蟻獅穴
一部、宋~明代の価値観に基づいた『水滸伝』の語句を使用しています。蔑称や卑称に類するものと察せられ、現代の価値観では表現として不適切な可能性もありますが、モチーフである『水滸伝』が古典小説である事、その『水滸伝』で頻繁に使用されている語句である事などを考慮の末、そのまま使用する事と致しました。予め御了承下さい。
「蟻獅穴」
「蟻獅」はウスバカゲロウ類(成体、幼体のどちらも指す)。その幼体などが地面に掘る、擂り鉢状の巣穴。蟻地獄。
翌日。
宿を発った李柳蝉と郭静の姿は御街に在った。
皇宮から南へ向かって李四娘の痕跡を探っていくと、それほど苦もなく所在を聞く事ができた。
ところが、さぞ足取りも軽やかに目的の場所へ向かっているかと思いきや、二人の顔色は全く冴えず、その足取りも重い。
聞けば李四娘は御街ではなく、一つ西の通りから、更に路地を少し西へ入った辺りで小さな茶屋を営んでいるという。
あまり繁盛している様子はない。
噂にも聞けた事だが、それは立地を見ても分かる。
客が引きも切らずに訪れる店なら、わざわざそんな場所で商いはしない。天下の御街が目と鼻の先にあるのだから、そこへ堂々と店を構えればいいはずである。
旧交を懐かしんで、ただ顔を見にやって来たというのなら、富んでいようが貧しかろうが、そんな事はどうでもいい話だが、これから厄介になろうとして訪れるとなると、そうも言ってはいられない。
貧しいから駄目なのではなく、頼もうとしている内容が内容なだけに、それを追い返される理由に持ち出されては、説得も反論も難しい。
そして、一口に「茶屋」と言っても実態は様々だ。
単に茶を飲ませる店も当然あれば、客の隣に女給がつく、所謂「接待を伴う飲食店」の形態もあるし、中には部屋を貸して茶と一緒に春を売る店だってある。
仮に「茶も春も」という形であったとして、周囲もそうそう声を大にして吹聴する事はあるまいが、少なくとも二人が話を聞く限り、ただ茶を飲ませるだけの店ではないようだった。
そこへ女二人で居候を頼み込むというのも、なかなかに肩身が狭い話だ。
そして、何にも増して二人の顔を曇らしめている理由が、あまりにも悪い李四娘の評判である。
それなりの口から話が聞けたのだから有名には違いなかろうが、その中にいい噂は皆無と言ってよく、中にはあからさまに「あんな虔婆(※1)を訪ねるなんて」と、眉を顰める者さえいた。これでは不安になるなという方が難しい。
「お祖母ちゃん…」
「ん、大丈夫よ。取りあえず訪ねるだけ訪ねてみましょう。それでいい顔をされないようなら、その時にまた考えればいいわ」
「うん…」
とはいえ、追い返されてしまえば行く宛てはなく、店の形態によっては、置いてもらえるならどんな条件でも呑む、という訳にもいかない。
取り得る選択肢があまりに少ない今、二人は「たとえ遠縁ではあっても親類である」という、ただその一点だけを頼みの綱に、李四娘の家を目指している。
「ごめん下さい」
「はいはい…」
昼前に一軒の茶店へ二人が入ると、40過ぎと思しい女性が奥から気だるげに現れた。
女の二人連れにやや怪訝な表情を浮かべると、
「どちらさん…?店をお間違えじゃありませんか?」
「こちらは李四娘さんのお宅ではありませんか?」
「ええ、あたしがそうですけど…?」
「良かった…私です、李修実の妻の郭静です。もう何十年も前に、州西瓦市の御主人の酒家で一度お会いした切りになってしまいましたが、覚えていませんか?」
「あぁ、青州の…?…何で義従姉(郭静)さんだけ突然…?従兄(李修実)さんは?」
「主人はもう10年以上も前に病で…」
「そう…その娘は?」
ほんの一瞬の事だ。
李柳蝉は李四娘の視線に不快を覚えた。
まるで品定めでもされたかのような、刺すような、舐るような不快な視線。
が、李柳蝉がその不快に反応を示すより早く、その気配は消え去っていた。
「あ、この娘は孫の柳蝉です。義従妹(李四娘)から見ると従姪孫(※2)にあたるかしら」
「ふーん、そう…」
「初めまして。李柳蝉と申します」
挨拶を交わした二人は、勧められて席に着く。
