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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第一回  鄭郎君 元宵節に夢幻を伽し 王矮虎 小路に想錯を詰らるること
13/139

叢雲に謝す

 冷静に考えれば、すぐにその答えに辿り着いていたはずだ。


 王英の耳にも最近、折につけ「白面郎君」の綽名(あだな)と鄭天寿の名は入ってきていた。

 そして、目の前には「鄭」という姓を持つ色白の青年。


 王英に言い訳の無いでもない。


 鄭天寿を女性と見間違え、それを笑われて頭に血が上っていた上、直後には李柳蝉のあの発言があった。


 とはいえ、である。


 王英は鄭天寿という男の噂を耳にして以来、一度は会ってみたいと思っていた。噂の限りではなかなかの好漢のようであったし、また、信ずるに足る人物であれば、頭を下げてでも親しい付き合いを求めるつもりでいたのだ。

 にも拘らず「白面郎君」と眼前の男を結び付けられないとは。


 王英は自分の迂闊さに辟易とする。


 鄭天寿が王英の眼鏡に(かな)った事は何よりだが、すでに関係は「親しい付き合い」どころの話ではない。


 王英としては、今からでも頭を下げる事は(やぶさ)かでないが、ここから信頼関係を醸成していくのはなかなか骨が折れそうである。


 しかし、他州から流れてきた、いや、生まれがどうあれ、いっそ人間不信とでも言うべき王英にとって、肝胆相照らす仲と呼べる人物は男であれ女であれ、余人をもって代え難い存在なのだ。この機会をふいにする訳にはいかない。


「鄭天寿、ね。最近噂になってる『白面郎君』ってのは…」

「ええ、俺の事ですね」


 念のための本人確認を済ませ、王英に()()寿()()これ以上事を荒立てる気は失せた。


 王英の心に残る(わだかま)りはあと一つ。

 それを解消すべく、鄭天寿ではないもう一つの影に声を掛ける。


小姐(ねえ)さん、さっき威勢よく啖呵切っといて今更アレだが…謝罪を受けよう」


 無論、この騒動の発端となった李柳蝉の、あの発言についてだ。


「ホント、今更ね…」


 そもそも王英と鄭天寿の間に大した遺恨はなかった。

 怒りに我を忘れて謝罪を拒絶した王英にも非はあろうが、やはり譲れない一線ではある。


 たとえ二人と和解したとしても、そこを経ていなければ、王英は李柳蝉と心を許して付き合う事ができそうにない。

 この先、鄭天寿と親交を深めたいと願う王英にとって、それは望むところではない。


「じゃあ、さっき鄭郎も言ったけど、二度とあたし達に関わらないって約束してくれるって言うんなら、謝っても──」

小姐(ねえ)さん。謝罪を拒否って喧嘩を吹っ掛けちまった俺が言うのも何だが、小姐(ねえ)さんだってさっき自分に非があると認めてたろ?自分に非があると分かってても、何か見返りがなきゃ謝れねえのか?」

