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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第三回  燕錦虎 金陵に鬱々と愉しまず 李柳蝉 丘陵に怙恃を祀ること
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活閃婆

第三回「金陵」の後書きでも触れましたが、地名を含んだ記述は、中国の古典小説に馴染みのある方から見ると、かなり不自然な言い回しになっています。

第三回の閑話休題「城」で触れていますので、併せてお読みいただければ幸いです。

 江沿いに連なった山々の裾に広がる雑木林の中、ひっそりとその酒家は在った。


 渡し場や街道の雑踏から離れ、木漏れ日に朝露がキラキラと反照している。

 喧騒の中で飲む酒も良いが、時にはこうして落ち着いた雰囲気の中で飲む酒もまた良いものだ。


「それはそれとして、こんな目立たん場所に店を構えて、果たして商いとして成立するのか」などと余計なお節介を胸に、燕順は門前に立った。


「邪魔するよ」

「いらっしゃい」


 夜明けと共に開店したであろう店内では、初老の店主がのんびりと卓の清掃をしていた。客は居ない。


「こんな朝っぱらから客が来るとは、こりゃあ明日は雪だな」


 呵呵と笑いながら店主。その冗句に燕順も苦笑を返す。


「酒を一角(約五合)と、肴に野菜を頼む」

「はいよ」


 店主は奥に入ると、すぐに酒と肴を持って出てきた。


「お客さん、旅の商人さんか何かかい?よくこんな辺鄙な場所に酒家が在ると知ってなさったね」

「んん、知り合いに聞いてな。ちょっと聞くが…店主、あんた姓は王か?」

「ん?ああ、俺の姓は王だが…それが?」

「良かった…ああ、いや、すまない。手前は莱州の生まれで姓は燕、名を順という者。実は──」


 燕順は立ち上がって拱手し、ここに立ち寄った経緯を順を追って話した。


「そうかい、ウチの六郎をねぇ。俺から言わせりゃ、アイツなんかちょっと足が速えのと、後は泳ぎがまずまず達者ってトコくらいしか、取り柄はねえと思うんだが」

「はあ…」

「それに、あの二人(張旺と孫五)に襲われたってのもまた災難だったな」

「知ってるんですか!?」

「ウチにも(たま)に来るからね。ま、飲んで食って、その分の金さえちゃんと払ってくれりゃあ、ウチにとっちゃ立派な客さ」


 道理でこんな目立たぬ場所にある酒家を知っている訳である。


「いや、それより惜しいのは、府城への行き掛けに寄ってくれてりゃあな。馬小哥(馬麟)だけでも会わせてやれたかもしれねえんだが…」

「えっ!?」

「まあまあ、立ち話もなんだから掛けなよ」


 促された燕順が腰を下ろと、店主も卓の向かいに腰を下ろす。


「馬小哥が今、花魁に入れ揚げてるって噂は聞いたかい?」

「ええ」

「小哥もウチには偶に顔を出してくれてね。その花魁を連れて来た事はないが、話なら聞いた事がある。何でも年若い割に大人びてて、確か姓を李…と聞いた気がするが、花街で一、二を争う美貌だそうな。まあ、惚れた贔屓目もあるかもしれんがね。だから、家を訪ねて会えなくても、その花魁を訪ねてみれば、側に居たかもしれないって寸法さ」

「なるほど。いや、しかし…」


 燕順にしてみれば、はっきり言って今さらな話だ。今から府城に戻って会いに行く訳にもいかない。


「もし、また馬小哥がここに顔を出すような事があれば、旦那が会いたがってた事を伝えとくよ。ま、旦那が次に来る時まで、同じ花魁を追っ掛け回してるかどうかは知らんがね」

