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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第十回  李柳蝉 金梁橋に暴虎を打ち 曹刀鬼 山東への壮途に就くこと
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似た者師弟

初稿では林冲の許婚(張雪蘭)の父の姓名が「張節」となっていましたが、正しくは「張統」ですので訂正致しました。

 翌日、父母との別れを済ませ、表に出た曹正が見上げてみれば、まるで旅立ちを祝っているかのような、雲一つない蒼天である。


 城内を東に向かい、御街の界隈に着いた曹正は、とある家の前でフッと一つ息を吐き、門を叩く。


「おお、来たか小哥(曹正)」

「お早うございます、師匠」


 家から現れた林冲は門を開け、礼を交わすと、曹正を招き入れた。

 客間に入った林冲達は主客分かれて席に着き、作男が運ぶ酒と肴を待って別れの盃を交わす。


「何て言うか…旅に出ると決まってからは、あっという間だったな」

「ええ、そうですね」


 しんみりとした空気の中、林冲は続ける。


「何処に向かうか決めたのか?」

「取りあえず、東に向かってみようと思ってます」

「東…山東(さんとう)か」


 無論、どこに向かったところで曹正に宛てなどないのだから、どこに向かおうと商いの成否は五分五分である。よって「東」は厳正なる四者択一の抽選結果だ。

 まあ、世にそれを「ヤマ勘」とも言うが。


「何処に向かうにせよ、とにかく頑張ってみる事だ。元手もそれなりに集まったんだろ?」

「『集まったんだろ?』じゃありませんよ」

「…ん?」


 椀を置き、一つ溜め息を零した曹正は、


「色々と骨を折っていただいた事には感謝してますけどね。前から顔見知りだった董将士(董博)はともかく、今まで会った事もないような人にまで金を出してもらって…一体、どんだけ頭を下げて回ってくれたんですか?」

「別にそんな大した事はしてないよ」

「大した事をしてないのに、5,000貫も集まる訳ないでしょうが」

「ごっ…!?そりゃまた…お前、責任重大だな?」

「何を他人事(ひとごと)みたいな顔して言ってんですか」


 さすがの林冲も「5,000貫」と聞けば、驚きを禁じ得ない。


 庶民一人で月に2貫もあれば、十分に暮らしていける御時世である。どこぞの巡捕都頭さんならいざ知らず、真っ当な生活を送る人にとっては、人生を二回やり直しても、使い切れるかどうか分からない額だ。


 とはいえ、弟子のためにと思ったればこそ奔走し、それも全く役に立てなかったというならいざ知らず、望外の結果を得ていながら責め立てるような物言いをされれば、林冲だって面白くはない。


「何だよ、何か文句でもあるのか?」

「ある訳ないでしょ!?俺はどんだけ欲の皮が突っ張ってんですか」

「何でちょっとキレてんだよ…いや、その前にな?恩に着せようと思ってした事じゃないし、着てもらう必要も別に無いが、せめて礼の一つくらいはあってもバチは当たらんぞ?」

「だから、言ったじゃないですか。感謝はしてますよ、って」

「あれだけ!?てか、それ礼じゃねーわ!」

「じゃ、何なんですか!?」

「俺が知るかよ!」


 送別の宴だったはずが、何だかおかしな展開になってきた。

 それも席を設け、見送る側の旗色が悪いようだ。


「人が好いのも結構ですけどね。もうちょっと御自分の為の事もして下さいよ?」

「んん?」

「張師範(張統)の御令嬢との婚礼も、もう間近なんでしょう?近い内に家庭を持つんですから、そろそろ人の世話ばっか焼いてないで落ち着いて下さい、って事ですよ」

「そんな事はお前に言われなくても──」

「だだでさえ師匠はお人好しで『ええカッコしい』なクセに──」

「お前、これでもう当分、会う事がないからって、遠慮もへったくれもねーな!?」

「頭に血が上ると抑えが利かなくなっちゃう性質(たち)なんですからね。分かってます?」

「いや、あのさ…何?お前、俺の事、嫌いだったの?」

「そんな訳ないでしょうが!」

「だから、何でお前がキレてんだよ!こっちだわ、キレてえのは!」


 曹正は林冲の椀に酒を注ぎ、続けて手酌で自らの椀に注いだ酒を一息で飲み干すと、


「心配なんです、俺は!知ってますよ?牛二の件」

「あ…何だ、お前アレ見てたのか」

「見てる訳ないでしょうが、今日の為にあっちこっち駆けずり回ってたんですから」

「あ、ああ、そうか」

「親父に聞いたんですよ。女の二人連れが絡まれてるところを師匠が助けた、ってね」

「そうだよ?それの何が悪い」

「それは別に悪くありませんよ。俺が言ってるのはその後の事です。牛二相手に凄んで、震え上がらせたんでしょう?」

「いや、あれは──」

「言い訳をしない!」


 あれ、おかしいな…?

