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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第三回  燕錦虎 金陵に鬱々と愉しまず 李柳蝉 丘陵に怙恃を祀ること
32/139

すれ違い

「ヒャッハー!」

「…どうも」


 鄭家村の中央、保正の屋敷の門前で、異常にテンションの高い兄と、地の底に届かんばかりにテンションの低い妹が朝の挨拶を交わしている。


「何ですか、その雑魚感丸出しの挨拶は…その内、一子相伝の拳法使いに、指先一つで五臓六腑を『ひ○ぶ!』されますよ?」

「何だそれ!?怖ぇよっ!!」


 燕順が青州を発ってからも、李柳蝉の態度は一向に改まっていない。


 そもそも元々の相性が(すこぶ)るよろしくないのだ。燕順に窘められた手前、努力はしているようであるが、一度染み付いてしまった癖はなかなか抜けるものでもない。

 鄭延恵や鄭天寿からは燕順の諫言を引き合いに小言を貰ったりもするのだが、当の本人は「努力を買って下さい」と涼しい顔である。


 一方で王英はそんな冷淡な李柳蝉に苛つく事が少なくなった。

 感情的に罵る姿は無論の事、冷淡に蔑む姿もそれはそれで乙なもの、とまた一つ新たな扉を開いた。


 …らしい。


 要するに、李柳蝉の態度がどうであれ、相手にしてもらえさえすれば何だっていいのだ、この男は。

 見事なまでの「構ってチャン」に進化を遂げた、いや、遂げてしまったと思われる。


 テレレ、レッテッテッテーン♪


 李柳蝉にとっては、ほとほと迷惑この上ない話だがww


「相変わらずつれねぇなぁ、小蝉(李柳蝉)は」

「王哥(王英)も相変わらず、まともな挨拶の一つもお出来になられないのですね」

「いやいや、敢えてだよ。敢・え・て!小蝉だって朝、起きたら顔を洗うだろ?それと同じだよ。やっぱ小蝉に冷や水を浴びせられなきゃ一日が始まんねえっつーかさぁ」


 今も王英は毎日この鄭家村に顔を出す。車夫の仕事があれば昼過ぎになる事もあるが、そちらはよほど暇なのか、大概来る時は今日のように日の出からほどなくの時間だ。そして、日がな一日鄭天寿と過ごし、李柳蝉に棒の稽古をつけては夜に家へ戻る。

 時には屋敷に泊まる事もあるが、李柳蝉があまり良い顔をしないので、こうして朝になるとまた出直してくるという訳だ。


「さて…んじゃ、そろそろ上がらせてもらうぜ?」

「ちょっと何を言ってるのか分かりませんが…まず、何故『上がらせてもらえる』のが前提なんですか?」

「そりゃあ何だかんだ言ったって、毎日通してくれてんじゃん?」

「ああ、それは迂闊でした。時には情け容赦なく追い返して差し上げれば良かったですね。しかし私が今、将に『今日こそは』と狙い澄ましている可能性についてはお考えになられないんですか?」

