和解
元宵節の喧騒も過ぎ去り、鄭家村に穏やかな日常が戻った。
互いに想いを告げたあの「兄妹」は、変わらず「兄妹」のままだ。
その「兄」である鄭天寿は目下、村で軟禁中である。
二人仲良く村に戻ったあの夜。
村の広場で出迎えた鄭延恵から「楽しんできたか?」と問われるや、すっと表情を曇らせた「妹」の李柳蝉に、あろう事か「道観で女性達を侍らせて楽しむ鄭郎に約束をすっぽかされて、灯籠祭りを見物出来ませんでした」と、しれっと密告られたのだ。
慌てふためく鄭天寿を余所に、鄭延恵の怒りは凄まじかった。
首根っこを掴まれ、ずるずると屋敷に連行されながら「さっき『許す』って言ったじゃん!」とばかりに、非難の視線を向ける鄭天寿に対し、自らの鬢の辺りを指差して「許したのは造花の事よ」とばかりに、屈託のない笑みで応えた李柳蝉。
李柳蝉が血の繋がらない鄭延恵から、実の娘のように可愛がられているように、鄭天寿もまた李柳蝉の祖母・郭静(※1)から、実の孫同然に可愛いがられていた。
しかし、ただ単に李柳蝉を猫可愛がりする鄭延恵とは違い、郭静の胸中は複雑だった。
鄭天寿は可愛い孫も同然であると同時に、そう遠くない未来に実の孫娘が嫁ぐ男でもある。
その孫娘を放っぽって、他の女性達と遊び呆けていたと聞かされたのだから、祖母として思うところはあって当たり前だ。
鄭延恵と共にその胸の内の一つや二つ──いや、この際だから一つ二つなんてケチな事は言わずに、三つでも四つでも、十個でも百個でも、孫同然の女っ誑しに向けて、洗いざらいに遠慮なくブチ撒けてやりたいと思ったところで何の不思議もないし、それで何か郭静が咎めを受けるのかといえば、鄭家の面々とはすでにそんな他人行儀な間柄でもない。
しかし、いかんせん夫や許婚を持った女の男遊びが、天をも畏れぬ不届き千万な行為とされていながら、妻や許嫁を持った男の女遊びは、そこまで非難を受ける御時世でもないし、その妻や許嫁も、男の女遊びを知ったからといって、内心では怒っていようがムカついていようが、表面上は黙って受け入れるべきという、社会通念が蔓延っている御時世でもある。
それがどれほどイケ好かない女っ誑しであっても、だ。
その上、そのイケ好かない女っ誑しは自分が働く家の、そして自分が住む村の保正(村の顔役、村長)の跡取りでもある訳だし、まして他でもない孫娘の「密告」によって、今にも保正から見聞きに堪えないような説教が浴びせられようとしているとあっては、さすがに郭静も立つ瀬がない。
まあ、所詮は絵に描いたような鄭天寿の自業自得であるし、別に見捨てたところで郭静が非難を受ける謂れなどどこにもないのだが、そうは言っても「孫も同然だし、孫娘が嫁ぐのだから」という、優しみに溢れた郭静の口添えもあり、鄭天寿は熱り立つ鄭延恵の説教を延々と喰らいはしたものの、何とか屋敷内での軟禁だけは免れた。
しかし、罰として当面の間、村外へ出る事を禁じられたため、棒の鍛練に励んだり、来るべき軟禁からの解放に備えて、銀細工を製作しながら暇を潰す日々である。
一方の李柳蝉にも多少の変化がある。
鄭天寿の側にいる時間が増えたのだ。
二人が幼かった頃はともかく、成長してからは──特に許婚の間柄になってからは、とりわけ李柳蝉の方が村人達に冷やかされる事を嫌って、互いの行動に干渉したり、取り立てて用事もないのに側にいる事を避けていた。
今は違う。
無論、所構わず無闇やたらとベタベタし「チッ…爆発しやがれ、バカップルどもが!」的な陰口を叩かれるような事はないが、鄭天寿が広場で棒を振れば、傍らでその姿を見守り、庭の縁台で銀細工作りに興じれば、隣に座って茶々を入れつつ雑談に花を咲かせている。
