先約あり
タイミング良くと言おうか、運悪くと言おうか、たまたま室の前を通り掛かった董博の妻が、室内から洩れる李柳蝉の嗚咽に気付き、中を覗いてしまったから堪らない。
董博は慌てて弁解し、李柳蝉も涙を拭いながら弁明し、薬の話などどこかへ吹き飛んでしまうほどの大騒ぎとなってしまった。
まあ、こうなっちゃったりもするよね。
…や、別に責めてるんじゃないんだよ?責めてる訳じゃないんだけど、一応ホラ、ね?
「落ち着いたかね…?」
二人掛かりで宥められ、取りあえず納得した素振りは見せつつも、一点の曇りない純白の視線で、容赦なく夫を刺し貫いた妻が退室したところで、刺し貫かれた夫はげんなりと声を掛けた。
「あの…すみませんでした」
「はは、いや…」
俯いて畏れ入る李柳蝉に、力ない笑顔で右手を軽く上げて応えた董博は、そのまま包みを開けて膏薬を一つ手に取った。
容器の蓋を開けて匂いを嗅ぎ、右手の指で豆粒ほどの塊を掬い、それを左手の甲に塗っては感触を確かめ、ある程度、薄く伸ばしたところでまた匂いを嗅いでと、真剣な眼差しで見立てていく様は、さすが本職といったところ。
「随分とまあ…」
手を拭き、卓の上に山と積まれた膏薬にチラと視線を送った董博は、呆れた様子でそう零した。
「あの、如何でしょうか…?」
「んん…あくまで私の見立てでは、という話だがね。どんなに高く見積もっても全部で2貫、下手をすると1貫でもお釣りがくるかもしれないな」
「2…1…え!?」
「あまり親類の事を悪く言いたくはないが、小姐の従祖叔母(※1)も随分と欲張ったものだ。どうやら貪得無厭(※2)を地で行くお人のようだな…いや、これを1,000貫、2,000貫と言わないだけ、まだ常識的な思考力が残ってると言うべきか」
「借金を負わせる」という、ただそれだけのために、あの女は一体どれほど高価な薬を買い、どれほどの散財をしたのか──
今の今までそう思っていた、浅慮で単純な自分の思考回路を、李柳蝉は今ほど情けないと思った事がない。
と同時に、顔が燃えるような羞恥と、身体中が燃え盛るような憤怒が湧き上がる。
何の根拠もなく高価な薬と信じ、ただ「買ってくれさえすれば」「売り先を紹介してもらえれば」などと期待して、恥を忍んだ李柳蝉は好い面の皮だ。
いたたまれず、手早く荷を纏めて席を立つ李柳蝉に、
「ちょ…こらこら、待ちなさい。何処へ行くつもりだね?」
「何処って…あの女にコレを突き返して、150貫なんて価値が無い事を──」
「それは止めた方がいいな」
「…!?何故ですか!?」
「恐らく、それを売った薬屋は『同じ穴の狢』だよ」
「…!?!?」
「まあ、とにかく落ち着きなさい」と宥められ、李柳蝉は席に着く。
董博は一度、立ち上がり、冷めた茶を代えるよう作男に命じて、李柳蝉の向かいに腰を下ろした。
「そうだな…例えば、とある品を一つ1貫で仕入れたとしよう。真っ当な商家ならその品に100貫の値を付けたりはしない。何故だと思うね?」
「何故って…1貫の品に100貫の売り値なんて、いくら何でも法外が過ぎます。見る人が見れば、その品の価値は分かるでしょうし、それで悪い噂が広まれば、それこそ将士が仰られたように、信用を失って商いどころではないと思いますが…」
「うん、それも間違いじゃないがね。理由はもっと単純だよ。答えは『売れないから』だ」
「はあ…」
何を聞かれているのか要領を得ず、小首を傾げた李柳蝉。目の前の董博は答えを待つように、まるで「よく考えてごらん?」と諭しているかのように、何も言わず、ただ優しい視線を送っている。
「…あ」
短く声を発し、李柳蝉は董博の言わんとしている事に気付いた。
二人の間にある薬も同じ話だ。
本来、実際の価値がどうであれ、品の値など売る側が勝手に決めればいいだけの話だが、売り物である以上は、何よりもまず「売れる値」でなければ仕方がない。
2貫の薬に150貫の値は、確かに法外と言える。信用がモノを言う世界にそんな物好きはいない。
