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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第二回  王矮虎 私闘を耀して挨雷し 清風三傑 梅花の下に義を交わすこと
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閑話休題「諱と愛称」

中国の小説などを読み慣れている方には今さらな話が多いです。

本編からは独立していますが、前回の「閑話休題」と内容に多少の繋がりがあるので「『(いみな)』って何それ、おいしいの?」って方や興味のある方は併せて読んでいただければ幸いです。

相変わらずメタいので苦手な方は予めご了承下さい。

 王英(以下「王」):全く心配性だなぁ、哥哥(あにき)は。俺に留守を任せときゃ大船に乗ったも同然だってのに…。



 ──スパーンっ!!



 王:痛ぁっ!!


 燕順(以下「燕」):どの口がほざいてやがる。


 王:あ、あれ!?燕哥(燕順)、旅に出たんじゃ…!?!?


 燕:呼ばれたんだよ。


 李柳蝉(以下「李」):燕哥が居てくれれば、このコーナーも安心ね。


 鄭天寿(以下「鄭」):さてさて、前回は続柄を表す言葉を使った呼び掛けをメインに扱ったけど、今回はそれ以外の呼び掛け方をテーマにしてますよ、っと。


 李:わざわざ分ける必要あるの?前回の「閑話休題」で一つに纏めれば良かったのに。


 鄭:最初はそのつもりだったけど、アレもコレもと詰め込んでる内に、ちょっとどころかだいぶ本文が長くなっちゃって、結局分ける事にしたみたいね。


 李:要するに作者の筆力の問題って事ね。


 王:てかよ、この前振り?ミニコント?みてえなのがあるから文量が増えちまうんじゃねえか?


 李:じゃあ、王哥(王英)は遠慮なくお引き取りいただいて結構ですよ?


 王:本編で燕哥に言われた事、もう忘れちまったか?


 燕:…鄭郎、二人は放っといて本題に入ってくれ。


 鄭:…はい。じゃあ、まずは「(いみな)」からいきましょうか。



(いみな)


 鄭:ほらほら、二人とも始めますよ。


 李:「(いみな)」って、要するに日本で言う「名前」の事よね?


 鄭:そ。この「水滸前伝」では「姓」と「名」と表現されてる「名」の方の事だね。現代の日本では柳蝉の言う通り「苗字」と「名前」の「名前」の方。具体的には俺だったら「鄭天寿」の「鄭」が姓だから、(いみな)は「天寿」になるね。


 李:散々引っ張ったんだから、ちゃんと説明してくれるんでしょうね。


 鄭:それは作者にお願いします。まず、この「水滸前伝」の中では続柄を表す言葉を付けずに相手を呼ぶ場合、姓の後ろに役職や肩書を付けたり、愛称なんかで呼ぶ事が多いんだけど、基本的にそういった役職や肩書、愛称を付けずに呼ぶ時は、中国の慣習に倣ってフルネームで呼ぶ事が多いよ。日本の感覚とはだいぶ違うよね。


 王:「諱」の字には「忌む」とか「口に出す事を憚る」って意味があって、古くは近親者に限らず目下の人が目上の人の姓名、つまりフルネームで呼ぶ事も憚られてたくらいだ。だからこそ、この字は日本で「いみな(忌み名)」と訓読されるようになったんだな。


 燕:それについては一つ『水滸伝』の中に面白いエピソードがあってな。ある都市で罪人が捕まり、その罪人の処置について、その都市の長官が使者を立てて朝廷の高官である父親に手紙で問い合わせたんだ。


 李:ふんふん。


 燕:その手紙をたまたま罪人の仲間が使者から手に入れ、使者を仲間に引き入れた上で「罪人はこちらで処罰するから都まで護送するように」という内容の偽手紙を作って使者に持たせた。護送の途中を襲い、仲間であるその罪人を奪っちまおうって訳だな。


 李:なるほどなるほど。


 燕:戻った使者がその偽手紙を長官に見せたんだが、そこにたまたま長官の知り合いが訪ねてきてな。その知り合いは手紙を見て、すぐに偽手紙である事を見抜いたんだ。


 李:何でです?


