双鎗将
董平が常日頃、右腕を懐にしまっている理由は、実に単純極まる。
利き腕が「右」だからだ。
日常生活の中で右手は一切使わない、という事はない。
拝礼は無論の事、食事の時でも、文を書く時でも右手は使う。
しかし、文を書くなら右手は紙や簡を押さえるだけ、食事も右手は椀を持つだけで、常に左手で筆を走らせ、左手で箸を扱う。
つまり、右手は必要不可欠な場面で、必要最小限の動きにしか使わない。床に就く時でさえ、右手は懐に突っ込んでおくほどの徹底ぶりである。
癖ではない。言わば、意識してそれを習慣にしている。
董平がその習慣を始めた切っ掛けは、長じて禁軍に身を投じた後の出来事にあった。
才に任せて伸ばしていた鼻っ柱を王進にへし折られ、董平は武の鍛練──とりわけ絶対の自負を持っていながら、王進の前に全く歯が立たなかった鎗術の精進に目覚める。
それからしばらくは東京で王進の教えを受け、他の武官らと切磋琢磨していたのだが、転属となり、東京を離れるとすぐに行き詰まった。
限界を悟ったという事では決してない。
まだまだ己が未熟である事は董平も自覚していたし、鍛練に励めば、成長を実感する事もできた。
だが、どれほど成長を実感できても、記憶に刻まれた在りし日の王進は、イメージの中で繰り出す董平の鎗を易々と跳ね返す。
そして、たとえこの先どれほど成長したとしても、その王進を超える腕にまで至れるとは、董平はどうしても思えなかった。
鎗が一本では。
一本では届かない鎗も、二本であれば──
二本目の鎗が、両手で扱う一本目と同じ精度、同じ威力を発揮する事ができれば──
そして初めの一本が、両手で扱った時と同じ精度、同じ威力を保つ事ができれば──
何をもって董平がそう考えたのかは分からない。
しかし、また随分と突拍子もない答えに行き着いたものである。
あまりお目には掛かれはしないものの、双仗(※1)の使い手自体はいないではない。
例えば、宋開国の功臣・呼延賛将軍の末裔とされる汝寧州(※2)の都統制(※3)は、二本の鋼鞭(※4)を操る猛者として名高い。
或いは、董平のお膝元である鄆州の片田舎にも、馬上に日月二振りの刀を操り、類い稀な才能を誇る少女が隠れているという。
もっとも、少女の方はこの頃になって聞かれ始めた噂であるから、それが董平の結論に影響を与えたという事ではないのだが。
いずれにせよ、現にそうした噂が真しやかに囁かれているぐらいなのだから、噂されるに値する腕を持っているのは確かなのだろう。だが、同時にそれは、たかだが間合いの知れた鞭と剣の話である。
翻って董平の得物は長柄の代表と言っていい鎗だ。片手の扱いに不適である事は論を俟たない。
更に長柄の得物には両手で扱ってこその利点がある。
左右の握りを離し、片方を支点、もう一方を力点とすれば、僅かに動かした力点の動きを、数倍する動きとして穂先に反映させる事ができる。片手持ちではその利点が全く得られない。
鎗を片手で扱う不利は、挙げれば他にいくらでもあるが、ただでさえ片手持ちに不向きな鎗で、それらデメリットを補って余りあるメリットを享受し、実戦に耐え得るレベルまで昇華させるためには、途方もない時間と労力が求められる。
それでも董平は挑んだ。
それら全てを承知の上で一歩を踏み出した。
普段の生活は利きの右腕を封じる事で左腕の感覚を鍛え、鍛練の中ではひたすら双鎗を振るい、王進の幻影に立ち向かう。
陣中に在っても「実戦こそが至極の鍛練」と、周囲から注がれる奇異の視線も、嘲る声も意に介さず、落命の危険も顧みず、双鎗で敵に挑んで死線を潜り抜けてきた。
今、軍中にあの日の董平の決断を嗤う者はいない。
幾多の死線を潜り、幾多の敵を屠り、地位は兵馬都監ながらも、二本の鎗を自在に操り、戦場で鬼神の如き活躍を見せる董平は、いつしか畏怖と憧憬と称賛の念を込め、周囲から「双鎗将」と綽名されるまでになった。