しかし、それは「そんな値を付けても売れない」から「いない」のであって、150貫でも買うという客が現れれば、そんな薬屋はいないという図式自体が成り立たない。
李四娘は「文句があるなら訴えればいい」と言う。
当人がそう言うくらいなのだから、その時は役人に金をバラ撒くつもりなのだろう。
だが、それより何より、初めから口裏を合わせ「客が150貫で買うと言ったから、店が150貫で売った」という事にしてしまえば、何の問題もないのだ。
仮に李柳蝉がお上に訴え出て、お上が事情を聞いたとしても、直接、売り買いに関わった双方が納得の上だったとなれば、お上も正当な取引と認めざるを得ないのだから。
「とはいえ、いくら口裏を合わせ、いくら役人を買収すると言ったって、この品に1,000貫、2,000貫は、さすがに強欲が過ぎて罷り通らない。それが分かってるからこその150貫だろう。さっきの『常識的』というのはそういう意味だ。小姐達がお上に訴えても…というか、そもそも店側も、お上を頼れない小姐達の事情は知ってるんだと思うぞ?」
「…え?」
「最初に従祖叔母を訪ねた際、お婆様が懐具合を正直に話してしまったんだろう?」
「…あ」
「それを従祖叔母から聞いてるんだよ。その上で、万が一の予防線として、それなりの値付けにしたんだろう。万が一訴えられても、役人を丸め込める常識的な範囲で、ギリギリの線を狙ってね。念の入った事だ。それに…」
噛んで含めるように一から説明しつつ、董博は皮肉めいた笑みを浮かべ、李柳蝉が纏めた包みを「見てごらん」と再び開く。
「薬の容器や包装に、屋号なり刻印なり、店の素性に繋がりそうな手掛かりが何一つ無い。全ての品に印を入れるかどうかは店主の考え方にもよるが、これだけの数があって一つも無いというのは、明らかに不自然だ」
「…店の名が知られて、私の口から『悪事に加担した薬屋』という噂が広まっては困るから、ですか?」
「そう。お上に訴えられる心配は無くても、そんな噂で信用を地に墜とされたら、それこそ商いなど立ち行かなくなる。だから、こうして小細工をしたんだろう。何とも御苦労な事だ。まあ何にせよ、従祖叔母と店と、裏で話が纏まってるのは間違いないよ」
「でも、それだと薬屋は片棒を担がされただけで、何の得も無いと思いますが…」
「ん?そんな事はないさ」
「…?」
「150貫の取り分がどうなってるのかは知らないが、仮に全て従祖叔母の懐に入ってしまうんだとしても、これから生業を手伝え、生活費も払え、と言われてるんだろう?」
「…あ。その中から薬屋に…」
李柳蝉は今、暗澹たる思いに打ち拉がれている。
李四娘の意図を理解できたのはいいのだが、できたからこそ、現状を抜け出す糸口がまるで見当たらない。
「さて、少し待ってなさい」
優しく声を掛け、董博は室を出た。
待っている間も李柳蝉の気分は晴れないままだが、晴れないなりに考えを巡らせる。
暫しの後、戻った董博が席に着くのを待って、李柳蝉は立ち上がった。
「あのっ…ここで雇っていただく事は出来ませんか?」
「ん?」
差し当たり、謂れのない借金を返す宛てはない。
郭静の言う通り、家事やお茶汲みを手伝うくらいなら、李柳蝉だって吝かでないが、それでは永遠に苦境から抜け出せそうにない。かといって、李四娘の言葉を唯々諾々と受け入れるという選択肢だけは絶対にない。そして、お上に訴えても宛てになりそうもない。
となると、どこかに宛てを求めなければならない。
雇ってもらえたところで、忽ち借金を返してしまえるような給金を貰えるとは、李柳蝉も思っていない。
それでも、李四娘の下に未来永劫、縛り付けられるくらいなら、禁軍の師範とも交流を持ち、隠れもない名士である董博の下で働いた方がまだマシではないか、という李柳蝉の考えである。
「驚いたな」
「…え?」
「いや、私も丁度、小姐にそれを聞こうと思ってたところだ。ウチは男所帯でね。接客の為に近々、女性を一人、雇おうかと考えてたんだが」