その姿を村人に揶揄われた時の反応も変わった。
以前であれば、顔を真っ赤にして悪態をつくと、すぐにその場を離れていた。
しかし、最近では顔を赤らめて悪態の一つもつきはするが、といってすぐにその場を離れるでもなく、照れ隠しに何だかんだと言い訳をしつつも鄭天寿の側に居続ける。
「妹」には許嫁としての自覚が僅かずつではあるが芽生え始め、「兄」はその姿を温かく見守り、受け入れつつも、残り少ない「兄妹」としての時間を過ごす。
二人にしてみれば大きな変化であり、大きな進歩ではある。
しかし、周囲にとっては、単にいつかはそうなると分かっていた事が今、訪れたというだけの話で、冷やかしのネタくらいにはなっても、変化だの進歩だのと騒ぎ立てるのも馬鹿馬鹿しい、何を今さらとも言える予定調和なのであった。
詰まるところ、取り留めのない穏やかな日常が繰り返されている、という事である。
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そんなある日の事。
暇を持て余し、広場で棒を振るう鄭天寿と、それを見ながら茶々を入れて揶揄う李柳蝉に村人が声を掛けた。
「公子(若旦那。鄭天寿の事)、お客さんだよ」
鄭天寿と李柳蝉が同時に村人を見遣る。
「ぅげぇ…」
何とも言えない一言を発して、思い切り顔を顰めたのは李柳蝉。
「よう、小姐さん!久しぶり~ぃ痛でででで…」
二人の視線の先には、弾ける笑顔で手を振る王英と、その王英の頭を鷲掴みにして無理やり下げさせる男がいた。
「痛でででで…哥哥、爆ぜちゃう!頭、パーンってなっちゃうよっ!!」
一頻り王英の頭を甚振ると、男はその手を離し拱手(※2)する。
「江湖で『白面郎君』と噂される、鄭帥哥とお見受け致すが?」
隣の小男との対比がエグい、その恭謹にして凛たる風格に、鄭天寿と李柳蝉は姿勢を改め、共に礼を返す。
「ええ。貴方は?」
「手前は姓を燕、名は順と申す者。この馬鹿がお二方に大層な御迷惑をお掛けしたと聞き、今日はその詫びに参った次第」
「迷惑だなんて…なあ、小姐さん。痛っ!!」
「お前が言うな、この馬鹿」
調子のいい王英の頭を、燕順が一つ引っ叩く。
王英は相変わらずだが、燕順と名乗ったこの男の立ち居振舞いは、正に好漢と呼ぶに相応しいものだ。
どうやら恥を掻かされた王英の仕返しに来た訳ではなさそうだ、と鄭天寿は警戒を解いた。
「それは御丁寧に痛み入ります。ここでは何ですから…まずは我が家にお越し下さい。そこで話しましょう」
四人は連れ立って鄭天寿の屋敷に向かい、門前で燕順と王英が見れば、他の人家と比べて一際立派な邸宅である。
贅を凝らしたとは到底言えないまでも、少なくとも今、二人が住んでいる茅屋などとは比ぶべくもない。
鄭天寿に促されて広間に入り、主客分かれて席に着くと、出された茶に手を付ける間もなく燕順と王英は立ち上がり、共に先日の非礼を詫びる。
元より「あの日の確執はあの場限りのもの」と水に流したつもりでいた鄭天寿に謝罪を拒む理由はなく、めでたく和解となったのだが──
「なっ?だから言ったろ、哥哥。ちゃんと蟠りは解いた、って」
「またお前は余計な事を…折角、話が纏まったところで、要らん事を言うんじゃねえ!」
一人、呑気な王英を燕順が窘める。
その光景を見ていた鄭天寿は、自然と口元を綻ばせた。
丁度、王英が鄭天寿の浮気な性分に興味を惹かれたように、鄭天寿もまた好色家の王英に対して親近感を覚えていた。
そしてその王英の傍らにあり、良く言えば天真爛漫な、悪く言えば野放図な言動に振り回される燕順は、まるで「どこかの誰か」を見ているようだ。