苦杯を嘗めて以来、王進に挑む機会は得ていないが、或いはすでに左腕の方がより強く、より器用なのではないかと思われる今も尚、慢心への自戒を込め、董平の右腕は解禁されていない。
その心に巣食う王進は今も尚、健在である。
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両腕を掲げる蒋忠と、左手のみを構える董平。
どこからどう見ても「お前など左腕一本で十分」と侮られた形でしかあり得ない。
が、怒り心頭に発していながら、同時に蒋忠は怯んでもいた。
蒋忠にだって蒋忠なりの自負はあろうし、それはもちろん、数々の猛者と対峙した今までの経験があってこその事だろう。
董平から発せられる闘気、覇気といった類いのモノは、蒋忠の見知った誰のものとも、どれとも違う。
敵兵、雲霞の如き戦場で、襲いくる千刃の悉くを防ぎ、万骨を野辺に送った武人だけが纏い得る死の臭い。
頂を希求し、弛まぬ研鑽によって至極の技術、至高の肉体を持ち得た猛者だけが放ち得る武の威圧。
今、蒋忠が目の当たりにしているモノと比べれば、過去に見てきたモノなど児戯に等しい。少なくとも、ただ少しばかり腕っぷしが強いというだけで、調子に乗ってイキがっている荒くれ者のそれとは、比べるのも烏滸がましいまでに次元が違う。
玩具の刀を手に「チャンバラごっこ」しか知らない子供が、調子に乗ってヤバめな大人に喧嘩を吹っ掛けたら、相手はマジモンのヤッパを懐に忍ばせた、シャレの通じないマジモンだった──となれば、我に返った子供がビビってしまうのは当たり前である。
暫し静寂の睨み合いが続いた。
「どうした、このまま永久に睨み合ってるつもりかぃ?」
喧嘩を売っておきながら、売った側が何の手出しもせずに引き下がる、などという幕引きはない。それでは自ら「腰抜け」を名乗りにいっているようなものだ。
とはいえ、何を工夫するでもなく、彼我の体格差からただ漫然と「掴んでしまえば…」「組みさえすれば…」と挑発に応じた蒋忠は、さすがに短慮が過ぎた。
掴み掛かった蒋忠の拳が構えた煙管に並んだ瞬間、董平は目にも留まらぬ動きで煙管を振り、その両腕を払う。
蒋忠が痛みを覚え、何が起きたのか理解した時には、すでに勝負が決していた。
すっと間合いを詰めると同時に、董平は煙管をくるりと回し、羅宇(※5)の辺りで拳を握り直す。
「あっ」と思った蒋忠が身を躱す間もあればこそ、次の瞬間にはもう、渾身の力で繰り出された董平の左拳が、蒋忠の鳩尾にめり込んでいた。
オハリ。
すぐに蒋忠の両腕はだらりと垂れ、呻き声か喘ぎ声か、絶え絶えに得も言われぬ音を口から吐き、見るからに立っているのもやっと、といった有り様である。
いや、正しくない。
蒋忠が「立っている」のではなく、董平の拳が蒋忠の身体を「支えている」と言った方が正確だろう。
「お前、団練(張方烈)に感謝しろよ?」
董平とてそれほど背が低い方ではないが、普通に立てばその董平が見上げるほどの位置になる蒋忠の顔は今、力なく項垂れて董平の顔のすぐ横に。
その顔に向け、董平が投げ掛けた言葉と視線に混じったものは蔑みか、或いは憐れみか。
それに憤る気力もない蒋忠は、僅かに瞳を動かして応える。
「団練が仕込みに励んでくれてたお陰で、今までデカい面が出来てたんだから」
董平が左腕の力を抜くと、蒋忠の巨体は膝からゆっくり崩れ落ちた。
「『奉納相撲で敵無し』が聞いて呆れる」
床に突っ伏した蒋忠に一瞥をくれ、拳の煙管を咥え直した董平は、また普段の穏やかな顔で張方烈を見遣る。
「それで…あーっと?…ああ」
「…?」
「確か『本気を出した蒋忠に敵う奴はいない』とか言ってたな?」
「…や…あの…」
「何か『巨悪の親玉』みたいな雰囲気で『命を粗末にするな』とかキメちゃってたけどさ」
董都監、止めてあげて下さい。