「では…!」
「ああ。良かったらウチで働いて──」
「はい!宜しくお願い致します!」
喰い気味の返答に加え、深々と首を垂れるその様に、董博は苦笑を零して席に着くよう促す。
「ただ、雇うのは小姐一人だけになる。それは承知してほしい」
「あ…」
「奥向きの用は手が足りてるんだ。二人でここへ住んでもらえるようなら、お婆様にも何かと手伝ってもらえたが、生憎と今は部屋が埋まっててね。残念だが、通ってもらってまでお婆様に頼みたい仕事は無い」
「そうですか…」
「当然、小姐にも通ってもらう事になるが、構わないかね?」
「はい、構いません」
李柳蝉に異論のあろうはずがない。雇ってもらえるだけでもありがたいところへ、郭静と一緒でなければ嫌だなどと言っては、我儘が過ぎるというものだ。それくらいは、李柳蝉も弁えている。
「良かった。寧ろ通ってもらう方がこちらも助かる」
「そう、なんですか?」
「ああ、いや、別に『住まわせたくない』という意味じゃない。言ったろう?ウチは男所帯だって。女手が無い訳じゃないが、男の方が圧倒的に多いんだ。小姐一人で住み込ませて、万が一間違いでも起きたら、お婆様に合わせる顔が無い」
「あ、ああ、そういう…」
「だから、通うのも日が出てからで構わないよ。誰か家まで送れる者がいれば、帰りは遅くなる事もあるかもしれんが、基本的には帰りも日のある内に帰ってくれていい」
「え?でも、雇っていただいたばかりで、そこまでの御配慮をいただくのはさすがに──」
「青州ではどうだったか知らないが、開封は暗い時分に女性が一人歩きするような街じゃない。特に瓦市の近くはね。余計な面倒に巻き込まれる因だよ。避けられる災難は避けるに越した事はない。お婆様にもそう伝えておくといい」
「はい。お気遣い有り難うございます」
その後、給金についてなど、話は細かい部分へと進んでいった。
とはいえ、雇われた経験のない李柳蝉には、提示された給金が適正か否かなど判断のしようもなく、言われたままを受け入れるしかなかったのだが、想像以上に安いという事もなく、まずは一安心といったところだ。
「あの、早く仕事を覚えて、お役に立てるよう頑張ります」
「ああ、期待してるよ。それでだが…」
董博は懐から取り出した包みを卓に置いた。
ずい、と目の前に押し出された包みを「開けてごらん」と促され、李柳蝉が何とはなしにその包みを開けると、そこには──
「…っ!!」
「小姐にウチで働く気は無いと言われたら、渡すか渡すまいか迷ってたんだが…銀で100両(※3)ある。返済の足しにするといい」
「…は!?…え?…は!?!?」
「本当は借金を全て返した上で、他に住まいを借りても、当面は暮らせるだけの額を用立ててあげられれば良かったんだが、近々、知り合いに大金を用立てる約束があってね。諸々の支払いもあるし、商いをしてる以上、手元にもそれなりに残しておかなければならん。今すぐ渡せる金となると、そのぐらいしか無いんだ」
「い、いえ、そんな…受け取れません!」
見た事もないような大金に、李柳蝉は目を白黒させながら慌てて包みを閉じ、董博の方へ突き返す。
「ああ、いやいや、少し言葉が足りなかった。まず、この100両の内、2両はこの膏薬の代金だ」
「えっ!?でも、先ほどは──」
「見たところ、膏薬としての効能自体はそれなりにあるようだ。外には勧められないが、ここで使う分には構わないよ。家の者が怪我をした時、今までは売り物を使ってたからね。有ればこちらも助かる」
「でも、そしたら残りは…」
「残りの98両は小姐に貸そう」
「…っ!!か、返せません!」
今は正に借金の辛さを骨身に沁みて味わっている真っ最中だ。この上、更に100両もの借金を背負ってしまったら、いよいよ首が回らない。
李柳蝉の反応は至極当然──というか、ホイホイ受け取る方がどうかしている。
が、董博の方は落ち着き払った様子で、