 確か曹正さんは「林副師範には旅立つ前にちゃんと礼を言います」って言ってた気がするんだけど…


 林冲と曹正は5つほどしか歳が離れていない。故に「師匠と弟子」というより「兄弟」のような関係性だが、これではどちらが「兄」で、どちらが「弟」か分からない。


「牛二に何を言われたか知りませんけどね。あんな奴、師匠がムキになるような相手じゃないでしょ?カーッとなると、すーぐ後先考えずに身体が動いちゃうんだから…気を付けて下さいよ?」

「分かった分かった、気を付ければいいんだろ?っていうか、お前今日、何なの?俺に小言を言いに来た訳?」

「これまでの礼を言いに来たに決まってるでしょうが!」

「言えよ、じゃあ!」

「言いましたよ、さっき!」

「だから、言ってねーわ!」


 良かった、聞き間違いじゃなかった。ってゆーか…子供のケンカかな?


 曹正が林冲に弟子入りして、かれこれ10年ほど経つ。

 片や禁軍士官、片や肉屋の息子という立場であるから、四六時中、曹正が林冲に付き従っていたという訳ではないのだが、人と人との関係は、行動を共にした時間の長さだけ(・・)で親密の度合いが決まる訳では当然ない。


 側に在った時間の長短に関わらず、曹正は曹正なりに林冲の事を尊敬しているし、感謝もしている。せめて、これからも曹正がこの開封に留まって商いを続けていくのであれば、折に触れ、やんわりと指摘する事もできるのだが、こうして開封を離れる事になった今、林冲に対する不安をぶつけずにはいられなかった。


 まあ、もうちょっとオブラートに包んでもいいんじゃないかなー、とは思いますがね。「ぶつける」と言うより「投げつける」みたいになっちゃってるし…。


「ったく、何だよ。折角、別れを惜しんで、こうして席を設けてやったってのに。もっとこう、感動的な別れの感じみたいなのがあるだろ?」

「例えば?」

「『例えば』!?だからこう…俺がお前にこれからの人生で為になるような言葉を送って、お前が俺にこれまでの感謝と礼を述べて、最後は互いに離れ難く去り難く抱擁してとか、そんな感じだよ」

「師匠、あのですね?そういうのは心の内から自然発生的に起こってこそ、感動的になるもんなんですよ?」

「ほぉー、そうかそうか。じゃあ、お前の心には俺への感謝も礼も、口に出せるようなモンは何一つ無いって事だな?」

「有りますよ、失敬な!俺の心が木石か何かで出来てるとでも思ってんですか?」

「だから言えばいいだろ、それを!」

「胸から喉の辺りまでは来て、出掛かってんですけどねー。そっから口に辿り着くまでに消し飛んじゃうくらい、師匠の今後が心配で心配で…」

「それはそれは、どうも御心配をお掛けして…じゃねーわ!」

「いいですか?俺が旅に出た後は王師範(王進)の諌言をちゃんと聞いて、身を律して下さいよ?」

「お前さぁ、いつから俺のオカンになったの?」

「はい?」


 怪訝な表情を浮かべた曹正は、冷ややかな視線を林冲に向け、


「大丈夫ですか?目ぇどうかしました?」

「…『目』?」

「どっからどう見たら俺が女に見えんですか。せめてオトン──」

「そういう事を言ってんじゃねーんだわ!」

「あーもう!分かりましたよ、言えばいいんでしょ!?言えば!」


 どうやら屁理屈の腕前は、だいぶ曹正の方に分があるようだ。

 それを知ってか知らずか、仕方なく折れた曹正は立ち上がり、深々と首を垂れた。


「師匠。この度はこの愚弟(※1)の為に一方(ひとかた)ならぬ御高配と、並々ならぬ御尽力を賜りまして、衷心より御礼申し上げます。これよりは師匠の御期待を裏切らぬよう、粉骨砕身、商いに精進して参ります」

