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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第二回  王矮虎 私闘を耀して挨雷し 清風三傑 梅花の下に義を交わすこと
19/139

辛辣

「…は?」


 鄭家村の中心、保正の屋敷で素っ頓狂な声を上げたのは燕順。


「おや、聞こえませんでしたかな?」


 まるでその反応を予期していたかのように、対面に座る男は悪戯っぽく笑みを浮かべて卓上の茶を(すす)る。


 無論、声の主は鄭延恵である。


 燕順が初めて鄭家村を訪れてから、すでに半月ほど。

 その間、頻繁に村へ来ては鄭延恵と交流を持ち、満を持して今日を迎えた。


 いつもより気合いを入れ、いつもより上等な服を纏い、しかし、言い放った本人曰く「気の利いた冗談」のおかげで、いつものように気負わず鄭家の門を叩き、そして、いつものように広間に通され、いつもの席に着いた。


 その席で燕順は切々と語った。

 専売塩の歴史と現状、この国の文武高官の堕落、自らの心情を。

 自らが旅をして得た知識も、他人からの受け売りも、今、燕順が心に抱いている思いを全て吐き出した。


 その結果──


「ですから…お手持ちの品は全て私が買い上げさせていただきます、と申しました」


 燕順が塩を仕入れた建康府から、ここ青州は遠い。優に500km近くは離れている。

 その距離を正規の塩商でない燕順が塩を運んでいれば、お上の目に留まらない方がおかしい。詮議を受けたのも一度や二度の話ではない。

 しかし、燕順はただの一粒も損なう事なく、この清風鎮まで塩を運んできた。


 方法は至って簡単だ。

 その地の胥吏(しょり)(※1)や官僚に賄賂をバラまけばいい。


 荷がそれほど多くなかったのも幸いした。

 何しろ青州では初めての商いである。生モノではないから、売れ残ったところで早々売り物にならなくなるような事はないが、そもそも売る宛てがあった訳でもない。


 それに、元々金儲けを期して商売を始めた訳でもないのに、一攫千金を夢見るように全財産をつぎ込んだ挙げ句、まかり間違って賄賂が効かずに、道中で荷を押収されでもすれば、馬鹿丸出しもいいところだ。

 運ぶ荷が大量であれば、それを理由に足許を見られる可能性もある。


 しかし、そうは言っても塩だ。

 小麦粉ならともかく、商売として使うのでなければ、一般の家庭で一日に使う量などたかが知れている。

 燕順が持っている全ての塩を鄭延恵が引き取り、鄭家村の各家に配ったとして、優に半年は賄えるのではあるまいか。


「それとも、何処か他に売る宛てでもありましたかな?」

「いや、そんな事は…」

「では、何かご不満でもおありか?」

「いや…いや、そんな事は決してないのですが…」


 今まで数々の修羅場を潜ってきた燕順ではあるが、思いがけない鄭延恵の申し出に動揺を隠せない。

 頭に浮かんでは否定するが、否定すればするほど強く浮かぶ。


 何か魂胆があるのではないか、と。


「宜しいのですか?」

「…?何がです?」

「いや、今までの塩商との付き合いなど…」

「ああ、それなら心配要りません。知り合いなり親類なりに頼まれた事にすれば済む話です。どうとでもなります」

「正直に申し上げれば…まさか全ての荷を引き取っていただけるとは、思ってもいなかったので…」

「はは、何か思惑があるのではないか、と?」

「…は」


 飲み()しの茶を喉へ流し込み、柔和な笑みと共に鄭延恵は語り掛けた。


「まあ、有り体に言えば…貴方の事が気に入ったのです、燕(しょう)()(※2)」


 その気持ちは燕順にも分かる。俗に「男が男に惚れる」というヤツだ。

 燕順が石仲と親交を深めたのも、何だかんだと振り回されながらも王英の面倒を見ているのも、そして鄭天寿に惚れ込み、こうして鄭家村を頻繁に訪れているのも、詰まるところはそこだ。