「心配しなくていい。私は金貸しを生業にしてる訳じゃないからね。利子を取るつもりもなければ、期限を切って返せというつもりもない。働いてる間に少しずつでも返してくれればいいさ。不安なら一筆したためても構わないよ?」
「ですが…」
「働く者の心労を取り除くのも雇う者の務めだよ。まあ、どうしても借りたくないと言うのなら、私が小姐達の後見人として衙門に訴えを起こし、従祖叔母と手を組んだ店に喧嘩を売ってみる、という手もあるにはあるがね」
「け、喧嘩!?」
「ただ、相手の素性が分からない事にはなぁ。万が一、大店を相手に争うような事にでもなれば、100両程度の銀子では話にならないとも限らない。そうなると、役人に配った金は全くの無駄になるが…どうするね?100両を溝に捨てる覚悟で衙門に訴えてみるかね?」
「そ、そんな、とんでもないっ…!!」
「はは、そうだろう?という訳で、同じ『金を借りる』のなら私にしておきなさい。『やれ返せ、さあ返せ』と急かされる相手と比べれば、私の方が遥かにマシだろう?」
確かにそうではあるのだが。
「あの…何故、知り合って間もない私に、ここまでしていただけるのでしょうか」
その問いに、董博は穏やかな笑みを返す。
「小姐は賢いな」
「…は?」
「物事の道理を弁え、礼節を備え、孝に厚い」
「あ、あの…?」
「『一時を快せしむ論を繰る者は、その禍のここに至るを知らず』(※4)」
「…??」
「私が好きな言葉の一つでね。若い頃、親交ある小蘇学士(蘇轍)の御令兄、大蘇学士(※5)から直接、伺った言葉だが、つまり『聞こえのいい佞言や虚言で、その場を取り繕ったつもりになっても、その言葉が更なる災いを招く事には気付けない』という、巧言令色を戒める言葉だな」
「はあ…」
「窮地に在る者は、とかく周囲を悪に仕立て、殊更と人に媚び、自らを飾り立てようとするものだ。しかし小姐は誠実に、努めて客観的に、胸の内を有りのままに話してくれたろう?そんな小姐に、見て見ぬふりという『禍』を贈る訳にはいかないさ」
ふと、李柳蝉の脳裏に、故郷の二人の義兄の顔が浮かんだ。
董博から掛けられた言葉は、正しく故郷で義兄の教えを受けたからこそである。
思えば金梁橋での一件も、もう一人の義兄から教えを受けていなければ、今頃はどうなっていたか分からない。
その二人の義兄達に、李柳蝉は優しく背中を押された気がした。
「有り難うございます。お言葉に甘えてお借りします」
「ああ、そうするといい」
と、李柳蝉は席を立ち、膝を折って床に着ける。
その意図を察した董博も慌てて立ち上がり、
「ああ、止しなさい。言ったろう?これも私の仕事の内だよ。そこまで大仰な礼は不要──」
「いえ、これほどの御厚情を賜って礼を疎かにするなど、およそ人の道に外れた禽獣の如き所業です。こればかりは私も譲れません」
制止を振り切った李柳蝉が恭しく捧げた稽首(※6)を、僅かに困ったような顔で受けた董博は、立ち上がる李柳蝉に手を貸し、再び椅子に座らせた。
「さて、最後に余計な節介かもしれないが、いくつか忠告…というか、助言をしようと思うんだが、聞くかね?」
「はい、是非お聞かせ下さい」
董博は卓の茶を一口啜り、話を切り出す。
一つは100両を返済にあてるなら、薬代として渡した方がいい、という事。
青州から出てきたばかりの李柳蝉には知る由もないが、贅沢三昧の官僚ならいざ知らず、開封での暮らしは、食費だけなら庶民一人で月に2貫も掛からない。
諸々を含めても2貫ほどで十分に暮らせるから、郭静と二人分の生活費は、多く見積もっても年に50貫ほどだ。
李四娘は「薬代と生活費を合わせて150貫」と言う。となれば、その内の100貫が薬代、という計算になる。
建前上、薬代は「使った分を返せ」という事だから、返済が遅れれば利子を取られる口実となり得るが、生活費の方は「これから使う予定の分を先に払え」と言っているに過ぎない。