「う…」


 王英の口調には、非難も叱責も含まれていない。

 まるで小生意気な妹を諭すような優しいものだ。


「でも、それを言うならアンタだって、だいぶ失礼な事言ってたじゃない」

「ん、それもそうだな。それについては俺が悪かった。謝ろう」


 一瞬の躊躇もなく、王英は頭を下げた。


 王英にこれ以上謝罪を強要するつもりはない。

 早い話が、コレでダメなら李柳蝉とは「合わない」という事だ。


「柳蝉。帥哥(王英)の言う通りだよ。自分でも言い過ぎたって思ってるんだろ?」

「んん…でも…」

「柳蝉」


 鄭天寿が優しく諭すように促す。


「…さっきは言い過ぎました。ごめんなさい」


 闇夜の中で微かに見える影が、ペコリと頭を下げた。


 その仕草は何とも愛らしい。


 うっすらと見える影ですらそうなのだ。

 もし月明かりに照らされてその姿が見えていれば、そして手の届く距離にいたとすれば、女性に免疫の少ない王英など、堪らず抱きついていた事だろう。


 これから二人との長い付き合いを考えてるんなら、気を付けなはれや?王英どん。


「さて、こっちの蟠りはなくなったんだが…さっきの続きをやるかぃ?」


 鄭天寿が求めるのなら、それも良いだろうと王英は思っている。

 無論、先ほどまでのような真剣勝負ではなく、単なる腕比べとしてだが。


「…いや、止めときますよ。こっちには得物も無いし。それにあんまり遅く戻る訳にもいかないですから」

「家はあの集落か?」


 鄭天寿が振り返れば、道の彼方には煌々と夜空を照らす灯りが見える。

 夜になり鄭家村でも燈籠に灯を入れ、一層盛大に元宵節を祝っているようだ。


「まさか、村にまで来るつもりじゃないでしょうね!?」


 先ほどよりは幾分マシな、それでも警戒している事がはっきりと分かる口調で李柳蝉が尋ねた。


「ん?いや、そのつもりだが?」

「ぅげえ…うぐぅ!?」


「何か問題でも?」とでも言いたげな王英に、再び露骨な拒絶反応を示した李柳蝉の口を、慌てて鄭天寿が手で塞ぐ。


「帥哥、申し訳ない。本当に口が悪くて…ぃ痛ぁっ!!」


 なにぶん月の隠れた夜の事だ。

 突如響き渡った鄭天寿の悲鳴に一瞬、面を喰らった王英であるが、仄暗い宵闇の中、くっついていた二つの影が離れ、大きい方がブルンブルンと片手を振って息を吹き掛ける様子に、何となく察しがついた。


「こんな騒ぎになっちゃったんだから、言って良い事と悪い事くらいアタシだって弁えるわよ!『どーせ口で言ったって分かんないだろ?』って馬鹿にされてるみたいでムカつくから、いちいち手で口を塞がないで欲しいんですけどっ!!」

「だったら口で言って欲しいんですけどっ!?」

「口を塞がれてるんだから言える訳ないじゃないっ!!」

「だからって噛む事ないんじゃないっ!?」


 ギャーギャーと言い合いを続ける二人を尻目に、王英は呵呵と笑う。


「全く…鄭郎の言う通りだな。口が悪いっつうか、口クセが悪いっつうか」


 一頻(ひとしき)り笑って王英が続ける。


「まあ、小姐(ねえ)さんに興味がねえ訳じゃねえが、どっちかっつったら俺が興味持ってんのは鄭郎の方さ」

「…えっ!?」


 驚きの声を上げたのは李柳蝉。

 当たり前のように鄭天寿を「鄭郎」と呼び、鄭天寿ももはやそれを拒まない。

 しかし、李柳蝉が驚いたのはそこではない。


()()()()()()()クチだったのね…」

「そーゆー意味じゃねーよっ!!」

「でも、鄭郎が付き纏われてあたしが解放されるんなら、それもアリかも…」

「柳蝉!?!?」

「ゴメンね、鄭郎。あたし、何も助けてあげられないけど…強く生きてね?」

「えっ、いや、ちょっと…」

「あ、でも、ちょっと待って。もしかして、あたしに興味あるフリして、実は最初から鄭郎の体目当てだったとか…」

「「言い方っ!!」」


 年端も行かぬ小娘の言葉に翻弄される男二人と、それを見てくすくすと笑う小娘の図ww


「冗談はさておき、随分と人との交流に…んと、積極的よね」

「おっ!?さっきまでに比べりゃ、だいぶ表現がまろやかになったな」

「弁えたのよ!」

「ははっ、まあ『河清』(※1)ってヤツさ。俺の好きな言葉だ」

「…『河清』?」

「『左氏伝』ですか?」

「らしいな。詳しい事は俺もよく知らね。()()(※2)の言葉の受け売りだよ」

「ふーん」

「意味さえ分かってりゃ、別に出所なんて何だっていいさ」

「それはそうでしょうけど…鄭郎、どういう意味?」

「『常に濁ってる黄河の水が清らかになるのを待ってても、その前に人の寿命が尽きちゃうよ』って事。つまり、起こり得ない事を延々と待って時間を無駄にするな、って意味さ」

「ふーん。良い言葉だけどさ、黄河ってそんなにいつも濁ってるの?」

「ん?知らない。見た事ないし…」

「そんな言葉があるくれえなんだから濁ってんじゃねーの?見た事ねえけど…」


 まだ黄河を見た事がない三人の間に、ビミョーな空気が流れた。


 黄河は中・上流域の黄土高原から流出する土砂や砂礫により常に濁っている。


 ()河という名も、黄河が注ぐ渤海(ぼっかい)がその一部に含まれる()海という名も、黄土高原から(もたら)された土砂により、河水や海水が常に黄色く濁って見える事がその由来なのだ。


 分かったかね、チミ達?