 燕:その手紙の最後に父親の印鑑が押してあったんだが、理由の一つは…まあ今回のテーマとは関係ないが、その印鑑で使われていた官職名が、父親が以前就いてた古い官職名だったって事だ。


 李:はあ。


 燕:もう一つの理由が、その印鑑には父親の姓名、つまり姓と(いみな)が彫られてたって事だ。これを見てその知り合いが「父親が息子に宛てる手紙に(いみな)が記された印鑑を使う訳がない」と言ってる。


 李:んー…別に息子が父親を(いみな)で呼んだ訳じゃないんだから良いんじゃないんですか?


 鄭:このエピソードについては『水滸伝』にそれ以上の事が書かれてないんだ。つまり『水滸伝』の作者は勿論だろうけど、読者の方もその説明で「その手紙を偽物と見破る根拠」として納得した、って事だね。まあ、詳しい解説が書かれてない以上、こっちの作者の想像になるけどね。


 李:どういう事?


 鄭:目下の人が目上の人の(いみな)を呼ぶのは失礼な訳じゃない?でも、息子が手紙を受け取ってその手紙を最後まで読めば必然的に印鑑も目に入るし、目に入れば印鑑の文字だって、声には出さなくても頭の中で読むでしょ?その印鑑に父親の(いみな)が使われていれば…まあ、この場合は(いみな)だけじゃなくて姓と(いみな)だった訳だけど、それでも「目下の人(息子)が目上の人(父親)の(いみな)を(声には出さずに)呼ぶ」事になるよね?


 燕:逆に言えば父親の方は朝廷の高官で教養もあって、礼儀にも通じてる筈なのに、自分の(いみな)の入った印鑑を使って「息子に自分の(いみな)を呼ばせる」という、非常識極まりない行為をさせたって訳だ。


 鄭:つまり、少なくとも『水滸伝』が一般的に読まれるようになった(みん)の頃までは、さっき王哥が言った「目下の人が目上の人をフルネームで呼ぶ事も憚られる」って考え方が世間一般の常識としてあったんだろうね。それこそ頭に思い浮かべるのも憚られるくらいに、ね。このエピソードが大した説明もなく物語として成立してるんだから。


 燕:まあ、そういった教養を持った人間の価値観からすれば、という話だと思うがな。


 李:なるほどねー。で、人に呼び掛けるのに姓でしか呼べないんじゃ何かと不便だから、続柄や愛称、敬称で呼ぶ文化が発展していった、と。


 鄭:そうそう。前回の「閑話休題」でもちょっと触れたけど、『三國志演義』が好きな人にはお馴染みの「(あざな)」もその一つで、これも(いみな)を呼ばずに済むように付けられた、言わば「その人に呼び掛けるための通称」と言っていいね。


 李:私、(あざな)を持ってないわ。鄭郎も持ってないわよね。


 鄭:持ってないね。どうも(あざな)というのは、ある程度身分や地位の高い人が持つものだったみたいね。『水滸伝』でいうと、例えば史書に名前が残ってるような人物には(あざな)を持ってる人が多いよ。物語の中で(あざな)を使って呼ばれてる事は殆どないけどね。梁山泊に集まる人物の中にも(あざな)を持ってる人がいるにはいるけど、ほんの数人で極少数派だね。


 李:この「水滸前伝」では?


 鄭:呼ぶ事もあるかもしれないね。まあ、誰と会話してるのかとか話の流れによって、って感じかな。


 李:(あざな)を持たない人は続柄や愛称で…って、でも目上の人が目下の人の(いみな)を呼ぶ分には構わないんでしょ?


