墓参
墓参の作法については、地方によって様々な風習があるそうです。本文中、各地の風習がごちゃ混ぜになってたり、手順が違ったり、そもそも当時の慣習と違ったりしているかもしれませんが、御了承下さいませ。
引き明けの空の下、鄭家村に程近い丘へと続く林道を、一つの人影が進む。
李柳蝉である。
右手には水と柄杓の入った手桶、左手にはやや大きめの巾着と、どこから持ち出してきたのか、酒の入った瓢箪。
朝。
鄭天寿の屋敷は誰も彼もが忙しなかった。
食事を摂り、体調の悪い鄭延恵の世話をした後、法要の支度のために慌ただしく動き回る鄭天寿や作男達の目を盗み、誰に告げる事もなく李柳蝉は屋敷を抜け出した。
【あのバカ…ちょっとくらい付き合ってくれたって良いじゃない!】
暁闇の清々しい空気とは裏腹に、昨日の余韻を引きずる李柳蝉の胸中は一向に晴れない。
歩き慣れた道であるはずなのに道のりはなぜか遠く、その足取りは僅かに重い。
【大体、あんな言い方しなくたって良くない?まあ、私だってカチンときて、最後はちょっとキツい言い方しちゃったけど…】
売り言葉に買い言葉で最後に李柳蝉が放った捨て台詞は、はっきり言って「ちょっと」どころの話ではないのだが、一人で行くと見得を切った以上は、と意地を張ってここまで出て来た割には、何やらバツが悪そうに一旦立ち止まり、屋敷の方を振り返る。
【やっぱりアイツに一言、言ってから出てきた方が良かったかしら…】
昨日の喧嘩から今朝に至るまで、李柳蝉は鄭天寿と口をきいていない。
気まずいのはもちろんある。
しかし、口をきけば「一人で行くな」と言われるに決まっている。言われたところで、大人しくしているつもりは毛頭なかったが、それより何より、その言われ方次第では皆の見ている前で昨日の喧嘩を再現してしまいそうだったからだ。その上、喧嘩の理由を知られれば、それこそ屋敷中の者達から寄ってたかって監視されるのは目に見えている。
【ダメダメ!体調が悪い大伯さまにあんな喧嘩を見せて、余計な心配を掛ける訳にはいかないもん】
ふるふると頭を振った李柳蝉は、再び屋敷に背を向ける。
頭上では僅かに色付き始めた仄暗い新緑が左右から暁の空を蝕み、そうして形造られた頂上へと続く回廊は、まるで林道の形に星々を散りばめたかのようだ。
今にも消え入りそうなその星々の瞬きに導かれるように、李柳蝉はまた歩き始める。
【でも…アイツ、何で昨日はあんなに頑なだったのかしら。いつもだったら、最後は折れてくれるのに…。
そりゃあ確かに?私の両親を供養してくれるんだから?有り難い事なんだけどさ】
頭に血が上り、李柳蝉が昨日は気付けなかった鄭天寿の僅かな違和感。
それがつまり今、たった一人で両親の墓前に向かっているという現実に繋がっている。
くさくさと気を滅入らせながら林道を進む李柳蝉であるが、仄かに明るくなってきた視界の中、林道脇の花々を愛でて僅かに癒され、「どれがいいかしら」と選り好んでいくつか花を摘んでる内に気分もまずまず持ち直し、てくてくと丘を登って開けた場所に辿り着いた。
中央にやや大きな墓が一つ置かれただけの墓所。
十数年前に鄭家村を襲った流行り病では、村の30人ほどが命を落としたと伝わる。
150人に満たない内の30人であろうが、数千、数万の内の30人であろうが、亡くなった者の身内からすれば、その悲しみに変わりはなかろう。
しかし、一つの生活共同体として見た時、数千、数万の都市と比べ、150人に満たない鄭家村で30人を失った影響と混乱、恐怖と悲嘆は、いかばかりであったろうか。
その30人ほどの中に、李柳蝉が顔も覚えていない両親が含まれていた。
「おはよう。お父さん、お母さん」
父母を亡くして以来、李柳蝉にとって鄭延恵は保正であると同時に父となり、郭静は祖母であると同時に母となった。
我儘を言っては甘え、愚痴を零しては窘められ、実の父母の顔は知らずとも、物心が付いてからこの方、父母が自分を遺して逝った事を恨んだり、父母のない事を理由に他人を羨んだ事はただの一度もない。