「えっ?狙い澄ましてんの!?」


 この押し問答は毎朝の恒例行事になりつつある。最終的には王英が言う通りの結末を迎えるのだが、恒例行事なので仕方がない。


「…!『小蝉、まあそう言わずに入れてやってくれ。押し問答で日が暮れてしまう』」


 胸を張り、声色を変える王英に、李柳蝉は思い切り眉を(ひそ)めた。


「何ですか、それ?燕哥(燕順)の真似ですか?」

「どう?似てたろ?」

「死ぬほど似ていませんでした」

「あのさ、ちょっと似てねえモノマネ見たくらいで簡単に死に過ぎじゃね?もうちょっと自分を大事に──」

「何故、私が死ぬんですか?」

「俺が死ぬのかよっ!?」

「…?今の(くだり)の、どの辺りに私が死ぬ要素があったのでしょう?」


 はぁ、と一つ溜め息を零したのは王英。

 まるで「死ね」と言われたも同然な李柳蝉の反応なのだが、それを溜め息一つでやり過ごせるようになった王英の成長が著しい。


「ちなみにどの辺りが似てなかったか、参考までに聞かせてもらっても…?」

「そうですね…主に背と顔と威厳と──」

「ねえ、声は?俺、声を真似たつもりだったんだけど…」

「真似ていたんですか!!!?」


 心の底から驚いた様子で目を見開く李柳蝉。


「てかさ、逆に何処を見て哥哥(あにき)(燕順)の真似だと思ったの?」

「…台詞でしょうか。ちなみに、一番似ていなかったのは背です。あ、いえ、威厳かしら…?」

「うん、知ってたよ、チクショウ…何、小蝉。朝っぱらから俺を泣かせてえの?」

「それも良いかもしれませんね」


 今日の李柳蝉はなかなかしぶとい。いつもならとっくに屋敷に入ってる頃合いだ。


「あの、ホントもう通してもらっても良いっすかね?」

「別にこのまま一日を門前で過ごしてもらっても一向に構わないんですよ?」

「てか、そうすっとさ。今日の棒の稽古は門前(ココ)か表の広場でする事になんだけど…」

「くっ…何と卑怯な!私に死ねと言うのですか!?」

「…ねえ、どの辺?今の(くだり)の、どの辺りに小蝉が死ぬ要素があったの?」

「王哥に教えを乞う姿を村の人達に晒すなど、恥辱以外の何物でもありません!」

「ああ、そう…えっと、じゃあ通していただけるって事で…?」

「ふぅ…仕方ありませんね。脅しに屈したようで甚だ不本意ではありますが。しかし、次こそは完膚なきまでに追い返して差し上げますから」


 李柳蝉は李柳蝉で一瞬、言葉が過ぎたかと慌てたものの、そんな素振りは(おくび)にも出さず、あくまで不本意を装って恒例行事に終止符を打った。


「なぁんだよ、小蝉。明日も来てくれってか?」

「つ・ぎ・こ・そ・は!完膚なきまでに追い返して差し上げますからねっ!!」

「はいはい、分かった分かった。素直じゃねえなぁ、全く…」


 それを聞くや否や李柳蝉から叩き付けられた、まるで親の仇でも見るかのような、汚物でも見るかのような、或いは今、将に害虫を踏み潰すかのような、ともかく耐性がなければ一瞬で全身が石化するようなゾッとする視線には、さすがの王英もビビった。


 いや、間違えた。ビビってなどいない。

 いないったらいない。


 進化を遂げた王英にとって、そんなものは御褒美だ。余人がゾッとする視線も、王英にとってはゾクッとくる視線だし、ビビったのではなく、雷に打たれたかの如くビビビッときたのだ。


 謹んでお詫びの上、訂正申し上げます。


「は!?あんまりふざけた事を言わないでいただけますか?このまま鄭郎に『王哥は今日、来なかった』と伝えても良いんですよ!?何なら今後この村に来ようと思う度に恐怖で身体が震え出すほど、今からでも完膚なきまでに追い返して、鄭郎に『王哥はもう二度と来ない』と伝えたって良いんですよ!?!?」

「お、おぅっふ…あ、ああ、いや、悪かった悪かった。冗談だって、冗談」

「何ですか、その不快な返事は…まあ、分かったのなら今日のところは──」

「やっぱ何だかんだ言っても優しいねぇ、小蝉は」

「王哥に言われても嬉しくありませんので、お世辞でも結構です」

「お世辞でも!?」

「お世辞でもですが何か?それに明日は来られても、王哥の相手をしている暇はありません」

「ん?何か用事あんのか?」

「…もう忘れたんですか?」


 やや機嫌を戻していた李柳蝉は、あからさまに再び機嫌を損ねたと分かる表情で尋ねた。


「…あ!ああ、アレか。そっかそっか、明日だったなぁ」

「アレとは何ですか、アレとは」

「あー、いや、スマン」

「全く…あぁ、それと燕哥が戻られたら、王哥が『でぃす』っていたと、ちゃんとお伝えしておきますからね」

「でぃす…何て!?」

「…?いえ…何となくあの状況を一番的確に表している言葉のような気がしたので」

「何か良く分からんが止めてくれ。拳法の使い手に()られる前に、哥哥(あにき)()られる」


 何とも仲の良い兄妹は朝の日課を終え、二人揃って仲良く屋敷に入っていった。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「ヒャッハー!」

