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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第三回  燕錦虎 金陵に鬱々と愉しまず 李柳蝉 丘陵に怙恃を祀ること
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 夜の静寂(しじま)が訪れ、柵門が閉じられようとも、清風鎮の兵達に気の休まる時間はない。


 何といっても悪名高き山賊の巣窟、青州三山へ通ずる街道に置かれた(とりで)である。

 清風山の制圧を見たとはいえ、残る二山の意気盛んなるを思えば、賊の出没する可能性は日のある内よりむしろ高い。


 東西両寨の櫓では、物見の兵達が神経を削りながら周囲を警戒し、地上では寨内を巡回する兵達の影が篝火に揺らめく。


 元々、三方に通ずる街道の分岐点に旅人達のための酒家や宿が建ち、そこから集落が形成され、徐々にその規模を拡大していったのが清風鎮の始まりであるが、いつの頃からか街道が通ずる三方の山、全てに山賊が巣食い、度々その襲撃を受けるようになってしまった。


 そこで、府州や県のような城壁を、とまではいかずとも、柵を築き、(ほり)を備え、跳橋を設け、櫓を建て、と清風鎮には賊徒に対する自衛の設備が整えられていく。

 そうして最低限、軍の駐留に必要な設備と規模が兼ね備えられると、地勢的な要衝という立地も相俟って、三山への牽制と威圧を目的として正式に州から将兵が派遣され、元から(まち)の中心に在った衙門の入る大寨に加えて東西にも寨が築かれた、という訳である。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 その東寨。


 齢はとうに50を過ぎ、すでに老齢の域にある主の文知寨、即ちこの清風鎮の正知寨は、その姓を周という。


 程度の差こそあれ、大抵の人は歳を重ねるごとに角が取れ、性格に丸みを帯びていくものだが、この男にそんな様子は微塵もない。

 人の性格はその表情にこそ最も顕著に表れるとよく言われるが、この正知寨に至っては表情のみに止まらず、役宅の一室でただ椅子に腰を掛けるその様にすら、穏やかさの欠片もない、驕慢と不遜に満ち満ちた内面が如実に表れていた。


 燭台の灯火が揺らめく中、周知寨は苦々しげに歪ませた顔を惜しげもなく晒して酒を(あお)る。

 卓の向かいには、直立するもう一人の男。


「困った事になったのぅ」

「…は」

「今朝の話では…確か今頃は提轄(ていかつ)(※1)の顔を見ながら、不味い酒を飲んでいる予定ではなかった筈だが?」

「面目次第もございません」

「何が『手前にお任せください』だ。聞いて呆れるわ」


 武官の装いをした男が首を垂れる。

 男はこの東寨で兵の指揮を任されている張提轄。この地に二人配属されている禁軍提轄の一である。


 元々この張という男は州から清風鎮に遣わされ、都頭(※2)として武知寨である()()の麾下に入っていたのだが、いかんせん武の力量は凡庸、兵を率いさせても才はなく、性格は傲岸で横柄、それでいて口が達者で屁理屈を捏ねるのが上手い。

 そして、何よりこの男が最も得意とするところは財貨を貪る事であった。事毎(ことごと)に鎮の住人へ強請(ゆす)(たか)りを働き、連日のように住民の苦情が届くに至ると、とうとう花毅から「兵を率いる資質なし」と断じられ、都頭を解任された。


 しかし、解任されるや張はすぐさま周知寨に泣きつき、それまで貯め込んでいた金品を惜しげもなく(まいない)として差し出すと、差し出された方は差し出された方で、張など歯牙にも掛けぬほど欲の皮が突っ張った男であるから(たちま)ち気に入られ、花毅の反対も虚しく、東寨の都頭として取り立てられる事となった。


 それ以降、張は失った金を取り戻すべく、以前にも増して鎮の住民から金品を(むし)り取り、そうして貯め込んだ金の中から周知寨や、彼を通して禁軍や州の高官に(まいない)を贈り、遂には提轄の地位に昇ったという訳である。