 商いに携わる者として、いや、そんな事はこの際抜きにして、純粋に人として「この男は信用に足る」と見られたのであるから、これ以上の褒め言葉はない。


 それが真実であるならば。


「こんなしがない村ですが、保正という役目柄、様々な者と付き合いがありますから、人を見る目は持っているつもりです。中には顔も覚えぬ内から上手い言葉を並べ立て、高価な品を売り付けようとする輩もいますが、貴方は違う。特に娯楽があるでもないこの村へ足繁く通っては、何を売り付けるでもなく、私の世間話に付き合ってくれたではありませんか」


 変わらず穏やかに微笑みかける鄭延恵とは裏腹に、燕順の胸中は複雑だ。

 純粋に親交を深めたいと願って鄭天寿に接する気持ちと、同じ気持ちで鄭延恵に対して接していたかと問われれば、答えは否だ。

 いや、正確には「それもあるが、それだけではない」と表現するべきか。


 信用を得るために交流を持っていたのは確かだが、そこに商売人としての利害を計算した下心があったのも、また事実。

 しかし、それを知ってか知らずか、鄭延恵は燕順との商いに応じてくれるという。


 自らは腹に一物を抱えつつ、相手の不実を疑う。


 商売人として、それも必要ではある。むしろそれがなければ商売人としては大成しないのかもしれない。

 それでも尚、燕順は自らの器の矮小さを思い知らされた気がした。


「それと…あとはまあ、天寿がいつも世話になっていますからな。その礼です」


 取って付けたようなその理由が本心であるか否か。

 鄭延恵の穏やかな表情からは窺い知る事ができない。


 しかし今、燕順は面と向かって「貴方は信ずるに足る男だ」と告げられ、また行動でも示されたのだ。その気持ちに損得をもってのみで応えるほど、燕順の心は商売人に染まってはいない。そしてまた、半月という短い期間ながらも、燕順が鄭延恵という男の立ち居振舞いを観察して得た印象は「信頼を預けるに値する男」だった。

 その上で騙されたというのであれば、それは鄭延恵が一枚上手だったのであって「自分に人を見る目がなかったのだから」と燕順も納得できようというものだ。


 燕順の腹は決まった。


「お心遣い痛み入ります」


 燕順が席を立ち、拱手と共に深々と(こうべ)を垂れる。

 鄭延恵はその手を取り、体を支えて席に着くよう促すと、再び他愛のない世間話に花を咲かせた。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 燕順の商いが滞りなく進み、最も喜んだのは鄭家村の住人でも、他ならぬ燕順でもない。


「おっ!?よぉ、小姐(ねえ)さん♪」

「げっ、また来た…」


 その最も喜んだ男の顔を見て、鄭天寿の屋敷の門前で渋い表情を浮かべたのは李柳蝉。丁度、畑から戻ってきたところで鉢合わせたようだ。


「『げっ』って事はねえんじゃねえの?」

「…今日はどんな御用ですか、王帥哥(王英)?」

「すまないな、小蝉(しょうせん)(李柳蝉、※3)。毎日毎日、面倒を見てもらって」

「あら、いいんですよ、燕()()(燕順、※4)。面倒を見てるのは鄭郎ですから」

「俺と全然対応が違うな。俺の事も『哥兒』って呼んでくれて──」

「えっと…本当にごめんなさいね。ちょっと何を言ってるのか分からないわ」


 心の底から申し訳なさそうに困惑の表情を浮かべる李柳蝉に対し、しかし王英はなぜか満足気である。


 燕順の商談が済んで以来、王英はほとんど毎日この鄭家村に通い詰めている。

 目的は二つ。


 一つは鄭天寿との交流。しかし、燕順のそれとはだいぶ趣が違う。

 女性には興味津々でありながら、さっぱり相手にされない王英にとって、鄭天寿は生ける指南書だ。

 顔の造りや背丈は真似できなくとも、服装や仕草、会話のコツ、さりげないアピールなど、鄭天寿との会話から王英が得るものは多い。


 特に王英が好む気の強い女性に対する接し方、詰まるところ、李柳蝉に対する鄭天寿の「時に上から、時に下手に」という姿勢は、ひたすら女性に対してマウントを取りたがる王英にしてみれば目から鱗だった。


