なるようになった
初稿では後書きがごっそり欠落していましたので修正しました。2023.5.29
白馬で3日間、足止めを喰らった一行は、川止めが解かれるとすぐに黄河を渡った。
鄧謙の「提案」を聞いて以降、曹正はずっと考えている。
『容れるべきか、断るべきか』
その答えを得られないまま、一行は鄧謙の屋敷に到着した。
「豪農」とまでは呼べないまでも、それなりの田畑を持ち、牛馬を飼い、両手の指に余る作男達。
荷を下ろすと片付けもそこそこに、鄧謙は曹正に語り掛ける。
「小哥(曹正)。折角ですから、夕食はあちらで摂りましょう」
酒や食材を持った作男達と共に、曹正は案内されるがまま、家族の後に続く。
ほどなく、戸口に青簾と草箒(※1)を掲げる一軒の建屋が見えてきた。
「さ、さ、小哥。どうぞ御覧になって下さい」
戸を開け、さっそく作男達が調理に取り掛かる中、曹正は店内を見て回るのだが、
「如何ですか?なかなかいい店でしょう?」
【『如何』も何も…】
店内、厨房はどちらかと言えば狭い部類に入る広さながらも、建物自体はそれほど古くない。しかし、曹正の顔を曇らしめている理由は、酒家の「内」ではなく「外」にあった。
酒家の周囲にはポツポツと民家が点在するばかりで、一応、辻に建ってはいるが、東も西も、ただ田畑に分け入るだけの田んぼ道、南北は遠く通じて街道ではありそうなものの、道幅は狭く人影は皆無、もはや街道と言うより「阡陌」(※2)と呼んだ方がしっくりくるような趣である。
聞けば、付近の田畑で土を弄る者のために、と鄧謙が道楽を兼ねて店を始めたらしい。
今は鄧仁が数人の作男達と店を取り仕切り、時折、鄧春霞も手を貸したりしているようで、鄧謙曰く「店の需要はそれなりにある」との事だから、客もそれなりに入りはするのだろうが、では、採算の面でどうかとなると、残念ながら曹正の見る限り、口が裂けても「健全経営の繁盛店」と太鼓判を押せるような立地と雰囲気ではない。
この酒家を曹正に任せたい、と鄧謙は言う。
曹正が一頻り見終わると、丁度、肴も出来上がり、一家と曹正は揃って大きめの卓に着く。
「では、小哥。私達の為に長々の御足労、本当に有り難うございました。遠慮は要りませんからな。酒も肴も存分に御堪能下さい」
鄧謙の音頭で乾杯すれば、次から次へと料理が運ばれ、桑で作られた卓上は、あっという間に木目も見えない有り様に。
差しつ差されつ、旅の疲れを癒すよう、皆が思い思いに箸と椀を進める中、
「さて、小哥。考えはお決まりになりましたか?」
鄧謙が話を振った。
「もう、あなた!折角、皆で楽しく食事をしてるんですから、今じゃなくても」
「いや、しかし、儂も気になってな…」
王麗月から窘められるも、鄧謙はどこ吹く風で、
「小哥は責任感の強いお方ですから、任された店で損を出したら、と案じられてるのかもしれませんが、今もそれなりに元は取れてますし、難しく考える事はありません。小哥の好きなようにやっていただければ構いませんよ」
「そうですよ。そもそもが父の道楽で始めた店ですし、況してこんな立地なんですから、足が出たとしても哥兒が責任を感じる必要はありません」
後に続いたのは鄧仁。
鄧春霞はあえて律しているのか、口こそ挟みはしないが、内なる「どうかいい返事を…」という想いがダダ洩れな視線をチラチラと曹正に送りつつ、成り行きを見守っている。
その意味するところは「曹正への思慕」だろう。
嘘をつけない鄧春霞の素直すぎる性格もあるのだが、それくらいは曹正にだって分かる。
一方、鄧仁はともかくとして、鄧謙の言葉は建前だろう。
良縁に恵まれない娘を案じ、その娘の胸の内を知り、早い話が本音は「是非、娘を嫁にどうですか?」という事だ。