 燕:まあ、そうなんだがな。実は『水滸伝』の中で(いみな)を呼び捨てにするシーンは、親しい間柄であっても殆どない。理由は分からんが、当時、(いみな)だけで呼ぶってのは、それだけ一般的な行為じゃなかったって事なんだろう。しかし、前回も小蝉が指摘したようだが、この「水滸前伝」はあくまで「日本語で書かれた日本向けの小説」だからな。日本では寧ろ親しみを込めて名を呼び捨てにしたりするから、日本の感覚じゃ鄭郎と小蝉の関係なら名を呼び捨てにしても全く不自然じゃないだろ?


 李:まあ、そうですよね。


 王:ただまあそうは言っても、ちょっとした知り合い程度で(いみな)を呼び捨てにするってのは、やっぱり時代背景的にも、そもそもの慣習としてもおかしい、って事だな。だから、例えば俺が「柳蝉」なんて呼ぼうもんなら──


 李:はあっ!?!?あんま調子に乗ってると、マジでブッ飛ばすわよっ!!


 王:いやいや、例えだ、例え!それに何だかんだ言って俺達だって一応「義兄妹」になったんだし。てか、本編のあの口調は何処いったんだよ!?


 李:まだ、出会って一ヶ月間かそこらじゃない!


 鄭:まあまあ。付き合いの長さに関わらず、義兄弟の間柄なら(いみな)のみで呼べるのか、とか作者も調べたには調べたらしいけど、厳密な(いみな)で呼べる関係と呼べない関係の境界は分からなかったらしいね。でも、まあ本家の『水滸伝』でも見られないくらいだから、この「水滸前伝」でもよっぽど親しい間柄以外の人が呼ぶ事はないだろうね。


 李:全く…(いみな)のみの呼び捨てについては分かったけど、それなら相手をフルネームで呼ぶのは何で?鄭郎も言ってたけど、それこそフルネームで呼び捨てにする方が、日本的な感覚としては不自然よね。


 鄭:一つは、日本では中国小説の登場人物をフルネームで表記する慣習があるから、ってとこかな。『三国志演義』の登場人物で考えると分かり易いよ。劉()も曹()も孫()(いみな)は有名でしょ?それはやっぱり小説やゲームの中で、姓+名((いみな))で表記されてるからだよね。


 李:そう言われてみれば確かに…。


 鄭:もう一つは、当時は確かにそういう習慣があったのかもしれないけど、時代が下って(いみな)の捉え方も変わってるみたいだしね。現代では(あざな)も公式には廃止されてるし、例えば中国の俳優さんでも普通にフルネームで記載されたりしてるでしょ?まあ(あざな)じゃないけど、芸名で活動してる人もいるんだろうけど。


 王:ちなみに、現代の中国は日本と比べて人口の割に姓の数が少ない上、場所によって姓の偏りが大きいからな。特に俺の「王」や小蝉の「李」なんて、多くの人がいる場所で姓だけで呼び掛けたら、何人反応するか分かったもんじゃないらしいぞ?(あざな)もないし、名だけでは呼べない事の方が普通だろうから、面と向かって会話してるような時でもなけりゃあ、姓名を使って誰かを呼ぶ際はフルネームで呼ぶ習慣が出来たんだろうな。


 鄭:あとは作者のセンス…まあ、要するにエゴの部分になっちゃうね。フルネームで呼ぶのか、姓に敬称や役職や肩書を付けて呼ぶのか、文脈や会話している人物同士の上下関係とかを考慮して決めると思うよ。


 李:結局そこか。


 燕:それに、この小説の読者だって中国の小説に馴染みがある人ばかりじゃないかもしれないだろ?それならやはり誰に対して話しかけているのか、はっきり分かるようにフルネームで呼ぶ方が良い場面もあるかも、って事だな。


 李:それはそうかもですね。じゃあ私、今度から王哥の事を「王英」って呼ぼうかしら?


 王:いきなり呼び捨て!?


 鄭:えっと、まずさ…さっきはああ言ったけど、日本の感覚だと「妹」の柳蝉が「義兄」に当たる王哥に対して「王英」なんて呼び掛けたら、だいぶ違和感が強いよね?


 李:でも、別に良いんでしょ?


