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水滸前伝  作者: 橋邑 鴻
第十回  李柳蝉 金梁橋に暴虎を打ち 曹刀鬼 山東への壮途に就くこと
104/139

だが、断るっ!!

「うるさいわね。何なのよ、朝っぱらから一体…」


 その時、一人の若い女性が中年の男と共に階上から現れた。


「ああ、これは旦那さん。昨日はまた随分とお楽しみいただいたようで。すいませんね、朝からお騒がせして」

「ん…」


 立ち上がった李四娘が薄ら笑いを浮かべて声を掛けると、男はバツが悪そうに短く答える。


 随分とお楽しみだったところへ、冷やかされるように「随分とお楽しみでしたね」と声を掛けられれば、そりゃあマルだってバツだって悪くもなろうに、というところだが、片や見るからに気だるげな女の方こそ堂々としたものだ。

 下には裙子(スカート)、上はとりま(・・・)感が丸出しな薄手の(ブラウス)一枚で、これぞ「昨夜はお楽しみでした♡」を絵に描いたような按排でありながら、面倒臭いのか、はたまた(はな)から他人の視線など気にしない性格なのか、いっそ「昨夜はお楽しみでしたけど、何か?」みたいな顔で、恥じる素振りもなければ、悪びれる様子もまるでない。


 左の指を(なまめ)かしく男の右手に絡ませ、その右腕にしなだれ掛かるように間口まで見送りに出ると、媚びるような笑顔と共に、どこから出しているのかと思うような猫撫で声を発し、男の胸で甘え始める。


 やや鬱陶しげに女の言葉を適当な相槌で(あしら)い、一頻(ひとしき)り甘えさせたところで、男は帰っていった。


「文句があんなら、いつまでもグズグズ言ってないで、とっとと出てけよ、ウッゼぇな…」


 振り返った女は、さっきまでの愛想はどこへやら、見るからに不機嫌そうな顔と、どこぞの警部も「(ヤツ)猫撫で声(とんでもないモノ)を盗んでっちゃったよ!?」とビックリするような低い声で、聞こえよがしの愚痴を零しつつ、頭を掻きながらフラフラと戻ってくる。


