岐路
「宋金剛」
登場人物の姓と綽名を組み合わせた造語。
古人が詩に詠んで曰く、
『才士に不遇の土地は無し、徒に迷わず行けよ』(※1)
行けば分かるさ、バ◯ヤローッ!!
…ゲフン。
しかしまあ、そうは仰られても、見知らぬ土地へ勇気凛々、自信満々で向かえる人間というのも、そうそうお目に掛かれるものではない。
普段から賢しらがって、根拠のない自信だけが一丁前な輩はともかくとして、大抵の人間は少しの謙遜と、成長の伸びしろに期待を込めて、己の才を実力より低く見積もるのが世の常であるから、新天地へ向かう大抵の旅人も、向かう先で周囲に受け入れてもらえるか、上手く馴染めるかと、その胸中に不安を抱えているものだ。
その不安を吐露し、消費する相手のない一人旅となれば尚の事で、普段なら取るに足らないと一笑に付せるような事にまで、何とはなしに思い煩わされたりもする。
開封府を発った曹正は、旅のお約束通り飢えては食らい、渇けば飲んで、暮れては泊まり、明けては発ってを繰り返し、広済河の南岸から梁山泊の東岸へ、おおよそ李柳蝉達とは真逆の道のりを辿って鄆州までやって来た。
宿の室で、曹正は何とも覇気のない顔を晒しつつ、二日酔いの瞼を擦る。
道中、これと言って特筆すべき事があった訳ではない。
が、問題は特筆すべきでもないような出来事と、その頻度だった。
余裕で日のある内に城へ入れそうだったところを、靴が駄目になって閉門に間に合わなかったり…
曇り空を押して宿を発てば、途中で土砂降りに見舞われたり…
それに懲りて曇り空での出立を見合わせれば、雨粒の一滴も落ちて来なかったり…
そんな時に限って、次の城で見つけたお手頃物件が、前日の内に他人の手に渡っていたり…
一つ一つは些細な話で、旅をしていれば誰しもが一度や二度は経験する、ありきたりな出来事ばかりだ。取り立てて気にするような事ではない。
しかし、こうも立て続けに見舞われてしまっては、曹正でなくとも気分は滅入る。
どうにもこの旅は巡り合わせが悪いと言うか、勘が冴えないと言うか、とにかく開封を出てから曹正の思うに任せない。
今、曹正の身は須城県に在る。
曹正の旅に具体的な「目的地」はない。店を持ち、商いが軌道に乗り、大金持ちにはなれずとも、故郷の人々にまずまず顔向けのできる暮らしが立ち行きそうな場所であれば、そこが「目的地」だ。
開封から須城は遥か200kmの道のりで、当然、道中には城もあれば、村鎮(小規模な村や鎮)もある。
長らく家業を手伝い、それなりに商いの知識はあるにせよ、主となり、諸々の責任を一身に負う立場となるのは初めてだというのに、いきなり元手を丸々注ぎ込み、10人20人と作男を雇って樊楼のような店構えを──などと大それた事を考えている訳ではないのだが、なかなかお気に召す物件には出会えないまま、曹正はズルズルと今日まで旅を続けてきた。メンタルが多少やられてるくらいは、大目に見てやらねばなるまい。
【ったく、つまんねえケチを付けられたもんだ…】
何を隠そう、この旅は出だしから先が思いやられていた。
開封府城を発った日の事。
林冲との別れの余韻に浸りつつ、いざ含輝門を潜り、旅路への一歩を踏み出した途端、街道脇の木立に巣食った烏達からギャーギャーと喚き散らされた(※2)。
それほど迷信を信じるタチでない曹正も、さすがに「門出から縁起が悪いのも何だから」と、指で歯を鳴らし「赤口上天、白舌入地」(※3)とおまじないを唱えてみたりもしたのだが…
【御利益なんざ影も形もありゃしねえじゃねえか。ツイてねえやな】
身なりを整えながら、曹正はくさくさと胸の内で独り言つ。
『「不運を避けるまじない」じゃと!?ハンッ!下らんな、全く以て下らんっ!!そんな不運とも呼べんような代物が少しばかり続いたくらいで、気安く神に縋るでないわ、白痴め。大体そういったモンは、普段から神々に対して敬虔な信仰を捧げとる奴こそナンチャラカンチャラ──……』
とまあ、どこぞの仙女サマのありがたい御高説はさておきとして──
「帥哥(曹正)、行き先は決まったかぃ?」
「ん~…どうしたもんかねぇ」
室を出、宿代を精算する最中、宿の主から掛けられた声に、曹正は苦虫を嚙み潰したような顔で応じた。