「はい。お気遣い有り難うございます」


「世の中そんなに甘くない」と燕順の心が打ち砕かれたのは、偶然にも馬麟との(つて)ができて「ツイてる」と喜んだ矢先の事だ。


「それで六郎さんは今…?」

「いやぁ、燕の旦那よ。アンタは本当にツイてない!ウチの六郎も今、旅に出てんだわコレが」


「そんなに目一杯言わんでも、ツイてないのは俺が一番分かってる」とばかりに、燕順はげんなりと項垂れた。

 何せ最後の望みを託した四人目までもが空振りだ。


「折角、訪ねて下さったってのに申し訳なかったなぁ。丁度、山東で親類の法事があってね。俺ももういい歳で長旅は身体に堪えるもんだから、代わりに行かせたのさ」

「そうですか、山東に…」

「しかし、出掛けの話じゃ一昨日、昨日辺りにはもう戻って来ててもおかしくはねえ筈なんだがなぁ…何処で道草喰ってんのやら」


 帰って来る予定が昨日であれ、今日であれ、明日であれ、燕順にとっては大差がない。今、居てくれなければ意味がないのだから。


「良かったら少し待ってみるかい?息子が昨日の内に江のすぐ北まで来てれば、その内に帰って来るかもしれん」

「あー…しかし、手前もこれから山東まで戻らなきゃならないんで」

「まあ、無理にとは言わんが、青州から遠路遥々、わざわざ探してまでこの家を訪ねて下さったんだろ?ほんの僅かな差で行き違いになったら、折角の苦労が勿体ないと思うんだがね」


 自らのツキの無さに半ばやさぐれ気味の燕順であったが、確かに一理ある、と思い直す。

 燕順も来る時は朝一番に宿を発ち、長江を渡ったのは今時分だった。もし店主の言う通りなら、そう時間を置かずに戻ってきてもおかしくない。


「長居して邪魔じゃないですかね?」

「とんでもない!」


 店主は人懐っこい笑みを浮かべ、大仰に手を振る。


「どうせウチなんぞ、飯時まで客なんか(ろく)に来やせん。いや、飯時ですら、この狭い店で席が埋まった事はここ何年もない。旦那の時間が許す限り居てくれればいいさ。ついでに、遠慮なく金を使ってって下されば尚、有り難いがね」

「はは…じゃあ、お言葉に甘えて暫く待たせてもらいます」


 最後にチラっと本音が洩れたが、そのくらいは御愛嬌だろう。

 青州の事も気にはなるが、それにしても土産が「塩」だけではいかにも味気がない、と燕順は逸る気持ちを押さえつつ、僅かな期待を胸に、最後の一人を待ってみる事にしたのだった。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「ただいま~。いやぁ、マジ疲れたわ~~」


 昼にはまだ少し早い頃。

 そろそろ席を立とうかと燕順が思案していると、その男は店に入ってきた。


「あれぇ!?珍しいなぁ、ウチにお客さんが居らぁ」

「この野郎、漸く帰って来たかと思やぁ減らず口を叩きやがって。大体『珍しい』とは何だ。ウチは酒家だぞ?客が居て何が悪い」

「はは、そりゃそうだ。いらっしゃい、旦那。ゆっくり()ってって下さいね~」


 何というか軽い男だ。

 燕順が見遣(みや)れば、男は小柄で細面、そしてかなり若い。パッと見は鄭天寿と同じくらいであろうか。


「あ、ああ…店主、こちらは?」

「はは、年寄りの言う事は聞いてみるもんだろ?六郎、この旦那は江湖でお前の噂を聞いて、わざわざ山東から訪ねて下さったお方だよ」

「いやいや、父さん冗談キツいっしょ~。大体、山東からって…俺なんかに会う為に、わざわざ山東から来る訳ないじゃん、もぉ~」

「お前を担いで何になるってんだ。いいから挨拶しねえか!」

「…えっ、マジ!?」


 よほど自分に自信がないのか、当の「六郎」は未だ半信半疑の御様子。


 ともかく、ようやくこの旅で目当ての男に出会えた燕順は、すかさず立ち上がり拝礼する。


「突然の訪問で申し訳ない。手前は莱州の生まれで姓を燕、名は順と申す。江湖で王(すい)()の噂を聞き、是非とも一目お会いしたいと──」

「ちょ、ちょっと待って下さい。莱州の燕順って、もしかして『錦毛虎』の…」

「ええ、手前です」


 突然の事に目を白黒させていた六郎は、ハッと我に返るや持っていた荷物を慌てて放り、深々と礼を返した。


「お、俺は…いや、て、手前は姓を王、名は二字名で定六と申しますぅ。江湖に名高い、え、燕帥哥とは露知らず、ご、御無礼を致しましたぁ…ま、正に『眼が有れど泰山を()らず』(※1)とはこの事で…」