「何か食べるかね?」

「いい。見送りに起きただけだし、ねみーし…」


 女はそのまま階段まで進み、一段目に足を掛けたところで思い出したように振り返ると、


「とにかく、今から寝んだからバカみてえに騒ぐなよ、マジで!」


 そう吐き捨て、二階へと上っていった。


「さて、話に戻ろうか。柳蝉」

「……」


 返事もなく、まるで親の仇でも見るかのように、李柳蝉は椅子に腰を掛けた李四娘を睨みつける。

 その様を見た李修美は苦々しげに舌を一つ鳴らし、


()()、アンタに衫裙(さんくん)(※1)一式くれてやるから、とっとと片付けて支度をしな!」

「…何の為に?」

「決まってんだろ。お前だってココがただの茶店じゃない事くらい、もう分かってんだろ?」

「…っ!!」


 頭を鈍器か何かで殴られたような気がした。

 李柳蝉の脳裏に、ドス黒い記憶が甦る。

 必死の抵抗を苦もなく足蹴にし、自らを蹂躙した「理不尽」という存在の記憶が…


「…い、やよ」

「お前の好き嫌いなんか聞いちゃいないんだよ。今日からアンタにも客を付けんだから、それまでに色々と覚えな!」

「冗談じゃないっ!!死んでも嫌よっ!!!!」

「義従妹、何を考えてるの!柳蝉と貴女は血が繋がってるのよ!?それなのに──」

「『血が繋がってる』?それが何なのよ。『だから金なんか返さなくたっていいでしょ』って!?そっちこそ冗談は大概にして下さいな!」

「そんな事は言ってないでしょう!?」


 もはや李四娘はその心の内を隠さない。

 洩れ出た性根を映すかのように口元を醜く歪め、


「でも、ま、何だかんだ言って、義従姉(ねえ)さんからもコイツをコキ使うお許しを頂けて助かりましたよ。反対されたらどうしようかと思ってましたけど」

「…!?私がいつ許したって言うの!?!?」

「昨日、はっきり言ったじゃない。『私も柳蝉も店を手伝う(・・・・・・・・)から』って」

「…っ!!!?そ、そんなつもりで言ったんじゃないわよ!」

「そんな『つもり』じゃない?はは、そいつぁ傑作ね。じゃ、どんな『つもり』だったって言うんですか!?」

「き、昨日ちゃんと『手伝えるようなら』って言ったでしょ!?」

「ええ、ですから『手伝える事』を手伝え、って言ってんですよ!それとも、まさかメシ炊きに掃除と、あとは客に茶を淹れる程度で勘弁してもらおうなんて、甘っちょろい事を考えてたんじゃないでょうね!?そんなモン、食費の足しにもなりゃしませんよ!」

「で、でも──」

「てか、別に義従姉(ねえ)さんの『つもり』なんて、それこそどうでもいいですけどね!大体、血の繋がりを云々言うくらいなら、義従姉(ねえ)さんこそ、早いトコそこの可愛い可愛い孫娘を説得して下さいな。『牛馬みたいな畜生だって、世話ンなってる主人の為なら汗水流して働くんだから、人様のアンタも四の五の言ってないで、血の繋がったアタシの為に、毎日毎晩、腰が抜けるまでよがってよがらせ、客の懐から(むし)れるだけ金を毟ってりゃあいいんだよ』ってね!」

「何て事言うの!いい加減にしてちょうだいっ!!」


 李柳蝉の心には今、二つの感情が満ち満ちている。


 一つは憎悪。

 しかし、それは他人に向いたものではない。

 忘れたい、消し去りたいと、強く強く常に欲していながら、李四娘の言葉に反応し、その屈辱の記憶を勝手に呼び起こしてしまう、自らの精神に対するものだ。


 無論「忘れたい」「消したい」と願うだけで、特定の記憶を消し去れるほど、人の心は単純にできていない。故に、消したいはずの記憶が消せないからといって、思い出したくもない記憶を思い起こしてしまったからといって、己を憎む必要はどこにもないのだが、それが分かっていて尚、李柳蝉は自らの精神に憎しみを向けずににはいられない。


 もう一つは堪えようのない不快。

 二人を見上げる李四娘の下卑た目と醜悪な笑みは、正に人間の醜さ、卑しさをそのまま具現化したかのようだ。

 自分が上等な人種、高貴な生まれでない事など百も承知の上だが、それが分かっていて尚、李柳蝉は眼前で薄ら笑いを浮かべる女と、同じ「ヒト」である事に(おぞ)ましさを禁じ得ない。


「ああ、もしかして…あんた、まだ男を咥え込んだ事がないから、それでビビってんのかい?」

「アンタっ…!!」

「義従妹、止めて!」

「何だ、図星かぃ。ハッ、何を勿体振ってんだか。どうせいつかは捨てるモンだろうが。後生大事に取っといたところで、銭に化ける訳でもあるまいに。知らないなら教えてやろうか?なぁに、痛いのは最初だけさね。二度目で理性がブッ飛ぶ快感を脳に叩き込まれりゃ、三度目にはもう自分から股を開いて、物欲しげにモノ(・・)強請(ねだ)れる立派な淫婦──」

「義従妹、止めてって言ってるでしょっ!!」

「うっせえんだよっ!!騒ぐなら出てけっつってんだろうがっ!!」


 階下の喧騒に、階上から苛立ちに満ちた罵声が飛ぶ。

 それを気にするでもなく、李柳蝉と郭静は李四娘を睨み付ける。


「…いくら寄越せって言うの?」

「おや、(ろく)に手持ちも無いのに、それを聞いてどうしようって言うんです?」

「柳蝉にそんな真似をさせる訳にはいかないのよ!いくら欲しいのっ!?」


 遂に郭静もここでの生活を断念した。


 李柳蝉には無論の事、郭静だってそんな条件は絶対に呑めない。それが呑めないから──呑まずに暮らせると思っていたからこそ、苦労を覚悟でこの地を目指して来たのだ。


 が──


「そうですねぇ…ま、150貫(※2)も貰えれば、綺麗さっぱり縁を切って差し上げても構いませんけど?」

「ひゃ…!!!?馬鹿な事言わないで!」

「ハッ、そうですか。じゃあ、いっそもう今から三人揃って衙門に出向きましょうか?ああ、心配は要りませんよ。あたしの言い分が通るに決まってますけどね。ちゃぁんと上から下まで銭をバラ撒いて、義従姉(ねえ)さん達がシャバで暮らせるよう、取り計らって差し上げますからね?勿論、立て替えるだけですから、後できっちり返してもらいますけど!」