「お、おぉ、まあ、何だ──」

「ほらぁ、ねぇ~?全然、感動的にならないでしょう?何処がいいんですか、コレの…」

「お前が一言多いからだよ!」

「そりゃそうでしょうよ」

「『そりゃそうでしょうよ』!?!?」


 再び腰を下ろした曹正は、やれやれと首を振る。


「師匠だって、いっつも王師範から『一言多い、一言多い』って注意されてたじゃないですか。その師匠の弟子なんですから、俺が一言多いのは当たり前でしょ!?」

「えぇ~…何、俺の所為?俺が悪いの??」

「それに、人生で為になる言葉が『とにかく頑張れ』って…もうちょっとこう、具体的なアレとか無いんですか?」

「有るわ!だから商いってのは──」

「あ、商いの秘訣なら間に合ってますありがとうございます」

「おい、この野郎…」

「昨日、董将士(董博)から色々と金言を頂戴してきましたんで。商いに関しちゃ素人同然の師匠から、今更、助言を頂きましてもねー」

「…なあ、お前から見て、俺ってそんなボンクラに見えるの?」

「何を言ってんですか、全く…」


 曹正は盛大な溜め息を零す。

 何かちょっと楽しそうなのは気のせい…という事にしておこう。


 空いた二つの椀に酒を注ぎ、自らの椀を再び一息に飲み干すと、


「『張益徳(張飛)の再来』なんて綽名(あだな)されるほど、図抜けた武勇を持つ師匠が、ボンクラに見える訳ないじゃないですか!しっかりして下さいよ」

「いや、どっちかって言うと俺はしっかりしてる方だと思うんだが…?」

「大体、世の常として、一芸に秀でてる人間ほど、それ以外の事は色々とヌケて…ゲフン、何かと残念だったりするもんなんですよ」

「なあ、今の言い直す意味あったのか?」

「ただ、秀でたトコが目立つ分、残念なトコはより残念に見えちゃう、ってだけの話です。てか、今日は俺の送別の席なんでしょ?師匠がそんなマジヘコみしてどうすんですか」

「ヘコんでねーわ、別に!てか、結局、俺は武勇以外に取り柄がない男、って言いたいだけじゃねーか」

「そうですよ?」

「『そうですよ』って、はっきり認めやがったよコイツ!?」

「突出した武があるだけ師匠はまだマシでしょ!?じゃあ、師匠の武に遠く及ばない俺は何ですか?師匠がボンクラなら、俺は救いようのないボンクラですか!?何を贅沢な事言ってんですか」

「えぇ~…貶された挙げ句に怒られたんですけどぉ」

「だから…心配なんです、って言ってるじゃないですか!師匠も偉くなっちゃって、王師範と張師範以外に面と向かって注意出来る人間がいなくなっちゃったでしょ?御自身で意識して、傲らず、昂らず、慎ましく生活を…ちょっと、ちゃんと聞いてます!?そもそもですね──……」


 曹正さん、容赦ねえww


 その後もあれやこれやと微に入り細に入ったお説教…いやいや、心からの諌言を滔々と語る曹正。

 朝早く家を出たはずが、気付けばすっかり日も高くなってしまっている。


 辟易としながらも「自分のために言ってるんだから」と我慢して聞いていた林冲も、いよいよ気になってきた事を口に出してみた。


「なあ、お前さぁ…」

「何ですか?」

「今日の出立は止めたの?」

「その前にお聞きしたいんですけど?」

「何だ?」

「いつまで大人しく聞いてんですか。止めてくれればいいでしょ!?」

「あぁ、そう…うん、まあいいわ、それで。悪かったよ、気が利かなくて」


 諦念の溜め息を零す林冲であったが、何だかんだと言いながらも話を聞いてくれた師匠の優しさに、曹正は淋しげな笑みを零す。


 荷を持ち、席を立った曹正に合わせて林冲も席を立った。

 二人は揃って門前に立つと、曹正は林冲へ向き直す。


「じゃあ師匠、行きます。お身体にお気を付けて」

「あー…しょうがない、城外まで送ってやるよ」

「『しょうがない』なら結構です」

「…お前、いい加減にしろよ?」

「師匠」


 さすがにイラっときたものの、林冲はすぐに気付いた。

 曹正の双眸が、今にも溢れんばかりの涙を湛えている事に。


「『君を千里(せんり)送るも、(つい)に一別あり』(※2)と言うじゃありませんか。山東までついて来てもらう訳にもいかないんですから…見送りはここで結構ですよ。お気持ちだけ有り難く」