ただ、結婚に女性の意志など必要とされない御時世であるから、まさか「娘が貴方にベタ惚れなんですよ」とは言えないし、仮に恥を忍んで鄧春霞の想いを伝えたとしても、肝心の曹正に受け入れてもらえなければ、鄧春霞は二重の意味で恥を掻く事になる。
だから、曹正が話を引き受け易いよう、鄧謙の願望として「酒家の店主」を持ち掛け、側に在って互いを知り、心を通わせ、いつか曹正から申し入れる形で結ばれてほしいと願っているのだ。
そして、それも曹正は分かっている。
【まあ、こっちは贅沢を言える身分じゃねえし、言うつもりもねえんだけど、確かにこの話をこの娘から聞いたら、俺がいい顔しねえかも、って思ったとしても不思議はねえな】
白馬の宿で話した際、当然、父娘は話す内容を示し合わせて曹正の室を訪ったものだが、鄧春霞と鄧謙のどちらが話を切り出しても、実際のところは何も変わらない。
しかし、鄧春霞が持ち掛けた話に曹正が応じるとなると、形の上では鄧春霞が曹正を雇った事になり、つまり曹正は鄧春霞を「主」と仰ぐ事になる。
いくら形だけの事とはいえ、それでは曹正も面白くなかろうし、それだけの事で曹正に二の足を踏まれては堪らない、と鄧謙から話すと決めていたはずなのに、一家を送り届けた後は、てっきり奉符に戻って職を探すものだとばかり思い込んでいた曹正から、どうしても奉符でなければならない理由はないと聞いた鄧春霞が、嬉しさのあまり思わず先走ってしまった、という訳だ。
【ホント、いろんなトコに気が回る娘だねぇ。
さて、と。そろそろ答えを決めなきゃなんねえか…】
些細な物件の不満に難癖を付け、調子に乗って緑深い山へ分け入り、託された大金をむざむざと奪われ、今や自分の店など夢のまた夢──
散々に苦労し、歩きに歩いて探し回り、遂に「夢のまた夢」と成り果てたはずの旅の目的が、全く意図せず、全くの成り行きで訪れたこの地で今、手を伸ばせば容易く掴み取れるほどの位置にある。
鄧謙の提案を容れたとして、この店が「5,000貫という形で託された期待に見合うか」と問われれば、曹正の答えは断じて「否」だ。
譲ってもらう側でありながら図々しいにもほどがあるのは承知の上だが、それでもやはり、こんな寂れた場所の寂れた酒家の主が、託された期待に釣り合うとは思えない。
もし、この酒家を見た故郷の人達から「5,000貫の元手があってコレか?」と冷笑を浴びせられようと、曹正には返す言葉もない。
では、ここで話を断り、どこかの誰かに雇われる道を選んだとして、それは期待に応えた事になるのか。
大金を託された身として、故郷の人々に顔向けができるのか。
【こりゃあ、いよいよ旅の「目的地」を見つけちまったかな?
しかし…まさかこんな形でねぇ。
これも府君(泰山府君)サマと娘娘(碧霞元君)サマのお導きか、或いは須城で「北」を選んだ時点でこうなる運命だったのか…】
曹正にとっては「まさか」であろうし、気取った言い方をすれば「運命のイタズラ」と言えるのかもしれない。
しかし、曹正が何の打算も思惑も抱かずにこの地を訪れた事を思えば、その「まさか」はある種の「必然」と見る事もできなくはない。
何かを探す時というのは、見つけようと思えば思うほど、そしてそれが血眼であればあるほど見つからない事が多い。それでいて、探していた事すら忘れた頃になって、思い掛けずひょいと見つかったりもする。
「探し物」とは、得てしてそういうものなのだから。
『ハンッ!相変わらずキテレツな屁理屈を捏ねくり回すのぅ、人間は。「北を選んだからこうなった」じゃと?こうなる事はとっくの昔に決まっとったんじゃから、そもそも北以外を選ぶ訳がなかろうが、白痴め!自ら「運命」の存在を肯定しながら、なぁにを言っとるんじゃ、この男は。大体、勿体ぶってあれこれ考えたところで、汝の答えなぞ最初から──』
あ、あーっ、仙女サマ!