 事ここに至って、郭静はようやく悟った。

 これこそが李四娘の狙いだったのだ、と。


 李四娘にとって「150貫」という数字には何ほどの意味もない。具体的な数字の大小ではなく、ただ郭静達が払えないほどの大金であれば、額はいくらでもいい。


 李柳蝉の美貌は図抜けている。

 李柳蝉にその気があろうとなかろうと、一度、男がその美貌を目にすれば、(たちま)ち噂が噂を呼び、多くの男を惹きつける事だろう。


 その金蔓(かねづる)をこの家に縛りつけ、金蔓として機能させるために「借金」を(なす)り付けさえできれば、それで良かったのだ。


 しかし、どれだけ自らを犠牲にし、どれだけ恥辱の時を耐え忍んだところで、李柳蝉が自由の身となる事はない。


 ある「品」を買えば、当然その代金は「品」ではなく売り主に払う。

 李四娘が濡れ手に(あわ)で儲かるのは確かだが、建前上、それは李柳蝉が「稼いだ金」ではあっても「返した金」ではない。


 さすがの李四娘も、働かせるだけ働かせておきながら給金を払わない、という訳にはいかないのだから、貰った給金の中から少しずつでも返していけば、いつかは李柳蝉だって借金を返し終える──などという、そんな「いつか」は絶対に訪れない。

 借金には月々の生活費が含まれていて、或いは借金には利子が付くとか何とか、とにかく名目は何でもいいから、李四娘は給金として、元本以外の返済で溶けてしまうような、はした金を渡しておけば、それで未来永劫、李柳蝉を借金に漬けておく事ができるのだから。


 そして、李柳蝉を目当てに群がってくる男達に、李四娘はこう言えばいい。


『李柳蝉には直接、金を渡さないで下さいね?その金で借金を返したら、あのコはココを出てっちゃいますから、もう会えなくなっちゃいますよ?』と。


 何の事はない、皆こんな事態を招く可能性がある事は分かっていたのだ。李四娘の所在を聞かれ、眉を(ひそ)めた市井の人々も、突如、態度を豹変させた李四娘を怪しんだ李柳蝉も、分かっていて警告を発し続けていた。


 いや、郭静だって十分に警戒はしていた。

 何となれば、正にこれこそが「親切ごかした俺様」の手口なのだから。


 ただ、相手を「男」だと思い込んでしまっていた。そして、その相手は「他人」である、と。


 ある日、突如として運命の流転に襲われ、謂れなく平穏な日常を奪われれば、誰だって瞳は曇る。まして郭静は自分のみならず、李柳蝉の運命まで背負い、傷ついた李柳蝉を守るべく、進むべき道の選択を強いられ続けてきた。

 その境遇を思えば、頼るべきでない者を安易に頼ってしまった郭静の判断は、誰にも責められまい。


 しかし、気付くのが遅すぎた。

 引き返せる岐路はいくらでもあったのに、郭静の曇った眼は警告も警戒も黙殺し、危地への道を邁進し、(はた)と気付いた今はもう、自ら滑り落ちてきた二匹の獲物を丸呑みにせんと、口を開いて待ち構える蟻獅(アリジゴク)の目前である。