「おいおい、だらしねえなぁ。何をそんなに縮こまってんだよ」

「父さんは帥哥の事を知らないから、そんな事が言えるんだよぉ」

「んん?燕の旦那よ、アンタそんなに有名人なのか?」

「さて?手前より名高い義士なら、天下に掃いて捨てるほど居ると思いますがね」

「…だとよ」

「帥哥。『掃いて捨てるほど』は謙遜が過ぎるっしょ~」


「それを言うなら、そっちは恐縮し過ぎだろう」と燕順は苦笑を返しつつ、王定六を促して共に席に着いた。


「王帥哥は何処に行かれてたんで?」

濰州(いしゅう)(※2)っす~…あれ?でも、燕帥哥は確かぁ…今は青州にお住まいの筈では~?」

「いや、商いで府城に来たんで、青州に戻る道すがら寄らせてもらったんですが…何処で俺が青州に住んでると聞いたんです?」

「帰り掛け、青州に立ち寄って2、3日ブラブラしてきたっすよぉ。で、向こうじゃ酒家でも宿でも、それはもう帥哥の噂を耳にしたっすよぉ。だから、まさか家で会うなんて思ってもみなかったってゆーかぁ」


 なるほど、と燕順は思い至る。


 最初の荷は鄭家村で全て引き取ってもらったが、鄭家村ばかりを宛てにする訳にもいかない。

 次の商いで持ち帰る荷、即ち今、持っている荷の卸し先を探すため、近場の村鎮でそれとなく感触を確かめたりもしたが、やはり他所者(よそもの)彷徨(うろつ)くと目立つようだ。

 燕順の予想通りである。


「何だお前、帰りが遅いと思ったら、やっぱり道草喰ってやがったのか」

「別に父さんだって、寄り道せずに急いで帰って来いとは言ってなかったじゃん?」

「や、まあ、そりゃそうだが…」

「ん~でもぉ、青州を発ってからは真っ直ぐ帰って来たよぉ。途中、どっかで一日ゆっくりしようかとも思ったんだけどね~」

「そしたら、こうして燕の旦那と会う事もなかったな」


 確かにそうだ。

 1日どころかあと数刻、王定六の帰りが遅ければ、燕順とは道中ですれ違い、互いに気付く事はなかったはずである。

 

「へぇ~。そりゃあ4日間、頑張って走った甲斐があったよぉ」

「…ごふっ!!」


 燕順が飲み掛けの酒を盛大に吹いた。


「4日!!!?六郎…あ、いや、帥哥。今、4日と言ったか!?それも、走って!?!?」

「六郎で良いっすよぉ。ん~っとぉ、青州で最後に取った宿を朝一番に出てぇ、道中、一、二、三、と3日宿を取って今日だからぁ…うん、間違いなく4日っすよぉ」

「旦那。さっき言ったろ?コイツぁ武の方は何をやらせてもパッとしないが、ただ足の速さだけが取り柄だって」


 事もなげに言い放つ親子に、燕順は開いた口が塞がらない。


 丸々4日掛かったとしてそれでも十分に速いが、今日はまだ昼前である。

 それに青州と建康府の間には二本の大川(たいせん)、淮水と長江が横たわっている。それを船で渡っている時間も考慮すれば、ほぼ丸3日で走破したに等しい。


 驚異的な速さだ。燕順が口に含んだ酒をブチ撒けるほど驚くのも無理はない。


 いや、速さだけであれば、例えば江州(こうしゅう)には「神行太保(しんこうたいほ)」と呼ばれる男がいて、日に500里(約275km、※3)、いや、本領を発揮すれば日に800里(約440km)を進むと江湖に広く知られている。ただし、それは道術(どうじゅつ)(※4)に依って得られる能力であって、それをもって「健脚」と称せるかどうかは些か微妙なところだ。


 王定六は違う。何物にも頼らず、己の身一つで走り切ったというのだから恐るべき脚力である。

 百歩譲って、一時的には王定六と同じ速さで走る者がいたとしても、それを3日に亘って続けるとなると、これは至難の業だろう。


 だから王定六の方が優れている、というのではない。道術に頼っていようがなかろうが、それで「神行太保」の評価が何ほども下がる事はないし、単に足の速さを求めるのであれば、どう贔屓目に見ても「神行太保」が優れていると言わざるを得ない。