立地といい、賃料といい、これ以上ない掘り出し物の契約を一日遅れで逃し、昨夜はヤケ酒を呷って早々と不貞寝をしたものだが、いつまでも駄々を捏ねていたところで、突如それに代わる物件が現れる訳でもない。
気持ちを切り替え、さて、ここから先はどこへ向かおうかと思案してみたものの、二つに絞った候補のいずれを選ぶべきか、曹正は未だ決め兼ねている。
北か東か。
東に向かえば、少し北には泰山が在る。そこから南東へ向かい、沂州を経て海州(※4)か密州(※5)へ。
北であれば、梁山泊から下る済水に沿って斉州(※6)、淄州(※7)と経て青州へ。
ちなみに「南」は最初から選択肢に含まれていない。
少なくとも、来た道をただ引き返すだけになる、済州の治所・巨野県辺りまでは、得る物が何も無いと分かっている。
西に向かえば、すぐ済水にぶつかるが、済水を越えて博州や濮州(※8)、或いはそこから河北へ移って滄州や北京・大名府に向かうという選択肢もあるにはあった。
その「西」が選択肢から外れたのは、実に他愛もない理由である。
曹正は未だ「海」という物を見た事がなかった。そして幸か不幸か、この須城にまで至った結果、開封から最も近い海岸線までの道のりを、すでに半分ほどこなしてしまっている。
【海を求めて須城まで来た訳じゃねえし、海が拝めるなら落ち着き先なんか決まんなくていいとも思っちゃいねえが…
だが、仮にこのまま旅が続くにしても、せめて目指す先にお楽しみがあると思えりゃ、同じ「不運が続く」にしても多少は気が紛れるわな】
…とは、何とも取って付けたような、ここまで身を落ち着けられなかった言い訳のような曹正さんの言い分であるが、とにもかくにも海から離れる「西」も選択肢から除外し、昨夜の内に残る二択について宿の主人から話を聞いたところ、海までの距離は北も東も大して変わらないらしい。
となると、やはり決め手は海までの間にどちらが落ち着き先を決められそうか──つまりは、どちらがより海に辿り着く可能性が低いか、という事になる。
「旦那ならどっちを選ぶね?」
「ん?いいのかい?俺なんかに商いの命運を預けちまって」
曹正は苦笑を返す。
「そんな大層なモンじゃないよ。開封から出て来たばっかで、北も東もこの先の事は何にも知らないからね。参考までに話を聞かせてくれよ、ってだけさ」
「俺だって大して詳しかないがね。客から聞き齧った話の受け売りになっちまうから、あんまり宛てにされても困るんだが」
「受け売りでも何でも、俺には有り難いよ」
「そうかい?ま、役に立てるかどうかは分からんが、それでもいいってんなら話すのは別に構わんが…後になって『お前の所為で大損こいたわ』なんつって押し掛けて来ないでくれよ?」
「分かってるって」
少し考え、主は「北」と答えた。
五岳信仰、殊に泰山信仰の歴史は古く、また宗派を超えて信仰を集めた結果、麓には岱廟(※9)が建てられ、また今では山頂に至る道筋に多くの道観、仏寺が門を構えて、日々、数え切れぬ参拝者を招き寄せている。
店を構えて商いをするのであれば、何よりもまず客として訪れる人がいなければ始まらない。その意味で泰山はこの須城から程近く、うってつけのように見える。
しかし、それは何も曹正に限って特別に、という事では当然ない。
泰山が昨日今日、降って湧いたように衆目の耳目を惹き始め、今、店を構えれば、誰にも先んじて押し寄せる客を当て込める──というのならいざ知らず、泰山への信仰は記録に残るだけでも2,000年近い歴史があり、それすらも「記録に残っているのがたかだか2,000年」というだけの話であって、実際には有史の遥か以前から、その荘厳、雄大な泰山の佇まいは人々の心を魅力し、憧憬と尊崇の的となっている。
早い話が泰山に人出が多い事など、考えるまでもなく分かり切っていて、曹正にとってうってつけなら、他の誰にとってもうってつけに決まっているのだ。
「先んじて」と言うなら曹正は後発も後発で、参拝者を当て込んだ商売人なら、麓に有り余るほど間に合っている。
「特に伝とかがある訳じゃないんだろ?まあ、敢えて競争相手がひしめく場所で頑張ってみる、って手もあるとは思うが」