「お祖母ちゃん、あんまり歓迎されてないんじゃない?」
「止しなさい。とにかく話をしてみてからの事でしょ?」
「…うん」
茶の支度をするため、一度、李四娘が奥へ入ったところで、李柳蝉は拒絶の意を込めて、それとなく郭静に話を振ってみた。
店を出た後の宛てなどもちろんなかったが、どうにも先ほどの不快が気になって頭を離れない。
そこへ茶を淹れた李四娘が再び現れ、
「それで?今日は何の用でここへ?」
「ええ、実は──……」
出された茶に口を付けもせず、郭静はここに至った経緯を話し出す。
無論、王進らに話した時のように李柳蝉の名誉は守りつつ、住み慣れた地を捨て、李四娘以外に寄る辺のない自らの窮状を切々と訴えた。
「長らく音沙汰も無かったのにいきなり押し掛けて、厚かましい事を言ってるのは重々分かってるんだけど、何とかこちらに住まわせてもらう事は出来ないかしら。私も柳蝉も、家の事や、手伝えるようならお店の事も手伝いますから」
「…足、どうかしたの?」
「えっ!?」
突然の問い掛けに、郭静は面を喰らった。
そんな話は全くしていない。
「さっき、ちょっと引き摺ってるように見えたから」
「え、ええ、ちょっとここへ来る前に痛めてしまって…」
「そう…」
突如──
「それは大変だったでしょう?狭いけど部屋なら一つ空いてるから、今日のところはゆっくり休んでって下さいな」
「え?」
「何ですか、その顔は…追い返されるとでも思ってました?遠い所をわざわざ訪ねて下さった義従姉さんに、そんな仕打ちをしたりしませんよ!」
それは正に豹変と言ってもいい。
李四娘はそれまでの素っ気ない態度を一変し、満面に笑みを湛え、郭静を気遣う素振りを見せ始めた。
「あ、の、それは、ここで暮らす許しを頂いたと──」
「まあまあ、その話はまた落ち着いてからしましょう。足を患ったままじゃ、何をするにも不便でしょうがないでしょ?まずはしっかり養生して下さいな」
「え、ええ、有り難う…」
立ち上がった李四娘に促され、二人は半ば強引に奥の室へと通された。
寝台と小さな卓、小さな衣櫃(※3)がそれぞれ一つあるだけの小さな室。
鄭家村での暮らしも、決して贅沢と呼べるものではなかったけれど、その暮らしを「随分と贅沢な暮らしぶりだったんだな」と、しみじみ思えるほどの粗末な室は、しかし、二人にとって見知らぬこの地に唯一できた安息の場所だ。
いや、違う。
その室に安息を覚えていたのは一人、郭静のみで…
「お祖母ちゃん。やっぱりあの人、何か変だよ。急に態度を変えたりして…」
「柳蝉、人の親切をそんな風に言うもんじゃありません」
「お祖母ちゃんだって、昨日は王師範(王進)や林副師範(林冲)の気遣いを遠慮しようとしてたでしょ?何であの人の事はそんなに信用してるの?」
「あのお二方は赤の他人でしょうに。あの人と私は義従姉妹同士なのよ?怪我をした私を心配して何がおかしいの」
「それはそうかもだけど…」
「お前は義従妹を端から疑って掛かってるみたいだけど、じゃあここを諦めて、この先どうやって暮らしてくつもりなの?」
「それを言われちゃうと…」
あまり使われてなかったものか、埃の溜まった室を掃除しながら、二人は李四娘に届かぬよう、声を潜めて言葉を交わす。
夕刻まで掛かって一通り室を綺麗にし、荷を片付けた二人が夕食の支度でも手伝おうかと室を出ると、丁度、外出していた李四娘が戻ってきた。
手には何やら、抱えるほどの包みを持っている。
「はい、義従姉さん」
「…?これは?」
「薬よ。足の」
「…っ!?こんなに!?!?」
「言ったでしょ?足の怪我は何かと不便なんだから、早く治すに限るわよ」
「でも、だからってコレは…」
卓の上へ山と積まれた膏薬やら生薬やらには、さすがの郭静も不安と焦りを禁じ得なかった。
どう考えても、たかだか足の捻挫一つに使う量ではない。
「義従妹、気持ちは有り難いけど…こんな事をしてもらっても──」
「まあまあ。もう買ってきちゃったんだし、今更、返しにいく訳にもいかないんだから」
「でも──」
「とにかく、今日はもう夕食にしましょう。話はまた明日って事で」