 鄭:後ね、現代の中国で相手をフルネームで呼ぶ場合は親しみを込めてるんだって。日本で名のみを呼び捨てにする感覚に近いのかもしれないね。


 李:えっ!?うん、じゃあ「王英」はナシ寄りのナシで。


 王:…って、おいっ!!


 鄭:まあ、作者のセンスで、読んで違和感がない程度には仕上がるんだろうねぇ。



【愛称】


 鄭:はい、じゃあ続けますねー。前回の敬称と今回の愛称の境界はよく分からないんだけど、一応今回は「続柄を表す言葉を使った呼び掛け以外」を書いてみたいと思いますありがとうございます。


 王:前回でもちょっと触れたが、この「水滸前伝」中で使われてる主な愛称は、姓の前に「老」や「小」を付ける、排行(はいこう)で呼ぶ、排行の前や(いみな)の一部を取ってその前に「小」を付ける、排行の後ろに「郎」や「娘」を付ける、ってトコか。この辺りは『水滸伝』を参考にしてな。あー、後は綽名(あだな)を持ってる人物は姓と綽名(あだな)の一部をくっつけたり、ってのもあるな。


 李:…パクったのね?


 鄭:違いますぅ。原作の雰囲気を大事にしてるんですぅ。


 李:…腹立つ!


 燕:…話を進めるとな、まず排行ってのは前回も触れたようだが、一般的に「兄弟姉妹の長幼順」を指す。で、排行で呼ぶってのはそのものズバリ、(いみな)の代わりに数字で呼ぶ訳だ。『水滸伝』での有名人じゃあ「武」って姓の次男坊が「武二」って呼ばれてるな。


 鄭:ちなみに「一」に限っては使われず「大」が使われるね。前回、書き分けの基準で排行の項に(「大」を含む)っていう但し書きがあったのはこの事だよ。さっきの「武二」のお兄さんは「武大」って呼ばれてるね。この「大」が排行なのか(いみな)なのかは『水滸伝』では触れられてないけど。


 王:で、その後ろに「郎」や「娘」を付けて呼ぶ事もある訳だ。日本でも名前として付けられる「一郎」や「二郎」の類だな。日本じゃ実際にそう名付けられてる人でもなけりゃあ、呼び掛けに用いられる事はまずないが、『水滸伝』の世界じゃ(いみな)とは関係なく普通に使われる。血縁の有無にも特に関係なくな。但し、長男を意味する「一郎」は鄭郎の言った通り「大郎」だ。さっきの兄弟も「武大郎」「武二郎」と呼ばれる事がある。


 李:「だいろう」?


 王:「大」一文字なら「だい」だろうが、これに限っては「たいろう」だな。


 鄭:ま、言うまでもないけどさ、当然コレは意訳なしだよ。誰かが「二郎」って呼び掛けて「二郎(じなん)」はいくら何でもおかしいからね。


 李:…でしょうね。分かるわよ、それくらい。


 鄭:ですよねー。まあ、話し手と相手の親しさや年齢差によって「二郎」だったり「二郎さん」だったりはあると思うけど。


 李:相手が女性の場合は「娘」に変わるのね?


 燕:そうだな。但し、これは『水滸伝』の中でそう呼ばれてる女性がいるから、それに倣って「水滸前伝」の中でも使っているだけで、実際の中国語とは違うかも知れん。特に「大」を付けた「大娘」は、実際の中国語では「伯母(父の兄の妻)」や、単に年配の女性への呼び掛けに用いられ、「長女」という意味を持たないらしいからな。


 李:(いみな)の一字や排行の前に「小」を付けるっていうのは、私が呼ばれてる「小蝉」がそうよね。


 鄭:そうだね。或いは排行の前に付けて例えば「小二」なんて呼び方をする時もあるよ。『水滸伝』の中では「阮小二」「阮小五」「阮小七」の「阮氏三兄弟」が有名だね。物語の中では「三阮」なんて呼ばれ方もしてるけど。


