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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第十二回  曹刀鬼 岱廟に鼠賊を遇い 董双鎗 旗亭に騙局を暴くこと
121/139

白日鼠

 曹正と宋万が西門で別れの抱擁を交わしていた丁度その頃──


 城内を東西に貫く岱廟の前の通りを、しみったれた顔を引っ()げた男が、トボトボと東の方から岱廟に向かって歩いていた。



【あー、やっちまった…】



 この男、姓を(はく)、名を一字名で(しょう)といい、済州は鄆城県の西、濮州との境界に近い、安楽村(あんらくそん)(※1)という村の住人である。

 すでに両親はなく、家に蓄えもなく、といって生業に精を出す訳でもなく、毎日ブラブラと遊び歩いて、その日暮らしを続けていた。


 そんな彼は周囲から「白日鼠(はくじつそ)」と綽名(あだな)されている。


「鼠」は無論、動物の「ネズミ」だ。

 大概のネズミは、あまりだだっ広い場所を堂々と歩いたりはせず、好んで暗闇や物陰に潜み、コソコソと動き回るものだが、定職にも就かず、金に困って精を出すのは博打か掏摸(すり)か、そんな人様に顔向けできないような彼の暮らしぶりを、誰かが日陰者のネズミに(なぞら)えたのであろう。


 そして、大概のネズミは好んで夜の闇に蠢く。なればこそ、たまに見掛ける昼間のネズミも暗闇や物陰を好むのだろうが、別にネズミの生態が昼型だろうと夜型だろうと、そんなものは正直どっちだっていい。

 人間の側から見て困るのは、蔵でも屋敷でも壁でも柱でも、齧れる物は所構わず齧り倒し、貯蔵してある物は、米でも野菜でも肉でも魚でも、食える物は手当たり次第に食い散らかす、ネズミの生命活動そのものであって、厄介に感じる事は昼にされたって夜にされたって厄介に決まっている。


 厄介なら厄介なりに、せめて精神衛生上、人目のない時間帯に、人目のない場所で、こっそり活動してくれればいいものを、白勝の綽名(あだな)にある「白日」とは「昼日中」の事であるから、つまり「白日鼠」とは「真っ昼間っから姿を現す、ネズミのような厄介者」という、何とも身も蓋もない綽名(あだな)だ。


 そんな白勝も年頃となり、嫁を迎える事となった。

 相手も安楽村の住人で、互いに似たり寄ったりな懐具合は知っているから、あえて見栄を張る必要もなかったのだが、せめて祝言くらいは盛大に、と一念発起した白勝が、働き口に困らないであろう、ここ奉符へ出稼ぎに来たのは、およそ半年ほど前の事。


 当初の目標まで金を貯め、いざ故郷を目指して意気揚々──のはずだったのだが、残念ながら半年ぶりの帰郷を前に、白勝さんのテンションはちょっと揚々が過ぎた。



【しっかし、俺もまた、あそこで外すかね…】



 人の集まる場所には大抵、日頃の()さを晴らせる瓦市(がし)(繫華街、盛り場)のようなものがあり、この奉符も御多分に洩れず、いくつかの瓦市を抱えている。そして、そんな瓦市がいくつもあれば、中には札付きの御用達だってある。


 久方ぶりで手にした纏まった金も、村に戻れば、ほぼほぼ路銀と祝言で溶けてしまうと分かっているし、それならいっちょ手元に小遣いが残るくらいまで増やして帰るか、とか何とか余計な事を思い立ち、揚々と瓦市に向かった白勝さん。


「稼ごう」ではなく「増やそう」と思ってしまったのが運の尽き、せっかく半年もの間、真面目にコツコツ働き、好きな博打も我慢して金を貯めてきた──いや、我慢していたからこそ、最後の最後に(たが)が外れてしまったのかもしれないが、ともあれ白勝は苦もなく賭場を探し当てると、躊躇なく飛び込んでしまった。


 小遣いが欲しかったんなら、ちょっとぐらい帰るのが遅くなっても、地道に稼いでから帰れば良かったのにねぇ。


 そもそも博打は「スッカラカンになるまでヤられたところで痛くも痒くもねーわ、ケッ!」という金を元手にして遊ぶものだ。無論、懐具合が人それぞれに違うから、具体的な「痛くも痒くもねえ額」も人それぞれに違う訳だが、少なくとも「これヤられちゃうと、後で困っちゃうんだよなー」的な金に手を付けてまで勝負するものでは決してない。