 無論そんな性格と、早い話が金で地位を買ったような経緯の持ち主であるから、提轄へ昇ったからといって途端に鎮の住人から親しまれるはずもなく、むしろ以前にも増して誰からも蛇蝎の如く忌み嫌われ、侮蔑や嘲笑の意を込めて「納賄蛆(のうわいそ)」(※3)などと陰口を叩かれている始末なのだが、同時にそれはそんな輩が寨を、()いては国土を守る任に臆面もなく就けている、という現実をも如実に表している。


 何もこの清風鎮だけが特殊な訳ではない。こんな事は宋の全土、至る所に有り触れている。


 この宋という国の中枢にまで奥深く、そして都鄙(とひ)(※4)に亘って遺漏なく蔓延した「腐敗」という病は、もはや手の施しようがないところまで行き着いてしまっているのだ。

 燕順がこの国の未来に暗澹たる思いしか抱けないのも、決して無理からぬ話である。


 それはさておき──


「あの女の素性は知れたのか?」

「は、それは。供の男が鎮の外れ、鄭家村という村の住人のようで、恐らくはその女も…」

「左様か」


 忌々しげに飲み()しの酒を再び呷り、知寨は提張轄に向かって椀を投げ付けた。

 提轄は危うくそれを交わし、壁に当たった椀が二度、三度と床で踊る。


「この事があの武知寨に知られたら、(わし)の立場はどうなると思っとるっ!!」

「その点は御心配に及びません。あの者達がこの東寨に入ったところは誰にも見られておりませんので」

「ハッ、それはさても重畳であるな…自ら指揮を執っていた訳でもあるまいに、よくぞ断言出来たものだ」

「手前は鎮の者に顔が知られております故…」

「だろうな。さすがは悪名高き『張提轄殿』であらせられるわ」


 以前、可憐な笑みを振り撒きながら、足取りも軽やかに鎮の通りを戯れ歩く女性の姿に、一目で心を奪われた周知寨であったが、その後、鎮を(くま)なく捜しても、その行方は(よう)として掴めなかった。


 邪な想いに身を焦がし、想いを遂げんと消息を探り、それでも見つからぬとなれば更に懸想し、そんな事を繰り返している内に、周知寨の胸に(こず)み、澱み、歪んだ情念は、まるである種の憎悪にも似た感情へと変貌を遂げ、今やいつ暴発してもおかしくないほどの兇猛な情欲となって渦巻いている。


 片や女の捜索と拘引を命じられた張提轄であるが、いかに東寨の兵を束ねる身と言えど、武知寨の威光には到底及ばない。寨の兵達を使おうにも、自分の目が届かぬところで武知寨に告発でもされれば、今度こそ身の破滅だ。


 そこで張提轄は幾許(いくばく)かの報酬を餌に、青州城を(ねぐら)にする馴染みの破落戸(ごろつき)を五人ほど呼び寄せた。無論、目的が達せられた暁には、報酬を払う気など毛頭ない。

 所詮は破落戸である。この世から消えたとて、喜ぶ者はあっても困る者はいない。事が済んだ後まで生かしておけば、禍根となるのは目に見えている。


 そして今朝。

 目当ての女が二人の男と共に鎮に来ていると聞き付けた周知寨は、即座に女を勾引(かどわ)かすよう張提轄に命じ、提轄は(くだん)の破落戸を差し向けた。


『女は騒ぎ立てられぬよう口を塞ぐ』

『男達の生死は問わず』


 後は破落戸達が女を連れ帰るのを待つばかり。


 ──のはずだった。


 さすがは武知寨から「兵を率いる資質なし」と断じられた男と言うべきか、張提轄はまさか破落戸達が事を仕損じるとは夢にも思っていなかった。

 常と変わらず淡々と勤めをこなす最中(さなか)に、その「はず」が単なる幻想だったと思い知らされた狼狽は想像に難くないが、とはいえそこに同情の余地は欠片もない。


 人に命を下す立場にある者なら、現状を客観的に分析するための視野と情勢の推移を予測する能力は、持っていて当たり前である。

 まして禁軍提轄ともなれば、兵の命を預かる身なのだから、むしろそこに長けているくらいでなければ使い物にならない。戦場で自分に都合のいい事ばかりしか考えられない指揮官など、想像するだに身の毛がよだつ。