 王:「武大」と違ってこの三人は排行である可能性が高い。それは『水滸伝』の元ネタとなった可能性がある資料の中には、例えば「阮小二」「阮小五」に(いみな)が設定されてる物もあるからだ。


 李:それが何で排行だけになったのかしら。


 燕:正確なところは今となっては分からんが、それだけ当時は排行で呼ぶのが一般的だったって事だろうな。


 李:ところで…鄭郎、さっきの説明おかしくない?兄弟順で「小()」「小()」「小()」って呼ばれてるんだったら「七人以上の兄弟の中の三人」でしょ?「阮氏三兄弟」なんて書いたら、まるで「三人兄弟」みたいじゃない。


 燕:いや、おかしくないぞ?確かに三阮は『水滸伝』の中で、それぞれ「二郎」「五郎」「七郎」と呼ばれるシーンがあって、それも彼らの名が(いみな)ではなく排行だろうと思える理由の一つだが、それでいて初めて三阮が紹介されるシーンでは「三人兄弟」と紹介されてるし、その後も三人以外に兄弟(姉妹)がいるような描写は一度も出てこない。つまり「男三人だけの兄弟」なんだ。当然、こっちの小説でも三人兄弟として登場する予定らしい。


 李:…はい!?


 鄭:理由は不明~。


 李:えぇ~…


 王:さっき排行のところで燕哥が「一般的に」って言ってたろ?大家族の場合なんかは同姓の従兄弟(従姉妹)も含めて数えられる事があるらしいから、敢えて理屈をつければそう考える事も出来るが、『水滸伝』の中では何も語られてねえからな。


 燕:排行である可能性が高いが、ただ単にそういう(いみな)として設定された可能性だって無い訳じゃない。結局のところ、何で三阮をその名で登場させたのかは『水滸伝』の作者に聞いてみない事には分からんな。


 鄭:『水滸伝』に登場する個々の人物のエピソードは、本として纏められる時点で伝わってた民間伝承なんかが取り入れられてる事も多いけど、案外そういう事かもしれないしね。


 李:「そう伝わってたから、そのまま使っちゃいました」って?でも、そういう伝承を知らない人達からしてみたら、読んでて気にならなかったのかしら?


 鄭:気にならなかったんだろうねぇ。この三阮以外にも排行と描かれ方が違う登場人物は出てくるしね。ちゃんと「排行が三番目」って書いてあって、異名にも「三郎」って入ってるのに、長男みたいな描かれ方してたりしてさ。


 王:屁理屈捏ねりゃあ理由なんていくらでもつけられるさ。物語の登場以前に夭折した子がいるとか、両親が離婚して子供を連れてったとかな。ま、物語に登場しねえ奴の説明なんて要らねえだろ、ってのが一番現実的な線だと思うが。どっちにしろ物語の本筋には関係ねえんだし、後は読んで好きに解釈してくんな、って事なんじゃねえか?民間伝承みてえな元ネタをそのまま取り入れたってんなら、それこそ「そう伝わってんだからしょうがねえ」って話だしな。


 燕:『水滸伝』の中で特に説明もなく、それがそのままの形で現代まで伝わってるんだから、鄭郎の言った通り、読む側も特に気にならなかったというか、気にするまでもない事だったんだろうな。


 鄭:さっきの「(いみな)が彫られた印鑑」の話と同じでさ、物語の中に説明がないって事は、作者の側からすれば「いちいち説明しなくても大丈夫ですよね?分かりますよね?」って事でしょ?それはつまり読み手側──当時の社会全体に「ああ、そういう事もあるよね」って思える概念というか文化があるからだよね。後は王哥が言う通り、読み手側がそれぞれにその「そういう事」を想像して「それで良し」って事なんじゃないかな。


