「遇洪而開」
「遇洪而開」
意味は本文中に記載がありますので、ここでは割愛させていただきます。
ツイてない──
少年の偽らざる感情である。
【何であの門は開いてたんだ。
なまじ開いてるから、中に入ってみようなんて思ったんだ。
閉まってれば敷地に入れず、ここを離れてた筈だ。
何で俺はこんな目に遭ってるんだ。
何であの門は閉まっててくれなかったんだ】
少年がツイていないのか、或いはそれ以前の問題であるのか──
客観的に見れば、どちらとも言えるだろう。
常時開放されている訳ではない門が、少年が訪れた時に開いていたのは、確かに不運だったと言えるかもしれない。
しかし、たとえ目に見えない力に導かれたとか何とか、少年には少年なりに未練たらしい主張の一つや二つがあったとしても、この場を離れる選択を捨て、道観の内に足を踏み入れようと思い立ったのは、他でもない少年自身だ。
そして、少年は門は潜った。
自業自得とも言える。
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敷居を跨いで数歩、少年は立ち止まって辺りを見渡す。
門からは石畳が続いている。真新しい物ではない。
数十年、或いは100年以上か、いや、下手をすれば数百年の時を経ている可能性もある。
【随分、年季の入った石畳だな。相当、由緒ある道観だろ、ココ】
現実世界では何代か前の皇帝が道教に傾倒して以降、その寺院である道観が雨後の筍のように増えていったと、少年は伯父から聞いた記憶がある。その時に建てられた物ですら、すでに100年ほどの時を経ているはずだが、道教や道観自体の歴史は遥かに古く、数百年の歴史を持つ道観も少なからず存在する。
上清「宮」という名称といい、古びた石畳といい、少年がそんな感想を抱いたとしても、特に不自然な事はない。むしろ、それが普通と言ってもいいだろう。
奥へ続く石畳は途中で枝分かれをしながら霧の中へ霞み、それぞれの建物へと誘う。
石畳の両側には1m余りの丈に整えられた生垣が並び、その外側には花の時期を過ぎ、青々と葉を繁らせた梅の木が列を──
「菜園の位置、不便じゃね?」
唐突に、胸の奥にしまい込んだはずの違和感が再びその首を擡げ、今度ははっきりとした疑問となって少年の口を衝いた。
開け放たれた門扉のすぐ側、ほとんど隙間もない位置から生垣は奥へと続き、その外側には梅並木が、更に外壁から見た感じでは、梅並木と交わるように松や檜などの林があった。
つまり、菜園は石の外壁とで、三方を囲まれてしまっている。
無論、霧に隠れて全景を確認できた訳ではないが、少なくとも外壁に下り立ってから門へ向かう間に少年が見た限り、菜園を管理するような建物はなかった。
【俺みたく障害物に関係なく移動出来るとかならともかく、これじゃ林を迂回するか、林や生垣を突っ切んなきゃ菜園に辿り着けないじゃん。
いくら何でも不便すぎないか、コレ…?】
身体の震えを鎮めるため、少年は右手で左の肘の辺りを握る。
【俺は今、右側から外壁の上を歩いて門に向かって来た。って事は、この開け放たれた右の扉から裏を覗けば、菜園がある筈…】
少年はチラと右の門扉を見遣るとゆっくり近付き、そのまま門扉の裏手を覗──
「痛っ!!」
跳ね返されたww
「チェッ、門もダメかよ…」
っていうか、どこにイケる要素があったのか。
せっかく道観の周囲に見えない壁を張り巡らせて内と外とを隔てても、一番目立つ門が「御自由にお通り下さい」では、無意味極まりないが。
自分の浅慮を棚に上げ、ブツブツと愚痴を零しながら、少年は門扉の端=見えない壁の端に手を掛ける。
一瞬の躊躇。まさか生垣にまで弾き返されるような事はない…と、願いたい。
胸ほどまである生垣に透け入り、ひょいと門扉の裏手を覗き込んだ少年が、弾かれたように石畳の上へと戻る。
そこに、少年の想像とはまるで違った光景が広がっていて、反射的に後退ってしまったのだ。
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道観に足を踏み入れて、少年が答えを見出だした疑問が二つある。
一つは見えない壁の正体だ。
といっても、壁の構造的な話ではない。
なぜ、そこに見えない壁があるのか、という事だ。