団練さんはあの時ちょっと追い詰められて、一時的に脳内がイタタな状態に陥っていただけなんです。ゴイスーなキメ顔でイタタな感じになってしまったからって、あんまりほじくり返さないであげていただきたい。
「ち、違うんです。奉納相撲の一件は本当にその男が考え出した事で、手前はただ…」
「ああ、そう」
「ど、どうか今回ばかりはお目溢しを…!金輪際、悪事に手を染めるような真似は誓って致しませんので、どうかっ!!」
「いや、だから今更だって、さっきから言ってるだろうが」
「ただ口を閉ざしていただければ、それで構わないのです。そもそも、お二方にとっては所詮、他州の不祥事ではありませんか。徒に我らの罪を暴き立てたところで、お二方に何の得があると言うんですか!」
「不祥事の元凶がどの面下げて言ってる…」
「もし、この件をお二方の胸の内だけに留めていただけるのであれば、きっと相応の見返りをお渡し致しますから!」
跪拝(※6)しつつもペラペラと舌を回す張方烈へ向け、董平は呆れたように、陳文昭は見下げ果てたように視線を落とす。
尚もグズグズと屁理屈を捏ね回す張方烈に、董平は「埒が明かない」とばかりに踵を返し、再び室外から一人の男を招き入れた。更にその後ろには数人の衛兵が。
董平と共に歩み寄る姿を見上げた張方烈は、みるみるとその顔色を失っていく。
「な、何故…」
「俺が一度でも『陳閣下(陳文昭)と二人だけで来た』なんて言ったかぃ?」
うん、言ってないねぇ。
「劉知州…」
「よくも神聖なる祭祀を私利私欲で穢してくれおったな。洗い浚い聞かせてもらったわ。恥を知れ、この下衆め」
「閣下、お待ち下さい!これには訳が──」
「黙れ!何故、陳知州がここへ来たのかと聞いておったな?儂が教えてやる。儂の耳にも不正の噂は届いておったが、儂が直接、貴様らを問い糺しても、貴様らは惚けるばかりで口は割らんだろう?だから陳知州の知恵を借り、こうして董都監にまで御足労いただいたのだ!」
愕然として見上げる張方烈に対し、董平は至って穏やかな表情で、
「いや、お前の言う通り、俺にとっては所詮、他州のイザコザだし、敢えてしゃしゃり出るのは気が引けたんだが、陳閣下から強いてと頼まれたんでな。引き受けた以上は手を抜かない性分なんだよ、俺は」
「私と劉知州は旧知の仲でな。若い頃には多大な恩も受けた。その恩人の名誉にも関わる話を『所詮、他州の不祥事だから』と見過ごしたりはせんよ」
いよいよ進退が窮まったと悟り、ガックリと項垂れる張方烈の腕を取った董平は、その身体を無理やり引き起こすと、耳元でそっと語り掛けた。
「だから、ずっと言ってたろう?今更だ、って」
うん、言ってたねぇ。
不正を暴こうが見逃そうが、それで何が得られるでもない他所者の前で自爆しただけならまだしも、自らの所管する州で、おまけに神聖な祭祀の場で行われた不正など、到底、見過ごす事ができないこの地の知州に、最初から話を聞かれていたのだ。
その後に他所者の口止めを図って買収を持ち掛けたところで、そんなものは今さらに決まっている。
観念した張方烈を衛兵に引き渡し、ピクリとも動かない蒋忠に水を掛けて叩き起こすと、捕らえられた張方烈の姿を目にした蒋忠も観念し、二人仲良く引き立てられていった。
「すまなかったな、都監。乗り気でないところを、強いてしゃしゃり出させて」
「いいじゃあありませんか、こうして無事に解決したんですから」
連行される二人を見送り、揶揄うように嫌味を放つ陳文昭に、董平は苦笑を交えて言葉を返す。
「知州、都監。この度は兗州の為に御尽力いただき感謝に堪えん。この地を預かる身として、心より礼を申し上げる」
そこへ劉知州が深々と拝礼すると、二人も揃って礼を返し、
「いえいえ、これしきでは以前に受けた恩の、いくらも返した内には入りません。それに、大方の筋書きを考えたのは都監ですから。私は特に何も…」