話を強引に打ち切られ、夕食の支度を始めた李四娘を手伝っている最中、李柳蝉はふと気付いた。
食事の量がやけに多い。
その疑問の答えを得られぬまま、食事を終えた李柳蝉と郭静は、李四娘から追い立てられるように室へ戻り、身体を拭いて狭い寝台に並んで入った。
郭静は言う。
李柳蝉は甘やかされ過ぎてしまった、と。
しかし、したり顔でそれを言う郭静も実は大差がない。彼女こそ甘え、甘やかされていた。
長く身を置いた、ある種、一つの大家族のような、住人同士が当たり前のように互いを思いやり、気遣い、他人を疑う心など微塵も必要とされなかった、鄭家村という環境に。
郭静は李四娘の性根を完全に見誤っていた。
他人から「虔婆」と称される、その性根を。
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とてもこんなトコで寝ちゃいられない。
戸の下りた小さな窓の隙間に白んでいく空を、寝台の上からうっすら目を開け、チラと見遣った李柳蝉の脳裏には、そんな愚痴がよぎった。
その愚痴の通り、寝不足の瞼はまたすぐに落ち、李柳蝉は気だるげに左手でそれを擦る。
食事の謎は昨日の内に解けた。
二人が室に入ると、床に就くより先に、食器をカチャカチャと鳴らして二階へ上がる足音がした。
その後、足音はすぐに一階へ下りたのに、二階でも人の動く気配が続いていた。
昼間は体調が悪かったのか、或いは単に寝ていただけか、ともかく二階にも誰かが住んでいるようだ。
それぐらいなら李柳蝉だって我慢はする。
どうにも耐えられなかったのは、日が暮れ、床に就いてからだ。
二階から下りる足音に続き、戸一枚を挟んだ先から聞こえる、女の媚びた笑いや甘ったるい声。そして二階へ上がる二つの足音。
無理に寝付こうと目を閉じても、階上からは嫌がらせのように嬌声が届き、ようやく静かになったかと思えば、やがて天井が軋み出し、肉と肉のせめぎ合う音が響き、遠慮の欠片もない淫声が洩れ滴ってくる。
それはまるで、起きながらに悪夢を見せつけられているようでもあり、必死に癒そうとしている心を、無遠慮に切り刻まれているようでもあり…
耳を塞いでもウトウトすれば手が耳から離れ、その度にまた起こされ、李柳蝉は一晩で何度、寝返りを打ったか分からない。
一戦が始まる前に寝付いていた郭静は、その寝返りで夜半過ぎに目が覚め、すぐにその理由を悟った郭静に耳を塞いでもらって、何とか李柳蝉は眠りに就く事ができた。
「柳蝉」
「うん…おはよ」
郭静の左腕を抱きながら、そう返しはしたものの、李柳蝉は目も開いていない。
一晩中、苦しんでいた孫娘の髪を、郭静は空いている右手で優しく撫でる。
「もう少し寝てなさい。家事は私が手伝ってくるから」
「…んーん、大丈夫」
何とか目を開け、何とか身体を起こし、衣服と髪を整えて、李柳蝉は郭静と共に室を出た。
二人で顔を洗い、郭静が火を起こし、李柳蝉が掃除をしていると、ほどなく生欠伸と共に現れた李四娘は、挨拶もそこそこに卓へ向かうと、どっかと椅子に腰を下ろし「茶を淹れてくれ」「朝食を作ってくれ」と言い放つ。
どこに何があるかも分からず、悪戦苦闘する二人を尻目に、李四娘は一人、茶を啜りつつ、何を手伝うでもなく、ただ「アレはこっち」「コレはそっち」と顎で指示を出すばかり。
その様に苦々しさを覚えつつ、李柳蝉はどうにかそれを内に留めて支度を整え、三人で朝食を摂った。
食事の後、李四娘は何喰わぬ顔で呼び掛ける。
「柳蝉、片付けが済んだら着替えておいで」
「はい!?」
「『はい!?』じゃないよ、何だいその返事は?」
「昨日まで見ず知らずだった人に、いきなり名を呼びつけられれば、誰だってこんな返事になると思いますけど!?」
「昨日までは昨日までだよ。あんた達、ここに住みたいんだろ?今日から一つ屋根の下で暮らすんだから家族も同然…てか、同然も何も、義従姉さんと違って、お前とあたしは血が繋がってんだから、年長のあたしがお前の名を呼んで何が悪い。細かい事をグズグズ言ってんじゃないよ!」
「細かい訳ないでしょ!」