ただでさえ、いつ隣の少女が余計な一言を放って、この和やかな雰囲気を台無しにしやしないか、と心中穏やかでない「どこかの誰か」は、そんな燕順の姿に共感を禁じ得ない。
鄭天寿が促し、二人が改めて席に着くと、四人はそれぞれ素性を語り合った。
「ところで、父御は何か商売を?」
「えっ?」
「いや、他意はない。手前のあばら家とは比ぶべくもない屋敷だったので、つい、な…」
「ああ。商売というか、この村の保正を務めています」
保正ともなれば、これほどの屋敷であっても不思議はないか、と燕順が得心する。
「それと、父ではなく伯父ですが」
「これは…失礼した」
先に鄭天寿は蘇州の生まれであると明かしながら、伯父の世話になっている事は伏していた。という事は、彼の父に関してはこの場で語るに相応しくないか、単に語りたくないだけか、ともかく何やら事情があるのだろう、と燕順が慮る。
長年、商いに携わる燕順にしてみれば、そういった会話の機微を察する事などお手の物だ。
一方、鄭天寿はそんな燕順の配慮に感じ入り、また「是非とも隣の小娘にその配慮を仕込んでもらいたいものだ」などと一人思案する。
「燕帥哥は莱州の生まれとお聞きしましたが、青州にはいつまで?」
「そうさな…これまでは諸州を渡り歩いてたんだが、暫くは腰を落ち着け、青州辺りで商いをしてみようかと思っててな。家もこの村からそれほど離れてない事だし、伯父御にはこれから何かと世話になるかもしれん。宜しくお伝えいただきたい」
「そうですか、暫くはこの辺りで…」
猪口才な小娘の教育係を押し付けようと目論む鄭天寿にとって、何はなくともまずは燕順との交流が、その第一歩。
ところが、鄭天寿はなぜか歯切れが悪く、右手を口元に当てて何かを考えている。
「…?何か?」
「いえ、伯父には必ず伝えます。一つ、差し出がましい事を申し上げたいのですが…」
「ん?ああ、構わんよ。何でも言ってくれ」
鄭天寿は道観で聞いた「清風鎮の正知寨が商家から金を巻き上げている」という噂を伝えた。
燕順もその噂はチラと耳にした事がある。とはいえ、未だ青州に居着いて日も浅く、しばらく留守にしていたため、今のところ実害はない。
そういった蓄財に走る官吏の噂など、この御時世に珍しくもなければ、何も青州に限った話という訳でもない。それこそ宋国中の至る地に極々有り触れている話で、燕順もあまり気に留めていなかったのだが、会って間もない鄭天寿があえてと忠告をしてくるくらいなのだから、それはつまり、それだけ噂の主はタチが悪いという事でもある。それを無下にするほど燕順は愚かではない。
「いや、御忠告忝ない」
「ただの噂であればいいのですが」
「で?その噂は何処のどなたから聞いたのかしら?」
予想外のタイミングで予想外の方角から仕掛けられた攻撃に、鄭天寿の身体が固まった。声の主は言うまでもなく、その隣に座る猪口才な小娘である。
ぎ、ぎ、ぎ、と音がしそうな仕草で鄭天寿が隣を見れば、小娘はにっこりと笑みを浮かべながら、目だけは全く笑ってない。
「いや、だから、風の噂で…」
「…ふーん」
全く信じてない御様子ww
配慮もへったくれもない。
ここは何としても燕順の手腕に縋るしかない、と鄭天寿は決意も新たに作り笑いを浮かべて取り繕う。
「嫌だな、柳蝉。最近、よく聞く話じゃないか。ははは」
「そうだったかしらね。ふふふ」
「あはは」
「うふふ」
客の二人を放ったらかし、渇いた笑いの応酬を繰り広げる鄭天寿と李柳蝉。
「あーっと…ところで、鄭郎は今まで哥哥の名を聞いた事はなかったのか?」
もう一人の配慮とは無縁そうな王英が、不穏な空気の察してか別の話題を振った。
「えっ?あ、ああ、いや、お恥ずかしい。こんな田舎暮らしが長い上、最近は村を出ても清風鎮までしか足を伸ばしていないもので…燕帥哥の御芳名は初めて伺いました」
