一つ墓があるだけの墓所。
墓の前まで歩み寄れば、確かに周囲の草は綺麗に刈り取られ、紙銭を焼き、香を焚いた跡がある。
【誰かが居た事ぁ間違いねえな…いや、ここに小蝉の父母が眠ってるってんなら、ここに居たのは間違いなく小蝉だ。「誰か」なんて甘っちょれえ事を考えてりゃ、取り返しがつかねえ事にもなり兼ねねえ】
すでに李柳蝉が持ってきたと思しき墓参の道具は一ヶ所に集められ、どのように置かれていたのかは分からない。
王英は辺りを見回し、墓から少し離れた位置に、ふと気になる物を見つけた。
何となく乱雑な数人分の足跡。
「なあ、コレお前らの足跡か?」
王英が墓所まで案内してきた作男に尋ねる。
「えっと…すみません、分かりません。俺らも慌てて墓の周りに集まって、その後、皆でバタバタと周囲を歩き回っちゃったもんで」
「そうか…」
王英が墓の周囲を見れば、確かにいくつもの足跡がある。しかし、この正面の足跡は、直感的に異質な気がした。
絶え間なく襲い来る胸騒ぎを必死に堪えながら、王英は墓所の入り口に戻った。林道の両脇には、一際大きな檜が聳り立っている。
僅かな手掛かりも見逃すまいと王英が目を凝らすと、左右の檜の根元では数本の草花が不自然に折れ曲がっていた。明らかに踏みしだかれている。
「おい!お前ら、この辺りに立ち入ったか?」
作男は慌てて墓所の入り口に戻ると、王英の指し示す場所を見ながら頭を捻る。
「…俺らじゃないと思いますけどね。少なくとも俺はこの辺りに立ち入ってないし、俺が見てた限りじゃ、他の者も近付いてなかったと思います」
その後、王英は更に周囲を見回したが、他に事態を解決する糸口となりそうな物は見つからなかった。
下の方からは、まだ李柳蝉を捜す作男達の声が聞こえてくる。
【あの下草が踏み荒らされてた場所は、檜に隠れて墓の方からは見えねえ位置だ。作男達が踏み入ったんじゃねえなら、誰かがあそこに立って墓の様子を窺ってたに違いねえ。
あの足跡だって、墓の前で小蝉が供養してるところを襲ったと考えりゃあ、丁度良い位置じゃねえか】
僅かな手掛かりを元に、王英は推理を組み立てる。だが、考えれば考えるほど、導き出される結論は最悪の方向に向かっていく。
【考えたかぁねえが、小蝉を勾引かす輩と言やぁ、この前の奴らしか思い当たる節がねえ。だが、奴らの塒が清風鎮にあるって保証もねえ。
大体、鎮から鄭家村までの道中、荷を運ぶ荷車や轎舁きなんかとはすれ違ってねえし…って事ぁ、どっか別の村鎮に向かったのか?
クソッ!!あん時、追い掛けてでも奴らの素性をきっちり探っとくべきだったか】
墓所の周囲で李柳蝉が無事に見つかるのなら、それに越した事はない。
しかし、他を捜すとなると選択肢が多すぎる。一刻も早く答えに辿り着かなければならない今、虱潰しに捜し回って「ハズレ」を引いている暇はない。
「悪ぃ、お前らもうちょっとこの辺りを捜しててもらえるか?俺は一度村へ戻って、この後どうすっか鄭郎と相談してくるから」
「え、ええ。分かりました」
王英は今しがた登って来た林道を、再び全力で駆け下っていく。
朝から働き詰め、走り詰めの王英であるが、今は不思議と疲労がない。
とにかく気が急いている。その気持ちが、疲労を凌駕しているのだろう。
【長年ここで暮らし、何度も清風鎮に行った事がある鄭郎や小蝉が奴らの顔を見た事がねえってんだから、奴らは恐らく鎮のモンじゃねえ。
だが、清風鎮以外を捜すにしても、何処を捜しゃあいいんだ?近隣に清風鎮と並ぶようなデケえ鎮はねえが、小規模な村鎮なら幾つかある。その内の何処に向かえってんだよ。
いや、その前に村鎮に向かった保証すらねえ。二龍山や桃花山を塒にしてる奴らの仕業だとしたら、どうやって小蝉を奪い返しゃいい?