「…何です、二哥(王英)?その雑魚感丸出しの挨拶は」


 裏庭の隅に追いやられた腰掛けに座り、怪訝な表情で鄭天寿が問い掛ける。


「おいおい…仲が良いな、お前らは。反応が全く一緒じゃねえか」

「はあ…」


 意味の分からぬ挨拶を投げ掛けられたのであるから、鄭天寿の呆気に取られた反応も、まあ不思議ではない。


 鄭天寿の手元には一本の(かんざし)。王英が来る時は、ほぼ確実に李柳蝉が案内してくるので、鄭天寿も必ずこの釵を弄っている。


「だいぶ完成に近付いたんじゃね?それ」

「いえいえ、もう少し飾りがね」

「良かったなぁ、小蝉。あんな手の込んだ釵も、なかなかお目に掛かれねえぞ?」

「べ、別に王哥には関係ありません!」

「けけっ、照れちゃってまあ可愛い事」

「う、うるさいですよっ!!」


「仲が良いのは、どっちなんだか」と、鄭天寿は軽く笑みを浮かべて作業を続ける。


「もうっ!!…あ、そうだ、鄭郎。明日の朝、ちょっと時間取って欲しいんだけど…」

「えっ、朝!?…何で?」

「えっと…お墓に行こうと思って」


 李柳蝉は幼い頃に両親を流行り病で亡くしている。

 毎年の墓参は欠かさないのだが、その際、鄭延恵の計らいで清風鎮から僧侶を招いて法要を営んでおり、それが明日だ。


「いや、でも俺、朝は忙しいよ?伯父さんがちょっと体調崩してるから、俺が色々差配しなきゃなんないし…」

「和尚さん達が来るまでなら、ちょっとくらい時間あるでしょ?」

「でも、朝早くに鎮(清風鎮)を出てもらうよう、この前頼んで…って、柳蝉もその場に居たじゃない。それに午後には皆で行くんだから、その時じゃダメなの?」


 数日前、丁度この三人で鎮に赴き、仏寺で明日の法要について打ち合わせをしてきたばかりだ。

 明日は今時分に僧侶が来て法要が始まり、昼のお斎の後、墓前でお経をあげてもらう予定である。


「えと、先にお掃除とかもしたいし…」

「それは行った時で良いでしょ?和尚さん達だって準備があるんだから、着いて早々読経を始める訳じゃないんだし。少しくらい掃除に時間が掛かっても待ってくれるよ」

「それはそうなんだけど…」


 李柳蝉はモジモジと何か言い澱んでいる。


「んーと…それなら読経の後、俺達だけちょっと残らせてもらう?」

「鄭郎が施主なのに、和尚さん達だけで村に戻ってもらう訳にはいかないじゃない。村に戻ればお斎のお相手をしたり、片付けや何かでまた忙しくなっちゃうし…だから、どうしても朝に行きたいの!」