 しかし、それを踏まえて尚、王定六の驚異的な持久力は、一片の憚りなく称賛されて然るべきだ。


「活閃婆」と綽名(あだな)されるのも頷ける。


「活閃」とは稲妻、稲光であり、「婆」はそれが女性に結び付けられている事に由来する。

 道教における神々の「雷公(らいこう)」が男性の姿で、「電母(でんぼ)」が女性の姿で描かれる事からも分かるように、雷といえば男性、そして(いなづま)といえば女性なのだ。


 詰まるところ「活閃婆」とは、正しく王定六の健脚を稲妻に(なぞら)えて讃えた綽名(あだな)であると言えよう。


「いや、失礼した。しかし…凄まじい才だな」

「いやいや、俺なんか大した事ないっすよぉ。何と言っても足の速さならぁ、江州には『神行太保』と綽名(あだな)されるお人がいてぇ──」


 六郎さん、その(くだり)はもう説明させていただいたので割愛でww


「しかし『武の方はさっぱり』と言われたが、ちゃんとした師に付いて学んだんで?」

「ああ、何人か師を頼んで見てもらったんだがね。結局モノにはならなかったよ。まあ、武の人間じゃなかったって事さ」


 これで卓越した武があれば、とまでは言わなくとも、せめて人並みの腕前であれば、それこそ禁軍においても重用されるような、一廉(ひとかど)の将となれたはずだ。

 健脚の才が極めて異彩を放っているだけに何とも惜しい。


「ま、それもしょうがないさ。所詮は酒家の息子だよ。それに人間、誰しも得手不得手ってもんがあるんだから。それとも燕の旦那、アンタがコイツを仕込んでくれるかい?」

「いや、それは…」


「何故、誰も彼もが手の掛かる者を自分に押し付けたがるのか。大体、こちとら青州のドスケベな弟と小生意気な妹の世話で手一杯だというのに」と、燕順は辟易とした表情で答える。


「まあ、高望みしたってしょうがないっしょ~」

「オメエが言うんじゃねえよ、このバカ息子!オメエの為を思って言ってんだろうが!」


 店主は隣に座るバ…王定六を叱り飛ばすが、当の本人はケラケラと笑って呑気なものである。


「さて、俺はそろそろ行かせてもらうよ」

「ええ~、もう行っちゃうっすかぁ?」

「ああ、あまり長居が出来ん事情もあってな。次はゆっくり寄らせてもらうよ」

「そっすかぁ。事情があるならしょうがないっすけどぉ…」


 支払いを済ませる間もグズグズと駄々を捏ねる王定六を宥めつつ、燕順は荷を纏める。


「あっ!そしたらぁ、帥哥は『神箭将軍』って御存知っすかぁ?」

「ん?いや、噂に聞いた事はあるが、まだ会った事はないな」

「そっすかぁ。俺も青州で噂に聞いて、一度お目に掛かりたいと思ったんすよね~。是非、生で弓のお手並みを拝見させてもらいたいっすぅ」

「そうだな」


 噂の「神箭将軍」は、空を飛ぶ雁を射抜くだの、数十歩も離れた位置から兜の房を射抜くだの、とても(にわか)には信じられないような話が真しやかに囁かれてはいるものの、さて、ではその真偽のほどはいかがなものか、と燕順も興味を持っていたところだ。

 もしも噂が真実であれば想像を絶する腕前だが、単に噂が独り歩きしてるだけではないのか、と燕順は半信半疑でもある。


「もしその『神箭将軍』と、次に六郎が青州を訪れるまでに縁が出来たら紹介してやろう」

「マジっすかぁ!?」

「旦那、わざわざウチの倅の為にそんな手間を掛けてもらっちゃあ…」

「いやいや、俺もその『神箭将軍』とは一度会ってみたいと思ってたところなんで」

「いやぁ~、今回会えなかったんで超楽しみっすよぉ!マジでお願いしますよぉ!?」


 王定六は今日イチのテンションである。燕順の素性を知った時の比ではない。


 燕順の立場よww


「分かった、分か…『今回、会えなかった』?会いに行ったのか!?」

「ええ、行ったっすよぉ?」

「何だ、お前もう行ってきたのか!?『将軍』って呼ばれてるくらいなんだから、相手は武官だろ?いきなり訪ねたところで、そうホイホイと会える訳ねえだろうが」


 それはまあ確かにそうだ。

 燕順も噂に聞いた程度だが、長年清風鎮(せいふうちん)の近隣に住む鄭天寿ですら、未だ会った事がないくらいである。それを旅の若者が突然、訪ねたところで、そうそう会えるものではない。