それに、仮に奴らが他所モンだったとしても、それが清風鎮に潜んでる可能性を完全に消す訳でもねえ。鄭郎の話じゃ、鎮には15,000人近くが住んでるってこったし、そうなりゃ戸数も4,000~5,000は下らねえ筈だ。もし鎮の中を捜す羽目んなったら、一体どっから手ぇ付けりゃいいんだよ】
王英は懸命に走りながら必死に思考を巡らせるが、今、何を為すべきか全く答えが見つからない。まるで、一条の光もない闇の中でもがいているような状態だ。
「どうすればいい?何処に向かえばいい?」と思考が堂々巡りをする内に、鄭家の門前に着いた。
だが、先ほどとは変わって王英が屋敷に踏み入る事はない。
中に入って鄭天寿に何を告げるというのか。
『李柳蝉が何処かの誰かに勾引かされたかもしれない──』
それだけだ。
何をすべきか、どこに向かうべきか──
墓所から屋敷の門前に至るまでに、王英にはその答えが見出せなかった。
今、鄭天寿に会ったところで、沸き上がる焦燥と、やり場のない苛立ちをぶつけ、そして何もできない己の無力を味わう事しかできない。
しかし、だからと言って、このままここで立ち尽くしている訳にもいかない。
王英が意を決して屋敷へ入ろうとした時、屋敷から飛び出してきた鄭天寿と鉢合わせた。
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「天寿、柳蝉は戻ったのか?」
「いえ、まだ…全く困ったもんですね」
ふーっ、と一つ溜め息を零した鄭延恵が、平服に着替えた鄭天寿に支えられながら椅子に腰を下ろす。
「伯父さん、俺も少し捜してきます」
「ああ。見つけたら、すぐに儂のところへ来るよう言ってくれ」
「はい」
すぐにも屋敷を出ようとする鄭天寿の背を追って鄭延恵が声を掛ける。
「ああ、それと…今回は軽い小言では済まんぞ、と付け加えておけよ?」
「…はい、分かりました」
拱手で応え、踵を返した鄭天寿が門を出ると、そこに王英が立っていた。いつになく顔が険しい。
「二哥!どうでしたか!?」
王英から返事はない。
「二哥っ!!」
「……勾引かされたかもしれねえ」
王英の両肩を掴み、激しく揺すって返答を促した鄭天寿の動きが止まり、しかし、すぐに我に返る。
鄭天寿の想定し得る、最悪の部類に入る返答だった。しかし、最悪ではない。
もし、遺体で見つかったなどという答えが返ってきていたら、その場に崩れ落ちていただろうが、勾引かされたというのであれば、すぐに助けに向かえばいい。
「二哥…うわっ!!!?」
唐突に王英が鄭天寿の胸ぐらを掴み、引き寄せた。
「だからあれほど言ったじゃねえかっ!!一人にすんじゃねえって!」
「ぐ…放して、下さい。いつまで過ぎた事を、言ってるんです?」
「この野郎…!!」
「放せ、って、言ってるだろっ!!」
鄭天寿が強引に王英の腕を振り解き、再び掴み掛かろうとする王英を制す。
「説教なら後でいくらでも聞きます。今は柳蝉を助けに行く時でしょう!」
鄭天寿の言葉は、正論ではある。だが──
王英が睨み付けるように問う。
「助けに行く宛てはあんのか?」
「…?何を言ってるんですか!?鎮へ行くに決まってるでしょう!」
「鎮の何処を捜す?」
「何処って…勾引かしなら荷車か何かで荷を運んでるように装うか、轎を使ったに決まってるんだから、鎮の人間に聞けば──」
「本当に鎮に逃げ込んだのか?」
「最初に鎮で襲ってきたんだから、鎮に向かったに決まってる!」
「だが、お前も小蝉も、奴らの顔を見た事がねえって言ってたじゃねえか!」
「鎮には15,000近くの人が住んでるんだから、俺が見た事ない奴だっている!」
「現に人が住んでる家だけでも、ざっと4,000~5,000は下らねえぞ!?しかも、それだけじゃねえ。空き家もありゃあ、宿に連れ込んだ可能性だってある。それを虱潰しに捜すってのか?もし、奴らが他の村鎮に向かってたら、鎮で捜し回った時間は全部無駄になんだぞ!?」
「う…」
鄭天寿は返答に詰まる。
「それにもし、奴らが二龍山や桃花山の賊だったらどうすんだ!禁軍が手を焼いてる連中だぞ?村の連中を率いて攻め入ったとして、それで小蝉を奪い返せんのかよ!?」
「じゃあ、どうしろって言うんだっ!!」
「それが分かってりゃ、こんなトコでテメエと喋っちゃいねえんだよっ!!」
鄭天寿はようやく事態の深刻さに気付く。
冷静に考えられる状況ではないが、王英の言わんとしている事は伝わった。
一刻も早く李柳蝉を助けに行かなければならない。
では、どこへ向かうのか。
可能性からすれば清風鎮が最も高いだろう。だが、確実でないのなら、周辺の村鎮であろうが、賊の巣窟であろうが五十歩百歩だ。
今は一か八かに賭けている場合ではない。しかし、どこに向かうにしても、今はその一か八かに賭けるしかない。
なぜ、昨日あんなに意地を張ってしまったのか。
なぜ、あれだけ王英から言われていながら今朝、李柳蝉から目を離してしまったのか。
なぜ、法要の準備を作男達に任せ、一緒に行ってやらなかったのか。
今になって鄭天寿の胸に強烈な後悔の念が押し寄せ、しかし、その後悔に押し潰されそうな心を、鄭天寿は必死に奮い立たせる。
「どうする。お前が決めろ」
自らの顔を真っ直ぐに見つめる王英の問いに、鄭天寿は瞑目して答えを探す。
この答えで全てが決まる。だが、その答えは鄭天寿が出さなければならない。
どんな言い訳を並べようと、どんな綺麗事で取り繕おうと、この事態を招いたのは紛う事なく鄭天寿自身だからだ。
そして、今ここで出した結論がいかなる結末を招こうと、その責を王英に負わせる理由はどこにもない。
目を開け、鄭天寿が答えを口にしようとした、将にその時──
遠くに馬の嘶きが響く。そして、猛然と近付く蹄の音。
二人がそちらに視線を飛ばす。
息も荒々しく今にも力尽きそうな馬は、それでも手綱で叩かれ、騎手の期待に応えて鄭家の門前まで辿り着く。
「何やってんだ、お前ら!?」
手綱を引き、ひらりと馬を降りたのは、二人がまさかこんなに早く戻ってくるとは、予想だにもしていなかった男だった。