門扉と、そして外壁の内側には札が貼られていた。
一枚や二枚、なんて生易しい数ではない。少年の目に見える範囲、どころか外壁などは、おそらく霧の中に消えた先まで無数に、だ。
外から見た、或いは門を潜ってすぐに見える穏やかな、ある種、牧歌的とも言える風景とは、何と隔絶した様相であろうか。
少年は試しに左手の門扉の裏も覗き込んでみたが同様だった。その先に続く外壁の内側も。
その札には、少年が見た事もない紋様や、見慣れない文字も多かったが、辛うじて読めた物もある。
「退魔」や「封魔」とあった。
【要するに、アレは結界みたいなモンか。それも、こんだけ馬鹿みたいに札を使ってんだから、相当強力なヤツなんだろう。その結界に俺が弾かれたって事は…人じゃない「何か」が出るなり、入るなりを防いでるって訳だ】
少年はその結論に辿り着くと同時に、この道観内の奇妙な配置の意味も理解できた気がした。
林や梅並木は菜園を囲っているのではない。
外壁に「これでもか」と貼られた札を隠しているのだ、と。
少年の想像通り、ここが由緒正しい道観だとすれば、参詣などで訪れる人もいるだろう。相応の格式があれば、時に貴人や要人などが訪れる事もあるのかもしれない。
しかし、いかに由緒正しく格式高かろうとも、夥しい数の札で敷地の周囲をぐるりと囲まれた異様な光景は、見る人に憂虞、不快の念を齎す。
といって、単純に外壁を林で覆ってしまえば、それはそれで道観側の目が行き届かない。
札を施せば相応の時間を外界と遮断できるだろうが、申し訳程度の軒しか持たない外壁に、長く在って風雨に晒され続ければ、いつかはその札も朽ちて傷む。
だが、菜園を外壁の側に配し、手入れや収穫などで普段から人の往来を作っておけば、目につき易く対処も容易だ。
そう考えれば、道観内部の配置は一見不便そうでありながら、実は理に適っている。
二つめは体感している寒さの原因だ。
【やっぱり気温の暑い、寒いじゃなかった…】
それは得体の知れないモノ、理解の範疇を超えるモノが纏わり付くような悪寒。
少年の体感では、外壁から門口に移動して明らかに増大した。今はそこから僅か十歩に満たない距離を敷地内に入っただけだが、全身が怖気立ち、震えが押さえられないほどだ。
となれば、外壁に貼られた札との因果は、推して知るべしである。
少年の理性が、今すぐ踵を返してこの道観から離れろ、と警鐘を鳴らす。
それが最善であると頭では理解しているのに、一方で奥へ進みたい、進まなければという、源泉の分からぬ使命感、強迫観念が少年を道観の奥へと誘う。その結果──
少年は未だ門扉と生垣の境で動けずにいた。
すでに門を潜ってから随分と経っているにも拘らず、だ。
「やっぱり戻──っ!!」
少年の理性が葛藤に打ち勝ち、行動に移ろうとした時、「それ」は訪れた。
恐ろしく、忌まわしく、禍々しく、悍ましく…
「それ」を形容するに、少年の語彙力はあまりにも足りない。
この世のあらゆる災禍が凝縮されたような不吉な気配。
少年の全身を襲う怖気は、先ほどまでの比ではない。
歯の根も合わぬような恐怖に立ち尽くしてしまった少年は、暫しの後、震えが治まらぬままに身体を動かした。
道観の奥へ向かって。
少年自身も混乱している。
つい先ほど、この道観を立ち去ろうと決心したのではなかったか。今はその数十、数百倍の悪寒に苛まれているというのに、なぜ道観の奥へと進んでいるのか。
「違う、俺の意思じゃない。でなきゃ、こんな…」
混乱する思考を納得させるように、少年は自らに言い聞かせる。
目に見えない何かに導かれてるからだ、と。
理性とは裏腹な行動に苛立ちを覚えつつ、少年は己の境遇を嘆き、答えが返ってくる事のない問いを、囈言のように繰り返す。
ツイてない。
なぜ、自分はこんな目に遭ってるのか。
なぜ、あの門は閉まっててくれなかったのか。
──と。
すでに少年は「夢を観ている」という、自らの現状に思いが至らぬほど余裕を失っていた。
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「──……」
「──……!───………!!」
石畳を進み、いくつかの分岐を通り過ぎたところで少年の耳に飛び込んできたのは、内容こそ聞き取れなかったものの、紛う事なき人の声だ。梅の並木で姿は見えないが、次の枝道を左に入った方から聞こえてきたようだった。