今、ここに在る事に対して誰に感謝を捧げるかと問われれば、李柳蝉は迷う事なく四人の名を挙げる。
残念ながらそこには自分を思ってくれてはいるものの、見て呉れの良さ以上に他の女性に対して外面が良すぎる女誑しの「兄」の名はない。
おそらく、その「兄」の評価を問われれば「ま、アイツはこれからの頑張り次第でしょ」などと嘯く程度だろう。
女誑しの「兄」が、いつになったら五人目として名を挙げられるのかはともかくとして、四人の内の二人が鄭延恵と郭静である事は言うまでもない。
当然、残る二人はこの墓の下に眠る父と母である。
自分を産んでくれたのだから当たり前、という話ではない。
父母が病に倒れた際、二人は「まだ幼い我が子に病を感染す訳にはいかない」と李柳蝉を隣家の鄭延恵に預け、まだ両親に甘えたい盛りの李柳蝉がどれだけ泣き喚き、駄々を捏ねようと、自分達の病が治るまで絶対に近付かせないでくれ、と念を押して頼み込んだ。
その後、病は日増しに重くなり、意識が無ければ囈語のように李柳蝉の名を口に魘され、それでも意識のある内は李柳蝉を側に近付けるなと、郭静に強く求めた。
郭静が「看病に当たる自分に病が感染っていないのだから」と、僅かな時間だけでも李柳蝉を側に置こうとしても頑なにそれを拒み、いよいよ死期を悟った時には郭静の手を取って李柳蝉を託し、亡くなって後も尚、娘の身を案じて埋葬まで側に寄らせぬよう強く強く言い遺し、今際の際には薄れ行く意識の中で娘の名を呼びながら逝ったという。
その話を郭静から聞き、そして思い出す度に、李柳蝉は涙が溢れて止まらなくなる。
一体、どれほどの愛を我が身に注いでくれていたのか、と。
そしてまた同時に、自らの将来に父母を重ね見て一抹の不安も覚える。
自分が愛する人との子を産んだとして、そこまで愛情を注げるのだろうか、と。
結果的に両親の願いが功を奏したか否かは分からない。
郭静が病を得る事はなかったが、李柳蝉が父母に寄り添い、郭静と同様に病を得なかったか、或いは病を得てそこで命を落としていたのか、もちろん今となっては知る由もない。
もしまた仮に、死出の旅路に出る父母に、せめてと最後の別れを告げたとして、当時まだ幼かった李柳蝉に、今もその記憶が留め置かれているという保証もない。
しかし、李柳蝉にしてみればそんな事はどうでもいい。
「今、ここにこうして自分が存在している」という事実こそ、他の何よりも雄弁に父母の惜しみない愛情を証している。
『瞻るは父に匪ざること靡く、依るは母に匪ざること靡し』(※1)と古人の言葉にある通り、顔を覚えていようがいまいが、話した記憶があろうがなかろうが、李柳蝉にとって父母とは心の拠り所であり、怙るべく、恃むべき存在なのだ。
普段は大人びていて我が強く、男勝りな振る舞いが目立つ李柳蝉であるが、こうして父母の墓前に立つ時だけはその外見を脱ぎ捨て、飾る事のない自分を存分に晒け出す。
そして口には出さずとも──いや、そもそも鄭延恵や郭静に、まして鄭天寿などには口が裂けても言えぬような思いを吐露し、亡き父母に思いを馳せ、自らの行いを見つめ直す。
李柳蝉は荷を置いて溢れた涙を手で拭い、父母に深々と拝礼すると、墓の周囲に伸びた雑草を毟りながら、胸中で父母と会話を交わす。
【一年って早いね。あっという間だよ。こんなに近い場所なのに最近来れなくてゴメンね。
……
あのね…私ね…もうすぐお嫁にいくの。
それでね、ホントは、旦那さまになる人に一緒に来てもらって、紹介したかったんだけどね…でも、断られちゃったの。後でまた和尚さん達と一緒に来るんだけど、その前に二人だけで来たかったのに…】
あらかたの草を取り終えると、墳墓を洗って土を積む(※2)。
【誰だと思う?お父さんとお母さんは直接会った事あるのかなぁ。あ、でも知ってる人だよ?ここにも毎年来てるからね。
正解はねぇ…鄭阿哥(鄭お兄ちゃん)でしたぁ。びっくりした?それとも知ってたかな?