「いや何、気にせんでくれ。『錦毛虎』などと綽名されてはいるが、所詮は商売人の間の話だ。寧ろこの馬鹿が、帥哥を馴れ馴れしく『鄭郎』と呼んでる事の方が、余程気分を害してはいないかと…」
「いや、それこそ気になさらないで下さい。普段からそう呼ばれ、慣れていますから」
「小姐さんの方は、これから何て呼べばいいかな?」
流れに乗って李柳蝉に話を振ったのは、この馬…王英。
「…?別に今まで通りでいいけど?」
「あー、いやまあ、すぐにすぐとは言わねえけどさ。行く行くは『名』で呼びてえなあ、と」
古来より中国では諱、つまり「名」のみで相手を呼ぶのは、君主が臣下に対して、または親や普段から親しい付き合いのある年長の親族、或いは配偶者など、よほど親しい間柄のみである。それ以外の者が諱のみで相手を呼ぶのは、非礼極まりない行為とされている。
李柳蝉にしても、この世で「柳蝉」と呼ばれて抵抗がないのは、祖母の郭静と子供の頃から可愛がられる鄭延恵、そして許婚である鄭天寿の三人のみだ。
王英としては深い考えもなく、単に「名を呼べるほどの親しい付き合いになれればいい」程度の軽い気持ちだったのだろうが、出会った経緯が経緯なだけに、李柳蝉としては穏やかでない。
「はぁ!?絶対嫌ですけどっ!?!?」
「すまん!お嬢さん、気を悪くせんでくれ。コイツの無神経は病気みたいなモンなんだ。テメエも!いきなり何言い出しやがる!?」
「いやいや、別に『今すぐ呼んでいいだろ?』って言ってんじゃねえよ?それに俺と小姐さんの仲じゃねえか。つれねえ事、言わねえでくれよ」
「はあ!?!?『アタシとアンタの仲』に思い当たる節なんか全く無いわよっ!!」
「何言ってんだ。俺ぁ小姐さんが鄭郎へ愛のこ────見と────ねえか」
「あーーーっ!!わーーーっ!!」
何の前触れもないまま、危うくあの夜の出来事を暴露されそうになり、顔を真っ赤にして必死に打ち消す李柳蝉。
「アンタって人はっ…!!ホント、バカなんじゃないのっっ!!!?一遍、ふぃぐ…うぐぅ!?」
王英に対し「言ってはいけない一言」を事もなげに吐こうとした李柳蝉と、慌ててその口を手で塞ぐ鄭天寿。
李柳蝉はその鄭天寿を恨めしげに睨む。そして、彼女はその手を振りほどく術をすでに知っている。
もはや李柳蝉の耳には周りの喧騒など届いていない。
力強くも優しく自らの口を包む手の中で、李柳蝉は大きく口を広げ──
「騒々しいな、何事だ!?」
鄭天寿の指が激痛に見舞われる寸前、広間に現れたのはこの屋敷の主である鄭延恵。
村の寄合いで外出していたが、戻ってきたところで騒ぎを聞きつけ、顔を出したのだ。
「んむぅ…んんっっ!!いえ、これは…何でもありませんわっ、大伯さま」
鄭延恵の出現に鄭天寿が一瞬力を緩めた隙を見逃さず、李柳蝉は激痛を与える事なく鄭天寿の手を振りほどいた。
「鄭天寿へ愛の告白をした瞬間を見届けられた仲」の王英に、それをバラされそうになって暴れかけた、などとは言える訳もなく、李柳蝉は精一杯の猫を被る。
「ん?そうか…して、こちらの方々は?」
「こちらは近々この辺りで商売を始められる行商のお二人で、伯父さんに挨拶に来られたんですけど、留守だったので代わりに私が…」
何とかこの場が丸く収まりそうな気配を察し、鄭天寿が取り繕う。そして、それを見逃す燕順ではない。
すぐに立ち上がり、鄭延恵へ身体を向けるや拱手して後を継ぐ。
「これはお初にお目に掛かります、鄭保正。手前は莱州の生まれで姓を燕、名は順と申しまして──」
「莱州の燕順?もしや『錦毛虎』と綽名され、最近頓に噂の…?」
「はっ、江湖で『錦毛虎』と噂されているのは手前にございます」