「ま、まあ、見た事はねえし、差し当たって見に行く予定もねえけど、他所(よそ)から流れ着いて、こんな()()れの俺が家に引き籠ってたところで、誰とも出会えやしねえって事だよ。それこそ時間の無駄さ。なっ?俺にピッタリの言葉だろ?」

「えーっと…」


「例えるの下手かっ!!何で引き籠りに例えちゃったの!?折角の良い言葉が台無しよ!大体、引き籠ってる奴はそもそも誰とも会わないんだから、見て呉れ関係ないじゃない!『河清』って言葉に謝りなさいよっ!!」とツッコみたい衝動を弁えて、ぐっと堪える李柳蝉の成長が著しい。


「さぁて、と。こんな夜道でだらだら喋ってんのもなんだし、俺もそろそろ帰るとすっかな」


 王英が棒を担ぎ、気安い様子で続ける。


「俺は清風鎮から清風山(せいふうざん)に向かって最初の宿場の外れに住んでっから、近くに来た時ゃいつでも寄ってくんな」

「それは御丁寧にどうも。残念だけど、当分行く予定はないわ」


 間、髪を()れず(※3)李柳蝉が応じる。


「全く…口の減らねえ小姐(ねえ)さんだな」

「どういたしまして。それとも、(しお)らしく他人行儀全開で接した方が良いかしら、王帥哥?」


 李柳蝉から初めて「帥哥」と呼ばれた王英の声が弾む。


「いや、今まで通りでいいや」

「帥哥、あんまり甘やかさないで…うぐぅっ!!」


 背の低い影が高い影の腰辺りに、気持ちのいい一撃を入れた。


「向こうが良いって言ってるんだから、別に良いでしょ!?」

「前々から思ってたんだけどさ…ツッコミのエグみが強すぎるんだよね!?」

「鄭郎が貧弱なだけでしょ?」

「分かった分かった。女がいない俺にとっちゃ目の毒だから、目の前でイチャコラすんじゃねえよ。続きは俺が帰ってから思う存分してくんな」

「イ、イチャコラなんかしてないし、続きなんてしないわよっ!!バ、バカじゃないの!?」


 これはまた実に揶揄(から)かい甲斐のある相手が見つかったもんだ、と王英が再び上機嫌になる。


「じゃあな」


 軽く手を挙げた王英が荷車のもとへ戻り、そのまま荷車を引いて暗闇に溶けゆくその影を、二人は揃って見送った。


「はぁ…何かどっと疲れたわ」

「色々あったからねぇ」

「何よ、他人事(ひとごと)みたいな顔して。『色々』の半分は鄭郎が当事者でしょ?」

「あー、うん、まあ…取りあえず村に戻んない?」

「ふぅ…そうね」


 足元すら覚束ない暗闇の中を鄭天寿が村へと向かって歩き出し、その袖に李柳蝉が寄り添う。


 しばらく歩き、ふいに鄭天寿は立ち止まった。


「…鄭郎?」


 釣られて立ち止まった李柳蝉を、鄭天寿は後ろから優しく抱き締める。


「えっ!?…ちょっ、何!?」

「約束、守れて良かった…」


 李柳蝉の左の首元に顔を(うず)めるようにして、鄭天寿はそっと囁く。


「…約束?」

「柳蝉を守る、って約束したじゃん」


 消え入りそうに囁くその声からは、鄭天寿の偽らざる安堵が洩れ伝わる。


「そうだったわね…」


 李柳蝉は自らの腰を抱き(すく)める左腕に自身の左手を添え、左の頬の辺りで揺れる黒髪を優しく右手で慈しみ、自分を守るために奮闘してくれた最愛の人を存分に甘えさせる。


 暫しの後──


 李柳蝉を抱き竦めていた鄭天寿の両腕から力が抜け、その身体が離れていく。


 名残惜しげに両手で相手の肌を追った李柳蝉は、すぐに自分の視線が不自然に相手の吐息を追っている事に気付く。いつの間にか身体は左腕もろとも鄭天寿の左手で抱えられ、背後から右の(おとがい)(※4)に添えられた鄭天寿の右手が、後ろを見上げるように優しく(いざな)っている。