上空には変わらず白濁とした世界が広がるが、地上付近の霧は更に薄まり、並木の上には建屋の屋根が見える。
【全く関わりない世界から来た俺が、こんだけ影響を受けてんだから、この世界の住人が異常に気付いてない訳がない。
この先に事態を収束させようと奮闘してる人達がいる筈だ】
少年の理性は尚も「進むな、引き返せ」と必死の抵抗を続けていながら、一方でそんな希望とも呼べぬ厄介な思考を少年に与える。
そして、少年はそんな代物に躊躇なく縋った。
その希望には根拠などない。
当たり前である。この世界で少年は部外者なのだ。
その少年とこの世界の住人が同じ不快を感じている保証など、あるはずがない。
そんな明白な矛盾にも気付けぬまま、少年は根拠のない淡い期待に一縷の望みを託し、石畳を左に曲がって声の元へ急ぐ。
不安、不快、恐怖、怯懦、嫌悪、憎悪、憤怒、苦悶、倦怠、厭世…
あらゆる負の感情が、進めば進むほどより深甚に、より濃密に、より明瞭に少年を襲う。もはやただそこに在る事にすら苦痛を覚えるほどだ。そして──
少年の期待は見事に裏切られた。
少年が辿り着いたのは、
『伏魔之殿』
と、彫られた牌額を持つ社殿。
その中では、少年が思い描いていたのとは別次元の修羅場が繰り広げられていた。
「これ以上はお許し下さい、太尉(※1)閣下」
「黙れっ!!貴様らが数百年の長きに亘り、ここに妖魔を封じてきたと言うのなら、今日、儂がその封を解く事こそ天意なのだっ!!」
一人の男が狂気の形相で罵声を発し、それを数人の住持(※2)や道士(※3)達が懸命に宥めていた。
社殿の入口は外に向かって開け放たれ、両開きの扉には、やはり外壁で見たような札が夥しいまでに貼られている。
「しかし、閣下…ぐぁっ!!」
「…黙らぬか、愚図が」
若い道士が右の肩から袈裟斬りにされ、命を散らした。
周囲では、ある者は惨劇に目を背け、ある者は驚きに目を見開き、またある者は恐怖に戦いている。
「何という事を…貴方様は御自分が一体、何をなさっているのか──」
「止めよ」
勇敢にもその行為を諌めようとした住持を、最も年長と思われる道士が制止した。
「洪閣下。貴方様は苟も殿前(※4)太尉たるお方。貧道(※5)らが御心に背く道理はございません。御下命とあらば、この封を解きましょう」
「真人(※6)よ。貴様もあの石碑を確と見たであろう。最初から黙って儂の命に…いや、天意に従っておれば良いのだ」
洪と呼ばれた男は、未だ興奮冷めやらぬといった面持ちで肩で息をしながら、ふいと顔を部屋の隅に向けて視線を促した。と、口角を上げて浮かべた醜悪な喜色が、社殿の内に配された十数の住持達の手に点る松明によって、ありありと照らし出される。
社殿の外で立ち尽くす少年は、その一部始終を目の当たりにした。
全くもって意味が分からない。
いや、言葉は少年にも聞き取れた。聞き取れたからこそ理解できない。
妖魔だ何だなど、そんなモノはお伽噺の世界に登場する代物だ。そんなモノのために人を斬り捨て、挙げ句「天意だ」などとほざく洪という男の行動は、真っ当な世界の住人である少年の理解が及ぶ範疇を、明らかに超えてしまっている。
絶え間なく襲い来る悪寒と理解の及ばぬ惨劇に、少年の身体はまるで蝋で塗り固めてしまったかのように微動だにしない。そして、ふと何かを思い出し、せめて眼前で繰り広げられた光景にだけでも意味を見出そうと、社殿の内へ視線を彷徨わせた。
しかし、目に映るのは室の中央から少し外れて置かれた亀のような石像と、掘り返されて出たと思しき盛土のみ。男の言う「石碑」とやらが、少年の位置からは見当たらない。
「よ、宜しいのですか?」
「致し方ない。事ここに至って、お主達があたら命を捨てる必要はない。但し…」
おずおずと問い掛ける住持らを諭し、真人は洪に険しい視線を向ける。
「これより以降の事は、偏に閣下の思し召しに依るもの。この後、如何なる災厄が世に蔓延ろうとも、貧道のみならず、ここに居る一切の者はその責を負えませぬ。それだけは何卒、御承知置きを」
「御託はいい。さっさとやれ」
数人の道士達はその声に、そして静かに頷く真人の様子に、鍬や鋤で室の中央を掘り始めた。
社殿に辿り着く以前の経緯は、少年には知る由もない。