 あまりにも気付くのが遅すぎたのだ。


 だが、共に()り鉢へ落ちた李柳蝉は、まだ諦めていない。


「絶対に嫌よ」

「言った筈だよ。お前の意見なんか聞いてない」

「こっちだって言ったわよ?そんな事をするくらいなら死んだ方がマシ、って」

「…お前、まさか──」


 それに答える事なく、李柳蝉は宛てがわれた粗末な室へ入る。

 どれほどの間もなく現れた李柳蝉の腕には、抱えるほどの大きな包みがあった。


「お祖母(ばあ)ちゃん、待っててね」

「柳蝉…」

「お前、それをどうするつもりだい!?」

「どうしようと勝手でしょ?それとも何?『自分の物だから勝手に持ってくな』って?なら、助かるわ。こっちもお金を払う筋合いが無くなるから」

「…チッ」


 苦々しく舌を打つ李四娘を一瞥し、その一瞥でいっそ殺してしまえたら、などと物騒な事を思いつつ、李柳蝉は門を飛び出した。



 △▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼△▼



 どこをどう通って来たのか覚えていない。


 ただ、気付けば李柳蝉は、荷を抱えて金梁橋の袂に立ち竦んでいた。



【ここがダメだったら…】



 他に頼る宛てがない。


 ゴクっと一つ生唾を飲み、李柳蝉は董家薬舗の暖簾を潜った。


「いらっしゃいませー」


 笑顔も朗らかに応対したのは年若い男。


「何をお求めですか?」

「あ、あの…董将士(董博)は御在宅でしょうか?」

「旦那様ですか?()りますが…貴女は?」

「一昨日、祖母が将士から一方(ひとかた)ならぬ御恩を頂戴致しまして、そうお伝えいただければ分かっていただけると…あ、申し遅れました、私は李と申します」


 慌てて拝礼する李柳蝉に、男は礼を返すや(すこぶ)る健やかな笑みを浮かべ、


「これは光栄ですね」

「…は?」

「貴女のようにお綺麗な方と同姓なんて、こんな光栄な事はありませんよ。手前は排行が二番目で、周りからは『小二』と呼ばれてましてね。どうぞ、お見知りおき──」

「私の客人を案内もせず、何をペラペラと益体も無い事を話しとるんだ、お前は…」

「あ、旦那様」


 丁度、店の奥から顔を出した董博に咎められると、李小二は目敏く他の客を見つけ、応対のためにそそくさと離れていった。


「これは…突然の訪問をお許し下さい、董将士」

「何々、気兼ね無く立ち寄ってほしいと言ったのは私の方だ。お婆様の具合は如何かな?」

「はい。お陰さまをもちまして、大事には至りませんでした。祖母に成り代わり、改めて厚くお礼申し上げます」

「はは、そう堅苦しい物言いをしなくても。それに礼なら既にあの時、散々に受けただろう?して…今日は李小姐一人で?」

「はい…あのっ…」


 荷を抱える李柳蝉の両腕に知らず知らず力が入る。


「不躾である事は重々承知の上なんですが…折り入って御相談をさせていただきたくて…」

「…?」


 さすがに会って二度目でこんな事を言われれば、誰だって不審に思っても仕方がない。

 とはいえ、李柳蝉のあまりに切実な眼差しと震える声音に、董博も一旦はそれを胸の内に秘め、


「…ともかく、店先では何だから奥へ入りなさい。そこで話を聞こう」

「はいっ、有り難うございます」


 安堵の溜め息を零し、董博に導かれて先日の小部屋に通された李柳蝉は、席に着くと覚悟を決めた。


 古人に曰く『信言(しんげん)は美しからず、美言(びげん)は信ぜられず』(※3)とあるように、事実を事実として語った言葉が、必ずしも美しいものになるとは限らない。時に恥を忍んで語らねばならない事もあろうし、時に聞く者を不快にさせる事だってある。

 しかし、恥部も暗部も有りのままに語ってこそ、その言葉には「信」が宿り、また聞く者は心を動かされる。


 無論、心の内を曝け出し、思いの丈をぶつけたからといって、必ずしも相手の心を動かせる訳ではない。そんな事は今ここに在る李柳蝉が誰よりも分かっているが、少なくとも自分に都合のいい事ばかりを並び立て、美辞麗句で飾り立てられた言葉には、決して人の心を動かす力は宿らない。