 李柳蝉は抗う事をしない。

 むしろ進んで鄭天寿に導かれるように、一度離れた吐息を追って目を閉じる。


 ぎこちなく、けれど溢れる想いを伝え合うように、二人は唇を重ねた。


 ややあって、李柳蝉が少しだけ苦しげに身体を(よじ)る。


「ん、ごめんね。苦しかった?」

「苦しかったわよ…バカ」


 身体を正対させ、李柳蝉は鄭天寿の胸元に顔を埋めた。

 憎まれ口を叩きつつも、その両腕は遠慮がちに鄭天寿の背に回されている。


「この格好なら苦しくなかったのに…」


 恥じらうように、拗ねるように、甘えるように、強請(ねだ)るように呟いた李柳蝉の消え入りそうな声は、鄭天寿の想いを強く焚き付け再び溢れさせた。


「そうだね」


 その想いの溢れるままに、今度は鄭天寿から李柳蝉の吐息を求め、李柳蝉もそれに応える。


 先ほどよりも、より甘く、より長く、そして少しだけ激しく。


 互いに飽くまで唇を交わし、名残惜しげに吐息が触れるほどの距離で見つめ合っていた時、長くその身を隠していた満月が再び雲間から顔を出し始め、二人を微かに照らした。


 くすっ、と笑う李柳蝉を不思議そうに見つめる鄭天寿。

 その鄭天寿の鬢の辺りを、李柳蝉は軽く指で弄った。


「ホント、締まらないわね」


 その指先には、あの激戦を経て尚、鄭天寿の鬢に残る造花が揺れている。


「あっ…」

「月を隠してくれた雲に感謝してよね。コレが見えてたらこんな風にはならなかったかもよ?」


 悪戯っぽく李柳蝉は微笑む。


「ごめん、すぐに外すよ」

「いいわよ、別に」


 慌てて鬢に手を伸ばす鄭天寿を、李柳蝉がそっと制した。


「今日は特別な日になったから許してあげる。特別だからね?それに…」

「ん?」

「…結構似合ってる」

「そう…かな」

「『カッコいい』っていうよりは『可愛い』だけどね、ふふ」

「えっと…ありがと、かな?」

「そろそろ戻ろ?これ以上遅くなったら、ホントに大伯(おじ)さまに怒られちゃうわよ?」


 未練がましく鄭天寿が求めた離れ際の口づけを、李柳蝉はやや俯き、そのまま鄭天寿の胸元に顔を埋めて拒む。


「月が出てきたから…」


 李柳蝉は先ほどよりも強く鄭天寿を抱き締める。

「ちょっと恥ずかしかっただけで、別に嫌で拒んだ訳じゃないからね」と伝えるために。

 長い付き合いの鄭天寿は、そんな李柳蝉の気持ちを容易に察して空を見上げた。


「もうちょっと隠しててくれればよかったのに。気が利かないヤツだ…」

「…バカ」


 胸に顔を埋める李柳蝉を優しく抱き、益体もない恨み言を吐いてはいるが、むしろ鄭天寿は叢雲(むらくも)に感謝している。


 気の済むまで互いを求め合い、余韻の中で徐々に照らし出された李柳蝉の顔は、照れて恥じらいを残しつつも「妹」に戻っていた。


 もう少し早く、誰に憚る事なく互いの想いを交錯させている最中(さなか)に、その想いが溢れる蕩けた「女」の顔を見せられていたら、今頃こうして穏やかに睦み合う至福の時を迎えられていたかどうか。


 鄭天寿には甚だ自信がない。


 もう少し「兄」と「妹」でいられそうだ。

 そのためには強靭な理性が求められそうだが。


 そんな思いを胸に、鄭天寿が抱擁を解いた。


 二人は再び鄭家村に向けて歩き出す。


 道観を出た時からは想像もできないほどに近しく寄り添い、時折思慕に満ちた視線を互いに送っては、他愛もない会話を交わしながら。


 その頭上では、雲を払い煌々たる輝きを取り戻した元宵の月が、どちらからともなく腕を組み、指を絡ませて繋がれた二人の手を了然と照らしていた。

※1「河清」

『春秋左氏伝(襄公八年)』。原文は『俟河之清 人壽幾何』。訓読は『()(きよ)きを()たば、人寿(じんじゅ)幾何(いくばく)ぞ』。意味は本文の通り。作中の頃(北宋代)にはすでに厳密に使い分けられていなかったようですが、古代中国では「河」とは黄河のみを表す言葉、つまり固有名詞です。

※2「哥哥」

兄。兄貴。

※3「間、髪を容れず」

『説苑(諌呉王書)』。原文は『間不容髮』(「髮」は「髪」の旧字)。「間に髪の毛一本も入る余地がない(ほど即座に、瞬時に)」という意味で、「間髪(かんぱつ)」という何かしらを、どこかしらに入れようとしている訳ではありません。よって、意味に即した形で「間」と「髪」の間に読点を入れています。

※4「頤」

あご。特に下あご。

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