「謙遜は要らんよ。こうして御足労いただけるよう、都監を説き伏せてくれたではないか。しかし、何もかも都監の見立てた通りに事が運んだな。団練が不正を認めた時は、余程、陳知州と共に乗り込んでやろうと思ったが…」
「あのデカブツ(蒋忠)がどう動くか分かりませんでしたからね。万が一に備え、表でお待ちいただいて正解でしたでしょう?」
「挙げ句、賂の力で口を封じようなどと…往生際が悪いにもほどがあるわ」
劉知州は未だ怒りも冷めやらぬ、といった御様子。
それを陳文昭と共に一頻り宥めた董平は、
「物語にせよ何にせよ、主役というのは脇役がお膳立てを済ませたところで、最後に登場するものですよ。劉知州の姿を見て、奴もすぐに観念したでしょう?」
「いや、都監の慧眼には畏れ入った。それに、あの大男を一撃で仕留めてしまう膂力もまた…都監のような勇士が配されている内は鄆州も安泰だな」
「何、ただあの男が見掛け倒しだっただけです」
改めて礼を述べ、劉知州は張方烈と蒋忠を取り調べるため室を後にした。
それを見送ると、二人は軽く息をつき、
「さて、都監はこれで宿に戻るだろ?」
「ええ」
「今晩、知州と知県が我々を労う為に宴席を設けてくれるそうだ。私はこの後、衙門(役所)に顔を出す予定だから、場所は後で使いを出して知らせよう」
「…それは強制ですか?」
「強制とは言わんが…何か用でもあるのかね?」
「あんまり得意じゃあないんですよねぇ、感謝で袋叩きにされるのは」
「それが分かっているなら顔を出してくれ。都監が欠席したら、私一人が袋叩きにされる」
「ああ、それは御愁傷さまです」
「都監…」
「冗談ですよ。閣下一人に『叩かれ役』をお任せするのは申し訳ありませんから、行くには行きます」
乱雑な室の中、二人は穏やかに笑みを交わす。
残った衛兵に室の片付けを任せ、二人は宿を出た。
「私は明日、鄆州に戻るが、都監は暫く奉符で身体を休めてから戻るといい」
「いいんですか?」
「私の我儘に付き合ってもらったからな。ひと月、ふた月も姿を晦まされては困るが、今は鄆州も特に治安の悪いでもなし、数日くらいなら構わんよ。開封のような大都会、とまでは言えずとも、奉符でならそれなりに羽根を伸ばせるだろう?」
「じゃあ、遠慮無く」
「ああ。ゆっくり身体を休めてから戻ってくるといい」
拝礼し、陳文昭の姿が雑踏に消えゆくのを待って、董平は踵を返した。
一片の雲も無い宵闇の空には、今日の生を得た星々が思い思いに輝き始め、その星々を呑み込んだ漆黒の泰山は、濃緑の姿と些かも変わらぬ勇壮な影を北の方に映し出す。
喧騒の中、煙管を揺らし、長衫を靡かせて雑踏に消えた董平の頭上では、世に「天立」と呼ばれる一星が、一際の煌めきを放っていた。
※1「双仗」
造語。「仗」は「武器」。平たく言うと二刀流。二刀流だと武器が「刀」に限定されてしまうので。
※2「汝寧州」
宋代に「汝寧」の名を冠した府州は存在しません。『水滸伝』では『汝寧郡』ですが、郡が正式な行政区分だった唐代の資料にも「汝寧郡」という地名の記述はありません。唐以前の資料については確認していませんが、おそらく元代に存在した「汝寧府」が元になっているのではないかと思われます。ただし、元代の「府」は宋代よりも遥かに管轄する領域が広く、元代の領地をそのまま宋代に当て嵌めてしまうと、物語に関わるいくつかの府州が「汝寧州」になってしまうため、元代の汝寧府領に含まれ、かつ他のエピソードに差し障りがない、宋代の蔡州をこの小説での汝寧州としています。現在の河南省信陽市北部と同駐馬店市の西部を除く一帯。
※3「都統制」
武官名。禁軍の中でもかなり序列が高い。「水滸前伝」においては地方指揮司のNo.3。ちなみに「呼延賛」は姓が二字姓で「呼延」、名が一字で「賛」。
※4「鋼鞭」
「鞭」はゲームなどで一般的な、革などを素材としたしなる形状ではなく、持ち手の付いた棒状の打撃用武器。
※5「羅宇」
煙管の雁首と吸い口を繋ぐ筒の部分。
※6「跪拝」
跪きながらの拝礼。