 一発目の勝負に勝って、そこですっぱり勝ち逃げできればいいが、一発目に負けた時点で困った事になるのは決まっているので、負けた分を取り戻すまで引き下がれなくなるのが目に見えているからだ。


 路銀と祝言の費用でほぼほぼ使い切ってしまう金を元手にし、更に言えば、一発目の勝負に負けた時点で白勝の命運は決まった。


 一度目で負けて焦った白勝は、二度目で更に多額の金を注ぎ込み、そこでも負けて三度目の賭けは更に多額に、時折、勝ちはしたものの収支は浮かず、スランプグラフ(※2)は下降の一途、チマチマ取り戻しても仕方がない、と最後に挑んだ大勝負にもあっさり敗れ、気付いてみれば、もはや帰りの路銀すら心許ない、という体たらくである。



【さぁて困っちゃったなー。どうっすっかなー】



 最初から「負けたら困る」と分かってて、その金に手を付けたんでしょ?

 案の定、困った事になったからって、同情の余地は微塵もないなww


 とはいえ、当人にとっては切実な問題で、村に戻って未来の嫁に怒られるのはともかくとして、今のままでは、怒られるために村まで辿り着けるかどうかも定かではない。



【しょうがねえ。()るか…】



 さすがは「鼠」の綽名(あだな)を持つだけの事はある。

「他()に迷惑を掛ける」と決断するまでが早い。おまけに迷いがない。


 一応「しょうがねえ」とか思ってはいるみたいだけどさ、もっとこう悩みに悩んで、背に腹は代えられない的な感じを出すとかさ、もうちょっと迷惑を掛ける相手への気配りみたいなのが見えると、同じ「迷惑を掛ける」にしても、多少は同情を得られる可能性が無きにしも非ずかもよ?


 傍迷惑な決意も新たに、白勝が草参亭の前まで至ってみれば、夕暮れ迫る頃合いとなり、辺りは黒山の人だかり。

 近くの柏に(もた)れ、しばらく獲物を物色していた白勝の視線は、亭の前で釘付けとなった。


 その先には家族と思しき四人連れが──


 一人旅より四人旅の方が、当然、費用は4倍掛かる。という事は、当然、得られる銀子の期待値も4倍だ。


 焼香を終え、廟内に向かう四人を白勝は追う。


 半年近くをこの地で過ごし、岱廟も幾度か(もう)でた事がある白勝に廟内の目新しさはないが、対して初めてこの地を訪れたものか、景色に惹かれる四人の歩みは遅い。



【って事ぁ、狙うなら炳霊宮(へいれいぐう)延禧殿(えんきでん)の辺りか。上手く古碑にでも見入ってくれりゃあ足も止まる。あとは、あの親父から他の三人が離れてくれりゃあ申し分ねえな】



 付かず離れず四人を()けていると、白勝の予想通り、四人連れは正陽門を潜った辺りで足を止めた。

 更に様子を窺っていると、注文通り、古碑を読み耽る年配の男性から、二人、また一人と離れていく。


 思惑通りに事が運び、自然と零れそうになる薄ら笑いを堪えつつ、白勝は廟の奥へと向かった。

 ある程度の所で止まり、男性が隣の碑に移るタイミングを見計らって近付いていく。


「痛っ!!」

「うわっ!?」


 あくまで偶然を装って碑の前で男性とぶつかった白勝は、そのままもつれるように倒れ込む。


()ててぇ…いや、旦那、申し訳ない。ちょっと周りの景色に見入ってしまってて」

「あ、ああ、こちらこそ碑に目がいってたものだから…」


 白勝は慌てて起き上がると、手を貸して男性を引き起こし、男性の衣服に着いた埃を手で払う。

 それが一通り済むと恭しく拝礼し、


「本当に申し訳ありませんでした。どうかお許し下さい」

「いや、何、不注意は誰しもある。気にしてないよ」

「寛大なお言葉、恐縮の至りです。では、失礼致します」


 拝礼から直り、男性に背を向けた白勝は、足早に歩き出す。

 仕留めた獲物(・・)の重さを懐に感じ、白勝の口元に思わず笑みが洩れた。


 白勝が突如、目の前に現れた「スズメちゃん」との強制エンカウントイベに巻き込まれたのは、そんな時である。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