李柳蝉はキレた。
李柳蝉がそれを許していたのは、この世でたった三人のみ。どこぞのドスケベなドチビが、戯れに「四人目にしてくれ」などとほざいた時は、危うく乱闘になり掛けたほどだ。
李柳蝉が断腸の思いで、三人の中の二人までを捨て去ってから、まだどれほども経っていない。
その腸の傷が癒えもしない内から、土足でズカズカと傷を踏みにじり、二人に取って代わろうというのだから、李柳蝉の激昂も無理はない(※4)。
「柳蝉、止しなさい!義従妹、貴女の言う事も分かるけど、いきなり名を呼びつけるのは──」
「ここの家主はあたしですよ!義従姉さんは黙ってて下さいな。それとも柳蝉、アンタ何かい!?アタシに『李小姐(「李さん」「李のお嬢さん」、或いは単に「お嬢さん」)』なんて洒落た呼び方でもしてもらえると思ってたのかい?ハッ、いいトコのお嬢さんでもあるまいに、何を図々しい!」
「私がいつそんな事言ったのよ!呼びたいなら勝手にどうぞ!てか、名を呼ぶなっつってんでしょうがっ!!」
「チッ、田舎モンは口の利き方を知らないね、全く!満足に年長者を敬えもしない。義従姉さん!アンタ一体、今までコイツをどうやって育ててきたのさ!?」
「ご、ごめんなさい。柳蝉!」
「それともアレかい?義従姉さんの村じゃ、端から目上の人間を敬う奴なんざいやないから、どいつもこいつも口を開けばこんなモンですよ、ってかい!?」
「お祖母ちゃんは関係ないでしょ!」
李柳蝉が椅子を蹴って立ち上がれば、負けじと李四娘も机を叩いて立ち上がり、卓を挟んで睨み合う。
それが暫し続いた後、
「お祖母ちゃん、行こ。私こんなトコ住めない」
「ハッ、金も無いのに偉そうな事を…出てけるもんなら出てってみな!」
「こんなトコに住むぐらいなら、道端で野宿でもしてる方がまだマシよ!」
「柳蝉…」
切っ掛けは売り言葉に買い言葉のようなものだったにせよ、寝不足と人を喰ったような李四娘の態度に、フラストレーションを溜めに溜め込んでいたところへ火が点いてしまったから堪らない。
ただでさえ一度、爆発してしまった怒りは容易に鎮まるものではないが、李柳蝉のあまりの剣幕には、郭静も翻意を諦めざるを得なかった。
と──
「そうかい、そんなにここを出てきたいなら、きっちり金を払ってから行きな!」
「…は!?」
再び腰を下ろした李四娘は一つ鼻を鳴らし、横を向いたまま得意気に捲し立てる。
「ここを何処だと思ってんだい!?茶も飯もタダじゃないんだよ!アンタらがここに住みたいって言うから、親切で飯を食わせてやったものを、出てくってんなら客として払うモンを払ってから行きな!それとも食い逃げとしてお上に突き出されたいかぃ?アタシはどっちでもいいんだがね!」
「払えばいいんでしょうが、払えば!」
「それと薬代も忘れんじゃないよ」
「はあ!?!?」
「…えっ!?」
勝ち誇るように李柳蝉を見上げた李四娘は早、口元を醜く歪めていた。
色を作す李柳蝉とは対照的に、慄然とした思いに襲われた郭静は、みるみると顔色を失っていく。
縁とも呼べぬ代物だけを頼りに、獲物を待ち構えていた蟻獅穴を安住の地と盲信し、自ら進んで飛び込んでしまったのではないか、と。
「ちょ、ちょっと待って、義従妹。あれは貴女が勝手に──」
「何処の商家だって『客』が怪我をしてりゃあ、もてなしで薬ぐらいは出すし、その度にいちいち催促すんのも面倒だから、取りあえず立て替えるぐらいはしますよ!人様の家で下働きをしてた義従姉さんは知らないでしょうけどね!」
「ふざけんじゃないわよ!頼んでもない薬を買ってきて金を取るって、それの何処が『もてなし』なのよ!」
「じゃあ、アンタ達から衙門へ訴え出てみりゃいいじゃないか。試してみるかね!?お役人へ配る金も碌に無いアンタ達と、それなりに蓄えのあるアタシと、どっちの言い分が通るかさ!ここより野宿の方がマシだってんなら、雨露凌げる牢ン中は、さぞ極楽だろうね!」
勝負あり、と言っていい。
残念ながら今この国で、揉め事の仲裁にお上が関わってしまったら、大抵の場合「どちらの言い分が正しいか」ではなく「どちらがより多くの金を役人にバラ撒いたか」によって裁きの内容が決まる。