 今や鄭天寿とは、出会った時に派手な打ち合いを演じたとは到底思えぬほどに打ち解けて、どころか心酔の域もとっくに越え、王英にとっては「年下の師」となりつつある。


 聞けば鄭天寿には清風鎮に馴染みの女性が数人いるという。しかし、戯れ程度ならともかく、鄭天寿も李柳蝉以外の女性を真剣に口説き落とすような真似はしないはずだ。

 何となれば、王英は二人が互いに心を通わせた場面を間近で目撃した張本人である。とくれば、鄭天寿のお零れに与ろうなどという、ゲスな下心も当然ある。


 もう一つの理由は、会う度に辛辣な言葉を投げ掛けてくる李柳蝉。

 顔良し、スタイル良し、そして何よりも自分の思った事をはっきりと口に出す、その小気味好い性格が王英にとっては堪らない。


 といって「李柳蝉と恋仲に、あわよくば生涯の伴侶に」などという淡い期待を抱いているのかといえば、そういう訳でもない。

 そんな気持ちは綺麗さっぱり消え失せた、とまでは言えないが、以前はそれなりに頭をよぎったりもした「鄭天寿がよほどの『おいた』をすれば、俺にもワンチャンあるか?」的な事は、最近ほとんど考えなくなった。むしろ「鄭天寿がどれほど『おいた』をしようと、もう李柳蝉の気持ちが鄭天寿から離れる事はないだろう」などと本気で思い始めている。


 はぁ…何とも嘆かわしい限りだな、王英どん。


 まあ、屋敷に顔を出せば、否応なしに「羨ましいを通り越して恨めしい、どころか胸クソが悪くなるような例の二人のアレ」を見せつけられる訳だし、それを毎日のように繰り返されれば、王英でなくともそうなるか。


 最近では二人のアレを見せつけられるために屋敷に通っていると言ってもあながち過言ではなく、もはや傍から見れば立派な思想教育か何かである。二人の狙い通りか、はたまた嬉しい誤算かはさておいて、いかにポジティブシンキンの申し子でも、さすがに精神攻撃を持ち出されては分が悪かったようだ。