「よおーぅ、張小哥(張さん、張くん)。随分と御無沙汰だったなぁ」


 白勝は最初、目の前の男から放たれた言葉が、自分に向けられたものだと気付かなかった。


 まあ、白勝さんの姓は「白」だしね。


 白勝がチラと相手を確かめると、旅装束の見た事もない男。

 誰か別の者に話し掛けているのだろうと、男の脇をすり抜けようとしたところで、


「おいおい、いくら久しぶりだからって、素通りとは御挨拶だな。元気してたかぃ?」


 一刻も早く廟から立ち去りたいところへ、男──曹正から馴れ馴れしく肩に左手を回された、白勝の驚きは想像に難くない。


「はっ!?ちょっ…帥哥(曹正)、誰と勘違いしてんだよ」

「別に勘違いなんかしてねえけど?」

「いや、してるよ!おいらの姓は──」

「んん?何だよ、つれねえなぁ。忘れちまったのかい?俺だよ、俺!」


 …え?師匠ですか?師匠はまだ概念すらこの世に誕生なされてないはず──


 ゲフン。


 とある師匠こと曹正の腕を振りほどこうと、白勝は歩きながらも身体をよじって抵抗するが、棒術で鍛えられた曹正の力は強く、全く歯が立たない。


「おい、聞けよ!つーか、アンタいい加減にぃ痛いたいたいたぁいっ!?」


 イラついた白勝がいよいよキレ掛かった瞬間、曹正に取られた左腕を背中でキメられ、右腕もがっちり掴まれ、あっという間に動きを封じられてしまった。


「こんな大勢の前で、あんまりギャーギャー騒ぐんじゃねえよ、みっともねえな」


 白勝の右の耳元に口を寄せ、声を潜めて曹正は語る。


「ちょ、ちょっと待ってくれ。何なんだよ、あんた一体ぃ()ててててーぃ」

「だから、デッカい声出すなって」

「わ、分かった、静かにする。静かにするから、取りあえず腕を放してくれよ」

「んー…」


 二人が居るのは延禧殿より少し奥まった辺り。


「おい、ちょっとあっちで話そうぜ?」


 白勝の背後にピッタリ身体を寄せ、曹正はその延禧殿や(えんじゅ)の陰となる辺りへ右手で促す。


「いや、それはちょっと勘弁してくれよ…話なら別にここでだって出来るだろ?」


 今はまだ周囲に人目がある。

 しかし、正陽門を潜って奥へ向かう者の目は、まず炳霊宮や延禧殿に惹かれ、そこで気が済めば「さて、次は…」とまた奥へ向く訳だし、奥から戻ってくる者の目は、当然、正陽門に向いていて、つまり曹正の指し示す場所は、参道を行き交う人々の死角となる位置だ。


 いくら自由を奪われているからといって、そんな場所にホイホイとついて行くほど、白勝も無用心ではない。


「何、話はすぐ終わるよ」

「あ、ぁあのさ、おいら近々、嫁を貰うんだよ。だからさ──」

「そうか、そりゃめでてえな。ホレ、行くぞ」


 弱肉強食の世界ってのは厳しいなぁ。


 ま、もっとも?命乞いするカマキリを逃がしてやる心優しいスズメなんていない事くらい、最初っから分かってるけどねww


「いや、祝ってほしいんじゃなくってさ。てか、祝ってくれる気があんなら、まず腕を放してくれよ」

「別に取って食ったりはしねえから、取りあえず歩けって。その方が互いに都合がいいんだよ」

「そんな訳なくないっすか?帥哥の都合は知らないけどさ、あんな人目に付かない場所での『お話』が、おいらに都合いい訳ないでしょ?」


 白勝の言い分は大いに分かる。

 人目に付かない場所で美味しく頂かれちゃうかもしれないのに、大人しくスズメについていくカマキリはいない。


 片や曹正も嘘はついていない。


 なぜなら、曹正は白勝をお上に突き出してやろうなどとは、欠片も思っていないからだ。


 早い話、白勝が男から盗んだブツさえ取り返せれば、曹正はそれでいい。あとはそれを持ち主に返して終わりだ。


 だが、今はよろしくない。この場所は周囲に人目があり過ぎる。


 白勝が懐からブツを取り出して曹正に渡す姿は、傍目には曹正が奪っている(・・・・・)ように見え、或いは白勝がそう声を上げれば、そこで確実に騒ぎになる。


 それ自体、曹正()何も困らない。

 どれだけ白勝が騒ごうと、どれだけ野次馬がしゃしゃり出て白勝に味方しようと、ブツの持ち主だけは絶対に曹正を擁護してくれるからだ。これほど強い援軍はない。


 しかし、それでは白勝がただでは済まない。


 盗まずに金が無いのと、盗まれて金を失うのと、どちらが気の毒で、どちらに与するかと問われれば、そんなものは聞かれるまでもなく、曹正の答えは決まっている。決まってはいるのだが…



【コイツ、まさか掏摸(すり)で祝言の費用を稼ごうってんじゃねえだろうな?