 何の事はない、林冲の言った通りだったのだ。

 いざ旅立ちの時が刻一刻と迫っても、離れ難く去り難く…

 だから、曹正は林冲の聞くに任せて、延々と減らず口を叩き、林冲は曹正の言うに任せて、それを延々と聞いていた。それだけの話である。


「いいですか、師匠。旅先で師匠のお節介とお人好しが治ってないなんて噂を聞いたら、それが何処であってもスッ飛んで帰って来ますからね?」

「何を言ってんだ、お前は。そんな下らん理由で帰ってくんな」


 曹正だって馬鹿ではない。


「素人同然の俺の言葉なんて聞きたくもないんだろうが…商いなんて、そんな簡単に軌道に乗るもんじゃないだろ。大事な時に主がホイホイと店を空けるんじゃないよ」


「しょうがない」も「帰ってくるな」も、林冲の本心でない事くらい分かっている。

 そして今、視線を逸らし、毒突いている林冲が、別れの淋しさを必死に紛らわせている事も、ちゃんと分かっている。


「お前の事だ。5,000貫なんて大金、そうそう使い切れるモンでもなし、地道にやってある程度、余裕が出来たら、用も無いのに樊楼みたいな馬鹿デカい店でも建ててやろうとか思ってるんだろ?そんな馬鹿な肉屋の噂を聞いたら、俺から会いに行ってやるよ」


 人の相性ってのは、つくづく時間じゃないんだなー。


 結局のところ、似た者同士なのだ、この二人は。

 素直じゃないところも、一言多いところも、そして物の考え方までも。


「…っ!!お、おい、どうした!?」


 気付けば、曹正は無意識の内に林冲の身体を抱き締めていた。

 言葉もなく、ただ林冲の肩に目頭を埋め、背に回した両腕に力を込め、存分に別れを惜しむ。


 一瞬、戸惑った林冲も、すぐに穏やかな表情で抱擁を返し、案ずるように、慰めるように、曹正の気が済むまでの間、優しくその背を撫し、軽くあやす。


 暫しの後、抱擁を解いた曹正は開口一番、


「師匠、分かりました?こういうのを『感動的』って言うんですよ?よく覚えといて下さいね」

「そうか。お前もよく覚えとけ。台無しだよっ!!」


 まるで用意していたかのようなツッコミを放つ林冲も当然、分かっている。

 それが曹正なりの照れ隠しであった事を。


 見れば、湛えた涙が溢れてしまわぬよう、林冲の肩で拭われた曹正の瞳は真っ赤に充血していた。


「では、またいつか…」

「…ああ。道中、気を付けてな」


 別れの礼を互いに交わすと、林冲の見守る中、曹正は(きびす)を返して歩き出す。


 見慣れた街並みも、これで見納めとなれば感慨深く、普段であれば眉を(しか)めるほどの喧騒も、今となっては耳に心地好い。

 それを心に留めるかのように、曹正はゆったりと城内を東へ向かう。


 含輝門に至った曹正は、未練がましく一度振り返る。


 次にこの光景を目にするのはいつになる事か。


 そんな思いを胸に抱きつつ、再び振り返った曹正は、名残を惜しむよう、またゆったりと含輝門を潜っていった。

※1「愚弟」

一人称、つまり曹正の事。「弟」は「弟子」。この小説の設定上、曹正と林冲は義兄弟の間柄ではありませんが、王進が林冲を「(賢)弟」と呼んでいるのと理屈は同じです。

※2「君を千里送るも、終に一別あり」

中国の成語、諺。中国語では「送君千里、終有一別」。「(旅立つ人との別れを惜しんで)どれほど遠くまで見送ったとしても、最後には必ず別れが待っている」。『水滸伝』では第32回に記述がある。また第23回と「120回本」第90回の増挿部分(「120回本」が作られるにあたり「100回本」に追加された20回分。第90回に「繋ぎ目」がある。楔子の閑話休題「『水滸伝』」参照)には「送君千里、終須一別(最後には必ず別れなければならない)」とある。

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