 ともあれ、そんなこんなで淡い期待は潔く捨てて、ここは一つ、二人の仲を温かく見守ってやろうではないか、などと一端(いっぱし)の保護者を気取っている王英である。


 そんな彼は最近、密かな趣味を見出だした。

 それは「自分に対する李柳蝉のぞんざいな扱いを楽しむ」という、李柳蝉にとっては迷惑極まりないものだ。


 嫌われているのとはちょっと違う。

 出会いの印象が悪すぎた事と、あまりに鄭天寿と王英の気が合い過ぎてウザがられている、といったところか。そして、李柳蝉はそんな感情を隠しもしない。

 時に蔑んだ目で見られ、時にあからさまに無視され、時に遠慮も容赦もない毒舌で真っ向から斬り伏せられる。


 それが王英には堪らない。


 …らしい。


 どうやら非リアの身で強精神攻撃を浴び続けた結果、自我の強い女性に対する思い入れが拗れに拗れ、新たな扉を開けてしまったようだ。

 つくづくお気の毒さまと言う他ない。


「取り込み中のところを悪いんだがな、小蝉。鄭保正はおいでか?」


 門前で尚も不毛な応酬を続ける二人を制し、燕順が問い掛ける。


「別に取り込んでません!あたしが屋敷を出る時は居ましたし、今日は特に出掛ける予定もない筈ですから居ると思いますよ?御案内しますね」

「あー、いや、今日は約束もなしに来たんだ。一度取り次いでくれ」

大伯(おじ)さまと燕哥兒の仲じゃありませんか。約束がないからって、追い返したりしませんよ」


 今さら何でそんな事を気にするのか、とでも言いたげに、屈託なく笑う李柳蝉。


「俺は鄭郎に用があるんだが居るかい?」

「えっと、どうかしら。約束がないんなら用件を伝えてくるから、暫くここで待っててもらえる?」

「…俺も鄭郎とはだいぶ打ち解けたと思うんだが?」

「はぁ…じゃあ、あたし今から大切な用があるから、それが済んだら案内するわね」

「何となく想像出来っけど、その『大切な用』ってのは…?」

「燕哥兒を案内して…あ、お見送りもしなくっちゃ!」

「知ってたよ、チクショウめ!一緒に来たのに、帰んの別々になっちまうじゃねーか」

「あら、別に一緒に帰ってくれて全然構わないのよ?」

「辛辣が過ぎる!てか、それならいっそ『屋敷に入れたくない』って、はっきり言ってくれよ…」


 二人のやり取りを、くつくつと笑いを堪えて眺めていた燕順は「仕方ない」といった様子で助け船を出す。


「小蝉、まあそう言わずに入れてやってくれ。押し問答で日が暮れてしまう」

「あっ、すみません。そうですよね」


 パッと顔を赤らめて気恥ずかしそうに取り繕う李柳蝉。


小姐(ねえ)さん、いつからそんな上等な猫の皮を被る技を身に付けたんだ?」

「はあっ!?被ってませんー!大体、約束もなしに来る方が悪いんじゃない」

「はは、じゃあやはり一度取り次いでもらおうか?」

「えっ!?あっ、いえあの、哥兒、そういう意味で言った訳では──」

「けけっ、一本取られてやんの」

「うっさいわねっ!!」


 不毛な応酬に一息ついて、ようやく三人は揃って屋敷に入った。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「じゃあ、あたしは燕哥兒を案内するから、後は──」

「はいはい。どうぞ御勝手に、ってね」


 屋敷の廊下で、李柳蝉は鮸膠(にべ)も無く王英を突き放す。

 だが、勝手に捜せと言われたものの、王英には捜す宛てがある。

 おそらく裏庭だ。最近の鄭天寿は日中、在宅していれば、大概そこで銀細工造りに興じている。


 と、燕順の先に立ち、二、三、歩を進めたところで、李柳蝉が立ち止まり振り返った。


「鄭郎はたぶん裏庭よ」

「おっ?何だよ、急に。小姐(ねえ)さんにそんな気ぃ遣われると気持ち(わり)ぃな」

「張っ倒すわよっ!!あっちこっち部屋を回って家捜しみたいな真似しないで、って言ってんの!そんな事されたら、帥哥を屋敷に上げた、あたしが怒られるんだから」

「ああ、そういう事ね。分かった分かった」


 投げやりな返事と共に、軽く挙げた右手をヒラヒラと振って応えた王英であったが、こちらも二、三歩進んだところで、キラーンと目を輝かせて振り返った。何か(ろく)でもない事を閃いたようだ。


「しかし、俺も何度か屋敷ン中を歩いたが、まだちょっと不案内なんだよなぁ。小姐(ねえ)さんは哥哥(あにき)の案内で忙しいって事だしぃ…」

「じ、じゃあちょっとの間、大人しくココで待ってなさいよ!」

「いやいや、小姐(ねえ)さんの手を煩わせるまでもねえって。ただまあ、屋敷に不案内の俺が?うっかり小姐(ねえ)さんの部屋に入っちまったとしても??そりゃあ不可抗力ってモンだよな!」


 鄭延恵や鄭天寿は言うに及ばず、この屋敷の者達にとって郭静と李柳蝉は、もはや家族と言っていい。その二人が「住まいは別々なのだから」と、わざわざ着替えや休憩のためだけに、いちいち家に戻らなくて済むよう、二人で共用ながらも鄭延恵から一室を宛てがわれている事を王英は知っている。無論、鄭天寿から聞いた話だ。


「ちょっと、アンタまさかっ──」

「じゃっ、後は勝手に捜させてもらうぜー!」


 ヒャッホウと叫ばんばかりに、小躍りしながら王英は走り去っていった。


「ちょっ…待ちなさいっ!!」

「小蝉!大丈夫だ。冗談だよ、冗談。揶揄(からか)われただけだ。いくらアイツでも、そんな馬鹿な真似はしない」


 地獄の底まで追い詰める勢いで走り出そうとする李柳蝉を、慌てて燕順が制して宥める。


「本当に?本当にですか??」

「いや…まあ、たぶん…」

「たぶん!!!?」


 もし、本当に王英がそんな事をすれば、入れてやってくれと頼んだ燕順の面目は丸潰れになる。その上、それが鄭延恵の耳にでも入れば、二度とこの屋敷、どころか村にすら立ち入れなくなる事くらい、いくら王英といえど十分想像できるはずだ。