 要するに、事を仕損じる可能性に思い至れない方が悪いのであって、ただ破落戸を送り出しただけで、そんな得体の知れない幻想に全幅の信頼を寄せるなど、はっきり言って正気の沙汰ではない。


 保身のために破落戸を使った張提轄にとって最も恐れるべきは、言うまでもなく自らが悪行に加担している事実が知れ渡る事であるから、()を運ぶ破落戸達を東寨へ迎え入れる際には細心の注意を払うつもりではいたのだが、揚々と送り出した破落戸達が()けつ(まろ)びつ逃げ戻ってくるという彼なりの誤算に気が動転し、周囲に気を配る事もないまま慌てて彼らを迎え入れてしまった。


 その「つもり」を思い起こした時には後の祭りで、破落戸達からは口を揃えて「大丈夫だ、()けられてはいない」と返ってはきたものの、せめて「何処かに一旦身を潜め、時間を置いてから戻ってくれば良かったものを」と、張提轄は一抹の不安を拭えない。


「その女は当分、鎮には来まいの」

「…は」


 張提轄は落ちた椀を拾い、新たな器に酒を注いで差し出すと、周知寨は一気にそれを飲み干した。


「あの女を一目見てからというもの、政務がまるで手に付かん。青州はおろか、天下広しと言えども、あれだけの美貌を持つ者は二人と()るまい」


 周知寨の面に姦濫(かんらん)な笑みが浮かび、提轄は僅かに眉を(ひそ)めつつ、素知らぬ振りで新たに酒を注ぐ。


「その天下に二人と居らぬ美貌の持ち主が、すぐ手の届く場所に在るとなれば、手に入れたいと(こいねが)うのが男の(さが)というものであろう?」


 再び酒を呷った周知寨は、皺に満ちたその面持ちを、まるで灯火の揺らめきに炙り溶かされるよう、ゆるりと醜悪に歪ませていく。


「ふ、ふひひ、あの女を責め、(ねぶ)り、辱め、穢し、甚振(いたぶ)り、貶め、蔑み、嬲り倒した暁には、ひひっ、およそ想像もし得ぬような極上の愉悦に浸れるであろうのぅ。ひひ、儂に組み敷かれ、恐れ、苦しみ、悶え、嘆き、泣いて許しを乞うた時、ひっ、一体あの女はどのようにその美貌を歪ませるのか…ひっ、ひひ、想像するだに夜も眠れんわ。ひひひ…」


 張提轄は努めて平静を装う。

 この知寨の庇護がなければ、彼は忽ちの内にその地位を失う。

 しかし、それを十分に理解して尚、胸に込み上げる不快の念は押さえようもない。


「あの肢体を存分に堪能し、散々に嬲り尽くし、飽いたところで慕容(ぼよう)閣下に献じれば、更なる出世も約束されたようなものだ」

「慕容閣下に…ですか?」

「…何だ?異存でもあるのか」


「慕容閣下」とは、知青州(※5)、即ち青州の長である。姓は二字姓で慕容、名も二字名で彦達(げんたつ)

 宋開国の功臣・慕容延釗(えんしょう)将軍の五世孫にあたる名家の血筋で、更には今上陛下の愛妾・慕容貴妃(※6)の兄でもあるのだが、といってそれ以外に特筆すべき有為な才があるでもなく、早い話が家柄と妹の権勢だけを頼りに知青州の座を得た、こちらも周知寨に負けず劣らず悪評の高い男である。


「いえ、閣下の思し召しとあらば。しかし、聡明な知寨閣下であらせられますから、手前はてっきり──」

「何だ!?はっきり申せ!」

「は。先ほど閣下は『あのような美貌を持つ者は天下に二人と無い』と仰せになられました。天下に二人と無いとなれば、それはつまり京師の後宮にも居らぬという事で…」


 ようやく張提轄の言わんとしている事が伝わり、知寨は膝を叩いて後を継ぐ。


「おぉ、なるほど…確かにあれほどの器量であれば、慕容閣下に献じる手はないか。あれほどの美貌の事、後宮に入れさえすれば、必ずや陛下の覚えめでたく寵愛を賜るであろう。しかし、慕容閣下の手によってそれが為されたのでは、儂への恩恵などたかが知れている」