去年の秋くらいにね、阿哥から言ってくれてね…ホントに嬉しくって、その場で私からもお願いしちゃった。
お祖母ちゃんも大伯さまも、凄く喜んでくれたの。
阿哥はねぇ、とってもカッコ良くて、優しくて、強くて…大好きなんだけど、でもちょーっとだけ女の人にだらしなくてね。酷いと思わない?私の気持ち知ってるクセにさ。
でも、心配しないで。他の女の人には負けないんだから。ふふふ】
巾着から火打石を取り出し、父母に捧げる紙銭を焼く(※3)。
【正式に許嫁になった時に、報告に来れば良かったんだけど、何だか照れ臭くって…。
だから、ちゃんと二人で報告して、それからお父さんとお母さんの前で「至らない私ですけど、これからも宜しくお願いします」って、言おうと思ってたんだよ?
後ね、阿哥に「私の事を幸せにします」って、お父さんとお母さんに誓ってもらおうと思ってたんだけどね。ふふ。
そ・れ・な・の・に、結局一人で来る事になっちゃったの。少しくらい付き合ってくれても良いと思わない?】
墓前に先ほど摘んだ花々や季節の野菜を供える。
【…誘った時に、私がちゃんとそう言えば良かったんだよね。でも、側に王哥が居て…照れ臭くて言えなかったの。
だってね、王哥ったら、ちょっと私と阿哥が仲良くしてると、すっごい冷やかしてくるんだよ?もう恥ずかしくって…。
そうそう、私ね。その王哥に棒を習い始めたの。
最初はちょっと棒を振るだけですぐ疲れちゃったんだけど、今は結構上達したのよ?王哥にも褒めてもらったんだから。
でも、その王哥と阿哥は同じくらいの腕前でね。私まだ全然、王哥には敵わないから、きっと阿哥にもまだまだ敵わないよね。
でも、これからもっともっと練習するから応援してね。それで、いつか阿哥が他の女の人に酷い事をしたり、あんまり悲しませたりするようなら、懲らしめてやるんだから。ふふ】
器に酒を注ぎ捧げる。
【あっ、そうそう、その前にこれを話さなくっちゃ…いきなり「王哥」なんて言っても、誰の事か分かんないよね。
私、新しい哥哥さんが出来たの。それも、二人も。で、その内の下の哥哥さんが王哥なの。
上の燕哥はねぇ、優しくて、それにとっても博識で頼り甲斐がある人なの。今も色々教えてもらってるのよ?阿哥も燕哥には頭が上がらないの。
でもねー、さっき言ってた王哥の方がねー…いい人だとは思うんだけど、何か相性が良くないっていうかねー、最近はそれでもだいぶ打ち解けてきたとは思うんだけどねー。
…そうでもないのかな。昨日も酷い事言っちゃったし。王哥は笑って許してくれた…と思うんだけど、ね?