 だから、李柳蝉は嘘偽りなく、昨日から今日に掛けての出来事を全て話そうと決めた。


 李四娘の生業(・・)の事も、金銭欲に(まみ)れたその性格の事も。

 李四娘の散々な噂の事も、その噂を聞いていながら、郭静が安易に李四娘を頼ってしまった事も。

 頼んでもいない薬を押し付けられた事も、その薬代や月々の生活費を借金として背負わされた事も。


 そして、その借金を返すために、生業を手伝うよう強いられている事も。


 話せば話すほど、李四娘の醜悪な顔がチラついて(はらわた)は煮えくり返り、清風鎮での記憶が思い出されて恐怖に苛まれ、それでも李柳蝉は時に拙く、たどたどしく、時に声を上ずらせ、言葉を詰まらせながらも、包み隠さず語った。


 キリのいいところまで一頻(ひとしき)り話し終えた李柳蝉は、思い出したように大きく一つ息を吸い、吐く。


 あまりの緊張に、呼吸すら忘れてしまっていた。そして、押し寄せる様々な感情によって、その両の瞳にはうっすらと涙が。


 息を整え、スン、スンと鼻を啜りつつ、李柳蝉は董博の返答を待つ。


「それで…返済の足しにしたいから、この膏薬を買ってくれと言うんだね?」


 時に眉を(ひそ)め、時に眉を吊り上げて話を聞いていた董博は問うた。


「はい。あのっ…生薬屋を営まれる将士に対し、大変失礼なお願いをしている事は分かっています。ですが、私も他に頼る宛てが無く、どうしていいか分からなくて…それか、買っていただくのが無理であれば、売り先を御紹介いただくか、それも無理なら、せめてこの薬にどれほどの価値があるのかだけでも教えていただけませんか?」


「ふむ…」と短く洩らして、董博は腕を組み、左手で整えられた(ひげ)(顎ひげ)を撫す。


「少なくとも、売り先を紹介する事は出来んな」

「…え?」

「厳しい事を言うようだが、商いというものは何よりもまず、信用がモノを言う生業でね。店の信用にも関わる事だから『何処で買ったか分からない、どんな効き目かも分からない』という品では、軽々しく人様に勧められない。長い年月を掛けて培った信用も、失う時は一瞬だからね。それは分かって欲しい」

「…あ」


 考えてみれば、考えるまでもない話だ。落ち着いて考えれば、李柳蝉だってそれくらいは分かる。

 という事はつまり、考えるまでもない事を、指摘されるまで思い至れないほど、李柳蝉の精神状態が追い詰められていた、という事でもある。


「まあ、出来る限りの事はしてあげたいが、何にせよ物を見てみない事には、な。包みを開けて、確かめさせてもらってもいいかな?」


「薬を突き返されたらどうしよう、店を追い出されたらどうしよう」という不安に押し潰されそうになっていた李柳蝉は、董博の穏やかな言葉にホッと息をついた。


 ところが──


「…あ、あれ?」


 どうやら、故郷を出てからずっと張り詰めていた気持ちまで一気に解けてしまったようで、溜まっていた涙が不意に両頬を伝い、一度、緩んだ涙腺は容易に締める事もできず、次から次へと瞳から涙が零れ落ち、遂には嗚咽を洩らすほど盛大に泣き出してしまった。


 郭静が郭静なりに色々なものを背負ってきたように、李柳蝉にも李柳蝉なりに背負ったものがあり、不安も緊張もあって、ふとした切っ掛けで泣き出してしまったとしても気持ちは分かるし、責めるような事でもない。


 でもね、柳蝉ちゃん。


 いいんだよ?いいんだけどね?

 責めもしないんだけどね??


 部屋に二人っきりで、目の前の若い女の子にいきなり泣き出されちゃったら、泣き出されちゃった側のオジサンは、ちょっと困っちゃうかなー…

※1「衫裙」

「衫」は上衣(シャツ、ブラウス)。「裙」は下衣(スカート)。上衣と下衣。衣服。第二回「結義」後書き参照。

※2「150貫」

宋代の通貨単位は「(もん)」。1貫は1,000文に相当。現代の価値で1文は数十円程度と思われますが、仮に1文=40~50円として計算すると約600~750万円。第七回の閑話休題「銭や、銭ぃ~」参照。

※3「信言は美しからず、美言は信ぜず」

『老子(八十一章)』。原文は『信言不美、美言不信』。訓読、意味は本文の通り。

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