「はぁ…そしたら、二哥。朝、柳蝉のお供をお願い出来ます?」

「嫌よっ!!!!」

「あのね、小蝉?そんな目一杯、拒否んなくても…ね?」


 李柳蝉が駄々を捏ねる理由が分からず、鄭天寿にも徐々に苛立ちが募っていく。


「柳蝉、ちょっと失礼が過ぎるよ!」

「あー、いやいや、それはまあ良いんだが…てか、明日は朝イチからは無理なんだわ。久々に仕事が入っててな」

「そもそも王哥になんか頼んでないわよ!」

「柳蝉っ!!」


 鄭天寿が立ち上がり李柳蝉に詰め寄ろうとするところに、王英は慌てて割って入る。


「ちょっ、と…待て待て。お前らどうした今日は!?落ち着けって!」

「今のはいくら何でもダメでしょう!どうしても朝に行きたいって言うから二哥に頼んでるのに!」

「いや、まあ今の言い方は確かにアレだったが…小蝉、お前もまず、朝に行きたい理由を言ってみな?」

「王哥には関係ないわよ!」

「関係ないって事はないだろっ!!あれだけ燕哥に注意されてんのに、まだ──」

「もういい!一人で行くからっ!!」


 (きびす)を返して屋敷に戻ろうとする李柳蝉を慌てて王英が制止し、辺りを気にして小声で宥める。


「小蝉、ちょっと待て。一人はダメだ。()()()()があったばかりだぞ?何かあったらどうする」

「何もないわよ!お墓までそんなに遠くないんだから」

「そうそう、遠くねえんだから一人で行く…ん?え、何?遠くねえの!?」


 李柳蝉の言葉に、王英は鄭天寿へ視線を向ける。


「ええ、まあ、村を出て少しのところにある丘の上ですが…」

「なぁんだよー。お前がそんなに反対するから、俺はまたてっきり行って帰って半日掛かりとか、そんな感じかと思ってたわ。そんなに近いんなら行ってやれよ、鄭郎」


 笑顔の王英とは対照的に、李柳蝉の表情は未だ不機嫌そのものである。

 が、それでも鄭天寿へ視線を投げ掛け、返答を待つ。

 無論「分かった、行くよ」という返答を。


 だが──


「二哥までそんな…行けませんよ。代行とはいえ施主なんて初めてで分からない事も多いし、準備に手落ちがあって法要を台無しにする訳にはいかないんですから」

「それは分かるけどさ、小蝉もどうしてもって事だから…ちょ、ちょおっ、待てって小蝉!」


 顔にありありと失望の色を浮かべて立ち去ろうとする李柳蝉を、王英が腕を掴んで引き留める。


「もういいわよ、王哥。鄭郎が行きたくないって言ってるんだから」

「誰も『行きたくない』なんて言ってないだろっ!!我儘もいい加減にしろよっ!!」


 諦観の中に皮肉を込めた李柳蝉の言葉に、鄭天寿の堪忍袋の緒が遂に切れた。


「鄭郎、落ち着け!小蝉も今のはちょっと──」

「大体、誰の為の法要だと思ってんだよ!柳蝉の父親と母親のだろ!?その支度で忙しい時に抜け出せなんて──」

「おい、鄭郎!お前もいい加減にしろっ!!お前こそその言い方はねえだろうが!」


 まだ正式な夫婦ではないものの、許嫁として「燕順や王英を『兄』と敬え」と李柳蝉を諭したのは、他ならぬ鄭天寿だ。

 であるならば、同じ理屈で李柳蝉の両親は「鄭天寿の父母」である。まるで赤の他人を呼ぶかのような「柳蝉の父親と母親」などという物言いはない。


 李柳蝉は捕まれた腕を強引に振りほどき、鄭天寿へと身体を向けた。

 悲しみとも、憤りとも、苛立ちとも取れる、複雑な感情が同居した面持ちで鄭天寿をキッと睨み付けるが、すぐに、すっと表情を失くし、深々と拝礼する。


「公子(※1)。この度は私の亡き父母の為に格別の御配慮を賜り、誠に有り難うございます。また、お忙しい中、法要の御差配を取り仕切っていただき、重ね重ねの御厚情、感謝に堪えません。明日は何卒、宜しくお願い申し上げます」