 王:だからまあ、こっちでもその「そういう事」をそれなりに考えて、上手い具合に仕上げんだろ。


 李:上手い具合に、ねぇ。こっちの作者の筆力じゃ期待薄ね。


 鄭:はい、聞こえません。それと「小二」について話が出たから、ついでに話しとこうかな。中国では居酒屋や宿屋の給仕の事を「小二」と表現する事があるよ。特に古い小説に多く見られるらしくて、給仕じゃないんだけど『水滸伝』の中で居酒屋の主人が「李小二」と名付けられてるのは、そういう事なのかもしれないね。紛らわしいから、こっちの小説では「給仕」の意味で「小二」が使われる予定はないみたいだけど。


 王:他にこれは現代のスラングだが、愛人の事を「小三」と呼ぶらしいぞ。「三」は「第三者」からきてて「夫婦の仲に関わる第三者」って意味らしい。ま、こっちも当然「水滸前伝」には採用されてないがな。


 李:はいはい、そういった事にお詳しくて何よりですね。


 鄭:えっと…じ、じゃあ「小」と併せて「老」についても話そうかな。


 燕:「老」に「老齢の」とか「小」に「子供の」という、文字そのものの意味があるのは勿論だが、愛称として姓の前に付けられる場合は「年上の」とか「年下の」くらいの意味だな。まあ、言ってみればこれも「さん」とか「くん」の類いだ。


 鄭:実際に何歳以上だから「老」とか、何歳以下だから「小」っていう事じゃなくて、比較する対象と比べて年上か年下かで付けられるらしいね。


 李:ん?どゆこと?


 王:会話の中で俺が小蝉に呼び掛けるなら「小李(李さん、李ちゃん)」だ。逆に小蝉が俺に呼び掛けるなら「老王(王さん)」だな。これは、呼び掛ける相手の比較対象が自分だから、自分を基準として相手が年上か年下かって事だ。


 李:そうじゃない事なんてある?


 鄭:『水滸伝』の中に「(ろう)(ちゅう)経略(けいりゃく)相公(しょうこう)」「小种経略相公」という親子が登場してね。「种」が姓、「経略」は経略司という役所の略称、「相公」は宰相とか長官を意味するから、「経略相公」っていうのは経略司の長官である「経略使」という官職の事だよ。つまり「种経略相公」は「経略使の种閣下」くらいの意味だね。でも「老」や「小」がついてるから、実際にはもうちょっと親しみがこもった感じで「経略使の种のダンナ」くらいじゃないかな?日本で言うと、人気の都道府県知事を「知事の○○さん」って呼ぶみたいなね。


 燕:経略司ってのは国境に近い府州に置かれ、『水滸伝』の中じゃ老种閣下が延安府(えんあんふ)の経略司に、小种閣下が渭州(いしゅう)の経略司にそれぞれ着任してるんだが、この時代では珍しく清廉高潔で忠義に篤く、二人とも民から慕われてる。


 鄭:で、町の人達が噂をするじゃない?でも、単に肩書だけを付けて呼ぶとどちらも「种経略相公」だから、どっちを指しているのか分からないよね。だから親しみもこめて、父親である延安府の种閣下を「老种閣下」、その息子である渭州の种閣下を「小种閣下」と呼んでるんだね。この場合、比較の対象は話し手じゃなくてそれぞれの种閣下、つまり一方の「种閣下」がもう一方の「种閣下」よりも年上か年下かと比較してる訳だから、話し手が老人だろうが子供だろうが「老」と「小」が入れ替わったりはしないよ。


 李:そういう事ね。


 鄭:この二人の种閣下は史書にも名前が残る人物をモデルにしてると思われてて、確かに延安の种閣下はこの時代、老齢ではあったみたいだね。資料によっては老齢だから「老种」と呼ばれたって書かれてる物もあるみたいだけど、単に老齢だけを指して「老」を付けてる訳じゃないと思うよ?二人はこの「水滸前伝」にも登場する予定みたいだね。まあ、ずっと先だと思うけど…。


 王:日本じゃどうも「御老公」やら、それこそ『三國』の黄忠が呼ばれてる「老将軍」のイメージが強くて「老」が付けられてるとどうも「老齢」ってイメージが先行しちまうがな。ちなみに『水滸伝』の中では親子の設定だが、実際には兄弟だったようだ。ま、この「水滸前伝」でどちらの関係性が採用されてるかは、読んでからのお楽しみだ。