「競争相手が欲しいなら、わざわざ旅に出なくたって開封で店を構えてるよ」
「ああ、そりゃそうか。まあ、帥哥の考えをとやかく言うつもりはないが、問題はそっから先でな」
「…先?」
「泰山の麓を諦めて海を目指すなら、そのまま真東に向かえばいいが、行く手には沂山が待ち構えてる。山越えを避けるとなると、泰山から一旦、南に向かって兗州の治所・瑕丘県、そこから南東に向かって沂州、海州と治所を伝って進めるが、海までの距離はかなり伸びる。たぶん北に向かうより、五割増しくらいで歩かなきゃなんねえんじゃねえかな」
「そんなに!?」
「兗州には七県が属してて、その内の五県が南部に集まってるって聞くから、最初から泰山には寄らず、こっから直接、瑕丘に向かうってのもアリだが…つって、あんまり栄えてるって話は聞かねえな。それならまだ北に向かった方が確実じゃねえか?済水沿いは水運が盛んだから、県城や村鎮も多いって聞くし。って、これは開封生まれの帥哥に講釈垂れるまでもねえか」
「ああ、広済河に繋がってるんだろ?」
「そうそう。城や村鎮が多けりゃ、宿にもそこまで困らねえだろうし、こっからだと済水の手前でひと山越える事になるが、それだって『山』ってより『丘』の方がしっくりくるような高さだからな。済水まで出ちまえば平坦な道が続いてるらしいから、移動もそこまで苦じゃねえっぽいぜ?」
「なるほどねぇ…」
運に見放されたような旅を続ける今の曹正に、運を頼らない進路決定の参考にできる具体的な情報は貴重だ。
曹正の匙加減一つとはいえ、この旅はいつまで続くか分からない。
宿の不安は少なければ少ない方がいいに決まっているし、道中に立ち寄る城や村鎮だって、寂れているよりは栄えている方が、ここぞと思える可能性は高いに決まっている。
「あ、そうそう。済水沿いに進むと、最終的に海の手前で青州領に入るが、直接、青州を目指すなら北じゃなく、東に向かって莱蕪県から魯山の裾を東回りに北東へ抜けた方が早いらしい。ただ、お勧めはしないがね」
「…?何で?」
「いや、ちょっと前にウチへ泊まった、若い武官から聞いたんだがね。その武官は逆に青州から莱蕪へ抜けて須城まで来たらしいが、何でも山がちで宿は少ないし、あちこちに賊が寨を構えてて、一人旅をするにはちょっと、みたいな事を言ってたぜ。おまけに、その武官は馬だったが、帥哥は歩きだろ?」
「ああ。まあ、俺は別に青州じゃなきゃダメって事もねえし、実際に通った人間がそう言うくらいなんだから、素直に聞いといた方が良さそうだな」
かくて曹正の向かう先は決まった。
主に礼と別れを述べ、宿を出た曹正が仰ぎ見れば、頭上には雲一つない蒼天が広がっている。
向かう先の情報も得られ、意気揚々とまでは言わずとも、胸の憂鬱もまずまず晴れ、曹正は気持ちも新たに北門を目指して歩み始めた。
須城県は東と西を南北に連なる小高い丘に挟まれた、谷間のような地形に建てられている。
城を出た曹正がてくてく行けば、丘の合間を抜けたところで、遠く聳える泰山の雄姿が右手に現れた。
ふと、曹正は泰山で旅の無事を願掛けして、ついでに麓の様子でも見てみようか、と思い立つ。
が、すぐに頭を振り、また視線を北に戻した。
自分から思い立っていながら、なぜか酷く面倒に思え、全く行く気が湧いてこない。
泰山から連なる峰々は、曹正の行く手を阻むよう、視界の左まで伸びているが、宿の主人が言った通り、正面の辺りだけ稜線が低く下がっていて、山を越えるにせよ谷間を抜けるにせよ、それほど苦労はしなくて済みそうである。
ふっ、と一つ息を吐き、曹正は未だ見ぬ「目的地」を探す旅を再開した。
何かを探す時というのは、見つけようと思えば思うほど、そしてそれが血眼であればあるほど見つからない事が多い。それでいて、探していた事すら忘れた頃になって、思い掛けずひょいと見つかったりもする。「探し物」とは得てしてそういうものだ。
そうなると、残念ながら身の置き所を探す曹正の旅は…
そして、この須城県は曹正にとって、旅の行く末を決定付ける大きな岐路となった。
東や西に向かっていれば良かった、という意味ではない。
東や西に向かったからと言って、曹正が「良かった」と思える結末を迎えた保証はない。