 李柳蝉はそう言い残し、鄭天寿と視線を合わせる事なく、再び踵を返した。


「おい、小蝉!あ、あ~っと、今日の鍛練は──」

「そんな気分じゃない」


 顧みる事もなく、李柳蝉は屋敷の奥へ消えていった。

 その背を為す術なく見送った王英は、深い溜め息と共に鄭天寿の元へ歩み寄る。


「鄭郎、どうした今日は?」

「どうしたもこうしたも…俺にも分かりませんよ」

「アイツの我儘はいつもの事だろ?」

「それにしたって今日のは酷すぎでしょう!?」


 一旦落ち着かせるため、王英が鄭天寿を腰掛けに座らせる。


「とにかく、いくら近場だからって今、小蝉を一人にさせんのはまずい。鄭郎。明日の朝、何とか抜け出せねえのか?」

「起きて、飯を食って、準備を取り仕切ってたら、和尚さん達が来るまであっという間ですよ。二哥、何とかお願い出来ませんか?」

「どんなに急いでも、明日は今時分に来んのもちょっと無理だ。鎮からウチの近くの宿場まで荷を運ばなきゃなんねえ」


 清風山と清風鎮の間にある宿場は、清風山の南西に在る。そして清風鎮はその宿場の南東に在る。

 清風山から続く街道は宿場を通るため清風鎮の西門に繋がっているが、位置的にみれば清風鎮は清風山のほぼ真南に当たる。

 そして鄭家村は清風鎮の更に南だ。


 つまり──


「せめて逆なら良かったんだが…」

「はぁ…」


 鄭天寿は両肘を卓につき、悩ましげに両手で顔を覆う。


「鄭郎。慣れねえ仕事を任されて神経質になってんのは分かるが、明日は出来るだけ小蝉に目を掛けててやれ。放っとくとマジで一人で行っちまうぞ?」

「…別に一人で行かせれば良いんじゃないですか?ホント、村を出てすぐのトコなんだから」


 顔を覆って項垂れたままの鄭天寿が、ぼそりと呟く。それを聞くや、王英は鄭天寿の身体を無理矢理引き起こして胸ぐらに掴み掛かり、鼻がぶつからんばかりに詰め寄った。


「おい、テメエ…そりゃマジで言ってんのか!?」

「う…ぐ…すいません」


 我に返った王英がその手を放す。


(わり)ぃ、鄭郎。つい…」

「いえ…ケホッ…大丈夫です」

「だが、忙しくて抜け出せねえなら、抜け出せねえなりにやれる事があんだろ?」

「…分かりました」

「俺が役に立てねえのは申し訳ねえが…」

「二哥の所為じゃありませんよ」


 王英は鄭天寿の横に腰を掛けて宥めつつ、落ち着きを取り戻した李柳蝉が戻るのを待ったが、彼女が再び庭に立つ事はなかった。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 明日の仕事に備えて普段より早めに帰る王英を、鄭天寿は村の外れまで見送った。

 王英の姿が見えなくなり、屋敷に戻ろうと振り返った時、鄭天寿は不意に誰かの嗤い声を聞く。


 辺りを見回すが誰も居ない。誰かが隠れられそうな物陰も側にはない。


「……?」


「確かに嗤い声を聞いたと思ったんだけど」と不思議な気分に包まれた鄭天寿であったが、すぐに思い直す。


 ホントに嗤い声だったか?


 ──と。


 つい先ほど聞いたはずであるのに、驚くほどその記憶は曖昧だ。


 それが嗤い声だったとして、その声が高かったのか低かったのか、大きかったのか小さかったのか、いや、男性的だったか女性的だったかでさえ、すでに思い出せない。


 むしろ、なぜ嗤い声だと感じたのかと思えるほど、記憶にも根拠にも乏しい。


 少し風が強まっていた。雲一つない上空では僅かに風が巻き、唸りを上げている。

 西を見遣(みや)れば、沈む夕日に照らされた空が鮮やかに、燃えるように、そして不気味なまでに、赤く赤く染まっている。


 暫しその景色に見入った鄭天寿の頭上で、ほんの一瞬、星が瞬いた。

地異(ちい)」と呼ばれる凶星が。


 鄭天寿がそれを知る事はない。


「風の音だったか、な…?」


 我に返った鄭天寿はそう(ひと)()ち、そんな夕刻の不思議なひと時を締め括った。


 結局、屋敷に戻った鄭天寿は、翌朝早くから法事の支度を手伝うため、祖母と共に屋敷で一夜を過ごした李柳蝉と、一言も交わす事なくその日を終える。

※1「公子」

若旦那。坊っちゃん。鄭天寿を指す。

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