 周知寨の口から、再び嬉々とした奇声が漏れる。


「ひひ、儂が直接、後宮へ推したとなれば…最早、栄耀栄華は思いのままだ。ひひひ」


 張提轄は尚も表情を崩さない。

 いかに醜悪であろうと、いかに不快であろうと、この目の前の男と彼は一蓮托生なのだ。

 少なくともこの男に代わる自らの庇護者を見つけ、或いはそんな者がいなくとも、この男を惜しげもなく自分から切り捨ててやるほどの権力を手に入れるまでは。


「いっそ、その鄭家村とやらに兵を出すか?」

「…は?」

「だから…来ぬのなら、こちらから奪いに行くしかなかろうが!」


 知寨の表情はいつの間にか険しさを増している。もはや一刻も待てぬ、と苛立っているのが手に取るように分かる。

 放っておけば、今にも兵達に命を下しそうな形相だ。


「お止めになられた方が」

「貴様が抜からなければ、わざわざそんな事をする必要もなかったのだがな!」

「兵を動かす名分を如何なされるおつもりで?」

「提轄の手の者が負傷しておるのだろうが。それで十分ではないか!」

「それはつまり、我が方が先に手を出したと宣言する事に他なりません。閣下の名声に傷が付きますぞ」

「ぐ…」

「それに──」

「『それに』!?…何だっ!!」


 張提轄は何も言わず、ただ西を見遣(みや)る。今度はそれだけで周知寨も察した。


「チッ、武知寨か…」

「大義もなく、あからさまに兵を動かせば、あの武知寨は黙っていません。最悪、村から戻った途端に女を奪い返される可能性も──」

「儂は正知寨、彼奴は副知寨だぞっ!?」

「正しく正論です。しかし、その正論が果たしてあの武知寨に通じましょうか?」

「…クソッ、忌々しいっ!!」


 周知寨が再び酒の残る椀を投げ付け、室に苛立ちと酒の匂いが立ち込める。


「…あの破落戸どもを消せ」

「…は!?」


 一瞬、張提轄は何を言われたのか分からず、間の抜けた声を返した。


「女の供の者に打たれたのであろう?その傷が(もと)で死んだ事にすれば、下手人の捜索として兵を出す名分くらいにはなろう。そうじゃ!女もその場に居ったのだから、共々に引っ立ててくれば良いではないか!」

「お待ち下さい!何を仰っておられるのですか!?」

「所詮は破落戸、一人二人死んだとて、それで何の差し障りがある。どうせ提轄も事が済んだ暁には、口を封じるつもりでおったのであろう?」


 図星ではある。しかし、それは事が済んでからの話だ。


「その一人二人を亡き者にして、残った者がそれを黙っているとお思いですか!?」

「ならば全員始末すれば良い!」

「誰が手を下すのです!」

「そんな者は多少の金を握らせれば、いくらでも居るわっ!!」


 恐ろしい事に、それすらもこの国では平然とまかり通っている。

 相手が囚人であれば、獄卒に金を握らせるだけでいい。人目に付かぬ獄の内、「毒」なり「絞」なり「撲」なり、始末のしようはいくらでもある。後は検死する者に金を握らせ、突然の病で死んだと言わしめれば、死体を焼いてそれで終わりである。


 相手が囚人でなくとも難しい事は何もない。周囲の者に金を握らせ、囚人に仕立て上げてしまえば後は同じだ。

 或いは、今回のように相手が素性の知れぬ破落戸ともなれば、そもそも最初に配る金すら惜しい。ある程度、地位のある者が斬ってしまえば、その理由を公式に記す者に金を握らせればどうとでもなる。


 その金を握った者が従順であればそれで良し、弱みを握ったと付け上がるようなら、周囲の者に金を握らせ囚人に仕立て上げ、或いは問答無用で斬り捨ててまた金を配り、従順であればそれで良し──