洪太尉とやらや道士達が見たという石碑がこの状況の鍵を握っているようだが、切っ掛けは何であれ、この社殿に封じられた妖魔の類いを、洪という男が解き放とうとしているのは火を見るより明らかだ。
そしてその封が今、将に解かれようとしている。
【馬鹿か、アイツ!今だってこんなに禍々しい気配が周囲に満ち溢れてるっていうのに…。
事態の収束どころじゃない。あの洪って奴こそ、この事態の元凶だ。正気の沙汰じゃない】
少年は憎悪にも似た感情を込めて、洪という男に視線を向けた。
そして、すぐに自らの認識を改める。
すでに正気ではないのかもしれない、と。
そう思えるほどに、男の顔は狂気に満ち満ちていた。
しばらくの後──
何かを掘り当てたのか、道士達の手が止まる。
「何をしている、さっさと開けんかっ!!」
洪は再び罵声を浴びせる。道士達が真人を窺い、真人が諦念したように頷くと、道士達は掘り返した穴に手を差し入れた。
窓もない社殿の中、灯火の薄明かりの下、恐怖に震え、涙を流している者もいる。
道士達が力を合わせて動かしたのは、見るからに重厚な石板。
そしてそれは、おそらく洪が「妖魔」と呼ぶモノを、地の底に封じ込めている最後の砦。
そう判断した少年も息を呑み、咄嗟に身構える。身構えたとて、相手が妖魔などと呼ばれる存在では、それで何を防げるはずもなく、単なる気休めも同然ではあるのだが。
ところが、特段これといった変化は起こらない。
一瞬の静寂。
「フン、下らんな。所詮この手の伝承など、それを語る者が自らの権威に箔を付けようと拵えた、単なる虚仮威しの類いに過ぎん、という訳だ」
薄ら笑いを浮かべながら、つかつかと洪が穴に近付くと、その手に光る抜身の剣を恐れた道士達は、一斉に穴から離れて距離を取った。
それを気にするでもなく、洪は無遠慮に石板が置かれていた穴の中を覗き込む。
その様子を社殿の外から見ていた少年も、僅かに緊張を解いてフッと軽く息を吐く。と、時を同じくして──
その「刻」は訪れた。
僅かな地鳴り。
人の耳で捉えられるかどうかという程度のその音は、次の瞬間には誰もが聞き取れるほどになり、更にまた次の瞬間にはけたたましいまでの音量となり、徐々にというのも憚られるほどの勢いで、地の奥底から猛然と地表を目指して駆け上ってくる。
その音に比例するかのように揺れ始めた地は、木々を揺らし、社殿を揺らし、その中の人々をも揺り動かし、辺りに響く地鳴りと相俟って、まるで眠りを妨げられた「大地」という名の猛獣が、怒りに任せて今、将に眠りから目覚めんとしているかのよう。
いよいよ地表の薄皮一枚を残すのみというところまで大地の唸りが迫った、と思うが早いか、社殿の中央、それまで道士達が掘り返していた穴から、地の咆哮と共に猛然と黒煙が噴き出した。
いや、黒煙などと生温い物ではない。闇そのもの、と言ってもいいかもしれない。
闇は噴出した勢いそのままに、社殿の梁を貫き、屋根を吹き飛ばし、道観の上空に立ち込める濃霧を吹き払って尚、高く高く昇っていく。
洪は闇の噴出に吹き飛ばされて腰を抜かし、道士や住持達は、ある者は室の片隅で恐怖に打ち震え、またある者は真人に縋り、しかし、その真人だけは、まるでこの事態を予期していたかのように、吹き上がる黒煙を一人、泰然と眺めている。
少年は為す術もなく、ただ呆然とその光景を眺めている事しかできなかった。
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放心し、へたりこむ洪の傍らには、地に表を、天に背を向ける一枚の石碑が捨て置かれている。
その背に銘はなく、年もなく、ただ僅か四字だけが刻まれていた。
誰が、いつ、どこで、なぜ、その碑に刻したのか。
それを語り得る者は誰もいない。
しかし、その背に刻まれた僅か四字は、紛れもなく今、この瞬間を言い得ていた。
曰く──
『遇洪而開』
「洪に遇い、而して開く」と。
※1「太尉」
当時の官職名。とっても偉い。
※2「住持」
住職。
※3「道士」
道教の僧。
※4「殿前」
「殿前司」の略。当時の軍の最上位機関。
※5「貧道」
道士や仏僧の自称ですが、どちらかと言えば道士の自称として用いられる事が多いそうです。この小説においては、専ら道士の自称として用いています。
※6「真人」
道教の高僧の称号。