 だが、燕順にしてもあるかどうか分からない王英の常識的な想像力に期待を寄せる事自体、一種の賭けであるところがまた悩ましい。


「と、とにかく、もしあの野郎が馬鹿な事をしでかしたら、俺が代わりに張り倒してやるから」

「でも…でも…」


 李柳蝉は今にも泣き出しそうである。


「もしアイツがあたしの部屋に入って、あたしの服を手に取って、(あまつさ)え匂いでも嗅がれたりなんかしたら…」


 ぶるっと一つ身体を震わせて、李柳蝉は悲鳴を上げた。


「わーーっ、ムリっ!!絶っっっ対、ムリっ!!」

「小蝉、落ち着けって。もしそうなったら、俺が責任持って新しい衣服を揃えるから」

「でも、哥兒にそんな事をしてもらう訳には…んー、でも…」


 まだ起こってもいない事であまり騒ぎを大きくしたくない燕順は懇々と説得するが、李柳蝉の不安は一向に治まらない。


「哥兒、ごめんなさい。やっぱり今から追い掛けて、アイツを屋敷から叩き出してきますっ!!」

「柳蝉、何をまた物騒な事を大声で叫んでるんだ?」


 そこへ現れたのは鄭延恵。さすがに騒ぎに気付いたようだ。


「これは鄭保正。約束もなくお邪魔した上、お騒がせして申し訳ない」

「おお、燕小哥。何々、そんな事はお気になさらず、いつでもおいで下さって構いませんが…一体、何があったんです?」


 事ここに至っては隠しようもなく、燕順はこれまでの経緯を説明した。


「まあ、柳蝉の不安も分からんではないが…燕小哥もこう言って下さるんだから」

「でも、大伯(おじ)さま…」

「分かった分かった。誰か一人お前の部屋にやって、王小哥(王英)を入れさせないようにすればいいんだろう?」

「はいっ、有り難うございます!」


 心の底から安堵の溜め息を零す李柳蝉に苦笑で応え、鄭延恵は作男に命じて李柳蝉の部屋に向かわせた。


「愚弟(王英)が度々騒ぎを起こして申し訳ない」

「いや、何、気にせんで下さい。それはそうと柳蝉。お前はもう少し、時と場合を選んで言葉を使い分ける事を覚えなければいかんな」

「うぅ…でも…」

「保正、元はと言えばウチの馬鹿の悪ふざけが原因ですから。小蝉をお責め下さいますな」

「今回の事はともかく…ああ、いやいや、案内もせずにこんな所で失礼した。広間で落ち着いて話しましょう。柳蝉、お前も来なさい」

「…はぁい」


 鄭延恵が先に立ち、燕順、李柳蝉がそれに続く。

 広間に入り、主客分かれて席に着くと、鄭延恵は先ほどの続きを切り出した。


「今回の件は、確かに王小哥の悪ふざけが過ぎたのかもしれんが、だからといって、無闇やたらと感情も露に雑言を吐いていい、という事にはならんのだぞ?柳蝉」

「ですが…」

「お前の素直で裏表のない性格は確かに美点と言えるし、(わし)も好きだが、それを口に出すとなれば時と場合、そして相手を考えなければ駄目だ。分かるだろ?」

「…はい」

「儂ももうそれほど若くはないんだから、そう遠くない先に天寿が保正を継ぐ。その正室が誰彼構わず悪態を()いてたら、天寿ばかりか村の者達まで白い眼で見られてしまうぞ?」


 強く非難するでもなく、噛んで含めた鄭延恵の口調は慈愛に満ちている。

 鄭延恵を前にしては、さすがの李柳蝉も王英や鄭天寿と丁々発止の舌戦を繰り広げている普段の威勢は欠片もない。常日頃とはまるで別人のような悄気(しょげ)た様子に、燕順は心を和ませ、温かく見守っていた。