「死人に口無し」とはよく言ったものである。


「秘密裏にあの五人を始末してどうなるというのです!そもそもあの五人は騒ぎの後、自らの足で寨まで戻ったのですよ!?それを今になって昼間の傷が(もと)で死んだなどと──」

「打ち所が悪ければ、そういう事もあろうが!」

「それを大義として村へ派兵するのであれば、まず罪状を布告しなければなりません。その布告を目にして、あの武知寨が納得すると思われますか!?」

「罪状など、あの女を捕らえてから布告すれば良かろうがっ!!」

「それでは大義なく兵を出すのと、何ら変わらぬではありませんかっ!!」


 提轄は決して五人の命を惜しんでいる訳でも、情を掛けている訳でもない。

 今はまだ破落戸達を処分してもらっては困るのだ。


 寨の兵を頼れぬ提轄にしてみれば、どれだけ頼りがなかろうと、あの五人を利用するしかない。その五人を今、始末されては、危険を冒して提轄が自ら手を下す以外に、為す術がなくなってしまう。

 すでに五人がこの世に亡いというのならいざ知らず、今は自分の命を(かた)に差し出してまで博打を打つべき時ではない。


 が、話は単にそれだけに止まらない。


 破落戸達は張提轄の未来を映す鏡なのだ。

 全てが済んだ暁に、五人は「無用の鏡」として処分される事が決まっている。そして、すでに一度失態を犯した提轄もまた、知寨の信頼が揺らぎ、いつ「六枚目」として叩き割られてもおかしくはない。


 しかし、言わずもがなの話だが、一番初めに割られる鏡が「六枚目」と呼ばれる道理はない訳で、すでに五枚が犠牲となっているか、さもなくば六枚同時に割られるかのいずれかでなければ、六枚目が出番を迎える事はあり得ない。


 だから、提轄は何よりもまず周知寨からの信頼を取り戻さなければならない。

 何を差し置いても失われつつある信頼を取り戻し、五人と共に「用無し」とされる事態だけは絶対に避けなければならない。


 そのために、今回の件は絶対に成功させなければならない。

 成功させ、処分される事が決まっている鏡達とは違って「六枚目にはまだ利用する価値がある」と周知寨に思わせなければならない。


 そして、時間を稼がなければならない。

 時間を稼ぎ、周知寨に用済みの烙印を押されるその日までに、それに対抗し、返り討ちにできるほどの富と権力を蓄えなければ、唯々諾々と叩き割られる運命を受け入れるしか道が残されていない。


 しかし今、破落戸達を処分されてしまったら、事が済んだ暁に残る鏡は一枚しかない。

 ただでさえ周知寨は戯れ言も同然の思い付きで、平然と「無用の鏡など叩き割ってしまえ」と言い放つほどには、他人の命など屁とも思っていない男なのだから、事の全てを知るその一枚の鏡を放っておく保証はどこにもない。


 だからこそ破落戸達には、最低でも今回の件に片が付くまでは、この世にいてもらわなければならないのだ。

 信頼を取り戻し、まだ利用価値のある提轄よりも、遥かに無価値な贄として周知寨へ差し出すために。そして、その憐れな五匹の贄達を処分した周知寨に「不安要素を取り除いた」と思い込ませ、少しでも提轄が力を蓄える時間を稼ぐために。


「ふーっ…ふーっ…では、どうしろと言うのだ」

「…待つしかございません」

「待つ!!!?儂の期待を裏切っておきながら、よくも抜け抜けと──」

「御期待に沿えなかった責は重々承知しております。しかし、機は必ず訪れます」

「その機が訪れねばどうするっ!!」

「訪れます!」


 興奮冷めやらぬ周知寨は息も荒く提轄に問い、提轄は語気を荒げて突っ撥ねる。


 二度目の失敗は絶対に許されないのだ。

 そのためには周知寨を待たせ、多少機嫌を損ねようとも、好機を待って少しでも成功の確率を上げなければならない。

 周知寨の機嫌を取るためだけに強引な策を献じたところで、結果が伴わなければ提轄の人生は終わる。


「…10日だ」

「……」

「10日だけ待ってやる。10日以内にあの女を連れてこい。出来なければ後は儂がやる」

「…御意」

「下がれ」


 張提轄は絶対に今回の件へ関わらなければならない。

 彼がこの件から外されたとなれば、その意味するところは彼が仕損じたという事に他ならない。


 知寨の期待に応えられず、信用も失い、それでいてすでに抜き差しならないところまで足を踏み入れ、事のあらましを知る提轄は、周知寨にとってこの上なく厄介で、危険で、この世に存在させる価値のない「第一の鏡」となる。破落戸達など物の数ではない。