それに、何て言うか…とっても阿哥と仲が良くて、放っておくとずっと二人でいるから…寂しいなぁってゆーか、もうちょっと阿哥に構ってもらいたいなぁってゆーか…えへへ。
今は燕哥が商売で旅に出ちゃってるから、戻ってきて落ち着いたら、また紹介しに来るね】
香炉に香を焚く。
【私ってまだまだ子供だなぁ、って感じるの。ちょっと自分が思ってる通りにいかなかったり、揶揄われたりすると、すぐ怒ったり不貞腐れたりしてさ。
大伯さまや王哥からもよく「もっと感情を抑えなさい」って怒られるの。分かってはいるんだけどねー。
昨日だって、阿哥がお父さんとお母さんのために色々手配してくれてるの分かってたのに、私が我儘言って喧嘩になっちゃったの。それからずっと気まずくて喋ってないし。ホントは私から謝らなくちゃいけないのにね。
だから…戻ったら私から謝るから、ちゃんと見ててね】
瞑目し父母との会話を続ける。
【あんまり我儘ばっかり言ってたら、嫌われちゃうもんね。
でも、ホントに戻ったらちゃんと謝って仲直りするから。来年は必ず二人で来て…「私はこんなに幸せです」って惚気ちゃおっかな。えへへ。
あっ、でも、二人じゃないかもしれないのよね…もしかしたらその頃には…えっと…お、お腹が大きくなってるかもだし…で、でも大好きな阿哥とだから、祝ってくれるよね?
…そっか、別に来年まで来ちゃいけないなんて事ないわよね。すぐ近くに住んでるんだし。
何か…元宵節から急にバタバタしちゃって、前に来てから随分間が空いちゃったね。これからはもっと会いに来るから許してね。
差し当たっては午後だけど…って、そういう事じゃなくって、近い内に阿哥と二人で来て…もしかしたらその頃は阿哥じゃなくて、旦那さまかもしれないけど、お父さんとお母さんに報告するからね。
もっと一杯お話してたいんだけど、あんまり遅くなると皆に心配掛けちゃうから…ん~、もう手遅れかもしんないけど。
あ~あ、これじゃまた阿哥に怒られちゃうね。でも、私の事を心配してくれてるんだから、ちゃんと謝らなきゃだね。
最後にね。お父さんとお母さんが私を愛してくれたように、私も愛する人との子供を一杯愛して、お父さんとお母さんに見られても恥ずかしくない母親になるからね。
それと、私、今すっ……っごく幸せだから、お父さん、お母さん、心配しないでね。
だから、いつまでも私の事を見守っていて下さい】
李柳蝉は墳墓を真っ直ぐ見据え、稽首(※4)を捧げた。
身体を起こし、にっこりと微笑んで語り掛ける。
「じゃあ、また後でね」
不意に、それまでまっすぐ立ち上っていた香の煙が、風もなく李柳蝉の方へ向かって靡き、顔を掠めて背後に流れた。
まるで何かを指し示すように。
──ガサッ。
──ジャリ。
──パキッ。
「…?誰?鄭ろッ──」
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昼時までは、まだ間がある頃。
清風鎮の南の柵門を五人の男が通った。
轎を担ぐ二人と、それに付き添う三人。三人は周囲への警戒は怠らず、しかし、努めて平静を装っている。
鎮に入った男達はそのまま南北を貫く大通りを行かず、人目を避けるよう小路を右へと曲がってすぐに建物の影に消えた。
その直後、西寨の門から鎮に入り、中央の衙門(役所)の辺りで大通りに出た背の低い男が脇目も振らずに大通りを駆け抜け、鄭家村を目指して南の柵門から走り去っていった。
※1「瞻るは~」
『詩経(小雅 小弁)』。原文は『靡瞻匪父 靡依匪母』。訓読は本文の通り。「迷った時に見るべきはやはり父であり、困った時に依って頼るのはやはり母である」の意。
※2「土を積む」
墓参の際、風雨などで土が流れたりした部分に土を盛り、補修する風習があるそうです。
※3「紙銭を焼く」
「紙銭」は今で言う紙幣。『水滸伝』にも描写がありますが、墓参に限らず、行事や儀礼の際に焼く風習があるそうです。墓参の場合、死者があの世で金銭的に困窮しないように、という願いが込められているそうです。
※4「稽首」
拝礼の一種。基本の形式として九種類ある拝礼の中で、最も格式の高い礼。両膝をついて、頭を地につける──と書くと日本の土下座に近いように思えるかもしれませんが、土下座のように腰を足の上に置く訳ではないようです。墓参の際には「頓首」、或いは「叩頭」を行うとした資料もあったのですが、本文では「稽首」としました。