「いやぁ~。清風鎮っていう、青州領でも南の方にある(まち)が任地って聞いたからさぁ。それなら濰州からこっちに戻るにも、そんなに遠回りにはなんないじゃん?ん~じゃあ寄ってみるのもアリかなと思ってぇ、清風鎮で最後に一泊してから青州を出たって訳さぁ。帥哥、清風鎮って知ってますぅ?」

「あ、ああ…」


 燕順の胸に嫌な予感が去来する。

 どこぞの馬鹿がいつもの調子で、片っ端から鎮の女性達に声を掛けまくった挙げ句、手酷く(あしら)われる姿を見られていやしまいか、と。


 何と言っても、目撃者はここ建康府の住人である。となれば、事は清風鎮だけの話に止まらず、青州を代表して恥を晒すようなものだ。


 最近は鄭天寿や李柳蝉の側にベッタリのはずだから大丈夫であろうが、もしそんな男を見たと王定六の口から語られるようであれば、ここは一つ、全力で他人の振りをせねばなるまい、などと燕順は冷や汗を拭う。


 いつの間にか青州を代表する男に成長してたんだな、王英どんww


「しかしまた『神箭将軍』とは、大した異名を付けられたもんだ。結構なお歳なんで?」

「いや、清風鎮は又の名を清風寨とも言いますが、文武二人の知寨が置かれてて、聞けば武知寨の御子息らしいですから、まだ若いんじゃないですかね」

「ほぉ」

「おまけに弓の技量だけでなく、鎗を持たせても天下無双の腕前だとか」

「へぇ~。まだ若いってのに、そりゃまた凄いお人だな。それに比べてウチんトコの『御子息サマ』ときたら…おい、六郎。どうせなら今度、山東に行った折には、暫く帰って来なくていいから、清風鎮の武知寨サマんトコで作男でも何でも雇ってもらえよ。んで、その噂の御子息に、弓でも鎗でも仕込んでもらってこい」

「金と時間の無駄っしょ~」

「だぁから…オメエが言うんじゃねえよ!」


 どうやら王定六が清風鎮で「恥晒し青州代表」の痴態を見た様子もなし、青州を代表してそれを口止めする必要もなさそうだ、といよいよ店を出ようとする燕順を店主が引き留めた。


「燕の旦那。もう一杯だけ飲んできな」

「えっ!?いや、しかし、もう支払いも済ませてしまいましたし…」

「金の話を持ち出すなんて、何をまた水臭い事を…俺の奢りだよ。次に会うのはいつになるか分からないんだから、最後にもう一杯だけ付き合ってってくんな」

「…そうですね。じゃあ、一杯だけ御馳走になります」


 ありがたい事だ。

 燕順の商売柄、人との縁は大事にしなければならない。

 いや、そんな事は抜きにしても、人に嫌われるよりは好かれた方が良いに決まっている。


「いやぁ~、でも良かったっすよぉ」


 改めて席に着き、最初に口を開いたのは王定六だった。

※1「眼が有れど泰山を識らず」

中国の故事成語、諺。「目があっても物事の本質を見抜けない=見る目がない」といった意味でしょう。一見すると中国の名山・泰山を指している(泰山を目の前にしても、それが泰山だと気付けない)ように見え、実際にそう解説している辞書などもあるようですが、元々この諺は春秋時代の魯班という木工職人が「泰山」という弟子の腕前を見抜けなかった、という故事に由来していて、つまり「泰山」とは人名を表しているんだそうです。いずれにせよ、この諺の使用例として『水滸伝』(初出は第2回)を挙げる辞書があるほど、『水滸伝』の作中では好漢同士が出会う場面で頻繁にお目に掛かる、言わば「お約束」のセリフです。

※2「濰州」

現在の山東省濰坊市北東部一帯。丁度、青州と莱州に挟まれた位置にあった。

※3「里」

当時の一里は1,800尺で、一尺がおよそ30cmとされているため、それに基づけば一里は約540m。一方で、550m~560mとする資料もあります。「水滸前伝」中では一里を550mとしています。

※4「道術」

道教の法術。有り体に言えば超能力。

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