 余命を10日と宣告されたに等しいながらも、提轄にそれを拒絶する術はない。

 恭しく拝礼した提轄は室を辞す。


「ひひっ、10日…あと10日だ。待っていろ、女ぁ。儂がおらねば…儂に尽くし、儂の為だけに生きておらねば悦びを感じられぬ身体になるまで、何日でも、何ヵ月でも、何年でも、徹底的に仕込んでやるからなぁ。ひっ、ひはははぁっ!!」


 閉めた戸の隙間からは、狂乱じみた知寨の声が洩れ聞こえる。もはや提轄は面に浮かぶ嫌悪と侮蔑の念を隠す事もしない。


 宿舎に戻りしな、提轄はチラと先ほどまで自分の居た室を見遣る。


「チッ…『鳥知寨』(※7)が」


 自分が「納賄蛆」などと呼ばれているとは露とも知らず、提轄は声を潜めてそう罵ると、再び顧みる事なく宿舎へと戻っていった。


 周知寨と張提轄にとって最大の誤算は、もはや言うまでもない。

 無論、破落戸が事を仕損じた事でも、破落戸がその足で東寨に逃げ帰った事でもない。強いてそこに結び付けるとすれば、そんな些細な事を「誤算」と捉える張提轄の浅慮は誤算と言えなくもないが、強いて挙げようが黙っていようが、はっきり言ってどうでもいい。


『騒動の一部始終を目撃していた建康府からの若い旅人』

『正にその可能性を不安視しながら放置した、張提轄の致命的な現状認識能力と危機管理能力』


 その二つを超える誤算など、ある訳がないのだから。


 が──


 二人がそれに気付く事は終ぞなかった。

※1「提轄」

禁軍の部隊長。下位に当たる数人の「都頭」(※2)を従える。「張」は男の姓。

※2「都頭」

部隊運用の最小単位(数十人~100人ほど)を指揮する禁軍の小隊長。『水滸伝』作中においては「巡捕都頭」(第二回「錦毛虎」後書き参照)の通称、略称のように用いられていますが、「水滸前伝」においては「都頭」と「巡捕都頭」は全く別の役職です。詳しくは第五回の閑話休題「禁軍(2)更戍法と将兵法」を御参照下さい。。

※3「納賄蛆」

「蛆」は文字通り「ウジ虫」。「納賄」は「自分に対して贈られた賄賂を納める(受け取る)」という意味と、「相手に対して賄賂を納める(差し出す)」という二つの意味を持っているそうで、つまり「賄賂を受け取るのも差し出すのも得意なウジ虫」といった意味の造語です。

※4「都鄙」

「都」はもちろん都会。「鄙」は田舎。都会も田舎も。全国津々浦々。

※5「知青州」

青州の知州。『水滸伝』作中では一貫して「慕容知()」と呼ばれていますが、「水滸前伝」では府の長を「知府」、州の長を「知州」と表記しています。

※6「貴妃」

側室の位、称号。「淑妃」「徳妃」「賢妃」「才人」「美人」など多くの称号がある中で、「貴妃」は皇后に次ぐ高位。

※7「鳥知寨」

「鳥」は相手を罵倒する際などに用いられる言葉で「畜生」とか「クソ」くらいの意味らしいです。要は以前にも登場した「クソ知寨」を漢字で表した造語ですが、罵倒のために用いる時と「(生物としての)鳥」を表す時とでは発音が違うようです。『水滸伝』作中においては「鳥」の他に、相手を表す呼称の頭に「賊」を付けて罵る事が多いのですが、何が違うのかと聞かれても無知な作者には答えられませんww

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