 …ま、どうでもいいか。嫁の話もホントかどうか分かんねえし。


 とにかく、コイツはコイツなりの事情で切羽詰まってんだろうし、俺が金を盗られた訳でもねえし、このまま見逃しちゃやれねえが、大人しく盗んだモンを諦めてくれりゃあ、わざわざお上に突き出すまでもねえわな】



 だが、自分の金が盗まれた訳ではない曹正はそれで良くても、自分の金を盗まれた男に白勝が犯人だと知られれば、それでは収まりがつかないだろう。

 いくら白勝に同情したからといって、曹正が男に「金は戻ったんだから白勝(コイツ)は見逃してやってくれ」と頭を下げるのは、いくら何でも不自然極まりない話である。


 だから、騒ぎになって男の耳目を惹かないよう、人目に付かない場所でブツのやり取りをしようというのだ。


 根本的な問題は「曹正に掏摸の一部始終を見られていた事を白勝が知らない」というところだろう。

 そこが解決すれば、もう少しスムーズに話が進むと思うのだが。


「説明すんの面倒だな…いいからちょっと来いって。悪いようにはしねえから」

「それを真に受けるほど、お人好しじゃねっす。『悪いようにしねえ』なら、今すぐ放してくれよ。てか、よくよく考えたらさ、ここでおいらが助けを求めて困んのはそっちじゃね?」

「は?俺は別に困んねえよ。そっちだろうが、困んのは」

「は、はい?ち、ちょっと何言ってるか分かりませんけどー。いいの?大声出しちゃうよ?」

「おう、いいよ、やれよ。やれるもんならな」


 ホラ、曹正さんが横着するから、話がどんどんややこしくなってっちゃうじゃない…


「い、いいの?マジでやっちゃうよ?」

「チッ、メンドくせえ野郎だな、全く」

「はい?メンドくせえのはそっちぃ()てて──」

「おい」

「…っ!?!?」


「ヒュッ」という得も言われぬ音を喉から洩らし、白勝は息を呑む。

 そんな事はあり得ない、と分かっていて尚、今の一瞬で別人に入れ替わったのではないかと疑ってしまったほど、それまでのまだ親しみを持てそうだった声音から一変した、殊更に低くドスの利いた声。


 いや、別()であればまだいい。

 それは正に「もし、この世に実在するのであれば、きっとこういうモノであろう」と、白勝が心の内で思い描く「鬼」そのもの──


 そうではない、と答えを得るのは容易だ。

 ほんの僅かに首を振るだけで、それが単なる錯覚であると気付ける位置に曹正の顔はある。

 だが、あまりの恐怖に白勝は、その「僅か」さえ動かす事ができず、前を見据えたまま固まっている。


「四の五のうるせえな。言う通りにすんのかしねえのか、どっちなんだよ?」

「わ、分かった。聞くよ、言う事聞くから…命は助けてくれ。ホントに故郷へ帰ったら祝言を挙げるんだ」

「もう聞いたよ、それは。いいから早く歩け」


 うん、まあ、手っ取り早いっちゃ手っ取り早いのかもしんないけどさ。

 ちゃんと説明してあげないから、取って食われると思い込んじゃった白勝さんの両足が、生まれたての小鹿みたいにガクブルしちゃってるじゃない。


 同情する余地が微塵もない白勝さんに、同情を禁じ得ません。


 あと、曹正さんよ。

 あんた、間違いなく副師範(林冲)のお弟子さんだよ。


 それでよく牛二を震え上がらせた副師範に、平気な面で説教できたな?

※1「安楽村」

『水滸伝』には安楽村の場所について具体的な記述がありますが、この小説での位置はその記述に沿っていません。理由は今後の閑話休題で触れる予定です。

※2「スランプグラフ」

元はパチスロ用語。台のプレイ(ゲーム)数と出玉の収支をグラフにしたもの。一般に縦軸が収支、横軸が時間経過(プレイ数)になっている。縦軸の中央が収支相殺(±ゼロ)、右肩上がりのグラフなら収支プラス(勝ち)、右肩下がりならマイナス(負け)。もちろん、白勝さんはスロットなんて打ってないので、ここでは単に「博打の収支」の事。

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