 李:後は姓と綽名(あだな)を組み合わせてるってヤツ?第一回の最初の前書きにちょこっと解説があったわね。


 鄭:姓と綽名(あだな)を組み合わせて呼ぶっていうのは、実際に王哥が『水滸伝』の中で「王矮虎」と呼ばれてるところにヒントを得たみたいね。「矮脚虎」が「短足の虎」で「矮虎」は要するに「チビ虎」だから、本来の綽名(あだな)が持つ意味から離れなければ、他の人物でもそういう呼び方をしても良いんじゃないか、って事だね。『水滸伝』に登場するのは「王矮虎」だけだから、後は全て作者の創作、造語だよ。


 李:他には…単に姓と「郎」を組み合わせて呼ぶわよね。「鄭郎」みたいに。


 王:「鄭郎」は本編にもあったように『三國』の「美周郎」からきた使い方だな。ま、『三國』の中でだって単に「周郎」と呼ばれたりする訳だし、別に「美」がなくても構わんだろう、って事だ。


 李:うん、実際要らないし。


 鄭:ひどい…あっ、前回の「閑話休題」時点ではまだ出てきていなかった呼称について、簡単に触れとこうかな。


 燕:「()()」と「(しょう)()」だな。


 鄭:「小哥」は要するに「年下の親しい男性に対する呼び掛けの言葉」で、言ってみれば「小姐」の男性版だね。本来は「大哥」と対になる言葉みたいなんだけど、この「水滸前伝」では「大哥」は「婚姻によらない義兄弟の長兄に対する呼び掛け」に限定しちゃったから…


 李:「同世代で親しい年上の男性に対する呼び掛けに使う言葉」がなくなっちゃったのね?


 王:小蝉、相変わらずエスパーみがエグイな。


 燕:そこで「大哥」の代わりとして「哥兒」を使う事にした訳だ。


 王:意訳は単なる「さん」か「兄貴」か微妙なトコだな。なのでコレも意訳ではなく、単に読みをルビとして振ってある。


 李:見通しが甘いわねー。


 王:それは作者に言ってくれ。


 鄭:それじゃあ、最後に恒例となりました「採用されなかったシリーズぅ」!!


 李:いつから恒例になったの!?ってゆーか、採用されなかったのはさっき「小」のところでやった──


 鄭:はい、聞こえません!残念ながら今回が最終回(仮)です。


 李:全然残念じゃないし、しかも(仮)って…。


 鄭:柳蝉が前回、王哥への呼び掛けを「『(すい)()』じゃなくても良いでしょ?」って聞いたけど、実は実際の中国語には初対面の時なんかに使える言葉があるみたいよ。


 李:えっ!?じゃあそれで良かったじゃない。


 鄭:それは「先生」。つまり「王先生」。


 李:…「帥哥」でいいです。


 王:だろうな。知ってた。


 燕:日本語での意味っつうか、イメージがなぁ。


 王:哥哥(あにき)まで…。


 鄭:ちなみに、女性に対しても「女士」や「婦女」があるみたいだけど、コレも日本語のイメージだとちょっと、って感じだよね。


 李:作者的には、って事でしょ?


 王:あと、現代だけの事かもしれねえが、特に年下の女性に呼び掛ける時に「美女」を使ったりするらしいぞ?まあ、見ず知らずの男性を「帥哥(イケメンさん)」と呼ぶのと、意味合い的には同じだろうな。


 李:王哥も遠慮なく私の事を「美女」って呼んでくれて良いんですよ?


 王:スマン、ちょっと何言ってっか分かんねえわ。


 李:……(怒)


 鄭:ま、まあ、これからも色々な呼称が出てくるかもだけど、「後書き」やルビ、括弧書きで意訳を添えたりと、出来るだけ本編を読むにあたって支障がないようにするらしいので、温かい目で見守っていただけたら幸いです。


 李:よろしくお願いしまーす。

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