「燕小哥。丁度、次にお会いした時にお願いしようと思っていた事があるのですが、宜しいですか?」

「え?ええ、それは…私に出来る事であれば何なりと」


 李柳蝉への小言が一息ついたところで作男が運んできた茶を一口啜り、鄭延恵は燕順へと視線を移した。


「小哥ならば商いの経験も豊富ですし、会話や人との接し方にも聡いでしょう?どうかこの柳蝉の為に一肌お脱ぎいただき、色々と御教授いただきたいのですが、如何ですかな?」

「あー…っと、小蝉に限っては不要では?私に対して礼を失する事はありませんし、ウチの馬鹿に対しては、寧ろアイツに非があるのであって──」

「そこです。いくら物言いを知っていようと、使えなければ意味がありません。見知った人間ばかりのこの村であればそれも許されましょうが、一歩村を出れば巷間には理不尽が溢れています。その度に感情に任せて言葉を吐くようでは困ります」

「それは、まあ…」


 至極もっともな話だ。

 何より、李柳蝉は女性である。勝ち気で奔放な性格というだけでも、世間の風当たりは何かと強い。

 それを知る鄭延恵だからこその「親心」というものだろう。


「別にお断りしたいという訳ではないのですが…甥御(鄭天寿)の方が気心も知れて適任なのでは?」

天寿(アレ)はダメです」


 鄭延恵は殊更大きく手を振って苦笑を浮かべる。


「気心がどうこうの前に、柳蝉(コレ)に対して甘すぎる」

大伯(おじ)さま…『コレ』って」


 少し(むく)れ、上目遣いで隣の鄭延恵へと抗議の意を表す李柳蝉。その愛らしい仕草には、思わず燕順も顔を綻ばせた。

 何の事はない、王英の言った通り燕順もまた、この天真爛漫な少女の事をいたく気に入ってしまっていたのだ。


「分かりました。商いの事もあるので毎日はお邪魔出来ませんが、それで宜しければ──」

「おお!お引き受け下さるか。では、早速お願い致します。柳蝉もしっかり教えを乞うんだぞ?」

「はぁい…えっ!?今からですか!?!?」

「善は急げと言うだろう。小哥もお忙しい身だし、次はいつお会い出来るか分からんのだから、機会を逃してはいかん」

「はぁい…」


 どうにも乗り気でない御様子の李柳蝉が生返事を一つ。


「小蝉、今から言葉遣いや礼儀について話すんだぞ?その返事はないだろう」

「…はい、すみません」

「ま、ま、小哥、初日ですからな。お手柔らかに…」

「…は?」

「あー、いや、何…そうそう、茶も冷めてしまいましたな。すぐに新しく持って来させましょう」


 よくもまあ「鄭天寿(アレ)は李柳蝉に甘すぎる」などと言ったものだ、と慌てて取り繕う鄭延恵に呆れた視線を送る燕順。


「これは手強い仕事を引き受けてしまったかもしれん」と燕順は気合いを入れ直し、李柳蝉に相対するのであった。

※1「胥吏」

正規の役人である官僚などの職務を補佐するため、事務や雑務を請け負っていた人達の総称。官僚と違って胥吏は正規の役人ではなく、その地の名士や有為の士が任命された。現代で役人全般を意味する「官吏」という言葉は、本来「官」が正規の役人である官僚を、「吏」が正規の役人ではない胥吏を表している。

※2「小哥」

親しい年下の男性に対する呼び掛け、敬称。女性に対する「小姐」の男性版。姓を付けているのでここでは「燕さん」、或いは「燕くん」。

※3「小蝉」

「小」は年下に対する敬称、愛称。姓や名の一字の前に付けて呼ぶ事で、親愛を表す。男女は問わない。ここでは「(せん)さん」、或いは「(せん)ちゃん」。

※4「哥兒」

「兒」は「児」の異字。一般的には「兒」ではなく同義の「儿」が使用されるようですが、日本では「儿」が「人」の異字とされるため「兒」を用いています。元々は血縁上の兄弟を指す言葉のようですが、現代では「兄弟同然の」といった意味合いも兼ねて、親しい男性への呼び掛けにも用いられるようで、「水滸前伝」中では親しい年上の男性に対する呼称として用いています。ここでは「燕さん」、或いは「燕のお兄さん」。

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