無論「大抵の場合」であるから、正しい主張が通る可能性が全くない、という事ではない。
例えばこの開封府にも、周囲から「孫仏児(仏の孫)」と呼ばれるほど実直な孫定という孔目(※5)がいて、彼がこの件を担当する事になれば、李四娘の不条理な言い分など、一も二もなく退けられるはずではある。
ではあるのだが、当然の事ながら宋の首都たるこの開封府の訴え事を、彼一人で回している訳ではない。
数多存在する孔目の中から、孫定に当たる事を期待して「上等だ、訴えたらぁ!」はさすがに博打が過ぎるし、李四娘がその気になれば、金をバラ撒いて孫定の案件とならないように仕向ける事だってできる。
というか、そもそも郭静達が孫定の存在を知らないのだからお手上げだ。
「義従妹、お願いだから衙門で争おうなんて、そんな冷たい事は言わないでちょうだい。ここで一緒に暮らすから」
「お祖母ちゃん!」
「柳蝉、もう止しなさい。手持ちだって心許ないのに、ここを出て何処へ行くと言うの。間借りさせて下さいとお願いしてるのは私達なのよ?多少、嫌な事でも我慢なさい」
「義従姉さん、何か勘違いしてんじゃありませんか?」
ふい、と郭静に顔を向けた李四娘は、さしたる感情も見せず、
「一緒に暮らすから何なんです?さっきも言ったでしょう?薬代はあたしが立て替えといただけなんですよ。ここに住もうが、ここを出ようが、きっちり払ってもらいますからね」
「そんな…!?」
「何が『そんな』ですか…あ、そうそう、居候を頼んでる分際で、家主のあたしにケンカを売ったんですから、薬代だけじゃなく、食費やら何やらも払ってもらう事にしましょうか。差し当たって一年分ほど前払いで」
「アンタ、何処まで──」
「だから、さっきから言ってんだろ!文句があんなら、お上に白黒つけてもらったっていいんだよ、こっちは。何遍、言わせんだぃ!」
「柳蝉、ちょっと黙ってなさい!義従妹、私達に手持ちが少ないのは知ってるでしょう?」
「ええ、知ってますよ?」
「知ってるなら前払いなんて…」
「散々飲み食いするだけして、ある日突然出てかれたら、こっちは大損ですからね」
「そんな事はしないから…少しずつでも払うから、お願いだから衙門に訴えるのだけは勘弁してちょうだい。ね?」
ふーっと一つ嘆息し、李四娘は何かを考える風な素振りで腕を組む。
しかし、それは文字通りただの「フリ」だ。
郭静は未だ自分が縋っているモノの狙いに気付いてもいない。
※1「虔婆」
男女の中を取り持つ女性、と書くと何だか親切な人のように聞こえますが、本文の通り、褒め言葉ではなく、むしろ現代の感覚では女性蔑視や職業差別にあたるような言葉です。強いて意訳を付けるとすれば「取り持ち屋」とか「やり手婆ぁ」といった感じでしょうか。当時「三姑六婆(三姑=尼姑・道姑・卦姑、六婆=牙婆・媒婆・師婆・虔婆・薬婆・穏婆)」と称される九種類の職業があり、その職を生業とする女性は「胡散臭い」「関わると碌な目に遭わない」と見られていたようです。『水滸伝』作中で「虔婆」と呼ばれている女性達も、総じて「悪知恵が働き、口が達者で、何よりも金が好き」という、典型的な憎まれ役のような描かれ方をしています。ちなみに「三姑六婆」という言葉自体は、職業を表す言葉としてではなく、成語として現代にも残っているようですが、対義語に近い言葉は「良家の子女」らしいので、語意はお察し下さい。
※2「従姪孫」
従兄弟(従姉妹)の孫。日本式の呼び方です。「姪」の字が入っていますが、孫にあたる人物の男女は問いません。
※3「衣櫃」
洋服棚。クローゼット。タンス。
※4「李柳蝉の激昂も無理はない」
本文のような関係性の場合、実際のところ、ここまでブチ切れる必要があるのかどうかは定かじゃありませんが、この小説では「無理はない」という事で一つ。第二回の閑話休題「諱と愛称」参照。
※5「孔目」
胥吏の一種。主な職責は裁判関係の文書作成。『水滸伝』にも数多く登場し、裁定に関する助言を知府州や知県に与える場面なども描かれている。