鄭延恵は慌てて礼を返し、噂通り大物然とした燕順の風格を見て大いに喜んだ。
時折、道観などで露店商と交流を持つ程度の鄭天寿に比べ、村内の諸事を取り仕切る鄭延恵は行商人との交流も深く、そういった噂にも敏い。
「これは江湖に名高い『錦毛虎』殿と、まさか我が家でお目に掛かる事が出来ようとは。しかし、天寿。お前はまた何と了見が狭いんだ。折角の機会に、こんな粗略なもてなししか出来んとは…」
「鄭保正、この度は我等が約束もなく突然お邪魔したのです。どうか甥御をお責めにならないでいただきたい」
「『錦毛虎』殿がそう仰るのであれば…しかし、このままお帰りいただいては鄭家の名折れ、些末ではありますが、改めて宴席を設けますので、何卒お付き合い下され。天寿、何をしている。すぐに支度をしろ」
何はともあれ、小娘と小男の啀み合いを回避するため、鄭天寿は全く毒を吐き足りていない小娘を連れて広間を出た。
作男らに宴席の支度を命じ、二人も支度を手伝い、さてそろそろ、と広間に戻る時になっても、李柳蝉の愚痴は止まらなかった。
「柳蝉。いい加減、機嫌を直しなよ」
「いいわよね、鄭郎は。女の人が好きなところとか話が合いそうで」
「また、そういう事を…伯父さんも二人を気に入ったみたいだし、これからも顔を合わせる事になるんだから」
「…で?その内、鄭郎はあのおチビさんと二人で、道観にでも繰り出すのかしら?」
はぁ、と一つ溜め息を零し、辺りを見回して人目のない事を確認すると、鄭天寿は李柳蝉の耳元に顔を寄せ、そっと呟く。
「俺が好きなのは柳蝉だけだから」
「…っ!!な、何よ急に!?バ、バカじゃないの、こんな所で…」
「ほら、行くよ」
李柳蝉は鄭天寿の不意打ちに思わず俯き、頬を赤らめる。
「それならちゃんと否定しなさいよ」とブツブツ零しながらも、さっきまでとは打って変わって満更でもない御様子のチョロイン。
広間に戻った二人を交え、昼過ぎに始まった宴席は深夜まで続いたのであった。
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「全く、お前は余計な事をベラベラと喋りやがって」
結局「今夜はもう遅いから」と鄭延恵の勧めで屋敷に泊まり、朝食まで世話になって鄭家村を発ったその帰路、見送る三人の姿が見えなくなったところで、やや声を潜めて燕順が王英を叱り飛ばす。
「いやぁ、あの小姐さんは何度見ても可愛いねえ」
「この野郎…何が『商売の邪魔はしないよ』だ。テメエの所為で、危うく村に出入り出来なくなるとこだったわ!」
遠慮なく食べ、大いに飲んで鄭家の面々を驚かせた王英だが、当の本人は相も変わらず呑気なものである。
「てか、良かったのか?商いの話を持ち掛けなくて」
「お前はホント商いに向いてねえな。相手が商売人でもねえのに、初対面でいきなり商いの話を持ち出す奴が何処にいんだ。信用を得る方が先だよ」
「そんなモンかねえ…あの様子じゃ、哥哥ならすんなり話を纏められたと思うけどね」
燕順も王英の見立てが全くの見当違いだと思っている訳ではない。
商売を続けていれば、時には勢いに任せる決断が必要な事もある。
しかし──
「とにかく、俺には俺の目論みがあるんだ。お前は余計な事をすんじゃねえ」
そう王英を窘める燕順の瞳は、自身の判断を信じて疑っていなかった。
※1「郭静」
李姓(つまり「李郭静」)ではなく、姓が郭、名が静。中国は夫婦別姓のため、女性は結婚後も父の姓を持ち続ける。李柳蝉の李姓は、李柳蝉の母とその父(母方の祖父)の姓。
※2「拱手」
男性は右手を、女性は左手を握り、もう片方の手で握った手を包むように合わせ、胸の前に掲げる中国の礼。