まだ使ってもいない金に対し、利子を取られる筋合いはどこにもない。
仮に李四娘が薬代をもっと高く考えているのだとしても、利子が付く分をできるだけ減らした方がいい事に変わりはなく、逆に生活費の方を多く見積もっているとすれば、いくらかでも生活費を先払いする事になるのだから、それこそ支払った期間は返済の催促を受ける筋合いはなくなる。
いずれにせよ、薬代を先に払ってしまった方が李柳蝉にとっては都合がいい。
次に、李四娘との暮らしは何かと気苦労も多く、嫌な事もあるだろうが、よほどの事がない限り、他に部屋を借りない方がいい、という事。
薬代さえ払って今の家を出てしまえば、生活費を払う必要はないから、確かに李四娘への借金はなくなる。しかし、外に部屋を借りたところで、暮らしていくのに金が掛かるのは同じだ。
部屋を借り、必要な物を新たに揃え、としていれば、むしろそちらの方が余計に金が掛かる可能性もある。
手持ちが心許なくなっても、今の家なら返済を待ってもらう事も可能だろうが、外ではそういう訳にもいかない。
精神的にはキツかろうが、ある程度の蓄えができて、郭静と二人で暮らしていける目処がつくまでは、今の家で暮らした方が──というのが董博の考えである。
「もう一つ。小姐から殊更に吹聴する必要は無いが、もし家で何か困った事があれば…特に脅迫同然で生業を強いられそうになった時などは、私の姓名を出して構わないから、きっぱり断りなさい。私もこの開封ではそれなりに姓名を知られてるからね。従祖叔母もあまり無体な事は言わない筈だ」
「でも、それでは将士にまで御迷惑を掛ける事になりませんか?」
「生業の手伝いは既に一度、はっきり拒絶したんだろう?そして、今はもう少姐は私に雇われる身だ。私の家の者を私に無断で、しかも強制的に働かせるなど許さんよ。安心なさい」
「将士…」
「もし、そこで『お上に訴える』なんて事を言い出したら、それこそ『好きにしろ』と言ってやりなさい。本気で私に喧嘩を売るつもりなら、遠慮無く受けて立つから、とね。さっきの話と違って、この話に薬屋は関係無いんだ。蓄財を生きがいにしてるような従祖叔母が、自分の金を使ってまでそんな分の悪い博打はしない。すぐに引き下がるよ」
「あ、ありがと、うございま…」
孤立無援と思っていたところへ、突如とした現れた心強い味方に、李柳蝉は改めて礼を述べようと立ち上がると同時に涙腺が緩んだ。
「あ、ああ、礼はもういいから。というか、泣くのはもうさすがに勘弁してくれ。また妻に見られたら、次は何を言われるか…」
「あは、は、そうですね。すみ、ません…」
オロオロと宥める董博の姿に、李柳蝉は笑みを交えて涙を拭い、李柳蝉が落ち着くのを待ってから、二人は揃って室を出た。
※1「従祖叔母」
日本式の呼び方で、祖父母の従妹。李柳蝉から見た李四娘。「従大叔母」と書く事もある。
※2「貪得無厭」
中国の成語。強欲、貪婪。或いはそんな性格の人。
※3「100両」
年代によって変動はありますが、およそ宋(北宋)代を通じて、銀1両は銭1貫(1,000文相当)ほどの価値だったようです。つまり、銀100両で銭100貫相当。第七回の閑話休題「銭や、銭ぃ~」参照。
※4「一時を快せしむ論を繰る者は~」
『文章軌範(蘇東坡「荀卿論」)』。原文は『以快一時之論、而不自知其禍之至於此也』。訓読は『一時を快せしむ論を以て、而して自ら其の禍の此に至るを知らず』。意味は本文の通りです。くわばらくわばら。『文章軌範』は本文よりも後年代(南宋頃)の成立ですが、本文にある通り、蘇軾(※5)から直接聞いたという事で一つ。
※5「大蘇学士」
宋(北宋)の文人、蘇軾。字は子瞻。唐から宋に掛けて活躍した「唐宋八大家」に、父・蘇洵、弟・蘇轍と共に数えられる。号の「東坡居士」にちなんだ「蘇東坡」という呼称が有名。本文の頃は既に故人。
※6「稽首」
中国式の礼の一種で最も格式が高い。最上級の敬意や謝意を表す。