覗き見…ゲフン、約束を違えずに下々を見守って下さるお心掛けは感服の至りですが、その先はネタバレ──いえ、えーっと、今ちょっといいトコなんで失礼しますありがとうございます。
「小哥…?」
「ああ、すいません。一つお聞きしたい事が」
「ええ、何でしょう?」
曹正は居住まいを正す。
「本当に俺で宜しいんですか?」
額面通りに受け取れば、その問いは「本当に俺が店を譲り受けていいのか?」という事になるが、無論、曹正の本意は違う。
本当に鄧春霞の婿は俺でいいのか──
すでに曹正も、この真面目で、利発で、機転が利き、それが顔に出てしまうほど素直な鄧春霞に、自分が好意を寄せ始めている事に気付き始めていた。
故に、鄧謙も鄧春霞も曹正が見立てた通りの胸中であるのなら、すぐにすぐとは言わずとも、身を落ち着け、暮らしに慣れ、いつか機が熟したと思えた頃、その想いに応えたいと思っている。
だが、仮にその見立てが単なる思い上がりで、二人が今、純粋に「酒家の主」として曹正を側に留めようとしているのだとしたら、きっと曹正の方が「雇われ店主と雇い主の娘」という関係に堪えられなくなる。
その時になって無様で惨めな思いをするくらいなら、離れ難くはあるけれど、今の内にこの地を出てしまった方が、まだ心残りも少ない。
だから曹正は未来を鄧謙の答えに託した。
言外の意図が伝わったかどうかは重要ではない。
鄧春霞と出会い、この地へ至り、そして結ばれるのが「運命」なのだとしたら、意図が伝わっていようとなかろうと、鄧謙の返事は──
「勿論じゃありませんか。ですから、こうしてお誘いしてるんです」
鄧謙はにっこりと微笑み、答えを返した。
そこへ、王麗月が隣から割って入り、
「小哥は御存知ないかもしれませんが、ここから北へ半日ほど歩いたところに黄泥岡と呼ばれる場所がありまして──」
「『黄泥岡』!?もしかして…あの悪名高い黄泥岡ですか?」
「ふふ…今、小哥の頭に浮かんでいる場所かどうかは分かりませんけど、恐らくその黄泥岡です」
「…あ、そうですよね」
曹正もその名は聞いた事がある。
旅人が宋の各地で受難した風聞など、近頃は枚挙に遑がない。
山東の賊の噂は特に「どこ」という事ではなく、それこそ須城の宿や崔道成から聞いたように「あちこちに」「いくらでもいる」といった類い話で、それが単なる噂でなかった事は、現に襲われたてホヤホヤの曹正が誰よりも知るところだが、固有名詞を伴った「名所」として取り沙汰されていたのが野猪林と黄泥岡である。
野猪林は開封府城から北へ程近い位置に在るから、その噂を開封の住人がよく耳にするのは当たり前であって、もう一方の黄泥岡も「具体的な場所は知らないが、きっとそういう事なのだろう」と、曹正は勝手に思い込んでいたのだが…
「いや、でもまさか、ここでその地名を聞くとは思ってもいませんでした」
「あ、いえ、だからといって、この近くで物騒な話を聞いたりする訳じゃないんですよ?」
それで恐れをなした曹正に話を断られたら困ると思ったものか、王麗月は慌てて両手を振るが、すぐにまた憂いの色を顔に浮かべ、
「ただ…以前にもお話しましたが、夫も息子も武の方は本当にからっきしで、いくら少し離れた場所の事とはいえ、そういう話が耳に入ると、娘を持つ親としてはどうしても不安になってしまって。ですから、小哥のように勇敢で頼れる方が側に居て下さると本当に心強いです。どうかお断りなさいませんよう、私からもお願い致します」
【随分とまあ買い被られたねぇ、俺も…】
揃って期待の眼差しを向ける一家に、曹正から思わず苦笑が洩れた。
しかし、鄧謙の返事を聞いた時点で、すでに曹正の心は決まっている。
「えと、どれだけ御期待に沿えるか分かりませんが──」
「…では!」
「はい、お世話になります」
曹正の返事に夫妻は大いに喜び、子供達は安堵の溜め息を零し、立ち上がって口々に礼を述べる様は、正に「感謝の袋叩き」といったところ。
何とも面映いような、こそばゆいような気分を味わいつつ、曹正も立ち上がり、一人一人に礼を返して座るよう促すと、慰労の宴はそこからあっという間に歓迎の宴へと様変わりした。
とりわけ鄧謙の喜びようは尋常でなく、曹正に勧めるのは無論の事、自らもしこたま食って、しこたま飲んで、ホロ酔いどころか「泥酔い」といった様子で上機嫌に語り出す。
「いやぁー、今日はめでたい!小哥に断られたらどうしようかと、この間から気が気じゃありませんでしたよ」
「はは、返事が遅くなってしまってすいません」
「何々、こうしていい返事を聞けたんですから、気にしておりませんよ。それもこれも泰山府君と碧霞元君のお導きというヤツですな」
「ええ、かもしれませんね」
「そうそう、この際だからお聞きしますが、小哥の目に娘はどう見えますかな?」
「…はい!?」
「ちょっと、あなた!」
もぉ、これだから酔っぱらいってのは…
「いきなり何を言い出すの!?」
「別に構わんだろう?こうしてウチに身を落ち着けてもらえる事になったんだから、小哥はもう家族も同然じゃないか。何を遠慮する事がある?」
「かもしれませんけど!今する話じゃないでしょう!?」
「心配するな。儂の目に狂いが無ければ、小哥も春霞の事を気に入ってくれておるわ」
「そういう事を言ってるんじゃありませんよ!」
パパさん。
目は狂ってないかもしれませんが、酒にやられてデリカシーが瀕死ですよ?