もし、分かたれた道のいずれへ進むかを曹正が自分で決めていたら、と言うのでもない。
運を天に任せて開封を発ったものの、任せた挙げ句の今であるから、他人の意見に縋った曹正の気持ちは分からなくもない。仮に曹正が誰の意見も聞かず、一人で結論を導き出したとしても、東や西に進んだ保証はない。
あくまで、後にこの旅を振り返った曹正が「ああ、あの日の決断がこの旅の大きな岐路だったなぁ」と思える、という事だ。
『何が「岐路」じゃ。ここに至るまでの行動も、この先、何処へ向かい、どんな境遇を迎えるかも、そんなもんはこの世に生を受けた時点で、とっくに定まっとるわ。定められた道を定められた通りに進んどるだけじゃというに、岐路もへったくれもあるか。大体「後で振り返ったら」も何も、進まなかった道へ進んだ事には出来んのじゃから、振り返ったところでウンタラカンタラ──……』
と、先々を見通せる仙女サマからすれば、そういう事になるのでしょうが。
仙女サマの理屈には、そもそも「岐路」という物が無い。
いや、岐路自体はあるし、その前でどちらに進もうかと悩みもするのだが、岐路に辿り着いた時点ではもう、どちらに進むか決まっていて、岐路はただ目の前に現れるというだけだ。
その理屈で例えるなら、人の生とは一本道の双六に近かろうか。
岐路があっても決められた道以外に進む事はできず、目の前に不運があっても避ける事はできず、途中で引き返す事など尚できず、ただ導かれるまま道なりに進み、訪れた場所で起こるイベントを淡々と受け入れる。
そこに「あの時あちらに進んでいたら…」だの「もっとよく考えていれば…」だのという概念は存在しない。
とすれば、曹正がこの須城にまで至ったのは「ツイてなかった」からではなく、ただの必然である。
曹正が須城から北を目指す事はすでに決まっていて、その先に待つ未来を経験する事も決まっていると言うのだから、須城へ至るより前に落ち着き先の決まるはずがない。
独り立ちする事になったのも、そのための援助を周囲の人々から受けられたのも、開封府城を出た途端、烏に鳴かれたのも、この須城で北と東のいずれに進むか迷ったのも、宿の主に話を聞いて北へ向かうと決めたのも、全てはこの先に待ち受ける、定められた未来へ向かうための一本道の上にある。
そして、自ら思い立っていながら、なぜか曹正が泰山に向かわなかったのも、当然、今はまだその一本道が泰山の裾を通っていないから、という事になる。
凡百の人間には到底、理解の及ばない崇高な理屈など知る由もない曹正に、果たしてどんな定められた未来が待ち受けているのか。
無論、それも今の彼には知る由もない。
※1「才士に不遇の土地は無し~」
『唐詩選(五言律 高適「送柴司戸充劉卿判官之嶺外」)』。原文は『有才無不適 行矣莫徒勞』(「勞」は「労」の旧字)。訓読は『才有らば適せざること無し、徒に労せずして行くべし』。「才能があればどんな場所でも上手くやっていけるのだから、殊更に心配せずとも安心して行きなさい」。本文はかなりの意訳ですが。
※2「烏達からギャーギャーと喚き散らされた」
迷信。『水滸伝』第7回に『老鴉叫、怕有口舌(烏が鳴くと一悶着ある=縁起が悪い)』とある。
※3「指で歯を鳴らし~」
厄除けのおまじない。『水滸伝』の第7回には、烏に鳴かれた(※2)人達の反応として『眾(衆)人有扣齒(歯)的、齊道「赤口上天、白舌入地」(中には歯を叩く者もおり、皆は揃って「赤口上天、白舌入地」と唱えた)』とある。
※4「海州」
現在の江蘇省連雲港市と同宿遷市北東部一帯。密州(※5)の南隣、沂州の南東隣。
※5「密州」
現在の山東省日照市、同濰坊市南東部、同青島市南西部一帯。青州と莱州に挟まれた濰州の南隣、海州(※4)の北隣、沂州の北東隣。
※6「斉州」
現在の山東省済南市中央部と同徳州市東部一帯。兗州の北隣、淄州(※7)の西隣、鄆州の北東隣。
※7「淄州」
現在の山東省淄博市と同濱州市南西部一帯。青州の西隣、斉州(※6)の東隣、兗州の北東隣。
※8「濮州」
現在の山東省濮陽市東部と同菏沢市北部一帯。鄆州の南西隣、済州の北西隣。
※9「岱廟」
泰山南麓に建てられた廟。「岱」は泰山の異称。泰山とその神々を祀る。