「いや、実を申しますと、この話を考えたのも娘でしてね?岱廟で恩を受けてからというもの、小哥の誠実な人柄にすっかり参ってしまって」
「ちょっ、と、お父さんっ!!」
「儂は家まで家族を無事に送り届けてもらえれば、それで十分だったんですが、よほど離れ難かったのか、小哥にこの店を仕切ってもらったらどうか、と」
ああ、もう台無しだよ、この親父。
何と口を挟んだものか、戸惑った曹正がチラと鄧春霞を見遣れば、耳まで真っ赤に染めてモジモジと俯いている。
いけませんなぁ、パパさん。
家族と意中の人に見られている前で娘さんをアレするのは。
「小哥、いっそ如何です?この席で娘と将来を誓い合うというのは」
「は、はい!?!?」
「あなた、飲み過ぎですよ!いい加減にして下さい!」
「先ほどの『お導き』の話ですがね、実は儂らが岱廟を訪れたのも、娘のぉおぉぉ…ぉ…」
どうやら曹正の見立ては悉く当たっていたようだ。
それはともかく、ここまで上機嫌に語っていた鄧謙が、突如として悶絶し始め、何事かと声を掛けようかと思った曹正であったが、ふと気付けば、残りの三人には慌てる様子も気に掛ける様子も更々ない。
曹正にもその理由はすぐに分かった。
「もう、本当に恥ずかしいところをお見せして…小哥、酔っ払いの戯言ですから、どうかお聞き流し下さい」
「え、ええ、そうですね」
「さあ、お酒も肴もまだ沢山ありますから、どんどん召し上がって下さいね」
「はい、頂きます」
こめかみをピクピクさせながら、にっこりと割って入る王麗月に、鄧仁はやれやれと溜め息を零し、鄧春霞は顔を赤らめたまま、じっとりと恨みがましい視線を鄧謙に送り…
どうやらこの一家で一番怒らせちゃいけないのは王麗月のようだ。
そう一家のパワーバランスを瞬時に悟った曹正は、未だ悶絶し続ける鄧謙を気の毒には思いつつ、また勧められるがまま箸を進め、椀を呷る。
ちなみに、鄧謙が悶絶している間中、卓の下で鳴り響いていた、何かをゴリゴリと踏みしだくような音は、聞こえなかった事にしたww
こうして、新天地を探す曹正の旅は終わりを迎えた。
アンラッキーマスが続いていた双六も、この地で特筆すべきイベントは「鄧春霞と結ばれる」というくらいのもので、曹正は暫し平穏な時を過ごす。
無論、この酒家が曹正の終の住み処となる訳ではない。
曹正の歩む人生の一本道がここで潰えた訳でもない。
その平穏が破られるのは数年後。
北から現れた失意の武官に誘われるかの如く、曹正は再び波乱に満ちた双六のマスを進み始める事になる。
※1「青簾と草箒」
いずれも酒家を表す目印。
※2「阡陌」
「小路」「田舎道」の意もあるが、特に「田畑の中を縦横に走るあぜ道」を表す。「阡」が「南北に伸びるあぜ道」、「陌」が「東西に伸びるあぜ道」。